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第三章
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身悶えているうちに髷が崩れた。
褥の上に髪が散る。その髪を、皺ばんだ大きな手が絡め取る。華奢な肌身の上に白髪の混じった頭が蠢いている。執拗で、容赦がない。
嫌だと言おうが、痛いと訴えようが、大柄な老人は、若くか細い身体をあらぬ態に開いて嬲ることを止めようとしない。むしろ、抗いを歓びに聞いている。悲痛なような嗚咽も、老人はただ甘い音色に聞いている。
震える膝に手を掛けて、ぬたり、とその唇が哂った。
有明行灯のわずかな火が、その表情を闇に隠してくれている。残忍な顔を明らかに見ずに済むのは、せめてもの救いだといえるだろうか。
二日、老人のもとに留め置かれた。
前のときもそのくらいだった。その後、船宿に帰されてからまた一夜。見も知らぬ武士が月子を通り過ぎた。
老人の屋敷は、その中を巡ったわけではないからその全てを知るわけではないが、相当の家柄だとはわかる。片隅の柱でさえ艶やかな銘木であるのもわかる。厠や湯殿に行く途中、横目に見かける庭に奇岩が配されているのも見た。
何故、同じ家中の士でこうも違うものなのか。富というのはどうして偏るものなのか。考えれば虚しくなるばかりだ。溜息と共にその考えを、静かに吐いて捨てた。
吐いた息が、白い。だが消えるのが早くなった。
春になってきている。
朝、老人が出仕した後に用人に連れ出されて裏口から駕籠に乗った。
家の者らしい女子の笑い声が聞こえた。柱の向うに、花よりも艶やかな色彩が見え隠れする。彼女達がまとっている振袖だった。声の感じは、月子と変わりない年齢のようだった。
月子は、借り物の紺の木綿の着物の襟元を抑えて唇を噛み締める。老人に苛まれている時とは、別のところの胸が痛むようだった。
その日の昼に、源治は剣術道場のある安住家に赴いた。
前夜までに笹生家に預けるべきものを預けてある。この日は城下の商人や藩士の家に、頼まれたものを納めに歩いた。
雪解けの時季であるために荷を制限してきている。貸すべき書物などはなく、特に安住道場の誰かに頼まれたものもない。どういう口実をつけようかと思いながら、門番の下男に訪いを告げた。
「他所の頼まれ物があって、こちらまで参りましたので、ご挨拶を、と……」
「遠慮することはない。まあそちらへ回ると良い」
相変わらずの、春風のような気配をまとった六斎がにこやかに源治を迎えた。
「江戸の雪は消えたか?」
「こちらに出てくるときには、もう消えておりました」
「懐かしいようだな。こちらは春が遅い」
六斎は江戸で修行をした経歴がある。二十年近くを江戸で過ごしてきていた。
「おお、まる井か。こんな時期に良く来たな」
門から入ってきた高弟の青木が、気さくに声を掛けてきた。
「何か面白い物でも持ってきたのかな?」
「いえ、他所で頼まれ物がありまして参りました。今日はただご挨拶に」
「それは律儀なことだ」
朗らかに笑いながら、道場の中へ去って行った。
「……腕が、うずくのだろう」
青木の姿が見えなくなってから、腕組みをして端座した六斎が、呟いた。呟いて、源治に視線をすっと合わせた。
源治は金縛りにあったように動けなくなった。
目だけが地面と六斎を往復する。身体がこわばって動かないのは、驚きのせいだけではない。目の前に駘蕩と座した六斎が、源治を動かさない気配を発している。だがその気配が六斎から放たれていたのだと気づいたのは、ずいぶんと経ってからだ。
「……いえ……」
喉のわずかな隙間から、呼気を搾り出すようにそれだけを言った。
「遠慮はいらんよ」
ふと、源治の金縛りが解けた。肩ががくりと下がる。
「いえ。そのような」
「気が向いたらいつなりとおいで。……武家かね?」
「父は、浪人でございました」
「左様か」
源治の身の上について疑うものがあれば、そう答えるようにと鳥越から教えられた通りに言った。あながち偽りでもない。実際に、源治の父は江戸の藩邸ではなく市中に浪人を装って暮らして、鳥越家の指揮下で藩主の耳目となる役目を務めていた。それと知るまでは源治自身も父は浪人であると疑いもしなかった。
昼の九つ半ごろに、月子は美知江たちと共に城下を発った。
「訪ねて来たのが居たよ」
老人の屋敷から駕籠で船宿に帰った月子に、伊助が告げた。
