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第二章
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はっ、と息を呑んで月子が源治を見上げた。
朧月の光に、彼の引き締まった横顔が黒く陰になって月子の目に落ちた。
「今、そちらのご用人さんは三両でお屋敷の旦那が買うと」
源治は月子の手を離し、懐の財布をつかみ出した。紐を解き、無造作にその中に手を入れて、小判と二分の金をいくつか出して顎をしゃくった。
「五両出す。あっちを断って来い」
「お、」
存外な金額が、さほどの身なりでもない若い源治の懐から出てきたことに驚いたようだった。
一度、月子に値をつけたという武家のほうに向かった男が、ニヤニヤと源治を振り返った。
家に帰れ、と源治は月子に言った。
痛みを覚えたように眉を寄せている。帰れ、と言った口調は鋭く、どこか怒っているかのようだった。
「このような施しを受ける謂れはありません」
月子は首を横に振る。
源治が月子をあの場から救おうとしてくれたのは解る。解って、嬉しかった。
だからこそ。
暗い路地で、半間ほどを隔てて源治と向かい合いながら、月子は首を横に振る。
「ちゃんと、買ってください」
それは意地で発した言葉ではない。声がわずかだが震えを帯びた。
「何を、馬鹿なことを! 何を言ってるか解ってるんですか?」
「解っています」
「解ってない!」
叱りつける口調だった。
溜息をついた後、源治は少し昂ぶりを鎮めた声で言う。
「なら、こう言いましょうか。貴方を買った。だから貴方の身柄は俺の自由なはずだ。言うとおりにしてください。このまま、家に、帰るんです。」
ゆっくり、そしてはっきりした口跡で源治は月子に言い聞かせる。
それでも、唇を引き結んだ月子は首を横に振った。途方にくれたような顔で、源治はふと月を仰いだ。月子とは、こんなに聞き分けのない娘だったのかと、あきれているかのようだった。
「私が、おいやですか」
「え?」
源治の心の臓を撥で叩いたような、月子の言葉である。
胸が、高鳴るのを感じる。
小柄な月子が、唇をかみ締めたような顔で、源治を見上げていた。濡れたような黒目がちの瞳が、じっと、源治に据えられている。眦(まなじり)に少し鋭さのある凛と整った顔立ちは、いつの間にか女性の域に指先が届いている。美しいと感じた。
それでも。源治は胸に萌した昂揚を否定する。その身に触れて良い相手ではない。
「嫌ですか」
「嫌なわけがない」
重ねて問われて、反射的に答えた。言って、後悔する。
「さあ、馬鹿なことは言わないで下さい」
口から出た言葉が、弱い。
源治の腹の底で、不意に生じた欲情が育つ。脳裏で、それを抑える。しかし、生じたその熱が埋み火のように、源治の身体の芯の温度を上げ始めた。
月子を初めて見たのは、三年前か四年前であっただろうか。
最初に声を掛けたときに彼女は、弟と共に薪を割っていた。振り返ったその面差が整っていて、大きな瞳が可愛らしい女児だと思った。その眼差しは清冽で、輪郭と鼻筋は華奢だが唇が少し豊かで形良く、どこか艶やかで、目を惹かれた。
これまでに所用で彼女の父のところに通いながら何度か会った。言葉も交わした。年を追うごとに、美しくなるのも見て知っていた。
ほんの時々見かける顔見知りの美しい少女。源治にとって月子とは、ただそれだけの存在だった。
一回り以上も歳の離れた幼い小娘だと思っていた。
しかし数えてみれば月子は十六歳か、そのくらいにはなるだろう。早いものなら嫁に行く年頃だ。
……女となる、年齢であろうか。
私が嫌か。
女を、ひどく生々しく感じさせる言葉で、月子は源治に問うた。
嫌なわけがない。嫌なものか。
だが、そんな真似が出来るはずがない、と源治は首を横に振った。
そんな真似と卑下しながらも、何か理由を探り出そうとする自分が居る。それを是とする理由が、どこかにないだろうかと頭の奥を浅ましく覗き込む源治が胸の澱みの中にいる。
何かを、期待し始めた己の胸を、源治は沈黙の中で戒めた。悟られてはならない。悟られたくはない。月子に蔑まれるのは、嫌だった。
お願いです、と月子は、戸惑った表情のままの源治を見上げながら喘ぐように言った。
「今日このまま家に帰っても、またいずれこうして町に出る日が必ず来ます。だから、もしそうなるなら、もし……」
顔に血がのぼせるのを感じた。恥ずかしいことを言おうとしている。胸の奥が、痛む。
それでも月子は源治に言いたかった。みっともないと思われても、それでも。
「もし、いずれ誰かに、身体をそうされるなら、……初めては、貴方が良い」
瞬時、沈黙がよぎった。
源治は瞠目した。言葉は出ない。ただ、凝然と月子を見下ろした。
自分を見つめる源治の目の光が、にわかに強くなるのを、月子は痛いように感じた。
「お願いです……」
「もう、いい」
