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第四章
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どたどたと、渡り廊下を走る音が高らかに響いた。
「父上、父上……!」
父と鎮目を呼ぶからには、彼の嫡男の吉太郎具高であるだろう。遅く授かった男子は、現在で二十七歳のはずだ。
源治の目の前の縁の上に、吉太郎が膝を置いて室内の敷居前の鎮目の耳元に低い声で囁いた。
「……ち」
という舌打ちは、鎮目のものだっただろう。
「面倒なことよ」
いっそ泰然と彼は言った。慣れた、という風情であった。
「で、今は?」
「未だ……。まずは父上に、と」
頷いた鎮目は、金田を呼んだ。
「帰せ」
短く言って、うなだれた月子の方に顎をしゃくって見せた。
「はあ」
鈍い顔で金田が返事をする。
「ああ。……本屋、ご苦労だった。言い値で引き取ろう。金子はその者からもらえ」
「……」
無言のまま、源治は頭を下げる。
頭を垂れるべきだと気づくまで、源治は鎮目を見ていた。
白いものの混じった頭髪以外には衰えの無い堂々たる体躯の男だった。かつては美貌であったという面差しにはわずかにその面影が有る。
だが、分厚く垂れて隅に皺を見せるようになった下目蓋に、油染みた灰汁のようなものが溜まっているようにも見えた。
鎮目は彼の息子の吉太郎とともに離れの建物を去っていく。
残された月子は、ただ障子の影に身を潜めて、外の気配から息を殺す。
今更、身を隠すことも息を殺すことも、その存在を消すためには一つも役に立たないことなど解りきっている。
消えてしまいたい。
何もかもが嘘だと、そう思えるように成れれば良い。
卑猥なような緋色の襦袢の袂に顔を埋めている。視界が赤い。それでもその赤い闇の中に顔を埋め続けた。
目の前に有る数葉の淫画と、寝乱れた褥、そしてなによりも此処に存在する月子自身、全てが嘘であると、地面に跪いた源治に思って欲しい。
そなた、と金田のか細い声が月子を呼んだ。
「支度を終えたら、裏へ回るように」
いつものように、と言い添える。
黙って、月子は背中で頷いた。
「金子を持って参るゆえ、待つように」
それは、源治への言葉である。
まだ、彼はそこに居たのだ。
裏門から帰れと告げられて、言われた方向へ向かう。
目に映ったものが源治にはまだ信じられない。否、信じたくない。
(まさか……)
懐に藤崎鎮目から下された金を仕舞いながら、それでも源治は上の空だった。
「……どうしたね?」
人のよさそうな藤崎家の門番の男が言う。
「……ああ、いえ」
「ひどい汗だな」
「さようで」
「お前のことだ。どうした?」
「なにやら暑気あたりのようで」
江戸から来たばかりだから、そんなことをもそもそと源治は告げる。
そうか、と門番は言い、門の脇の小部屋に源治を招いて座らせた。それから水を茶碗に汲んでくれ、そんなときはあれを食えこれを食えなどと、滋養の付く食べ物の名前をいくつか挙げて聞かせた。
そんな話をしているうちに、下男が小さな門をくぐった。それから少し後に、駕籠が現れる。
紺の木綿らしいものを纏った華奢な娘が、金田に付き添われてひっそりと裏門をくぐり、その駕籠に入った。髪は直されていて、俯きがちの項が哀れなほどに白く、細い。
月子だ。それは、本当に月子だった。
ただ呆然と、その光景を源治は格子のある窓越しに見送る。そこに彼がいることを、彼女は気づいていない。
「……綺麗な娘だろう」
弾かれたように源治はその声を振り返る。
月に数日は、必ず来るのだと、聞きたくもないことを門番が源治に言う。
「あんなにご執心ならいっそ囲ってしまえば良いのに、あの娘を家に帰すから面白いのだと、旦那様はおっしゃっておいでだとか。……まあその方が費えはかからんということなのかな」
「……ではそろそろ、お暇いたします」
「おお。今日は旅籠でゆっくりしたほうが良いぞ」
おせっかいにも、そんなことを彼は言った。
半鐘のような音が耳の中に鳴る。笠の中の影がひどく暗い。
陽盛りの時刻になったというのに、日陰を選ぶのも忘れ、源治は足元の短く濃い影を見つめながら歩を進める。目の前に、駕籠がゆらゆらと先を進んでいる
何を見た。
