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 その夜、光は眠れなかった。黄昏時に聞いたことが頭から離れない。
(奥様の行方、本当かしら)
 兼村泰三という男については、瓦解以前の記憶が薄い。つい半月ほど前に行き会ってから何度か言葉を交わし、ほんの少し親しみが湧いたくらいである。

 三年前、つまり慶応四年の正月に鳥羽伏見の戦いで、新政府軍に旧幕府軍は負けた。
 その直後、小栗上野介は将軍徳川慶喜に勘定奉行などの役職を罷免された。江戸を出て、領地であった上州権田村に隠棲することとし、駿河台の屋敷を後にした。
 上野介は、権田村でのんびりと余生を送るつもりであった。移住してからは、村人のために最新の測量技術を用いて水路を開き、学校を作ろうともしていた。
「いつかこの村から太政大臣を出すのだ。そういう若者を育てたい」
 将来の夢をそんなふうに語っていた。
 勘定奉行を長く勤め、幕府の財政を握っていた人物である。それ故に、上野介が隠棲する際に、幕府の御金蔵から莫大な隠し金を運んだという話が、当時から広く信じられていた。
 光も家族で上野介に従って上州へ行った。江戸から共に旅をしたが、余分な金を運ぶような荷はなかった。
 小栗一家が権田村に到着したのが慶応四年三月一日。二千ほどの暴徒が近辺まで押し寄せたのが三月三日。
 暴徒の要求は、上野介が隠し持っていると噂された徳川の金だった。金を寄越さねば小栗一家と彼らを庇う村人を皆殺しにするという。だがそもそもそんな金など無い。如何に談判しても解決のしようがなかった。
 当初は談判で対処しようとした上野介だが、話し合う余地のないことを知ると、僅か一日で暴徒達を撃退した。二十人ほどの家臣を指揮し、近隣の村人百余名を率いて、二千の暴徒を追い払ったのである。
 烏合の衆である暴徒達と、上野介の家臣では人材が違う。大砲などはなかったが、小銃は江戸から持ってきていた。それに養子の又一と光の夫の塚本真彦を始め、陸軍伝習所でフランス士官から近代戦術を学んだ者が何人も居る。射撃の名手も居た。如何に人数が多くとも、金が欲しいばかりで集まった暴徒などは小栗家の兵達の敵ではなかった。
 しかしあまりに見事に暴徒を撃退したために、薩長率いる新政府軍に誤解を与えてしまった。莫大な徳川の隠し金を蔵し、そのうえ数千の暴徒を撃退するほどの大兵力を擁している、と脅威に思われたらしい。
 追い払われた暴徒が、小栗上野介に叛意ありと伝えたのだろう。騒動からほぼ二ヶ月後に、上野介は捕縛され、申し開きも何も許されないまま処刑された。用人の真彦と上野介の養子の又一は、弁明に行った先の高崎で殺された。
 上野介に叛意など無かった。身近に居た光はよく知っている。
 回転の良い頭脳を持ち、鋭い戦術眼もあった。だが争いを好む人ではなかった。
 上野介が戦ったのは、家族と近所の村人を守るためだった。ただそれだけだったと、三年を過ぎた今でも光は思う。
(お殿様に何の罪があったのだろう? どうして殺さなければならなかったのだろう)
 そんな疑問が、光の脳裏から消えない。上野介の妻の道も、ずっと同じように考えていたのではあるまいか。理不尽なことばかりだった。徳川を倒し上野介や夫を殺した新政府側の者達を、光は恨まずに居られない。

