おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第三章

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 源治が城下を出たのはそれから五日後だった。
 江戸に向かう道中には、こちらに来るときよりも雪が減った。
 暖かい日が続いている。このまま春に向かうのだろう。

 月子が去った日の夕刻に、船宿を訪れた源治に、例の男が彼女はもう里へ帰ったと告げた。
 ならば、と思っている。笹生からの書を携えている。江戸への行きと帰りに畑野の家に立ち寄ることはまれではない。帰りに立ち寄る折、月子に会うことを期待した。
 むしろ安堵するように月子に会うことを期待している。
 城下で会うことを考えるのは、後ろめたさに追い詰められる。だが、あの山里の家であれば、そこに淫靡な影は入り込む余地がない。
 そういう関わりが、本来の正しい関係なのだろうと思う。
 何事もないように、ただの顔見知りであるように清々しく、月子の前では振舞いたい。
 畑野の家には昼八つ過ぎに着くように道中を調整した。そのくらいには畑野が役所に出ていたとしても帰宅するはずだからだ。
 着いてから半刻ほどで発てば、夜の五つ前には宿場に戻れると計算している。
 まれに畑野の勤める代官の屋敷にも書物を下ろすことがあるが、この一年ほどは足が遠のいている。さして書を読みたがる人間が、あの代官屋敷には居ないことがわかってきたからだ。

 襷(たすき)で袖を捲くった白い腕に携えた駕籠の中に、蕗が淡い萌黄色に積みあがっている。 桑畑の斜面を下りてそれだけのものをしゃがんで摘んだ。春の恵みを嬉しく見た。まださして温かい時期ではないものの、斜面を下りて上がってくるうちに、月子は額に汗を覚えた。髪を手ぬぐいで覆っていたが、それを外して額を拭い、帯に挟む。
 蕗は茹でて味噌と共に叩こう。そんなことを思う。講に出て、米と味噌を購ってきた。それだけで十分にご馳走になる。
 日の傾きを見た。逸と奈那子に家の中のことを頼んで出てきている。志郎や睦郎は、薪を拾いに出ている。彼らにも何らかの収穫があると良い。そろそろ帰って夕餉の支度をする頃合だ。父親も帰宅する時刻だろう。
 温かくなってきて、母の幸枝が少し元気になっている。それが嬉しかった。滋養のあるものを、と言われたとおりに講に行った後は鶏卵などを欠かさずに持ち帰ってきている。それが力になっているのなら、と月子は思うのだ。

 足元を用心深く見ながら、ゆっくりと斜面を上がって行った。
 ぱき、と頭上のほうで枝を踏み折る音がした。弟たちだろうかと月子は顔を上げた。
 呆然と立ち尽くす。
 四角い荷を負ったしなやかな体つきの足元から、長い影が月子に伸びていた。

 黄昏近い緩やかな光の中で、ひっそりと斜面を登る人影を道の上から見出した。
 笊に鮮やかな萌黄色の蕗を携えて、静かに額の汗を拭っていた。華奢な姿を、源治は見間違えようもない。月子だ。唇に満足げな笑みを浮かべてその手元の蕗を眺めた横顔は、前に見たときと変わらずに繊細だった。
 静かに、足をそちらに向ける。

「あ……」
 源治を見上げた月子の顔から、表情が消えた。

 何故、と月子は驚いた。否、驚くには当たらない。源治は父親の所に頻繁に訪れている。それは良く知っている。月子の留守にも来ていた事は知っている。顔をあわせることがなくて幸いに思っていたくらいだ。
 あわせる顔など、もう何処にもない。
 それなのに何故、源治はもう少し先の季節のような、温かな笑顔を月子に見せるのか。

 困惑して、月子は身を翻した。
「つ……」
 月子、と呼び捨てそうになって源治は思いとどまった。彼女の弟妹が近くに居るのかもしれない。変に親しみを見せるべきではなかったのか。
 足元の不安定な斜面を走って、すぐに月子は転倒した。
「危ない。大丈夫ですか」
源治はしなやかに足を運んで、月子の傍らに身をかがめた。
 月子は膝をついて、うなだれて袂で顔を覆ってしまった。彼女の手を離れた笊から、蕗が零れ落ちてしまっている。
 荷を傍らに置いて、月子が落としたそれを源治は拾い集めて、笊の中に戻していった。見渡して、どうやら周囲に誰も居ないことを知る。
 その作業をしている間に、源治は笑顔を消す。
(俺は馬鹿だ……)
 そんな思いが胸を噛む。

 何を浮かれていたのだろう。
 月子にとっての己の存在を、何だと思っていたのだろうか。月子に対して自分が何を為したのか、源治は忘れたわけではない。むしろ忘れられない。
 それは源治にとってはこの上なく甘い記憶に他ならない。
 だが、月子にとって同じように甘い記憶だと、そんなことを何故思っていたのだろう。
 月子には、この上なく苦い記憶であるのかもしれない。

 いかに何年も前からの顔見知りで、月子が自らそうせよと言った事であったとはいえ、彼女にとっては、その身の清浄を汚した存在に他ならないだろう。
 金で月子を購い、二晩もその身体を弄び、嬲り、犯した男だ。源治は、月子にとってそういう存在ではないのか。思い出したくもないことだったのではあるまいか。
 何故、そんな当たり前のことに思い至らなかったのか。源治は、唇を噛んだ。
 月子は源治に背を向けて、袂で顔を覆っている。
「驚かして、申し訳ありませんでした。落とした分は拾いました。ここに置きます」
 月子の膝の前に、彼女が転倒して落とした蕗を拾い集めた笊を置く。
「それから……」
 懐から半紙に包んだものを出した。
「受け取って欲しい」
 顔を覆った月子の手を取って、それを握らせる。

 月子が源治を見た。眉を寄せ、李のような唇をかみ締めている。眦の線が凛として強い。潤んだような大きな目に、心が惹かれる。
「このようなもの頂けません」
 それは金である。紙の中に小判らしき形を三枚感じる。月子の掌にそれを置き、彼女が手放さないようにその上から源治はその手を握った。
「頂く謂れがありません」
 幼児のように激しく月子は頭を横に振る。鼻の奥が熱くなる。とめどなく泣いてしまいそうな自分が居る。源治の前で涙を流したくなかった。
 重なった源治の手が温かい。その温もりを、あの二夜、身体中の全てで感じた。それを月子は思い出す。幾度も思い出している。ずっと、思い出し続けていた。
 あれから月子の身の上を粗暴な手が通り過ぎた。嘔吐を催すような辛苦の中、月子はずっと源治を思い出していた。
 汚れていく自分の中で、月子は源治を何度も反芻した。
 二度と、本物の彼には会えない、会うまいと思いながら。

「お願い、触らないで……!」

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