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第四章
1
しおりを挟む桜が終わりかけである。
暖かくなるごとに、世相が物騒になっている。
江戸の夜には群盗が横行し、人を傷つけ物を盗った。
源治は用心に仕込み杖を常に携帯しているが、ついぞ使ったことはない。だが昨今は外出前にその目釘を確かめることが習慣となった。
艶やかな花弁の舞い散る夕暮れを、とある藩邸の塀沿いに源治は歩く。
その夕、鳥越に呼び出されて打ち合わせをした源治の懐に、名代の長明寺の桜餅が抱かれていた。帰りに、向島まで回って求めて来たものだ。
夕めしどきの長屋に帰り、差配人の家と両隣の家族に土産を分けて渡した。
「あらあ、お気遣いいただいて」
隣の住まいの大工の女房が目をきらきらとさせて礼を言った。
「ほら、おじさんにお礼お言い」
九つを頭に四人も子供が居る家族には、たいそう贅沢な土産であったのだろう。子供らも嬉しそうな声で礼を言った。
月の半分も不在にする源治の家の面倒は、たいてい隣人が見てくれている。その礼であった。
大工の夫婦は二人とも三十路の声を聞いて二・三年といったところだろう。
(もしかしたら……)
源治も、彼の留守中に男と逃げた妻と今でも続いていたのなら、隣人達と同様に子供の声に囲まれていたのかもしれない。
壁越しに子供らの声を聞きながら、早々に床を延べて身体を横たえた。
桜の花は源治を追うように、道すがらにずっと咲いていた。江戸の桜は散りかけだったが、道中ではこれから盛りを迎えようとしている風情だった。
三国峠を越えた辺りで桜は蕾になった。春を追い越したのかもしれない。
遠く見える山頂に近い辺りには未だに白い雪が見えている。山から下ろす風にはまだひんやりとしたものがある。
峠からの街道沿いの天領との境の近くの、顔なじみの庄屋の荒川清右衛門家に立ち寄った。
先に、笹生家の家臣が鳥越の許に運んだ領内の連判状にも名を連ねている人物でもあった。勉強熱心な家の主は四十がらみで、昨今の武家が興味を失ったような国学の書物などを手に入れるようにと源治によく依頼してくる。
そして江戸住まいの源治から江戸の話を聞くことを楽しみにしている。書物の用がなくても立ち寄れと、常に言ってくれている。
「それは、仕込み杖ですかね?」
傾斜のきつい屋根を戴いた大きな屋敷である。その縁側に腰を下ろした源治が、傍らに立てかけた杖を指して彼は言った。
「道中の用心のためにね」
「このところ物騒ですな。そこの天領にはどうも長脇差を腰にしたやくざな連中がうろうろとしています。代官所の方でも気をつけてはいるようだが、何かとこちらにも入り込んできて、由無い真似をする……」
藩では、賭場を禁じているが、天領はその辺りが甘い。領内の社寺などでそういうことを行い、テラ銭を貪るような真似をする。その賭場には天領の民のみならず、近在の者たちも出入りする。田舎の百姓をカモにするような良くない博徒が住み着いていたりする。江戸を所払いになったようなやくざ者が多いという話だ。
その夜は、招かれるままに荒川の屋敷に泊まった。
寒くもなく暑くもなく、路傍の草木に花が咲く。萌黄色の新芽が鮮やかに目を射る。
(良い季節になった)
歩いているうちに少し汗ばんで、指の先でこめかみの生え際を拭った。
雪解けの頃には頼まれただけの書を携えての少し身軽な旅だったが、今回はそれなりに貸本屋としての商売の物を多く持っている。荷はなかなか重たかった。
「ずいぶんな大荷物だな」
よく達者に運んできたものだと、畑野には感心された。
日の伸びた黄昏時。この冬を良く耐えたと思わざるを得ないほどに畑野の家はみすぼらしい。哀れを感じる。
偏りと言うのはどこにでもある。
源治は自らの身とも引き比べる。望んでのことではないが妻子もなく、親も既に亡くなっている。それでいて禄は密かにではあるが支給され、役目のための偽装としての商いの収益もある。
これを畑野に分けるという考えは、鳥越にはないものなのだろうか。鳥越にその考えはあったとしても、畑野は愚直に断ったのだろうか。禄はこれ限りであり、謂れのないものは受け取れぬと畑野は言ったのだろうか。
同じ禄高の者が同じように苦労しているのに、己のみが昔の知友を頼って援助を受ける訳には行かないと、以前、鳥越の援助の申し出を断ったのだと聞いた。
月子が謂れのないものを受け取りたがらないことも、そういう父親の考えを受け継いでいると見て、あながち間違っては居ないのだろう。
暗いように見える室内に、月子の後姿がわずかに見えた。
誰のためのものなのか、着物を繕っている。傍らに誰か居る。手元だけが見える。妹らしい。時折、その手を取って何か教えている。
時折、小さな笑い声なども聞こえる。悲しいほどに貧しいのではあるが、家族が共に居るというのは、そういう笑いがどこか転がり込むものであるらしい。
畑野と共に書を開き、暗号めいたものをその中に埋めていく。畑野が傍らでそれを渡された笹生が解読できるようになぞかけのような表を紙に記し、作業の後に源治の手に渡した。
それで、源治はもう立ち上がる潮なのである。だが、立ち上がりかねた。
月子と話したい。顔を、一目見たかった。
畑野に手渡された書付を仕舞った懐に、前回に訪れたときと同様に包んだ金子がある。謂れのないものは、と月子には忌避されるかもしれないが、渡しておきたいと思っている。
(そうすれば……)
もしかしたら、しばらく月子は城下に行かなくて済むかもしれない。
月子が座を外す潮の訪れを、源治は待っていた。
そうしているうちに、先夜、宿とした荒川家で仕入れた世間話もあらかた語りつくした。
世間話めいたものには畑野はあまり乗り気ではない。用が済んだというのにあまり長居しようとすれば不審がられるだろう。それに出掛けるべき刻限も迫っている。
もう立ち上がるしかないだろう。
「それでは……」
心持ち、肩を落としたような源治を、気遣うように見あげて畑野が言った。
「……今宵は何処まで参られる?」
「川口の宿まで行くことにしております」
「気をつけてな」
その声は、月子にも聞こえている。
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