おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第一章

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 三年近く前に、古びた板敷の上に額をすりつけるようにして、月子を妻にと、彼は唯一残った肉親である母とともに、畑野家に請いに来た。
 その又四郎と彼の母のもとで、娘は裕福ではなくとも大切にされて暮らしていると思いこんでいた。仲睦まじくあるのならば、たとえ自分が以前の身分に浮上したとしても二人を引き離すまいと畑野は思っていた。暮らしの費えが足りないのであれば、この先は援助することもできる。
 そんな事を思いながら、畑野はただ、月子に会い、これまでの苦労を謝すつもりで川中家に向かったのであった。

 居ない、と式台に座って畑野を迎えた又四郎は言った。月子はこの家にもう居ないと言う。
 畑野は呆然と、玄関先から暗い家の中を眺めた。狭い家であると言うのに、向こうの壁までずいぶんと遠く感じた。
「それは、居ないとは如何なることであろう」
 喉を詰まらせて、畑野は問うた。
 もしや月子は自ら家を出たのだろうか。そんな疑いが生じる。見れば、畑野の家よりは少しましであるが、確かに暮らしに余裕のある雰囲気ではない。しかしその余裕のなさなどは、この近辺の家では皆が同じであるから、それを月子が辛抱しかねたとは思えない。
 又四郎は俯いて、黙っている。
「お答えいただきたい。月子は何故、居らぬのか」
「お答えなさい、又四郎殿」
 傍らから、畑野の鋭い口調に負けないほどの強い言葉が投げられた。
「ご無沙汰を申し訳ありませぬ、畑野さま」
 又四郎の隣に坐して、凛とした姿で頭を下げているのは、又四郎の母の志津子である。婚儀の時に会ったきりであるが、彼女の顔色の土色である事と、肩が尖るほどにやつれている事に、少し畑野は驚いた。
「いささか病を得ておりまして、長くご挨拶にも参らず失礼いたしました」
「いえ、此方こそお見舞いもいたさず……」
 目元の少し鋭い辺りは、息子に似ていない。病であったのはその窶れた様子から確かなのだろう。それでも、灰色のような木綿を隙なく着付けている姿には彼女なりの矜持のような物が見える。
 しかし、姑にあたる志津子が病であるならばなお、月子が不在であることが畑野に違和感を覚えさせている。病人が家に居るならばなおさら、それを投げ出す娘ではない事を畑野はよく知っている。
「月子がどこに居るか、又四郎、そなたの口からお言いなさい」
 すがるような顔で、又四郎はその母を見る。そしておどおどと畑野を見上げた。またすぐに視線を膝に落とした。
 このような男だったのだろうか。畑野はそんな気がした。三年前には、鮮やかな笑顔で喜びをあらわにして月子を迎えた若者だったはずだ。

「月子は、川口の宿の駒屋に居る」

 小さな、それは小さな声で又四郎は言った。
 又四郎は確かにそう言った。何故、駒屋に居るかと、知っているような口ぶりで志津子が息子にさらに問う。
 その後、絞り出すような声で又四郎が床に向けるように呟いた言葉を、その後の生涯でも畑野は忘れかねた。

