9 / 42
第二章
3
しおりを挟む
はっ、と息を呑んで月子が源治を見上げた。
朧月の光に、彼の引き締まった横顔が黒く陰になって月子の目に落ちた。
「今、そちらのご用人さんは三両でお屋敷の旦那が買うと」
源治は月子の手を離し、懐の財布をつかみ出した。紐を解き、無造作にその中に手を入れて、小判と二分の金をいくつか出して顎をしゃくった。
「五両出す。あっちを断って来い」
「お、」
存外な金額が、さほどの身なりでもない若い源治の懐から出てきたことに驚いたようだった。
一度、月子に値をつけたという武家のほうに向かった男が、ニヤニヤと源治を振り返った。
家に帰れ、と源治は月子に言った。
痛みを覚えたように眉を寄せている。帰れ、と言った口調は鋭く、どこか怒っているかのようだった。
「このような施しを受ける謂れはありません」
月子は首を横に振る。
源治が月子をあの場から救おうとしてくれたのは解る。解って、嬉しかった。
だからこそ。
暗い路地で、半間ほどを隔てて源治と向かい合いながら、月子は首を横に振る。
「ちゃんと、買ってください」
それは意地で発した言葉ではない。声がわずかだが震えを帯びた。
「何を、馬鹿なことを! 何を言ってるか解ってるんですか?」
「解っています」
「解ってない!」
叱りつける口調だった。
溜息をついた後、源治は少し昂ぶりを鎮めた声で言う。
「なら、こう言いましょうか。貴方を買った。だから貴方の身柄は俺の自由なはずだ。言うとおりにしてください。このまま、家に、帰るんです。」
ゆっくり、そしてはっきりした口跡で源治は月子に言い聞かせる。
それでも、唇を引き結んだ月子は首を横に振った。途方にくれたような顔で、源治はふと月を仰いだ。月子とは、こんなに聞き分けのない娘だったのかと、あきれているかのようだった。
「私が、おいやですか」
「え?」
源治の心の臓を撥で叩いたような、月子の言葉である。
胸が、高鳴るのを感じる。
小柄な月子が、唇をかみ締めたような顔で、源治を見上げていた。濡れたような黒目がちの瞳が、じっと、源治に据えられている。眦(まなじり)に少し鋭さのある凛と整った顔立ちは、いつの間にか女性の域に指先が届いている。美しいと感じた。
それでも。源治は胸に萌した昂揚を否定する。その身に触れて良い相手ではない。
「嫌ですか」
「嫌なわけがない」
重ねて問われて、反射的に答えた。言って、後悔する。
「さあ、馬鹿なことは言わないで下さい」
口から出た言葉が、弱い。
源治の腹の底で、不意に生じた欲情が育つ。脳裏で、それを抑える。しかし、生じたその熱が埋み火のように、源治の身体の芯の温度を上げ始めた。
月子を初めて見たのは、三年前か四年前であっただろうか。
最初に声を掛けたときに彼女は、弟と共に薪を割っていた。振り返ったその面差が整っていて、大きな瞳が可愛らしい女児だと思った。その眼差しは清冽で、輪郭と鼻筋は華奢だが唇が少し豊かで形良く、どこか艶やかで、目を惹かれた。
これまでに所用で彼女の父のところに通いながら何度か会った。言葉も交わした。年を追うごとに、美しくなるのも見て知っていた。
ほんの時々見かける顔見知りの美しい少女。源治にとって月子とは、ただそれだけの存在だった。
一回り以上も歳の離れた幼い小娘だと思っていた。
しかし数えてみれば月子は十六歳か、そのくらいにはなるだろう。早いものなら嫁に行く年頃だ。
……女となる、年齢であろうか。
私が嫌か。
女を、ひどく生々しく感じさせる言葉で、月子は源治に問うた。
嫌なわけがない。嫌なものか。
だが、そんな真似が出来るはずがない、と源治は首を横に振った。
そんな真似と卑下しながらも、何か理由を探り出そうとする自分が居る。それを是とする理由が、どこかにないだろうかと頭の奥を浅ましく覗き込む源治が胸の澱みの中にいる。
何かを、期待し始めた己の胸を、源治は沈黙の中で戒めた。悟られてはならない。悟られたくはない。月子に蔑まれるのは、嫌だった。
お願いです、と月子は、戸惑った表情のままの源治を見上げながら喘ぐように言った。
「今日このまま家に帰っても、またいずれこうして町に出る日が必ず来ます。だから、もしそうなるなら、もし……」
顔に血がのぼせるのを感じた。恥ずかしいことを言おうとしている。胸の奥が、痛む。
それでも月子は源治に言いたかった。みっともないと思われても、それでも。
「もし、いずれ誰かに、身体をそうされるなら、……初めては、貴方が良い」
瞬時、沈黙がよぎった。
源治は瞠目した。言葉は出ない。ただ、凝然と月子を見下ろした。
自分を見つめる源治の目の光が、にわかに強くなるのを、月子は痛いように感じた。
「お願いです……」
「もう、いい」
「……」
「もう何も言わなくて、良い」
源治は唇を結んで、月子の手を取った。
朧月の光に、彼の引き締まった横顔が黒く陰になって月子の目に落ちた。
「今、そちらのご用人さんは三両でお屋敷の旦那が買うと」
源治は月子の手を離し、懐の財布をつかみ出した。紐を解き、無造作にその中に手を入れて、小判と二分の金をいくつか出して顎をしゃくった。
「五両出す。あっちを断って来い」
「お、」