己の目で見たものがどこか現実に思えない。まるで陽炎のように、脳の中で目の前の風景が揺れる。道の凹凸を眼に映しながら、路傍の石などを避けながら、多分源治はそれを見ては居ない。頭の中はただ灰色だった。
胸の少し下辺りを、右の手で強く握った。左の手に本身の刃を仕込んだ杖を持っている。ふう、と深く息を吐く。二度ほど、そうした。
何度か、己の項の毛が逆立つような気色を感じる。呼吸を整えなければ、ふと、杖の刃を抜いて何かに斬りつけてしまいそうな、そんな危うさを感じていた。
嫌な仕事だな、とその男は言った。
背丈は尋常程度だろう。福々しいような輪郭の顔をしている。柔らかな肩の線には確実な筋骨が実り、見るものが見ればそれは相当な修行を重ねた身体だとわかる。
「ふん……」
横目に冷たい視線を送るのは、背の高い男だった。面長で頬骨が高く、ぎょろりと張った目つきが鋭い。
「所詮、そのために雇われた身だ」
放り投げるように彼が言う。
彼らの雇い主に命じられて、駕籠の脇について早足で歩いている。
向かった先は、城である。途中、駕籠の中の人物も降り、徒歩で郭内の東の外れに向かって行った。
薄暮の頃、その建物から運び出された荷車の上には、丸い桶がおかれている。膝を屈し背を丸めた人間がちょうど収まるその大きさは、棺桶であった。
男達は、その荷車について城下町から北へ去り、とある大きな百姓の家に入って行った。
半刻も居なかっただろう。去っていく彼らの背を、それまでずっと沈黙していた家の中の者達のむせび泣きが追いかけた。
少し、時を戻す。まだ陽の高いころ。足元の影が黒い時刻。
栄町と港町の境で、駕籠が止まる。そこから華奢な影が吐き出されるまで、遠巻きに源治はじっと見つめていた。意識も無い。ただそれを目に映している。
青ざめた顔で、月子は額に浮いた汗を指先で拭っている。
さんさんと照りつける日差しの中で、汗ばんだ頬が光を纏うようにその面差しが白い。
月子。
声が、出なかった。名を呼んだつもりであったのに、声になっていない。喉の奥が貼り付くように渇いている。汗が、首筋を伝い、襟元を冷たく濡らした。
月子は少し頭を左右にめぐらせて、源治に気づくことなく路地に向かって足を向けた。
それを、追う。
日陰の暗い路地で、追いついた。
「……」
足を速めた月子に追いついて、言葉もなくただ、その腕を捕まえた。
「父上、父上……!」
父と鎮目を呼ぶからには、彼の嫡男の吉太郎具高であるだろう。遅く授かった男子は、現在で二十七歳のはずだ。
源治の目の前の縁の上に、吉太郎が膝を置いて室内の敷居前の鎮目の耳元に低い声で囁いた。
「……ち」
という舌打ちは、鎮目のものだっただろう。
「面倒なことよ」
いっそ泰然と彼は言った。慣れた、という風情であった。
「で、今は?」
「未だ……。まずは父上に、と」
頷いた鎮目は、金田を呼んだ。
「帰せ」
短く言って、うなだれた月子の方に顎をしゃくって見せた。
「はあ」
鈍い顔で金田が返事をする。
「ああ。……本屋、ご苦労だった。言い値で引き取ろう。金子はその者からもらえ」
「……」
無言のまま、源治は頭を下げる。
頭を垂れるべきだと気づくまで、源治は鎮目を見ていた。
白いものの混じった頭髪以外には衰えの無い堂々たる体躯の男だった。かつては美貌であったという面差しにはわずかにその面影が有る。
だが、分厚く垂れて隅に皺を見せるようになった下目蓋に、油染みた灰汁のようなものが溜まっているようにも見えた。
鎮目は彼の息子の吉太郎とともに離れの建物を去っていく。
残された月子は、ただ障子の影に身を潜めて、外の気配から息を殺す。
今更、身を隠すことも息を殺すことも、その存在を消すためには一つも役に立たないことなど解りきっている。
消えてしまいたい。
何もかもが嘘だと、そう思えるように成れれば良い。
卑猥なような緋色の襦袢の袂に顔を埋めている。視界が赤い。それでもその赤い闇の中に顔を埋め続けた。
目の前に有る数葉の淫画と、寝乱れた褥、そしてなによりも此処に存在する月子自身、全てが嘘であると、地面に跪いた源治に思って欲しい。
そなた、と金田のか細い声が月子を呼んだ。
「支度を終えたら、裏へ回るように」
いつものように、と言い添える。
黙って、月子は背中で頷いた。
「金子を持って参るゆえ、待つように」
それは、源治への言葉である。
まだ、彼はそこに居たのだ。
