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第四章
15
しおりを挟むもし。
そんなことを考えた。
もし、源治に卓抜した剣の技量が有ったなら、昨日、あの場で藤崎鎮目を斬れたかもしれない。
あの男が全ての元凶であるなら、あの男を早く殺せばいい。
以前から、そんなことは考えてはいた。
(鎮目を、殺せばいい……)
その思いが、昨日から一層強くなっている。
あの男の傍らに居た、緋の襦袢を纏った月子を見てから。
胸に湧き上がった痛みも、嘔吐を催し、めまいを覚えるような不快も、全ては、あの老人のせいだ。
畑野家の貧しさも、全てあの男のせいだ。
藤崎の迫害のために、畑野は苦しんでいる。貧しさに喘ぎ、月子はその身体を、家族のための糧と借財のために売らなければならなくなった。
全ての元凶になった藤崎鎮目が、そのために身を汚した月子を、淫らな姿にして慰み物にしていた。
(あいつを、殺す……!)
どす黒く、源治の胸を染めているのは、あの老人への憎悪だった。
何度か城下を訪れて、月子の所在を尋ねるたびに、とある武家の屋敷に招かれたと聞いた。その時の全てが、もし藤崎の招きであるなら、考えただけで毛が逆立つような思いに駆られる。
月子の身体に残された痕跡を見た。
あのような、傷を月子の身に施したのが鎮目であるなら。
源治があの船宿を訪れるたびに、月子を奪っていたのが鎮目であるならば。
(許せぬ……)
凶暴な怨念が、源治の脳裏を焼いた。
六斎は、源治の打ち込みが不意に厳しい物になった事に気付いた。
(何を、思う)
休みなく竹刀を打ち下ろし、時に咆哮のような気合いを発声する。少しの疲労のせいか、無駄な動きが減り、徐々に身体の切れが鋭くなってきた。
その気配も。
斬りつけるような、何かを、今まさに斬っているかのような、そんな刃筋を帯びてきた。
殺気のようなものを、源治が纏わせ始めている。
「止め」
底響きのする声で、六斎が源治を制止した。
源治は、息を弾ませながら竹刀を下ろし、頭を下げた。汗がひどい。頬を伝って、顎の先から座した膝へぽたぽたと滴った。
「有難うございました」
手をついて、六斎に頭を下げる。
眼を上げた源治を、見た。
(顔つきが、変わったな)
竹刀を持つまでの、惑うような眼差しが消え、何か芯のような物を得て、真っ直ぐに前を向いた。そんな、変化を感じた。
が、それが良い事なのかどうか。判らないのは、源治が発していた殺気があったからだ。底光りを帯びた眼差しに宿るものが、先ほどの禍々しいような殺気であるなら、それは良い事ではないのかもしれない。そんなことを六斎は思う。
眉にかかる迷いが消え、その代わりに、暗く鋭い影を帯びた。
「いつなりと、またおいで」
「お言葉に甘えまして……」
汗を拭い、荷を背負って立ち去る源治を、六斎は門まで見送った。
来た時よりも、重心が下りて、腰が据わった。そう見た。
源治が来て、去るまで、ほぼ半刻程度。
(何を、思う……?)
