おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第三章

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 軒先に、源治は勧められたように腰を下ろした。
 荷を降ろし、中から必要なものを取り出す。偽装しているものもある。表の題名と、中身が違う。おおむね頭に入っているが、渡す前によく確認するのは当然のことだ。

「読本ばかりだな」
「それでも、お渡しているのはまだましなほうですよ」
 偽装している書物を見た畑野の感想に源治は苦笑を返した。
 城下の町人や武家の屋敷に持っていくようなものには、もっと下劣な本が喜ばれる。そういったものを畑野が好まないだろうと言うこともあるが、畑野家の子供達のことを考えると源治はそういう下品なものを置いていく気になれないのである。
「いろは順です。その数字のところが」
 数字を羅列した一枚紙を渡した。その数字に該当する頁に、必要な物事が記されている。
「こちらからは、……」
 と畑野が文机の傍らから書物を六冊ほど持ってきた。同じように数字を記した紙を添えた。
「これはこれとして、中身を上申書としてまとめるべきときが来たような気がするな、そろそろ」
「左様ですね」
「紙と墨をもらえるとありがたい」
「承知しました」
 畑野の無心はそれだけである。もっと援助することも出来ると源治は言いたいのだが、畑野は言わない。今までも、そうだった。これからもそのつもりなのだろう。
 念のために、畑野のところに残さないものにも目を通した。余分なものがそんなところに紛れ込んでいては困る。宿で出来ることではないから、畑野と共に確認をした。
(居ないのか……?)わずかに垣間見れる家の中を、目の端で見た。
 畑野の妻の幸枝が、やつれた肩を見せながら、糸をつむいでいるのが見えた。その傍らに、十歳くらいの少女の背が見える。月子の妹だろう。奥に、誰かが寝ているらしく、さらに幼い少女が桶と手ぬぐいを持って出入りしたのがわかった。
 それでは、と立ち上がって源治は去る。

 畑野の家から元の道には戻らず、川口の宿場に出るために少し南に進んで、地蔵の祠の在る辻を曲がる道を取る。
 畑野の家から百歩と進まない頃に、可愛らしい少年達とすれ違った。薪を拾った帰りらしい。背の駕籠にアケビがいくつか入っていたのを見た。
 顔立ちを見れば、畑野に似ていると解る。月子にも似ている。彼女の弟たちだろう。
 道を避けて、頭を下げた。今の源治は貸し本屋である。みすぼらしい身なりをしている相手であっても、武家の少年に道を譲るのは当然のことだった。
 さて、と日の傾きを振り返る。八つを過ぎた頃だろうが、川口の宿まで源治の足なら二刻はかからないだろう。
 やや雲が厚くなっているのが気になってきた。
 
 六つ半に、宿に着いた。雨が来そうだと足を速めて、少し疲労を感じる。
 降り始めたのは幸いなことに旅籠に入ってからだった。
 まだ雪には早いが、帰る頃にはもしかしたら峠の上のほうは雪となるかもしれない。そんな危惧を抱く。
 前回の訪問まで源治は、この宿場では「駒屋」という妓楼まがいの所を定宿にしていた。
 今回は女を置かない旅籠に入った。
 雲が厚く、外は真っ暗だった。雨脚が強まってきている。
 雨になると川止めになる。川さえ渡れば半日とかからずに城下にたどり着く距離なのに、明日まで降り止まないとすれば足止めを食うだろう。
 扱う品が品であるために、源治は雨の日に無理はしない。油紙に包んで箱に収めているが、それでも用心に越したことはない。
 この日、頼んだ食事についてきた鮎の甘露煮が美味かった。

 雨が地面を叩く音を聴きながら、目を閉じて源治は昼間のことを思い出した。
 思いのほか平静に畑野と会うことが出来たことに安堵している。連絡すべきことを話すばかりで、そのほかの話に及ばなかったせいもあるかもしれない。目を上げ得なかったが、畑野もほとんど書物に目を向けていたから、不審には思われなかっただろう。
 居なかったな、と思う。
 月子の気配が、あの家の中に無かった。
 居ますか、と何度か喉からその言葉が出掛かったが、飲み込んだ。不在であるとも、在宅であるとも、それを聴いて、どうするつもりなのか源治自身にもよく解らない。
 夜気が、湿って重たく感じられる。

 源治が聞いている雨の音を、月子は別のところで聞いている。
(気に入られたのだ)
 という先月の印象は間違いではなかった。辻に立ってすぐの月子を、例の用人が見出してすぐに見張りの男と話をつけた。
 若い娘は良い、とその老人はまた喜んだ。特にそなたは良い、待っていた、と言った。
 頬を撫でるざらりとした老人の大きな掌の感触が、胸の奥の柔らかな襞をざらりと削り取っていくようだった。
 老人の吐く吐息が、月子の全てを生臭いものに染めていくような嫌悪を感じた。

(居ないということは……)暗い天井に向けて源治は目を見開いた。
 月子はまた城下に赴いているのか。
 吐き気のようなものが源治の胸を突き上げた。(そうとは限らない。別の用事で不在だった事もありうるはずだ)自らに言い聞かせるように、そんなことを考えた。そうであって欲しいと言う願望でもある。
 雨音が耳につく。呪わしいように、雨が上がるようにと祈った。
 払暁に、宿の下駄と傘を借りて川の様子を見に行った。雨は昨夜から強く降り続いている。明らかに増水しているのがわかる。
 白い息を吐きながら、渡し場を見た。船は出ないだろう。
 どお、という水音と、ざあ、という雨音の中に、源治は意味を成さない叫びを残して、渡し場を去った。

 船が出たのは二日後だった。
 待っていた旅人達がずらりと並ぶ中に焦燥を抱えた源治も並んだ。
 対岸に着くと、ただ無言で足を進める。城下に着いたときには昼を過ぎた。そのまま武家町を突っ切って、栄町の小さな店舗へ急いだ。これまでは、武家の屋敷の多い界隈は避けていたのだが、急ぐために、そこを通った。
「川止めに遭った……」
 荷を降ろして、絞るような声で源治は言った。
「少し、出てくる」
 本来ならば、すぐに鳥越・畑野から託されたものを持って、笹生の許へ向かうべきところである。
 だが、ほんの少し、と言い残して旅装を解いた源治は店を出た。手甲脚絆を外し、足元の草鞋を脱ぐ。平服で、紺の木綿の袷に木綿の羽織、草履をつっかければそこら辺の町衆と変わらない目立たない姿になる。
 到着してから店を出るまで水の一杯も飲まなかったために喉がひりつくようだ。
 半ば走るように、港町へ向かった。

(……どうする?)
 もしそこに月子が居たとして、そして源治はどうするつもりなのだろう。自問しつつ、答えが出ない。ただとにかく、月子が居るのかどうか確かめたかった。
 居ないならそのほうがもちろん良い。
(居たら、どうするんだ)
 答えは、まだ出てこない。

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