「月子は、三十両になった」

 目がくらんだ。
 畑野は、黄昏時の光でさえ眩しいような心地になり、目の前が朧にかすんで、目がくらんで倒れそうになった。かろうじて、肩が玄関わきの柱に触れ、其処に体重を預けることで倒れることばかりはしなかったが、しばし、口を利く事を忘れた。
 鼓動が喉から出るほど激しい。呼吸をも忘れていた。
 膝のあたりの袴を強く握りしめて式台に座っている又四郎を見下ろしながら、畑野は刀を抜きそうになるのを堪えている。刀と言っても大刀は疾うに金に換えてしまっていて竹光であるが、脇差は本身である。
 吐きそうな気持になった。のろのろと体の脇から手を上げ、胃のあたりを掴む。
 畑野の手が動いた瞬間、びくり、と又四郎が体を震わせたのがいっそ滑稽だった。斬られると思ったのだろうか。この愚かしい、己が妻を三十両に換えたと言う男は、それでも命を保ちたいと思っているのだろうか。
 生きるに値しない。むしろ殺してやりたい。そう思うほど、その瞬間の畑野は目の前の又四郎を軽蔑し、憎悪した。
 申し訳ありませぬ、と志津子が畑野に平伏している。
「私どもが至らぬばかりに」
そう言いながら、彼女はひどく咳込んだ。
 志津子が病を得て医薬の費えがかかるようになり、月子は「講」に出るようになったと彼女は言った。そして、その上、又四郎が二里先の天領の賭場に通うようになり、それもなんとか金を増やしたかったとの動機だとは言うが、そこで筋の良くない借財を重ねてしまったのだと、志津子は語った。
 畑野の脳裏を志津子の述懐が滑る。ただ、身を竦めている又四郎を見下ろしている。
「もう、良い」
 大きな声であった事を、少し悔いる。
「もう、良い。もう何も聞かぬ。…言いたい事は解るだろう。」
 そして大きな溜息のあとに、
「離縁を」
 低い声で畑野は言った。
「それは、」
 又四郎が顔をあげて悲鳴のように言った。
「時が来たら必ず連れ戻すつもりなんだ。この先も妻としては月子以外を考えられない。」
「もう何も聞かぬと申した」
 冷厳な顔で見下ろす畑野に、がたりと音を立てて立ち上がった又四郎が掴みかかった。
 小柄な畑野の身体は頼りなく揺らぐ。それでも、発した言葉を撤回する気持ちはさらさらなかった。
「おやめなさい、又四郎殿!」
 厳しい声で志津子が息子を制した。
 又四郎は畑野の身体から手を離さぬまま、母を振り返った。凶暴な光がその目に在る。
「嫌だ、俺は嫌だ」
 駄々をこねる幼児のような態度である。嫌だ嫌だと、膝元の板敷をがつんがつんと大きな音で叩いていた。
 静かに、志津子が立って奥へ去る。少しして戻ってきた彼女は手に、矢立と白い紙を携えていた。
「嫌だ。お願いです。どうか」
 憐みを乞うように又四郎が畑野を見上げて頭を下げた。涙でも流しそうなその表情を見て、ただ畑野はこの上ない憤りを感じた。後悔と、自責の念と、愚かしい若者への憎悪と。
 畑野は、脇差を抜いてしまった。
 剣術の稽古をした事がないわけではないが、体格に恵まれなかった彼はあまり上達もせず、ただ身をはぐくむためにのみ剣を振るっていたようなものだった。強くはない。得意でもない。
 それでも目の前の男を刺し殺すことくらいは出来るだろう。そんな気がした。
「書け」
 そのつもりもなかったが、その低い声は恫喝に似ていたのかもしれない。
 又四郎のみならず、傍らの志津子まで青ざめた顔になった。志津子の手で又四郎に筆を握らせ、ようやく、彼はその一文を書いた。
 三行半(みくだりはん)の離縁状である。
 書き終えたとたんに、その紙を畑野は取り上げ、手早く畳んで懐に押し込んだ。
「失礼した」
そしてすぐに踵を返して、川中家を出た。
 がたがたと背後で音がする。又四郎が畑野を追って出てきた。
「追うでない!」
 厳しい志津子の声が聞こえた。
「今、追うくらいならば、そなたにはその前にやれる事があっただろう!」
 その語尾は、烈しい咳に飲み込まれた。
 あとの事は、畑野はもう知らない。知りたくもない。振り返らずに立ち去った。

 明日には帰れると思う、とだけ言い置いて、畑野はいったん戻った自宅からまた出掛けた。懐に、井川源治を通じて鳥越から渡された百両を無造作に突っ込んだ。
 妻の幸枝にも、息子たちにも、詳しい話など出来るはずがない。帰宅して、出掛けるまでの間に畑野は一度も家族と目を合わせようとしなかった。
 頭の中に、月子、という名がぐるぐるとまわっている。

 川口の宿場町へは、そう遠くはない。
 集落から東へ四里ほどである。一山を越えて下りれば、そこが宿場である。道も付いている。夜道でも山に迷い込む事はない。

 地蔵の足元から、ようやく畑野は身を起こした。
 よろよろと歩を進める。口の中に少し砂利が入っていた。
 どこか沢でもあったら顔を洗わねばならぬと思う。

 胸の中で、月子、と娘に向かって呼びかけた。
 もう、終わりだ。辛苦の日々は、ようやく終わらせる事が出来る。
 何もかも、父はそなたに助けられてばかりであった。家の中に起きた苦しみを、一人に負わせるような真似をした父を許してほしい。家族の苦しみを、身を呈して救い続けようとした月子の行いは、それは尊いものだと父は思う。
 誰が、何と言おうとも、月子自身がなんと思おうとも、それは、美しく尊い魂のなせる事であったと信じている。
 何と礼を言えばいいか解らない。そして何と謝るべきかもわからない。
 月子。
 朧な月を見上げて、畑野は呼びかける。
 父はそなたを尊敬する。月子ほど優しく清らかな強い心の娘を持った事を誇りに思う。月子のその強さに甘え、辛苦に目をそむけてきた父ゆえに辛く悲しい思いをさせた事を謝りたい。
 そしてそれ以上に、この愚かな父の娘に生まれてくれた事を、何よりも深く感謝したいと思う。
 月子。月子。

 胸の内でずっと月子に語りかけながら畑野は暗い夜道を歩き続けた。

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