彼の姿が見えなくなってから、六斎は再びそれを考えた。
同じ朝。
月子は、家に帰る。
その前に、家に必要な諸々を購うために町に出る。
「美知江さまは……」
同宿だった茅野夫人に訪ねたが、まだ、と彼女も首を横に振るばかりだった。
二人連れだって、町に出て、薬などを買って船宿に戻った。
「あ、」
小さな布団部屋に、美知江が帰って来ていた。
憔悴している。
何ゆえに、などとは、月子も訊きはしない。惨たらしい真似をする客に当たってしまったのだろうと察しがつくからだ。
薄暗い小部屋で、借りていた着物を脱ぎ、自分の物に着替える。
それから、ひっそりと宿を出た。
城下の町を避けていても、渡し場まではそれなりに人が多い。
川を渡り終わると、ぱたりと人が居ない。その辺りになってようやく、月子も他の女たちも、顔を隠すための暑苦しい頭巾を取った。
「……!」
傍らを歩く美知江の姿に、月子は思わず声を上げた。
痛々しいあざが、喉元についている。
「それは」
ひどい事をする客が居る。その恐れは常に有る。
月子に見られたことを、恥じるようにその痣を押さえながら美知江がうなだれた。豊かな胸元があえいでいる。顔の色も青白い。
それ以上、そのことには触れてはならないと月子は思う。
普段よりも、さらに口数の少ない帰路になった。
唇を閉ざして歩きながら、月子はふと、微笑んだ。
全ての不愉快な感触を、源治が打ち消してくれた。彼の余韻だけを抱いて、月子は城下を後にしている。
昨日の朝、あの老人の屋敷で彼に会った。
駕籠を降りた途端に、源治が月子を捕え、そのまま宿に上がった。
あれから、朝まで。
(ずっと……)
ずっと、身体を合わせていた。源治から滴る汗を、月子はその肌に浴びていた。
何もかも忘れ果てるほどに濃密に、触れていた。溶けあうほどに交わった。息苦しいほどの熱を受けて、何度、嗚咽に声を濡らしたことだろう。
思い出して、胸に蘇る愉悦に、少しだけ月子は戸惑う。
身体に感じる余韻が、僅かに疼く。その感覚を快く思う。
(思い出すことくらいは許してください)
燦々と濃い影を地に縫い付ける太陽を仰いで、月子はそっと合掌した。
それから四日後、源治は城下を発つ。
あれから、安住の道場へ二度行った。いずれも他の弟子に会うことのない早朝か、あるいは夜を選んで訪れた。不時の訪問であるにもかかわらず、六斎は常に快く源治を迎え入れてくれた。
昨日の朝に訪れたときには、重い木刀を持たされ、型を習った。
静かに、凛然と身体を動かすことの緊張を、快く思い出す。
空が晴れている。
暑い時期の旅は辛い。
それでも、どこか源治の足取りは軽い。
(藤崎鎮目を、殺す……)
そんな決意が爪先まで精気を届けているようだ。
呼吸を静め、腰を落として身体のぶれを抑えて歩を進める。時に呼吸を止め、数十歩も歩き、息を整える。細く吸い、細く吐く。そうしながら足を止めることはしない。そんな事を繰り返した。
六斎がそのようにしてみよ、と言った。
自在に己の呼吸を操れと。
(三十路を越えて、できるものなら)
苦笑いが浮かぶようだが、源治は生真面目に、六斎の言うことを実践してみている。
何事もやってやろうと思う。それが修行となるのかどうか解らぬ事でも、先達が言うことならば、おそらく誤りではないだろう。
どんな行動も、無駄になることはないはずだ。
最も惨めなのは、標的に刃が届く前に命を落とすことだ。
それを避けるために、源治は相応の鍛錬を積もうと考えている。
(一瞬でいい)
それでいいだろう。一瞬の隙を、衝けばいい。その隙を作り出すのは何らかの策がいる。その策を講じる前に、まずはその一瞬を無駄にしないための技量を得ておきたい。
筋は悪くない、と昔の師に褒められたことがある。
六斎はそういうことは言わないが、ただ面白そうに飄然と、源治の太刀筋を見て手を添えて「こうではあるまいか」穏やかに訊くように、動作を正すようにする。その後の源治の手筋を見て、うん、とうなずく。そんなものだった。
それでも、たった三度、六斎と竹刀や木刀を振るっただけで、驚くほど身体が鋭く動くようになったのを源治は満足に感じている。
(仇を取る)
何の仇であろうか。
月子のために。源治はそう考えている。しかし仇と言うが、月子の親が鎮目に殺されたわけでもない。
それでも、鎮目は仇だ。月子の、その清浄な身を損なわせた仇だ。
殺伐とした決意を抱きながら、源治はひどく晴れ晴れとした気分で笠の下から日差しを見上げた。
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