おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第四章

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 以前に一度、水城の屋敷を訪れたことがある。

 水城の妻が門番の小部屋に居た源治のところまで現れて
「主人に聞いておりました」
 と微笑みながら用意の包みを差し出してくれたのだった。
 源治に返すべき書物について、家の者に伝えておくと水城は言っていたものの、下男か女中に言いつけているのだろうと思っていた。
奥方が現れた時には、恐縮したものだ。

 水城の屋敷を訪れると、先の訪問で顔を覚えてくれたらしい老いた門番が、
「どうぞ庭のほうにお回りなさるように、と」
 にこやかに主人の意向を伝えてくれた。幸いに在宅だったらしい。
 屋敷の角を曲がって、門番に聞いた水城の居室のほうへ向かう。
 縁側に、水城らしい人影が座している。その傍らに両膝を付いた奥方が居て、櫛で夫の髪を手早く整えて、さっと立ち去って行くのが見えた。
(仲が良いらしいな……)
 微笑ましく思いながら、夫婦の語らいを妨げたようで少し気が引ける。
「お邪魔をいたしまして……」
 いや、と控えめに水城が首を横に振る。

 水城もまた師匠の安住六斎と似て、気配が静かである。こういう風情の人物のほうが、むしろ腕前のほうは油断ならないのだと源治は思う。
 水城は、削いだような頬をして眉尻も上がって、どこか鋭い顔をしている。彼が顔立ち通りの気配を発しているなら、ただの乱暴者で終わってしまっただろう。それを、恐らくはあの師匠の元での修行で、矯めるように努めてきたのではないか。源治はそんな風に思っている。
「そこに、掛けると良い」
 水城が自分の傍らを指して言った。
 少しだけ源治は戸惑った。貸本屋を装っている今の立場では、二百石の当主である水城と同じ位置に座すことが憚られるような気がする。
 そんな逡巡を見て取ったらしく、水城が静かに縁側を立って敷居をまたいで座敷に入った。その位置関係ならば、言い訳は立つ。目礼をして、源治は示されたところに腰を掛けて杖を立てかけて荷物を下ろした。
「仕込みか?」
「左様です。江戸も道中も、昨今は物騒ですから」
 源治が身体から近いところに置いた本身を隠した杖を、水城は見ていた。少し冷や汗が浮く。またあの時の安住のような気配に金縛りにされてしまいそうな気がしてならない。
「おいでなさいませ」
 やわらかな女性の声が、源治の緊張をほぐしてくれた。
「江戸の方のお口にあいますかしら?」
 朗らかに笑いながら、水城の妻が白玉に小豆の餡を乗せたものと茶を源治の傍らに置いた。
「恐れ入ります」
 恐縮して頭を下げた。
「結」
 と水城が妻を呼ぶ。その場に座りそうになった彼女に、こちらへ、と促している。
 結というその奥方も察しは良いようで、さらりと立ち上がって夫の少し後ろに座した。
 心の通じ合った夫婦の姿そのものに、源治には見えた。

 江戸の名所の図が多く載った本を結が見たがったために、それを置いて水城家を辞した。水城夫妻の穏やかで睦まじい気配が、外を歩き始めた源治の胸を温めつつ、半面で侘しくした。
 羨ましいと感じる。
 結という奥方の美しさがまたその羨望を強くした。
 卵形の輪郭の中に均整の取れた面立ちが収まり、目じりが少し下がったような眼差しが優しげで艶やかだった。着物を押し上げるように豊かな胸元をしていて、並び立つ男が貧弱に見えそうなほどに大柄だが、幸いに彼女の連れ合いの水城もまた鴨居を越えるほどの長身で、剣術で鍛え上げた立派な体格を持っている。彼と並んでいる限りは、結もたおやかな女性に見える。
 そんなところも夫婦で均衡が取れているようだった。

