おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第四章

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 為政者は富を追うものではない。
 そんなことを、鳥越が良く言っている。
「皆を富ませる。そうであれば、やがて己も豊かになろうというものだ」
 初めから自分の欲を優先させてはならない。
 鳥越の持論ではあるが、それは盟友の笹生や畑野にも通じている意識なのだろう。
(同じ師に学んだというが……)
 学友というのは、良いものの様だと源治はふと羨ましく思った。

 今の執政の藤崎はどうだろう。
 彼は富んでいる。それは、屋敷に出入りしたことのある源治には良くわかる。そのほかの武家の屋敷にも、足軽の長屋にも足を踏み入れている源治には、その差の大きさを目の当たりにしている。
 藤崎と、その側近であろうという者たちは、富んでいる。富を身近に振りまくことで、藤崎は今の地位をそういう者達に支えられていると見て良い。そういう者達が藤崎を守っている。

 笹生の屋敷で冷やした甘酒を馳走になり、源治は栄町の店舗に向かった。
「暑い中、ご苦労様です……」
 店を守る正蔵と、妻の志乃がにこやかに迎えてくれた。
 すぐに荷を置いて、旅籠に入る。湯に入って汗を落としたい気持ちで一杯だった。
 夏のことで、旅に適した時季でもない。旅籠は閑散としていた。二階の窓の障子を開け放ち、蚊遣りをくゆらせながら借りた団扇で懐に風を送りつつ煙管を咥えている。
 左腕にとまった蚊を右手で叩き潰した。

 少し出る、と言い置いて旅籠を出る。
(居なかった……)
 源治は、またあの路地へ向かう。あの夜に月子と遭遇した栄町と港町の境に近い船宿の影の路地。
 江戸からの道すがらに立ち寄った畑野の家に、月子は不在だった。少なくとも源治の目には月子の姿は映っていなかった。
 山里の村に居ないならば、……居るのかもしれない。夕闇の薄明かりの中に、月子が佇んでいたとしたら、源治はどうするつもりなのだろう。
(居たら、どうするんだ……?)
 己への問いに、答えを出そうとしない。
 首筋に汗が湧く。汗は気温のせいだけではないようだった。

 会えなかった。
「別のは嫌なのかい?」
 唇の端に傷跡のある顔は、笑みを浮かべても醜い。からかうような口調が腹立たしく、源治は黙ってその場を後にした。
 月子は、居る。だがこの場には居ない。
「忘れられねぇ気持ちもわかるぜ。あれぁ上玉だ。いいのが付いたのさ」
 男は親指を突き立てて、下卑た声で笑った。
 月子を気に入っている高禄の武家が居て、また連れ出されているのだという。
 もう一言でも口を利いたなら、あの男を殴りつけてしまっただろう。
 夕餉を取るために居酒屋へ行く。
 役目のことが有るために、源治は酒を口にしない。飲めないわけではない。
 ふとすると、苛立ちが腹の底からざわざわと湧き上がる。それでも気を紛らわすために酒を飲むわけにも行かない。
 鬱屈が、源治の眉を曇らせる。
 周囲の話し声を聞き流しながら食べるものだけを食べて、早々に座を立った。
 寝苦しい夜で、江戸からの旅を経てきたのに、気の尖りもあって源治はあまり良く眠ることが出来なかった。

「お加減でも良くないんですか?」
 早朝に出掛けようとしたところで、旅籠の主人に声を掛けられた。
「いや……」
「昨日からずっと、眉間に皺が寄っていますよ。暑い折の道中でしたでしょうに、もう少しゆっくりなさってはどうかと……」
 普段がにこやかな源治であるために、心配をしてくれているらしい。
「気遣いをありがとう」
 人の思いやりが、ささくれ立った胸にも染みた。懸念には及ばないと、気遣いに謝意を込めて微笑む。日よけの為に被った編笠の下で、良く陽に焼けた浅黒い顔に白い歯が際立って、彼らしい爽やかな笑顔になった。

 なるべく、涼しいうちに回るべきところを回ってしまおうと考え、城下を歩く。
(面倒なものは早く終わらせよう……)
 藤崎の家で依頼された枕絵と艶本を背負っている。公儀からの取締りに触れるか触れぬか、際どい物を入手した。そのせいか、高価だった。それで不要だといわれると、今回の滞在では足が出るかもしれない。
 値段の交渉が必要になるだろうと、気を引き締めた。
「貸本屋でございますが」
「おお暑い時季に良く来た」
 顔なじみの門番が、笑顔を見せている。
 裏門の傍らに有る門番の小部屋に通された。日陰が涼しい。荷を降ろすと、汗ばんだ背に風が当たって心地が良かった。
「金田様というご家来にお目通りを願いたいのですが」
 頼まれて持ってきたものが有る、と源治は門番に言った。
「お呼びいたそう」
 休憩していた交代の人間がすたすたと屋敷の建物のほうに向かって行ってくれた。
 金田という、肌艶の悪い痩せた男が、前回の訪れのときに枕絵などを注文してきた。口ぶりからすると、主筋の誰かに言付かったもののようだった。
 朝四つの太鼓が聞こえた。執政藤崎家の屋敷は、城に至近である。大きな音に聞こえて、源治は少し驚いた。

「旦那様……」
「なんじゃ」
「例の、本屋が参っております。言いつけの品を持って参ったようですが」
 障子が開けられている。暑いために風を欲しているのだろう。
 金田はなるべくその中を見ないように、目線を下へと向けている。それでも視線の端に、項垂れたその姿が見える。
 執政、つまり筆頭家老という藩臣としては至上の地位に在る鎮目は、既に六十代の後半に差し掛かっているというのに、家来のものが眉をひそめるほどに好色だった。老人にしては肌艶も良く、大柄な体格にも衰えが無い。その絶倫の精力を持て余しているようだった。
 鎮目よりも二十年は若いはずなのに既にしぼみかけている金田には、どこか主人が羨ましいようでもあった。
(惨い真似をなさる……)
それでも、主人の嗜好にはいささか肯きかねるものもある。
 話によれば、若い女との交接は長寿の秘訣でもあると「養生訓」にも出ているというが、孫よりも若いような小娘を好むのは、どうだろうかと思うのだ。
「庭先へ通せ。先に品をこちらへ」
「畏まりました」
 言われたとおりに、門番の部屋に戻って源治に告げた。

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