 道は、家臣や権田村の者達の護衛と共に上州の山中から新潟に出て、会津に避難した。当時、道は結婚から十六年目にして初めての子を身籠もっていた。妊娠七ヶ月の身で、上州から会津までの道中の苦労はいかばかりであったか。過酷な逃避行だっただろう。
 道がたどり着いてすぐに会津は凄惨な戦場となった。戦いのさなかに道は女の子を出産した。
 会津藩の降伏後に、「東京」となった江戸に帰った道は、生家の建部家を訪れた。保護を頼むためであった。しかし建部家では新政府の目に遠慮をしたのか、道と上野介の遺児の保護を断った。そこまでは光も知っている。
 光は道よりずっと前に、権田村から松井田を経て七日市藩の姑の親族を頼った後、江戸へと帰ってきた。小栗の屋敷には近寄らず、林田藩邸に居る兄を頼った。兄一家は密かに光達をかくまってくれた。道が現れたときにも、光は息子の真知雄とともに藩邸の長屋に身を隠していた。
 逆賊とみなされた小栗上野介の妻や遺児と、その用人の身内では重みが違う。それ故に光は見逃され、道は断られた。
 その後どこへ道が立ち去ったか、光は知らなかった。静岡に移住した小栗の分家あたりを頼っていったのだろうと思っていた。
 三野村利左衛門が道と遺児をかくまっている、と兼村は言った。利左衛門の屋敷とは深川のどの辺りだろうか。大きな屋敷と言っていた。深川まで行けば解るだろうか。
(お目にかかりたい。でも……)
 会えば辛い話も出るだろうが、それでも、と思う。
 光が覚えている道夫人は、小柄で華奢で透き通るように美しく、聡明で快い人柄であった。一万石の大名家に生まれて、二千五百石の旗本小栗家に嫁いだ。そのときに一緒に小栗家に入った真彦を兄のように頼みにし、真彦の妻となった光を妹のように可愛がってくれた。
 もうすぐ、光は東京を離れることになる。播州などに引っ込んだらもう道に会う機会はなくなってしまう。

 翌日、光は真知雄を連れて朝から明神下を出た。
 義理の姉は、遠方への引っ越しの準備のさなかに一日出掛けるという光にいい顔をしなかった。光と真知雄は、兄には血の繋がった妹と甥だが、義姉には鬱陶しい小姑とその子でしかない。食い扶持を圧迫する邪魔者だと、常に顔に出ていた。
 白い目から逃げるように屋敷を出て、足早に昌平橋を南に渡った。それから東に向かう。深川までは一里ほどだ。真知雄を背負いながら、光は深川を目指した。
「わあ!」
 大川を渡る時には真知雄が歓声を上げた。初めて見る広い川に興奮している。光も久しぶりに見る広やかな場所に心が清々するのを感じた。思えばずっと建部藩邸に逼塞してばかりの日々であった。
 薄曇りで日差しが柔らかい。初夏らしい湿り気が景色を優しくしている。川の水がきらきらと眩しい。
 ときおり真知雄を自らの足で歩かせたが、多くは光が背負って歩いた。幼児を連れて一里を歩くのはなかなか難儀だった。半刻ほどでたどり着くかと思っていたが、どうやら倍くらいかかっている。日が高くなり、光は背や額に汗が流れるのを感じた。汗染みた姿で主筋の人に会うのは気が引ける。橋を渡り終えた道端でしばし足を止め、川風で涼んだ。
 大川に降りたがる真知雄の手を引っ張って河岸を歩く。昔芭蕉の庵があったという辺りで、通りがかりの男に声をかけた。白髪交じりだが既に髷を落としていた。
「お訊ね申します。この辺りに三野村という家があると思うのですが、ご存じでしょうか」
「小名木川を渡ったらすぐだよ。大きな家だ。すぐに解る」
 きびきびと教えてくれた事に礼を言う。
 不意にその男が光の向こうに目をやった。何かあるのかと光も振り返ったが、橋を渡る何人かの男女が遠くに見えただけだ。髷を残した者も、散切りにした者も混じっている。散切り頭の男が、兼村ではあるまいかと眺めたが、遠目でよくわからなかった。
 光は南を向いて小名木川の萬年橋を渡った。
 川沿いにずらりと長屋がある。湿っぽい土地だが、その辺りで洗濯を干そうとしている女の顔は明るいようだった。

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