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第三章
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半月ほど。
源治は、江戸で貸し本屋の商いを続けている。
無役の旗本や御家人の多い界隈では退屈しのぎに重宝される。諸藩の屋敷などを訪れても、書を読むことを楽しみにしている軽輩の士は多いものだ。彼らには特段に高尚なものを求められては居ない。面白そうな読本を見つけて仕入れて、持って行く。
そういったところで稼ぐ。自分が面白そうだと思った書物を買い、それを貸し出す。
思い切って同じものを複数冊仕入れて、それでも引っ張りだこになるようなことになると、自分の書を見る目に自信が持てる。どこか、この商売の面白味を感じないではない。
その身の真実は、井川と姓を名乗り、戸沢藩江戸定府八十石、という身分を持つ。直属の上司に当たる鳥越からは密かに、また律儀にも禄を支給されてもいる。支給されているといっても、他の藩士たちと同じように半知借上げとして藩に取り上げられている上に無役扱いであるために、文字上の禄高のせいぜい三分の一程度のものではあった。
それでも、暮らしぶりにはゆとりがある。商いの収入もあり、養うべき家族は居ない。
源治は町中の裏長屋に一人暮らしである。
数年前に妻には逃げられた。
一月置きに遠出をし、年の半分も留守にする源治を見限って、妻だった女は男と逃げた。仕方がないとあきらめて、次に江戸を発つときに三行半の離縁状を書いて長屋の差配のおやじに預けた。
すると、帰ってきたときに、かつての妻が嬉々としてその書状を受け取って立ち去ったと聴いた。
その女からは源治に対して特に伝言も無かったという話だった。
そんな話を聴いて未練も無くなった。
夫婦になるときにはそれなりの想いが互いに通じていた気がするのだが、それはどこへ去ってしまったか。残っているのは虚しさだけだった。
以来、身軽な身であった。
藩邸を訪れた源治に、鳥越の家人が声をかけて主の言葉を伝えてきた。
夜に、料亭で会うことになった。
目立つことをするな、という叱責であった。
「とんだ金を使ったと聞いた」
「それは」
国許に派遣されている鳥越の手の者が、そのことを報告してきた。
源治は鳥越と、国許にいる中老の笹生、そして今は山奥に押し込められながら資料をまとめる作業に従事している畑野との間の文の使いが主な役目である。怪しまれずに使いを果たすために余計な動きはするなと厳命されてもいる。文の使い以外の、敵方の探索などをする役目の者達は他にいる。
月子のことだった。
先般、源治が国許に赴いたときに、身なりに不似合いな五両もの大金を払って、辻に立つ娘を買った姿を、その手の者が見ていたようだ。
申し訳ない、と座を下がって源治は鳥越に頭を下げる。
冷や汗が脇に湧いた。その使いの者は、源治が買ったという相手を知っただろうか。畑野の娘である月子だと、解ったのだろうか。
自分のことはいい。もし源治が買った相手が月子と知れたら彼女の傷になる。それが危惧される。
「その娘があまりに哀れに思いましたゆえに、つい……」
少しの非難をこめて、言った。
(何のために月子がそんな窮状に至ったのか)
それを思うと、物柔らかな大度(たいど)を見せる鳥越に対してさえ、憤りを感じる。
国の政治を己の私利のために壟断する藤崎を追うために、鳥越を中心とした人々が運動をしているのはわかる。鳥越の考え方は、藤崎のように、一手に力を握って富を集中させようとしている体制ではないことも、これまでに語られてきたことで、解ってはいる。鳥越の言うように社会がなれば、恐らく苦しむ者は今よりも減るだろう。
しかし、その理想を実現するための奔走の傍らで、その動きを支えるために苦しんでいる人々がいるのではないか。まさに月子がそれではないだろうか。源治はそう思うのだ。
大義、親を滅す、というが、滅される親族は、それでいいのか。
「気をつけるように」
「以後、慎みます」
それで、と、また次に源治が国許のほうに向かう予定の話となった。
この数年でずいぶんと脚が達者になった。
役目のための偽装の書物と、実際に商うべき書物と、庄屋などに購入の代行を頼まれた書物と、多くの物を背負っている。紙というのは荷としては密度があり存外に重たい。それを担って歩くことが、初めは苦労だった。
天候にもよるが、今となっては、江戸と戸沢城下を行き来する日数もずいぶん減ったのではあるまいか。
峠ではないがなだらかな登りを経て、少し振り返る。高台から歩いてきた道を眺めるのは好きだ。
好天に恵まれたときにはその景色が非常に心地よい。
おおよそ一月ぶりの旅になる。(先月は……)思い出す。みぞおちの辺りの着物を掴んだ。疼くような記憶がある。