裏門から帰れと告げられて、言われた方向へ向かう。
目に映ったものが源治にはまだ信じられない。否、信じたくない。
(まさか……)
懐に藤崎鎮目から下された金を仕舞いながら、それでも源治は上の空だった。
「……どうしたね?」
人のよさそうな藤崎家の門番の男が言う。
「……ああ、いえ」
「ひどい汗だな」
「さようで」
「お前のことだ。どうした?」
「なにやら暑気あたりのようで」
江戸から来たばかりだから、そんなことをもそもそと源治は告げる。
そうか、と門番は言い、門の脇の小部屋に源治を招いて座らせた。それから水を茶碗に汲んでくれ、そんなときはあれを食えこれを食えなどと、滋養の付く食べ物の名前をいくつか挙げて聞かせた。
そんな話をしているうちに、下男が小さな門をくぐった。それから少し後に、駕籠が現れる。
紺の木綿らしいものを纏った華奢な娘が、金田に付き添われてひっそりと裏門をくぐり、その駕籠に入った。髪は直されていて、俯きがちの項が哀れなほどに白く、細い。
月子だ。それは、本当に月子だった。
ただ呆然と、その光景を源治は格子のある窓越しに見送る。そこに彼がいることを、彼女は気づいていない。
「……綺麗な娘だろう」
弾かれたように源治はその声を振り返る。
月に数日は、必ず来るのだと、聞きたくもないことを門番が源治に言う。
「あんなにご執心ならいっそ囲ってしまえば良いのに、あの娘を家に帰すから面白いのだと、旦那様はおっしゃっておいでだとか。……まあその方が費えはかからんということなのかな」
「……ではそろそろ、お暇いたします」
「おお。今日は旅籠でゆっくりしたほうが良いぞ」
おせっかいにも、そんなことを彼は言った。
半鐘のような音が耳の中に鳴る。笠の中の影がひどく暗い。
陽盛りの時刻になったというのに、日陰を選ぶのも忘れ、源治は足元の短く濃い影を見つめながら歩を進める。目の前に、駕籠がゆらゆらと先を進んでいる
何を見た。
己の目で見たものがどこか現実に思えない。まるで陽炎のように、脳の中で目の前の風景が揺れる。道の凹凸を眼に映しながら、路傍の石などを避けながら、多分源治はそれを見ては居ない。頭の中はただ灰色だった。
胸の少し下辺りを、右の手で強く握った。左の手に本身の刃を仕込んだ杖を持っている。ふう、と深く息を吐く。二度ほど、そうした。
何度か、己の項の毛が逆立つような気色を感じる。呼吸を整えなければ、ふと、杖の刃を抜いて何かに斬りつけてしまいそうな、そんな危うさを感じていた。
嫌な仕事だな、とその男は言った。
背丈は尋常程度だろう。福々しいような輪郭の顔をしている。柔らかな肩の線には確実な筋骨が実り、見るものが見ればそれは相当な修行を重ねた身体だとわかる。
「ふん……」
横目に冷たい視線を送るのは、背の高い男だった。面長で頬骨が高く、ぎょろりと張った目つきが鋭い。
「所詮、そのために雇われた身だ」
放り投げるように彼が言う。
彼らの雇い主に命じられて、駕籠の脇について早足で歩いている。
向かった先は、城である。途中、駕籠の中の人物も降り、徒歩で郭内の東の外れに向かって行った。
薄暮の頃、その建物から運び出された荷車の上には、丸い桶がおかれている。膝を屈し背を丸めた人間がちょうど収まるその大きさは、棺桶であった。
男達は、その荷車について城下町から北へ去り、とある大きな百姓の家に入って行った。
半刻も居なかっただろう。去っていく彼らの背を、それまでずっと沈黙していた家の中の者達のむせび泣きが追いかけた。
少し、時を戻す。まだ陽の高いころ。足元の影が黒い時刻。
栄町と港町の境で、駕籠が止まる。そこから華奢な影が吐き出されるまで、遠巻きに源治はじっと見つめていた。意識も無い。ただそれを目に映している。
青ざめた顔で、月子は額に浮いた汗を指先で拭っている。
さんさんと照りつける日差しの中で、汗ばんだ頬が光を纏うようにその面差しが白い。
月子。
声が、出なかった。名を呼んだつもりであったのに、声になっていない。喉の奥が貼り付くように渇いている。汗が、首筋を伝い、襟元を冷たく濡らした。
月子は少し頭を左右にめぐらせて、源治に気づくことなく路地に向かって足を向けた。
それを、追う。
日陰の暗い路地で、追いついた。
「……」
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