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 確かクリスマスイブの、前の日だった。
「好きなのは、奈恵だよ」
 圭介はそう言った。嬉しかった。疑いたくなるほど、嬉しかった。

「奈恵、大丈夫か? 開けて平気?」
「あ……」
 目元をこすりながら、奈恵は声を出す。いい、とも駄目だとも言う前に、圭介がカーテンの隙間から顔を出した。
「……びっくりしたよな」
 薄暗いカーテンの中で、圭介の表情はよく見えない。
 奈恵を心配しているのだろうか。声が少し掠れているようにも聞こえる。
 寝かされている台が少し軋んだ。奈恵の脚の横に、圭介が斜めに腰を下ろしている。
「病院って、嫌だよな……」
 そんなことを言った。
 そういえば圭介も膝の負傷で入院していた。見舞いに行った。九月のことだったはずのそんな記憶が、ずいぶんと遠く感じる。
 大晦日の病院は静かで、奈恵が寝かされているのは、病院の関係者の柔らかい靴底で歩く足音だけがときどき聞こえるような、そんな場所だった。
「さおりさん、は……、どうなの?」
「……ああ」
 それは答えだったのか。ただの溜息のようにも聞こえた。

 不意に、奈恵は胸に重さを感じた。
 圭介がまるで寝具のように奈恵に覆い被さっている。
「奈恵、泣いてた……?」
 頬が、ちょうど奈恵の目元に当たっていた。濡れていたことに気づいたようだ。
 思い出したように、また涙が出た。
「圭ちゃん、さおりさんのところに行ってよ。きっと居て欲しいって思ってるよ」
「そんなことないよ。……きっと」
「行ってよ!」
 圭介の肩を掴んで、奈恵は突き飛ばした。

「もういいよ。もう、圭ちゃんなんか、いい」
「奈恵? 何言って……?」
「なんで、そういうことするの?」

 奈恵が身体を起こすのに合わせて、圭介は台の傍らに降りて立つ。
「もう圭ちゃんなんか嫌い!」
「な……?」
 不意にヒビが入ったような顔を圭介は奈恵に見せた。ひるんだ。
「きらい……」
 奈恵の声が小さくなっていく。
 うつむいて、圭介の目から逃れる。袖口で目をこすりながら、荷物を探した。台の横にあるカゴに、奈恵のバッグと着ていた白のダウンが乗っていた。
 圭介の足元に奈恵の靴がある。圭介の視線を感じたが、もう目を上げることなど出来なかった。何度も袖で目元を拭いながら、奈恵は靴を履く。
「奈恵、お前もう大丈夫なのか?」
「……だいじょぶ……」
 だから、と奈恵は小さな声で言う。
「もう、いいよ。……さおりさんのとこ行っていいよ」

 圭介は、奈恵をそのときだけかも知れないけれども必要としてくれた。
(でも私だけじゃない……)
 心の愛情を確かめるための行為でもあり、生殖のための行為でもある。
 気持ちが良くて、そのことに興味もあって。
 そのときには奈恵を必要としていた圭介だ。
(私だけじゃなかったんだよね……?)

「赤ちゃん……、残念だったね」
 さおりが泣いていた。赤ちゃんが死んでしまう、と圭介に縋って泣いていた。
 もう、充分だ。それ以上の話は、聞きたくもない。

「私、圭ちゃんが好きだったよ。ホントだよ」

 ずっとうつむいていた奈恵が、濡れたまつげを仰向けて圭介の目を見た。
 薄暗い病院の一室の、モスグリーンのカーテンに覆われた空間のせいか、奈恵の顔色が青ざめているように圭介には見えた。
「私なんかのこと、すごく、すごく……欲しがってくれたでしょ? いっぱい気持ち良かったし、……ホントに、嬉しかったんだよ」

 好きだった。気持ち良かった。嬉しかった。
 奈恵の口から出てくる声が、過去を語る言葉になっている。

「奈恵……、違う。聞けよ」
「もういいよ!」
 もういい、奈恵は圭介の言葉を聞かない。耳を両手で覆って、目を目蓋でふさいで、もういい、もういい、そう言い続けた。
「奈恵、奈恵、聞けってば!」
「もういい! 早くさおりさんのとこ、行ってよ!」
 腕に手をかけた圭介を振りほどいて、奈恵は走り出す。
 奈恵、と圭介はその姿を追った。
「静かにしなさい……」
 看護師に、取り残された圭介は注意を受けた。
 すみません、と謝っているうちに奈恵の姿が遠ざかる。
 病院のエントランスは広かった。
 見舞いの人々らしき影と何度かすれ違う。
 入り口に、奈恵の後ろ姿が見えていた。待てよ、と小声で呟きながら追う。

 と、奈恵とすれ違った背の高い人影に、圭介は目を留めた。
「圭介!」
 マサだった。泣きそうな顔をして、圭介に駆け寄ってきた。
 奈恵は。
 その後ろ姿がどんどん外へ小さくなって、建物を出て行ってしまう。


 奈恵は病院を出て、病院の前のロータリーを出てバッグから携帯電話を取りだした。
「ママ……」
「あら、どうしたの? サッカー終わった?」
「うん、あのね……。今、病院にいるの」
「え? どうしたの? ……奈恵、泣いてるの?」
「うん、違うよ。ごめん……。あのね、圭ちゃんのね」
 圭ちゃんの、と口の中でもごもごと繰返す。袖口でまた目元を拭う。
「……彼女がいっしょでね、具合悪くて、病院なの」
「大丈夫? 迎えに行くわ。病院はなんてところ? スタジアムの近くなの?」
 家族でたまに出かけるショッピングモールが、スタジアムに近かった。車でなら、家からさほどの時間がかかる距離では無い。
 近くだと思うよ、と、奈恵は病院の名前を言った。傍らの看板に、病院の名前と「駐車場はこちら」と矢印が出ているのを見た。
「今、行くわね。待てる? 寒いから病院の中にいさせてもらいなさい」
「うん……」
 わかった、と言って、奈恵は終話のボタンを押した。

 母親が、病院の前の通りに居た奈恵を車の中から見つけ出したのはそれから三十分後のことだった。
「寒かったわね……」
 大丈夫なの、と言った。
「圭ちゃんは?」
「……まだ、付き添ってると思うよ」
「一緒には、帰れなさそう?」
 圭介にそんなことを確認しては居ないが、奈恵はこくんと頷いた。
「後ろに座って、いい?」
 迎えに来たのは母親だけで、助手席も空いていたが、後部座席に奈恵は座った。
 すう、と車が動き出すと、奈恵はぱたりと横に倒れた。
「疲れちゃったの?」
「……うん」
「泣いてるの……?」
「違うよ」
「圭ちゃん、……どうしてた?」
「彼女のこと、いっぱい、心配してた……よ」
 奈恵は途切れ途切れに返事をする。
 涙が止めどない。母親には見られたくないと思うのに、もう泣き顔も隠せないほどに奈恵は泣いていた。

「……圭ちゃん、かっこいいもんね」
「ん……」
「ちょっと、好きだった?」
「知らない。わかんない……」
「……泣いていいのよ。こんなときは」
「もういい」
 もういいの、それから奈恵は沈黙した。
 ひく、と喉を鳴らして鼻をすする音だけ、車の中にときおり響いた。

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