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 ソントへ戻る道中。

 普段よりずっと無口に馬に揺られるラシャを、近侍のディアと小姓のユーレウスが、ときおり懸念を帯びた眼差しで見た。そんな視線もわずらわしく、ますます彼は無愛想になる。

 途中の休憩の間に、ふと何かを思い出しては物を投げつけたり、立ち木を蹴ったり、拾い上げた枝を折ったりしている。ひどく怒っていると思えば、中空を見つめて、涙さえ浮かべているのではないかという表情をすることもある。



 滞在地の宿所では、庭に出て足がもつれるまでディアを相手に剣を交えるのだ。

 三泊目の宿で、ラシャの稽古に付き合ってどろどろにくたびれたディアに、ユーレウスが話しかけた。

「ディア、大丈夫か?」

「んー、何とも言いにくいなあ」

 ディアは肘にシップを巻きながら、唇の端で笑っていた。

「よく付き合うよ。ラシャおかしいだろ、今。何があったんだか知らないけどさ。話してくれればいいのに」

「話せないこともあるんだぜ、ボウズ。しいて聞くんじゃないぞ」

「じゃあディアはなんだかわかるのか?」

「お前も二、三回痛い目を見りゃわかる」

「俺は痛い目なんか見ないよ。兵士にはなんないからね」

 ばか。と言いながら、ディアはユーレウスの額を指ではじいた。

「痛いじゃないか、何すんだよ? おーいて。これぜったい腫れる」

「こういう痛い目じゃねえってんだよ」

 抗議するユーレウスに、ディアは高笑いしながらもう一発をお見舞いした。

「わかってるよ。わかってんのにもう、二回もやることないだろ! いってぇなあ、もう! 明日はもう面倒見てやんないよ? 今夜出かけてもカギ開けてやんないよ?」

「それぁ困る。頼むぜ~。花窓の姐さんたちが俺を待ってるんだよ」

「シップ巻いてるヤツが、言う? それでも行く?」

「馬鹿だなあ。ガキは。……大事にしてもらえんだよ、こういうの」

「やらしー。やだやだ」



 キーウから南海道を真っ直ぐ南下し、レスフォを経由して海沿いの道を西に向かって約半日でソントである。

 レスフォに着いたラシャは、まず領主の館に向かう。

 そこには兄の王太子リディスがいる。また、ラシャはリディスの館の一室をレスフォの軍学校に通うための滞在用に借りている。ひとまずそこに入ることになっている。

 十日間学校に行き、十日間ソントに戻る。ラシャはそういう日常の暮らしに帰って行った。



 キーウから出て、レスフォに十日間滞在してそれからようやく自領のソントへの向かう。

 ラシャが父親である王から与えられた領地のソントは、レスフォのように良港があるわけでもなく、商業が栄えているわけでもない。豊かとは言い難い土地であるが、その代わりソントにはおっとりとした美しい風景があった。果樹園と牧場と畑と、こんもりした森と、小さな漁港と、そして何よりもまばゆく青い海がある。

 見慣れたはずのソントの景色が、今のラシャの眼にはひどく優しい風景に映った。彼を育んだ風景である。

「ああ、やっぱりソントはいいなあ」

 ラシャの後ろにしたがっていたユーレウスが、深呼吸と共に言う。のどかな声を振り返ると、ユーレウスの傍らでディアも緩やかに頬をほころばせていた。



 彼らは、何も訊かなかったな、とラシャはふと思う。

 平らな気持ちで省みると、戴冠式に出てからおよそひと月あまりの間の、ラシャの挙動は明らかに不審だっただろう。思い起こせば羞恥に顔が火照るほどだ。

 それに当初の予定では、戴冠記念式が終わればすぐにソントに戻る予定だった。

 それを、ラシャはなんと言う理由も彼らに言わず、滞在を伸ばしていた。

 そのことを何故かと、ディアもユーレウスもあえてラシャに問うことはしなかった。

 今もなお。

 彼らの穏やかな沈黙を、ラシャはありがたく感じた。彼の心を察し、むやみに触れることなく見守ってくれている。そういう優しさを示してくれているのだと悟ると、ひび割れた心の隙間に、温かな水が浸透したような心地になった。