 夫婦の在り方とは、あのような様子が理想なのかもしれない。
 そんなことを考えながら、源治は何年か前に彼の元を去った妻のことを思い出す。
 あのころはただ、妻が男を作ったことを非と思い、心の中で罵るように思っていたものだが、自らに何一つ非が無いわけではなかったと今なら解る。
 役目のためであっても、月の半分、年の半分も夫が傍らに居ない寂しさを思いやったことは無かった。それが仕事であるから理解せよと口で言うばかりで、妻が泣いても慰めたことなど無かった。
 それどころか、留守の間に男が出入りした気配に逆上して、妻を殴ったことも有る。その上で源治自身は、行かないでくれと泣きながら叫ぶ妻を家に置き去りにして、あてつけに深川の芸者と三日もしけこむような真似もした。
 そんなことをしながら、妻に我慢が足りないのが悪いのだと思い続けていた。妻の非だけを責め、己の非を省みたことの無い、愚かな若造だった。
(当然の結果だったよ)
 今は、自嘲と共に思い出せる。怒りも虚しさも、もう忘れた。ただ、自身の愚かさに気づかなかったという羞恥に心が痛むだけだ。
 元の妻の幸せを祈るほどの心境にはまだなれないが、それでも彼女と別れたことは、多分彼女のためにも間違いではなかったとは、思えるようにはなった。
 情けないことだが、元の妻に源治がしてやれた唯一の善行は、三行半の離縁状を渡してやったことだけだったのかもしれない。そんなことも考えるようになった。
(俺には多分、夫婦なんて暮らしは向いてなかったんだ)
 水城夫妻の、互いに暖かな眼差しを交わす穏やかな様子を思い出しながら、そんなことを、ずっと考えている。

 貸本屋として城下の得意先を歩き回り、夕暮れになって栄町の小さな店舗に帰ってきた。
 明日は、城下から少し離れた杉尾村という土地まで行く予定である。杉尾村は笹生家の領分で、そこの庄屋も良い得意先であった。頼まれているものも有った。
「こちらにお泊まりくださって構いませぬのに」
「いや……」
 店を守る山木正蔵の妻の志乃に曖昧に断りながら、人目に触れても問題の無い荷物だけを背負って、源治はなじみの旅籠へと入っていった。
 思えば、山木の夫婦も睦まじく穏やかに暮らしている。そういう夫婦の気配を今の源治は目の当たりにしたくないような心境だった。

 暮れ六つごろに夕餉を摂るために旅籠を出た。旅籠からすぐ近くに小さな居酒屋が有る。その辺りで軽く済ませようと思っている。
 外に出たついでに、かつて月子と遭遇した路地を回った。あれは寒くなり始めた秋のことだった。朧月が美しかったのを覚えている。
 昨日に畑野家で月子が居たのを見た。今日になって彼女がそこに居ると思ったわけではない。むしろその場所に二度と月子が立つことの無いように思っているくらいだ。

 ただ、ふとその場を通りたくなっただけだ。
「……初めては、貴方が良い」
 月子はその場所でそう言った。
 その言葉を聞いたときに身体に点った熱を、思い出したくなっただけだ。

 愛しい、と思った。
 眦の上がった凛とした潤んだ瞳も、細い鼻筋や頤も、可憐な肢体も、その中に宿る強い魂も、何もかもが愛しい。そして親や弟妹を懸命に守ろうとする意志には、まぶしく仰ぎ見るような敬意さえ覚えている。
 月子がこれ以上の苦悩を負わないように、何かしてやりたい。ただそれだけを思う。もし金のようなもので何とかなるなら、可能な限りのものを差し出したい。誰か、月子を支えてくれる優しい青年が居るなら、連れて来てやりたいとさえ思う。
 月子の幸せを見届けることが、彼女に初めての男として選ばれた己の使命のようにも感じている。人の伴侶になるためのさまざまなものが欠如し過ぎている自分には、そういう方法でしか、月子を想うすべが無いのだと源治は思う。

 そうだ、と思った。
 地面に立って、月の光を透かす雲を見上げながら、その向うの月の形を思うような、そんな在りかたで多分ちょうど良いのだろう。
 それが月子にとっても良い事なのだと源治は考えた。

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