おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第三章

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 逸と奈那子が見守る中で、月子は荷物を開く。
 妹達のために古着を購っていた。無論、購ったとは言わない。講に来る人にもらったと言った。

 洗い張りをされて束ねられた木綿で、二着分ある。
 紺地に海老茶と芥子色の線で格子柄の織り出されたものと、臙脂の地に梔子色の縞の織り出されたものだった。多少の傷みはあるが、小柄な身体にあわせて作れば傷みのあるところは表に出さずに仕立てられるだろう。
「少し傷んでいますけど、巧く仕立てれば……」
「嬉しい! お姉さま、ありがとうございます」
 屈託のない笑顔で奈那子が紺の方を抱えて言った。彼女はそちらが気に入ったのだろう。
 ふと、月子は涙が出そうになって顔を背けた。
「志郎さんたちは、まだかしら……」
 既に履きつぶし、破れかけた草履をはいて、外へ出る。
 夕闇が迫っていた。
 空に星が一つ見える。藍の色を見せる東の空と、茜の色を残した西の空。
 枯れた葉が地面を撫でる音がする。残光の中に弟達の姿を見出した。薪と笊を背負っている。何か、木の実か茸などでも得られたのだろうか。
 ほんの数瞬、月子は袂の中に顔を埋めた。吐息の末が震える。
 風が身体に染みとおるほどに冷たい。
 冬の到来を肌に感じる。

 三日後に、雪が積もった。

 年が明けた。雪が止まない。
 講に出る頻度が増し、城下の滞在が長くなった。
 作物の取れない時期で、備蓄の糧もない。かんじきを履いて、蓑笠をまとって父の留守に月子は逸にだけ告げて、出かける。
「お願いしますね……」
 それだけを言う。母親も恐らく眠っている。
 夜半に、太三郎が喀血した。
 秋に血を吐いて以来、微熱と咳が続いていた。彼のために、と城下で購った薬は効いたのか、落ち着いたように見えていた頃だった。
 月子はうかつにも寝入ったままで、母の幸枝が起きて静かに介抱していたようだ。朝起きたときに、目をそばめてうなだれた母の姿を見出した。

 雪の道は、歩きにくいものだ。
 凍傷で指の先が欠けてしまう者も居る。が、幸い月子にその事態が訪れることはなく、無事に城下を往来した。

 いい馴染みができたんだなと、船宿の監視役の男が言った。口元に引き攣れたような傷のある顔をした彼の名が伊助ということは、三度目に来たときに知った。
 それは褒め言葉だったのだろうかと思う。
 しかしそんなことを褒められて、喜ぶ者が何処にいるというのだろう。
 馴染み、と言うのだろうか。初めて城下に来たときに、源治の後に月子を買った老人が、二度目にも、三度目にも用人を遣わして彼女を駕籠に乗せた。
 老人の招きは続いている。

 城下から帰るときに月子が抱える少しの米や味噌、衣類や薬などが家族にとってどれほどありがたいことか、良くわかっている。そのために為していることが決して月子にとって喜ばしいことではないことも良くわかっている。
 だが、どこかで慣れてしまった自分を感じる。それが何よりも嫌だった。
 講に行くようになってから、父と母とあまり目を合わせて話さなくなった。
 弟妹はいざ知らず、代官の世話で某所で作業をして代価を得ているというような言い訳が、大人である彼らに納得されているとは思えない。
 何をしてきたか、両親に問われることを月子は恐れている。
 某所とはどこか、作業とは何か。
 問われて答えるべき言葉を持たない。

 雪が消えるまでに、月子は五回「講」に出かけた。十日も帰れなかったこともあった。
 二月の終わりごろ、帰宅した月子は父親の机の上に新しい書物を見出した。
 源治が、来たのだろう。
 乾いた眼差しで月子はそれだけを悟った。源治に会いたいとは、思っていない。思わない。源治に会わせるべき顔などもう、何処にもない。

 しばらくぼんやりと父の机の上の書物を眺めた。
 それからおもむろに、口元に運んだ指先に、はあ、と息を吹きかけた。それだけが月子に許されたぬくもりであるかのように。

 泥濘(ぬかるみ)の道に足を取られる。
 雪解けはありがたいのだが、歩きにくいことには閉口する。ふと見ると、道端の地蔵の脇に蕗が伸びていた。
 日陰にはまだ白い雪が残っているものの、融け出すのももうすぐだろう。
 源治の背負う荷物は多くはない。扱うものが書物であるだけに、水気を嫌う。所構わず枝から雪解けの雫が滴り落ちてくるこの季節は紙の物を運ぶには不向きだ。密かな役目のための書物のほかは、田舎の人々から頼まれた物だけを背負ってきた。こうなると、貸し本屋なのかそれとも売るほうの立場なのか、些かわからなくなる。
 鳥越の書状も入っている。
 例によって、調べたものを暗号のようにして書物に含ませている。

「ひどいな」
 と、源治にそれを預けたときに鳥越が暗澹と言った。
 場所は日本橋浜町の戸沢藩邸内の鳥越の住まいだった。藩邸の片隅ではあるが、鳥越家はそもそも家老を出すような家格のためにその住まいは広い。自家用の庭もある。
 今の鳥越の身分は江戸の納戸奉行である。
 代々家老職を輩出する家格から言えばひどく低い役割ではあるが、それはそれで飄々とした顔で勤めている。江戸家老も留守居役も目付職も政敵の藤崎に近しい者で占められており、そのような座の一部に連なったとしても動きづらいばかりだと言っている。納戸役は、勘定方ほど密接には財政に関わる立場にはなれないが、過去からの藩の出納を洗い出すことの出来る立場である。
 江戸家老や目付などから離れた役室も、調べ物には好都合だった。

 鳥越の口から、ひどい、という嘆声を聞いたときには、江戸には既に雪は残っていなかった。
「江戸では値が上がっているのだよ。諸事……。奴らはその利ざやをどうしているのか?」
「……どうお答えすべきか、困ります」
 源治は鳥越の愚痴めいた言葉に踏み込まない。
 鳥越は多分、踏み込ませたいのだろうと思う。彼らの考えに源治の思考を沿わせたい。そう考えているのだろうと感じる。 
 しかし、身分柄というよりは仕事柄、源治は鳥越らとの間にあるその線を超えまいと思う。志など芽生えては、気負いでくたびれる。志による奇妙な気負いが生まれた場合、職掌を超えたくなるかもしれない。それは、危険なことではあるまいか。
 それに正直なところ、小さな戸沢藩領で家老が鳥越であろうが藤崎であろうが、それがさほど重要なことに思えては居ない。世間ではそれよりももっと大きな何かが変わろうとしていると思う。
 それゆえに、源治はどこか冷めていた。

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