「……」
「もう何も言わなくて、良い」
源治は唇を結んで、月子の手を取った。
朧月の光に、彼の引き締まった横顔が黒く陰になって月子の目に落ちた。
「今、そちらのご用人さんは三両でお屋敷の旦那が買うと」
源治は月子の手を離し、懐の財布をつかみ出した。紐を解き、無造作にその中に手を入れて、小判と二分の金をいくつか出して顎をしゃくった。
「五両出す。あっちを断って来い」
「お、」
存外な金額が、さほどの身なりでもない若い源治の懐から出てきたことに驚いたようだった。
一度、月子に値をつけたという武家のほうに向かった男が、ニヤニヤと源治を振り返った。
家に帰れ、と源治は月子に言った。
痛みを覚えたように眉を寄せている。帰れ、と言った口調は鋭く、どこか怒っているかのようだった。
「このような施しを受ける謂れはありません」
月子は首を横に振る。
源治が月子をあの場から救おうとしてくれたのは解る。解って、嬉しかった。
だからこそ。
暗い路地で、半間ほどを隔てて源治と向かい合いながら、月子は首を横に振る。
「ちゃんと、買ってください」
それは意地で発した言葉ではない。声がわずかだが震えを帯びた。
「何を、馬鹿なことを! 何を言ってるか解ってるんですか?」
「解っています」
「解ってない!」
叱りつける口調だった。
溜息をついた後、源治は少し昂ぶりを鎮めた声で言う。
「なら、こう言いましょうか。貴方を買った。だから貴方の身柄は俺の自由なはずだ。言うとおりにしてください。このまま、家に、帰るんです。」
ゆっくり、そしてはっきりした口跡で源治は月子に言い聞かせる。
それでも、唇を引き結んだ月子は首を横に振った。途方にくれたような顔で、源治はふと月を仰いだ。月子とは、こんなに聞き分けのない娘だったのかと、あきれているかのようだった。
「私が、おいやですか」
「え?」
源治の心の臓を撥で叩いたような、月子の言葉である。
胸が、高鳴るのを感じる。
小柄な月子が、唇をかみ締めたような顔で、源治を見上げていた。濡れたような黒目がちの瞳が、じっと、源治に据えられている。眦(まなじり)に少し鋭さのある凛と整った顔立ちは、いつの間にか女性の域に指先が届いている。美しいと感じた。
それでも。源治は胸に萌した昂揚を否定する。その身に触れて良い相手ではない。
「嫌ですか」
「嫌なわけがない」
重ねて問われて、反射的に答えた。言って、後悔する。
「さあ、馬鹿なことは言わないで下さい」
口から出た言葉が、弱い。
源治の腹の底で、不意に生じた欲情が育つ。脳裏で、それを抑える。しかし、生じたその熱が埋み火のように、源治の身体の芯の温度を上げ始めた。
月子を初めて見たのは、三年前か四年前であっただろうか。
最初に声を掛けたときに彼女は、弟と共に薪を割っていた。振り返ったその面差が整っていて、大きな瞳が可愛らしい女児だと思った。その眼差しは清冽で、輪郭と鼻筋は華奢だが唇が少し豊かで形良く、どこか艶やかで、目を惹かれた。
これまでに所用で彼女の父のところに通いながら何度か会った。言葉も交わした。年を追うごとに、美しくなるのも見て知っていた。
ほんの時々見かける顔見知りの美しい少女。源治にとって月子とは、ただそれだけの存在だった。
一回り以上も歳の離れた幼い小娘だと思っていた。
しかし数えてみれば月子は十六歳か、そのくらいにはなるだろう。早いものなら嫁に行く年頃だ。
……女となる、年齢であろうか。
私が嫌か。
女を、ひどく生々しく感じさせる言葉で、月子は源治に問うた。
嫌なわけがない。嫌なものか。
だが、そんな真似が出来るはずがない、と源治は首を横に振った。
そんな真似と卑下しながらも、何か理由を探り出そうとする自分が居る。それを是とする理由が、どこかにないだろうかと頭の奥を浅ましく覗き込む源治が胸の澱みの中にいる。
何かを、期待し始めた己の胸を、源治は沈黙の中で戒めた。悟られてはならない。悟られたくはない。月子に蔑まれるのは、嫌だった。
お願いです、と月子は、戸惑った表情のままの源治を見上げながら喘ぐように言った。
「今日このまま家に帰っても、またいずれこうして町に出る日が必ず来ます。だから、もしそうなるなら、もし……」
顔に血がのぼせるのを感じた。恥ずかしいことを言おうとしている。胸の奥が、痛む。
それでも月子は源治に言いたかった。みっともないと思われても、それでも。
「もし、いずれ誰かに、身体をそうされるなら、……初めては、貴方が良い」
瞬時、沈黙がよぎった。
源治は瞠目した。言葉は出ない。ただ、凝然と月子を見下ろした。
自分を見つめる源治の目の光が、にわかに強くなるのを、月子は痛いように感じた。
「お願いです……」
「もう、いい」
「……」
「もう何も言わなくて、良い」
源治は唇を結んで、月子の手を取った。
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