「お前のお初を食った野郎だな。たいしたもんだ。……よほど執心らしい」
下卑た顔で、喉の奥でくく、と笑う。賞揚なのか、淫らな興味なのか判然としない。いずれにしても月子にはただ不愉快だった。
伊助などに源治のことを口に出して欲しくはない。そんな気持ちだ。
「何ならもう一日、居るかね? そうすりゃあ、よ……」
「いいえ」
切り付けるように拒絶した。
港町の薬屋に、美知江たちと共に赴く。
途中、人だかりがあった。「ひでえなあ」そんな声がする。
野次馬にたかるほど物見高くもなく、それほどの時間が残されているわけではないから、月子にしても美知江にしても、何のために人々が集まっているのかは見過ごしにして用を済ませた。
あとで漏れ聞くところでは、荷物の運搬のために引き込んだ水路に、死んだ女が浮かんでいたと言うことだった。
水路で女が死んでいたと言う噂は、安住の道場に立ち寄り、そのほかの用を足して栄町の小さな店に戻った源治の耳にも入った。
店番をしているのは正蔵という四十がらみの男だ。実際の身分は源治と同じく戸沢家の家臣である。姓は山木という。分限帳には江戸定府の足軽身分となっている。妻は、志乃といい、こちらも歴とした武家の出身である。が、誰にも明かしたことはない。
源治が江戸から持ち込んだ書物たちは、彼が江戸に帰っている間に、正蔵の手で領内の得意先から回収し、その他の借り手にもまわすようになっている。
「……どんな女だったって? 見てきたのか?」」
「近所ですからね。商売女でもないらしい。足軽の女房かなにか、そんな風体でしたよ。大柄で、若くて結構な美形だった」
(違う……)正蔵が見たという死んだ女の様子を聞いて、わずかに安堵する。まさか、とは思ったが、やはり月子ではないようだった。
「それで何だったんだ? 殺されたのか」
「いや皆目わかりません。野次馬はすぐに追い払われましたからね。まあ若い身空で気の毒なことですよ。しかしまあ、何だってわざわざこんなとこの水路で死んだんだかねえ?」
源治は、店の中に通されて火鉢に当たりながら、さあな、と答えて煙管を灰吹きにこつんと打ちつけた。
先に何だったかと問いかけたのは源治のほうだったはずだ。何でこんなところでと訊き返されたところで知る由も無い。
(雪解けの水は冷たかったろう)
来客の応対をする正蔵の後姿を見つつ、水の中で死んだ女のことを考えて、胸の中で呟いた。
褥の上に髪が散る。その髪を、皺ばんだ大きな手が絡め取る。華奢な肌身の上に白髪の混じった頭が蠢いている。執拗で、容赦がない。
嫌だと言おうが、痛いと訴えようが、大柄な老人は、若くか細い身体をあらぬ態に開いて嬲ることを止めようとしない。むしろ、抗いを歓びに聞いている。悲痛なような嗚咽も、老人はただ甘い音色に聞いている。
震える膝に手を掛けて、ぬたり、とその唇が哂った。
有明行灯のわずかな火が、その表情を闇に隠してくれている。残忍な顔を明らかに見ずに済むのは、せめてもの救いだといえるだろうか。
二日、老人のもとに留め置かれた。
前のときもそのくらいだった。その後、船宿に帰されてからまた一夜。見も知らぬ武士が月子を通り過ぎた。
老人の屋敷は、その中を巡ったわけではないからその全てを知るわけではないが、相当の家柄だとはわかる。片隅の柱でさえ艶やかな銘木であるのもわかる。厠や湯殿に行く途中、横目に見かける庭に奇岩が配されているのも見た。
何故、同じ家中の士でこうも違うものなのか。富というのはどうして偏るものなのか。考えれば虚しくなるばかりだ。溜息と共にその考えを、静かに吐いて捨てた。
吐いた息が、白い。だが消えるのが早くなった。
春になってきている。
朝、老人が出仕した後に用人に連れ出されて裏口から駕籠に乗った。
家の者らしい女子の笑い声が聞こえた。柱の向うに、花よりも艶やかな色彩が見え隠れする。彼女達がまとっている振袖だった。声の感じは、月子と変わりない年齢のようだった。
月子は、借り物の紺の木綿の着物の襟元を抑えて唇を噛み締める。老人に苛まれている時とは、別のところの胸が痛むようだった。
その日の昼に、源治は剣術道場のある安住家に赴いた。
前夜までに笹生家に預けるべきものを預けてある。この日は城下の商人や藩士の家に、頼まれたものを納めに歩いた。
雪解けの時季であるために荷を制限してきている。貸すべき書物などはなく、特に安住道場の誰かに頼まれたものもない。どういう口実をつけようかと思いながら、門番の下男に訪いを告げた。
「他所の頼まれ物があって、こちらまで参りましたので、ご挨拶を、と……」
「遠慮することはない。まあそちらへ回ると良い」
相変わらずの、春風のような気配をまとった六斎がにこやかに源治を迎えた。
「江戸の雪は消えたか?」
「こちらに出てくるときには、もう消えておりました」
「懐かしいようだな。こちらは春が遅い」
六斎は江戸で修行をした経歴がある。二十年近くを江戸で過ごしてきていた。
「おお、まる井か。こんな時期に良く来たな」
門から入ってきた高弟の青木が、気さくに声を掛けてきた。
「何か面白い物でも持ってきたのかな?」
「いえ、他所で頼まれ物がありまして参りました。今日はただご挨拶に」
「それは律儀なことだ」
朗らかに笑いながら、道場の中へ去って行った。
「……腕が、うずくのだろう」
青木の姿が見えなくなってから、腕組みをして端座した六斎が、呟いた。呟いて、源治に視線をすっと合わせた。
源治は金縛りにあったように動けなくなった。
目だけが地面と六斎を往復する。身体がこわばって動かないのは、驚きのせいだけではない。目の前に駘蕩と座した六斎が、源治を動かさない気配を発している。だがその気配が六斎から放たれていたのだと気づいたのは、ずいぶんと経ってからだ。
「……いえ……」
喉のわずかな隙間から、呼気を搾り出すようにそれだけを言った。
「遠慮はいらんよ」
ふと、源治の金縛りが解けた。肩ががくりと下がる。
「いえ。そのような」
「気が向いたらいつなりとおいで。……武家かね?」
「父は、浪人でございました」
「左様か」
源治の身の上について疑うものがあれば、そう答えるようにと鳥越から教えられた通りに言った。あながち偽りでもない。実際に、源治の父は江戸の藩邸ではなく市中に浪人を装って暮らして、鳥越家の指揮下で藩主の耳目となる役目を務めていた。それと知るまでは源治自身も父は浪人であると疑いもしなかった。
昼の九つ半ごろに、月子は美知江たちと共に城下を発った。
「訪ねて来たのが居たよ」
老人の屋敷から駕籠で船宿に帰った月子に、伊助が告げた。
「お前のお初を食った野郎だな。たいしたもんだ。……よほど執心らしい」
下卑た顔で、喉の奥でくく、と笑う。賞揚なのか、淫らな興味なのか判然としない。いずれにしても月子にはただ不愉快だった。
伊助などに源治のことを口に出して欲しくはない。そんな気持ちだ。
「何ならもう一日、居るかね? そうすりゃあ、よ……」
「いいえ」
切り付けるように拒絶した。
港町の薬屋に、美知江たちと共に赴く。
途中、人だかりがあった。「ひでえなあ」そんな声がする。
野次馬にたかるほど物見高くもなく、それほどの時間が残されているわけではないから、月子にしても美知江にしても、何のために人々が集まっているのかは見過ごしにして用を済ませた。
あとで漏れ聞くところでは、荷物の運搬のために引き込んだ水路に、死んだ女が浮かんでいたと言うことだった。
水路で女が死んでいたと言う噂は、安住の道場に立ち寄り、そのほかの用を足して栄町の小さな店に戻った源治の耳にも入った。
店番をしているのは正蔵という四十がらみの男だ。実際の身分は源治と同じく戸沢家の家臣である。姓は山木という。分限帳には江戸定府の足軽身分となっている。妻は、志乃といい、こちらも歴とした武家の出身である。が、誰にも明かしたことはない。
源治が江戸から持ち込んだ書物たちは、彼が江戸に帰っている間に、正蔵の手で領内の得意先から回収し、その他の借り手にもまわすようになっている。
「……どんな女だったって? 見てきたのか?」」
「近所ですからね。商売女でもないらしい。足軽の女房かなにか、そんな風体でしたよ。大柄で、若くて結構な美形だった」
(違う……)正蔵が見たという死んだ女の様子を聞いて、わずかに安堵する。まさか、とは思ったが、やはり月子ではないようだった。
「それで何だったんだ? 殺されたのか」
「いや皆目わかりません。野次馬はすぐに追い払われましたからね。まあ若い身空で気の毒なことですよ。しかしまあ、何だってわざわざこんなとこの水路で死んだんだかねえ?」
源治は、店の中に通されて火鉢に当たりながら、さあな、と答えて煙管を灰吹きにこつんと打ちつけた。
先に何だったかと問いかけたのは源治のほうだったはずだ。何でこんなところでと訊き返されたところで知る由も無い。
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