存外な金額が、さほどの身なりでもない若い源治の懐から出てきたことに驚いたようだった。
一度、月子に値をつけたという武家のほうに向かった男が、ニヤニヤと源治を振り返った。
家に帰れ、と源治は月子に言った。
痛みを覚えたように眉を寄せている。帰れ、と言った口調は鋭く、どこか怒っているかのようだった。
「このような施しを受ける謂れはありません」
月子は首を横に振る。
源治が月子をあの場から救おうとしてくれたのは解る。解って、嬉しかった。
だからこそ。
暗い路地で、半間ほどを隔てて源治と向かい合いながら、月子は首を横に振る。
「ちゃんと、買ってください」
それは意地で発した言葉ではない。声がわずかだが震えを帯びた。
「何を、馬鹿なことを! 何を言ってるか解ってるんですか?」
「解っています」
「解ってない!」
叱りつける口調だった。
溜息をついた後、源治は少し昂ぶりを鎮めた声で言う。
「なら、こう言いましょうか。貴方を買った。だから貴方の身柄は俺の自由なはずだ。言うとおりにしてください。このまま、家に、帰るんです。」
ゆっくり、そしてはっきりした口跡で源治は月子に言い聞かせる。
それでも、唇を引き結んだ月子は首を横に振った。途方にくれたような顔で、源治はふと月を仰いだ。月子とは、こんなに聞き分けのない娘だったのかと、あきれているかのようだった。
「私が、おいやですか」
「え?」
源治の心の臓を撥で叩いたような、月子の言葉である。
胸が、高鳴るのを感じる。
小柄な月子が、唇をかみ締めたような顔で、源治を見上げていた。濡れたような黒目がちの瞳が、じっと、源治に据えられている。眦(まなじり)に少し鋭さのある凛と整った顔立ちは、いつの間にか女性の域に指先が届いている。美しいと感じた。
それでも。源治は胸に萌した昂揚を否定する。その身に触れて良い相手ではない。
「嫌ですか」
「嫌なわけがない」
重ねて問われて、反射的に答えた。言って、後悔する。
「さあ、馬鹿なことは言わないで下さい」
口から出た言葉が、弱い。
源治の腹の底で、不意に生じた欲情が育つ。脳裏で、それを抑える。しかし、生じたその熱が埋み火のように、源治の身体の芯の温度を上げ始めた。
月子を初めて見たのは、三年前か四年前であっただろうか。
最初に声を掛けたときに彼女は、弟と共に薪を割っていた。振り返ったその面差が整っていて、大きな瞳が可愛らしい女児だと思った。その眼差しは清冽で、輪郭と鼻筋は華奢だが唇が少し豊かで形良く、どこか艶やかで、目を惹かれた。
これまでに所用で彼女の父のところに通いながら何度か会った。言葉も交わした。年を追うごとに、美しくなるのも見て知っていた。
ほんの時々見かける顔見知りの美しい少女。源治にとって月子とは、ただそれだけの存在だった。
一回り以上も歳の離れた幼い小娘だと思っていた。
しかし数えてみれば月子は十六歳か、そのくらいにはなるだろう。早いものなら嫁に行く年頃だ。
……女となる、年齢であろうか。
私が嫌か。
女を、ひどく生々しく感じさせる言葉で、月子は源治に問うた。
嫌なわけがない。嫌なものか。
だが、そんな真似が出来るはずがない、と源治は首を横に振った。
そんな真似と卑下しながらも、何か理由を探り出そうとする自分が居る。それを是とする理由が、どこかにないだろうかと頭の奥を浅ましく覗き込む源治が胸の澱みの中にいる。
何かを、期待し始めた己の胸を、源治は沈黙の中で戒めた。悟られてはならない。悟られたくはない。月子に蔑まれるのは、嫌だった。
お願いです、と月子は、戸惑った表情のままの源治を見上げながら喘ぐように言った。
「今日このまま家に帰っても、またいずれこうして町に出る日が必ず来ます。だから、もしそうなるなら、もし……」
顔に血がのぼせるのを感じた。恥ずかしいことを言おうとしている。胸の奥が、痛む。
それでも月子は源治に言いたかった。みっともないと思われても、それでも。
「もし、いずれ誰かに、身体をそうされるなら、……初めては、貴方が良い」
瞬時、沈黙がよぎった。
源治は瞠目した。言葉は出ない。ただ、凝然と月子を見下ろした。
自分を見つめる源治の目の光が、にわかに強くなるのを、月子は痛いように感じた。
「お願いです……」
「もう、いい」
「……」
「もう何も言わなくて、良い」
源治は唇を結んで、月子の手を取った。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー
長髄彦ファン
歴史・時代
日向の皇子・磐余彦(のちの神武天皇)は、出雲王の長髄彦からもらった弓矢を武器に人喰い熊の黒鬼を倒す。磐余彦は三人の兄と仲間とともに東の国ヤマトを目指して出航するが、上陸した河内で待ち構えていたのは、ヤマトの将軍となった長髄彦だった。激しい戦闘の末に長兄を喪い、熊野灘では嵐に遭遇して二人の兄も喪う。その後数々の苦難を乗り越え、ヤマト進撃を目前にした磐余彦は長髄彦と対面するが――。
『日本書紀』&『古事記』をベースにして日本の建国物語を紡ぎました。
※この作品はNOVEL DAYSとnoteでバージョン違いを公開しています。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる