おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第二章

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 一両。それが利息だけだというのか。
 とっさに換算することは出来なかったが、それは、月々の全ての収入よりも多いのではあるまいか。そんな感触を持った。それが利息だけだとすれば、実際にはどれほど返済しなければならないのか。

「そなたの母も寝込んでいると聞いた。われわれも思いもよらぬことだが、皆が作っている糸の値もひどく下がっている。飲まず食わずであれば何とかなるのかもしれないが、そうはして居らぬだろうし、今もまだそなたの母は医薬が要るだろう」
 男は腕を組んで胸を反らすようにして月子を見下ろしている。
「こんなことを言いたくはないが、そなたの父は実際に返す気があるのかどうか。」
 月子は袂を強く握り締めた。爪が痛くなるほどの力で握る。

 身体が震えるような屈辱を覚えている。
 父は、立派な人物だと月子は信じている。しかしその父にも今の状況はいかんともしがたいものだろう。それを月子は目の当たりにしている。
 そのくせ代官の一族は、この男を見たとおり、脂ぎるほどに食を得ている。
 悪いのは、誰だ。
 月子はそのこともわかる。目の前の男を含む代官の一族が、周囲を飢えさせながら、不当に搾取しているとしか思えない。
 その一族のこの男は、それを恥ずかしげもなく誇り、借財を負わざるを得ない状況に周囲を陥れておきながら、それを返さぬことを謗っている。
 謗ることに、この男は正義めいた顔を見せている。
 その偽の正義に月子は憤りを覚えた。しかし、善悪はともかく、借りたものを返さないことは、約定を破ることである。約定を破るのは正しいかといえば、非である。その小さな非を謗られたことで屈辱を感じた。
「しかし、その苦境を救う手立てがあるのだよ。そなたにできることだ」
ふふ、と男は笑った。声の響きが卑しい。
「講、ということを聞いたことはないか?」

 身一つで良いと聞いた。
 しかし、それでも月子はどうしても、肌着だけは持って行きたいと思い、それを包んだ。
「姉さま?」
「逸さん、お願いね」
 出かける、とその昼に告げた。
「佐伯の、美知江様と一緒です。たぶん……。いろいろあるようだから」
 妹の逸の目を見ずに、月子は唇を動かした。
「講というのが、あって、何かいただけるそうなの」
 年頃になったから声をかけられたのだと告げ、三日か四日ほど某所で何かの作業をすることになり不在となるが、後を頼むと逸にだけ言い置いて、月子は頭巾のようなものを被った。
 母の幸枝が眠っていて、父が代官所に勤務している留守のうちに、ひっそりと家を出た。

 なんていうことを、と佐伯家の若い嫁である美知江が、月子を見て怖い顔で言った。
「帰りなさい、月子さん!」
 名目上の講の開催場所であるとされている、代官所のはずれの座敷に入ろうとした月子の腕を、背後から美知江が掴んで引いた。
「お願いだから!」
 帰れ、来るな、と美知江は何度も月子に言った。
「でも、仕方がないんです。もうどうにも」
 講とは実際にどういう意味であるか知りながら来たという月子を、涙ながらに止めようとする美知江の気持ちがありがたかった。
 しかし、もう来るところまで来ているのだと月子は思っている。
 あの男は言った。
 医薬の代金が不足して、これからは薬を出せないと医師が言っている、と。
「せめてそれだけは何とか」
月子は頭を下げてそのための方策を男に尋ねた。答えが、講に来いということだった。

 あの日。
 考えさせてほしいと断り、帰宅した月子は、愕然とした。
 咳き込む太三郎の背を、奈那子が泣きじゃくりながらさすっていた。母も起きていて、呆然と太三郎の傍らで彼の肩を抱いていた。
「姉さま、姉さま!兄さまが」
 奈那子の袖が赤く濡れていて、その血がどこから来たものかと見れば、太三郎が吐いたのだと知った。
 月子は身を翻して家を出て、男の後を追った。
「講に、行く。」
 彼に追いすがって、哀願するように言った。だから、と続けた。
「お願いです。お医者様を、お医者様を呼んでくださいませ。お願いです……!」
 尋常な態度ではなかったのだろう。
 それから半刻後に医師は来た。月子の口調に気おされたのか、酷薄そのものの男だったが、要請にはしたがってくれたようだ。

 月子たちの暮らす山里を下り、小さな渡し場で川を過ぎると城下にたどり着く。道のりは半日くらいだろう。
 武家の屋敷が多い町を避けて町のはずれを回り、料亭や遊郭などがある栄町に入る。栄町から商人の多い港町、呉服町に向かう途中の川岸に船宿や茶屋がある。
 そのあたりが適地であるらしい。
 なれた風情で代官所の男が船宿や茶屋に数人ずつ女を置いていく。下卑た目つきをした町人がその女たちを引き取る。その宿を、商売に使えということだ。
 月子は、美知江と道中もずっと側に居たために、親しいのならば一緒が良かろうと同じ船宿に入れられた。
「今からでもいいから、帰りなさい」
 美知江は月子が辟易するほどに何度も言った。
 道すがら、ぽつりぽつりと話をした。月子はまだ十六歳で、その肌に男を知らない。ならばなおさらだと美知江は言った。
「辛すぎる」
 覚悟を決めたつもりの月子が揺らぐほどに切実な表情で彼女は言う。

「せめて、最初くらいは本当に好きな男に抱かれてからなら、まだ諦めもつくのに」
 美知江が「講」として城下に来ざるを得なくなったのは、嫁いでからしばらく経ってからのことだ。その身は夫に愛されつくした後であり、男がどういうものか知っていた。
「……でも今ならば高値だと言われました」
 乾いた声で月子は言う。
 初物は、珍重されるものだ。
 だから月子は念を押されている。一両以上を払える男以外は近寄せるなと。その旨は、月子を預かった宿の男にも伝わっていた。

 宿の一階の六畳くらいの部屋に布団が積み上げられれ、その隙間に月子と美知江と、あと二人ほどの女が通された。
 着替えが置かれている。貧しい家の女たちは、当然ながら身なりも貧しい。月子も灰色のような柿色のような、とうの昔に色も褪せたような継ぎの当たった着物を着ている。傷みはあるが、垢染みては居ない。ただみすぼらしすぎるのは確かだった。
 与えられている着替えは古着のようだが、継ぎはない。月子は他の女たちが着物を選び取った後に、残った海老茶色の木綿を身に纏った。帯は色の褪せた緑色の格子柄で、褪せていために少し明るい色合いとなって幸いにも着物とよく似合っていた。
 着替えた自らの姿を見下ろしながら、胸が痛い。

(怖い……)
 帯を締めながら、月子は頭の芯が冷え冷えとなるのを感じた。

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