月子は、今度はいつ、城下に出るのだろう。
それを、まるで期待のように考えたことを、源治は恥じた。だが、もし、そういうことになるのなら。(一夜でも、二夜でも、)月子を買いきろうと思った。そうすれば他の者に汚されずに済む。己ならば許されると思っているわけではない。
歩を進めながら、源治は戒めるように考える。(違う……。違う)欲望ではない。そう思いたい。
だが果たしてそうだろうか。
戸沢領に入った領境付近の大庄屋に頼まれていた書物を置いていった。賀茂真淵、平田篤胤とは源治も小耳には挟んだことのある名であるが、その人物たちの著作物を出来る限り集めて欲しいとその庄屋に依頼された。金子(きんす)は掛かっただけ払うと言って、手付けに三両を預かっていた。
それを八冊、置いた。
「往来の費用にもなりましょう」
と、庄屋は七両も寄越した。かかった費えは全部で七両だった。三両ほど余分である。それほどは要らないと一度は断った。
だが、ふと思い返して、手元の金子を見た。これを渡したい相手がいる。
「どうぞ。英気を養うためにもお使いなさい。精のつく物でも召し上がると良い」
「では、ありがたく」
遠慮を捨てた源治の眼差しを、庄屋は卑しいものには取らなかった。懐にその金を納めた源治がいっそ清々しい顔になっているのを、微笑んで見ていた。
街道に戻って東に向かえば城下に行く。
方角としては、その庄屋の村から南西へと足を向ける。やや戻るようだが、山に向かって途中で北へ向かう。地蔵の居る辻を右へ進むと川口の宿に出るが、反対側に行く。
畑野家のある山深い土地がその方角に在る。
江戸から城下に向かう前に立ち寄ることにしている。鳥越から預かった物を置いていく。そして畑野から預かるものを、城下に居る中老の笹生に託し、また笹生から受け取ったものを畑野に渡し、畑野から鳥越への使いを預かる。
畑野に会わねばならない。
源治は暗澹となる。
彼の大切な娘の月子の純潔を、源治は金で汚した。月子がそれを父親に告げない限りは知られないことではあるだろう。
しかし、源治は自らの為した事を知っている。憶えている。どういう顔をして会えば良いのだろう。居たたまれない感情が湧く。
(月子……)思い出した。
陶然となるような、甘い心地を振り捨てた。再びは無い。それは肝に銘じるべきだ。この道中の幾度目か、繰り返して源治は己の廉恥を逸脱するまいと胸のうちで戦った。
源治は、江戸で貸し本屋の商いを続けている。
無役の旗本や御家人の多い界隈では退屈しのぎに重宝される。諸藩の屋敷などを訪れても、書を読むことを楽しみにしている軽輩の士は多いものだ。彼らには特段に高尚なものを求められては居ない。面白そうな読本を見つけて仕入れて、持って行く。
そういったところで稼ぐ。自分が面白そうだと思った書物を買い、それを貸し出す。
思い切って同じものを複数冊仕入れて、それでも引っ張りだこになるようなことになると、自分の書を見る目に自信が持てる。どこか、この商売の面白味を感じないではない。
その身の真実は、井川と姓を名乗り、戸沢藩江戸定府八十石、という身分を持つ。直属の上司に当たる鳥越からは密かに、また律儀にも禄を支給されてもいる。支給されているといっても、他の藩士たちと同じように半知借上げとして藩に取り上げられている上に無役扱いであるために、文字上の禄高のせいぜい三分の一程度のものではあった。
それでも、暮らしぶりにはゆとりがある。商いの収入もあり、養うべき家族は居ない。
源治は町中の裏長屋に一人暮らしである。
数年前に妻には逃げられた。
一月置きに遠出をし、年の半分も留守にする源治を見限って、妻だった女は男と逃げた。仕方がないとあきらめて、次に江戸を発つときに三行半の離縁状を書いて長屋の差配のおやじに預けた。
すると、帰ってきたときに、かつての妻が嬉々としてその書状を受け取って立ち去ったと聴いた。
その女からは源治に対して特に伝言も無かったという話だった。
そんな話を聴いて未練も無くなった。
夫婦になるときにはそれなりの想いが互いに通じていた気がするのだが、それはどこへ去ってしまったか。残っているのは虚しさだけだった。
以来、身軽な身であった。
藩邸を訪れた源治に、鳥越の家人が声をかけて主の言葉を伝えてきた。
夜に、料亭で会うことになった。
目立つことをするな、という叱責であった。
「とんだ金を使ったと聞いた」
「それは」
国許に派遣されている鳥越の手の者が、そのことを報告してきた。
源治は鳥越と、国許にいる中老の笹生、そして今は山奥に押し込められながら資料をまとめる作業に従事している畑野との間の文の使いが主な役目である。怪しまれずに使いを果たすために余計な動きはするなと厳命されてもいる。文の使い以外の、敵方の探索などをする役目の者達は他にいる。
月子のことだった。
先般、源治が国許に赴いたときに、身なりに不似合いな五両もの大金を払って、辻に立つ娘を買った姿を、その手の者が見ていたようだ。
申し訳ない、と座を下がって源治は鳥越に頭を下げる。
冷や汗が脇に湧いた。その使いの者は、源治が買ったという相手を知っただろうか。畑野の娘である月子だと、解ったのだろうか。
自分のことはいい。もし源治が買った相手が月子と知れたら彼女の傷になる。それが危惧される。
「その娘があまりに哀れに思いましたゆえに、つい……」
少しの非難をこめて、言った。
(何のために月子がそんな窮状に至ったのか)
それを思うと、物柔らかな大度(たいど)を見せる鳥越に対してさえ、憤りを感じる。
国の政治を己の私利のために壟断する藤崎を追うために、鳥越を中心とした人々が運動をしているのはわかる。鳥越の考え方は、藤崎のように、一手に力を握って富を集中させようとしている体制ではないことも、これまでに語られてきたことで、解ってはいる。鳥越の言うように社会がなれば、恐らく苦しむ者は今よりも減るだろう。
しかし、その理想を実現するための奔走の傍らで、その動きを支えるために苦しんでいる人々がいるのではないか。まさに月子がそれではないだろうか。源治はそう思うのだ。
大義、親を滅す、というが、滅される親族は、それでいいのか。
「気をつけるように」
「以後、慎みます」
それで、と、また次に源治が国許のほうに向かう予定の話となった。
この数年でずいぶんと脚が達者になった。
役目のための偽装の書物と、実際に商うべき書物と、庄屋などに購入の代行を頼まれた書物と、多くの物を背負っている。紙というのは荷としては密度があり存外に重たい。それを担って歩くことが、初めは苦労だった。
天候にもよるが、今となっては、江戸と戸沢城下を行き来する日数もずいぶん減ったのではあるまいか。
峠ではないがなだらかな登りを経て、少し振り返る。高台から歩いてきた道を眺めるのは好きだ。
好天に恵まれたときにはその景色が非常に心地よい。
おおよそ一月ぶりの旅になる。(先月は……)思い出す。みぞおちの辺りの着物を掴んだ。疼くような記憶がある。
月子は、今度はいつ、城下に出るのだろう。
それを、まるで期待のように考えたことを、源治は恥じた。だが、もし、そういうことになるのなら。(一夜でも、二夜でも、)月子を買いきろうと思った。そうすれば他の者に汚されずに済む。己ならば許されると思っているわけではない。
歩を進めながら、源治は戒めるように考える。(違う……。違う)欲望ではない。そう思いたい。
だが果たしてそうだろうか。
戸沢領に入った領境付近の大庄屋に頼まれていた書物を置いていった。賀茂真淵、平田篤胤とは源治も小耳には挟んだことのある名であるが、その人物たちの著作物を出来る限り集めて欲しいとその庄屋に依頼された。金子(きんす)は掛かっただけ払うと言って、手付けに三両を預かっていた。
それを八冊、置いた。
「往来の費用にもなりましょう」
と、庄屋は七両も寄越した。かかった費えは全部で七両だった。三両ほど余分である。それほどは要らないと一度は断った。
だが、ふと思い返して、手元の金子を見た。これを渡したい相手がいる。
「どうぞ。英気を養うためにもお使いなさい。精のつく物でも召し上がると良い」
「では、ありがたく」
遠慮を捨てた源治の眼差しを、庄屋は卑しいものには取らなかった。懐にその金を納めた源治がいっそ清々しい顔になっているのを、微笑んで見ていた。
街道に戻って東に向かえば城下に行く。
方角としては、その庄屋の村から南西へと足を向ける。やや戻るようだが、山に向かって途中で北へ向かう。地蔵の居る辻を右へ進むと川口の宿に出るが、反対側に行く。
畑野家のある山深い土地がその方角に在る。
江戸から城下に向かう前に立ち寄ることにしている。鳥越から預かった物を置いていく。そして畑野から預かるものを、城下に居る中老の笹生に託し、また笹生から受け取ったものを畑野に渡し、畑野から鳥越への使いを預かる。
畑野に会わねばならない。
源治は暗澹となる。
彼の大切な娘の月子の純潔を、源治は金で汚した。月子がそれを父親に告げない限りは知られないことではあるだろう。
しかし、源治は自らの為した事を知っている。憶えている。どういう顔をして会えば良いのだろう。居たたまれない感情が湧く。
(月子……)思い出した。
陶然となるような、甘い心地を振り捨てた。再びは無い。それは肝に銘じるべきだ。この道中の幾度目か、繰り返して源治は己の廉恥を逸脱するまいと胸のうちで戦った。
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