 いずれ二人から問われる日が来るかもしれない。今は、多分、何も答えられないだろう。問うべきは今ではないと、それも彼らはわかっているかのようだ。

 踏み込むべき時を、過たずに知っている。それは思いやりなのかもしれない。



 ナセアとはどうだったのだろう。

 かつてないほど密接に膚を触れ合った間柄でありながら、ラシャは彼女が何を思っていたのかもわからず、問うてはぐらかされればそれで終わりにしてしまっていた。強いてわかろうとはしなかった。

 今でも、ワナン達が噂していたようなひどい行状の女性がその正体とは、ラシャには信じたくない。違う、とナセアの口から聞きたかった。理由があるならそれを知りたい。だが、今はもうそれも叶わない。

 もっと、踏み込んで問うべきだったのだろうか。



(俺は馬鹿だ)

 優しく開けたソントの風景から、ラシャは目を落として俯いた。

 ラシャはただ自分が為したい事を為し、伝えたいことを訴え、ひたすらに求めていただけだった。ナセアのことを何も知ろうともせず、自分の思いだけを自分の中に必死にあふれさせていた。そんなラシャにナセアが何も告げなかったのは当然なのかもしれない。

 宮廷の人々が口にしていたナセアの「ふしだら」であるという噂を耳にした時の動揺も忘れ難い。思い出せば今でも腹の底が煮えるような心地になる。

 もし、とも思う。この数日、少し考えた。

 あの時に本当にナセアが居たのなら、彼女の話を聞く耳が自分にあっただろうか。ラシャは、地面を見ながら考える。

 きっと、ナセアを責めただろう。

 責めて、罵って、彼女を傷つけたに違いない。

 きっと、それさえもナセアは見抜いていたのではあるまいか。だから、黙って姿を消した。

 そんな気がしていた。



 あの人は複雑な人だったのだ。この数日、ようやくそう思えるようになった。

 はるかに大人で、女性で、多面かつ多層に出来ていて、ラシャはそのほんの一面にかろうじて指先を触れただけであったのだろう。もしかしたらラシャの指先はナセアの表面を滑っただけで、その実、彼女に触れてさえ居なかったのかもしれない。

 ナセアにとって彼が一時の戯れの相手だったのか、少しは愛してくれていたのか、答えを持っているはずの彼女が黙って姿を消してしまった今となっては、そんなこともラシャには一向にわからない。



 濃密に刻まれたナセアとの記憶の中で、一つ一つの行動に対して後悔が押し寄せた。

 あの時はどうしてこうしなかったのか、どうしてああ言わなかったのか、どうして問いかけなかったのか、そんなことを一瞬のうちに脳に昇らせている。

 もっと強いて問いかければ、もしかしたらナセアの真実に少しは近づけたのかもしれない。すさんだ行動に陥った事情も、あるいは聞く事が出来たかもしれない。問う勇気が無かった。ナセアに嫌われたくないと恐れていたのだと、今ならわかる。

 後悔は、胸にも脳裏にも、あふれるほど波のように寄せては返す。だが後悔は後悔だ。それ以上の何をなせるものでもない。今なら、きっとナセアを責めることなく話を聞く事が出来るかもしれない。

 今なら。そう思っても、もう遅いのだ。

 わずかに触れあった時間の中で、ナセアは、自らを語る相手ではないとラシャへの評価を下した。それだけのことだった。

 ナセアは帰ってこない。

 ラシャも、どれほどあがいたところで彼女と触れ合っていた時間にさかのぼることなど出来ない。

 そのときそのときで、言うべきことを言い、問うべきことを問い、なすべきことを為さなければ、目の前に居る大切な誰かに大切なことを何一つ伝えられないまま、大切な誰かからの気持ちも伝えてもらえぬまま、一瞬は終わってしまう。

 そしてその一瞬は、未来永劫帰ってこない。

 時は帰らない。それはとても明解なことなのに、ラシャはそれをおろそかに思っていた。

(俺は本当に馬鹿だ……)

 見慣れたソントの優しい風景が、眸の中で少しこごった。

 途方に暮れたラシャの背に、「さあ、もう行こう」と声がした。



 遠い海が、ナセアの瞳の色に似て見えた。









  おわり
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