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「ねえ、助けて……」
と蟲惑に満ちた美しい女は言った。
「助けて、とはどういうことです?」
「……そうね、また今度話すことにするわ」
女は高貴な血筋を持っている。
いま彼女の頬の下に居る男よりはるかに。
二年前は良かったと、ナセアは良く思う。
彼女の母親は、現王の庶腹の姉であった。先の王に見初められた彼女の祖母は、王の湯殿の世話をするような身分の低い端下女ではあったが、庶民にしては美しかったそうだ。
そしてまぎれもないロティオール王の胤を授かり、女児を産んだ。
それを王も認めてくれた。
そうやって生まれたナセアの母は、ロティオール国内の子爵家に嫁ぎ、四人の子供をもうけた。ナセアは三番目の娘で、美貌を謳われながら生い立った。
十代の半ばの頃から、さまざまの男性の目を引き、いくつかの浮名は流したものの、十八歳で無事にジェイ・グローセン男爵の奥方に納まることができたのである。
夫のジェイは六歳上で、若く美しいナセアを可愛がった。これほど愛らしい者を妻としたことを喜んだ。
つややかな褐色の髪に桜色の頬、秋の夕闇のような蒼の瞳。ふっくらした唇が少し尖っていて、どこか拗ねたように見えるが、そのために微笑んだときの変化が鮮やかで、彼女の印象を彩り豊かにする。
彼女自身は、夫を愛したとも愛していないとも、そのときには良くわからなかった。
むしろ疎ましくさえ思ったかもしれない。
宮中の様々な催しでも以前のように男性たちにもてはやされることもなくなり、そういう輪の中に入ることも遠慮しなければならなくなっていた。結婚してから三ヶ月ほどの頃には、つまらないと思いはじめてさえいた。
その後、子供も生まれなかったが、それでもジェイはナセアをこよなく愛し、いろいろなわがままをも快く許していた。その少し男を振り回すような仕草を、むしろ愛すべき性情として彼は受け入れていたのだろう。
海を見たいといえば旅に付き合い、南国の真珠の髪飾りが宮廷の娘たちの間で話題になれば、それを購うために産出国へわざわざ使いを出して最新の細工の物を手に入れたり、馬車が地味だと言えば改造し、湯殿が狭いといえば広く改築をした。
浪費が過ぎると、執事が言っていることも、ナセアには聞こえないように彼は心を砕いていた。
そんな風に、言いなりの夫を愉しんでいたナセアなのである。
ジェイ・グローセンは取り立てて美男ではなく、少し猫背気味の中肉中背の、さして風采の上がった男ではない。彼女と結婚するまでは、服装も地味で趣味もよくなかった。
いざ結婚すると決まったときでさえ、その名前の男爵とはいったい誰だろう、とナセアが疑問に思ったくらい印象も薄かった。
そんな彼と、宮中の催しや他家の宴席にも一緒に行かねばならないことをナセアは不満ですらあった。だから多少のわがままは言っても許されると思っていた。
なぜなら自分は結婚するまでは貴族の青年たちの憧れの的であったのだから、その自分を娶る幸せを得たのだから。
とはいえ、そんな彼とナセアの結婚生活も二年を過ぎるとそれはそれで安定して、ナセア自身も「こんなものかな」と思うようになった。ジェイがナセアに対して穏やか過ぎることが物足りなくはあったが、優しさのない男よりはずっと良いと思うようにしていた。
相変わらずナセアがいろいろなわがままをジェイに仕掛けては、彼が困り顔をしながら応えることが習慣になっていた。それも二人の独特の心の交流であると、時がたってナセアは気づいてきたのだった。そして、そうやってナセアに応えようと努力する彼にかわいらしさを見出し始めていた。
そんな安らいだ生活が破綻したのはナセアが二十三歳、ジェイが二十九歳のときであった。
ジェイが隣国サンサとの戦に行かなければならなくなったのだ。彼は以前にも一度出征している。貴族たちはそれが通過儀礼のように、義務として戦役を課されていたが、一度は義務を終えたジェイにも、長引く戦争のためにもう一度その役目が回ってきてしまったのである。
「嫌だわ」
ナセアはジェイの胸に頬を乗せながらそう言った。彼の胸は着衣の時に見るより、ずっと厚くたくましい。
「大丈夫。前に行った時にも危ないことはなかった。今度も無事に帰ってくるよ」
彼はそっとナセアの頬を両手で挟み、これほど愛しい者が居るのにどうして無事に帰らないことがあるだろうか、と言った。ジェイもそんな台詞めいた言い回しをするようになったのか、とナセアは意外に思った。
「サンサに行く前に、一緒に旅にでも行こうか?」
「美しい所が良いわ」
「南へ行こうか。レスフォの辺りの海は綺麗だと聞く」
それはどこなの、とナセアは聞いた。
ロティオールの南端にある軍港の町の名前がレスフォということなど、首都のキーウに生まれ育ち、そこからほとんど出た事のない彼女は知らない。
レスフォには王太子リディスが先年より領主となって赴任している。もともと次代の王になる人間が治める習慣の土地であったから、それは順当な人事で特に話題にもならぬことだった。同時にレスフォの隣領の跡取りの絶えたソント公の名跡と領地を、庶腹の第二王子に王が与えたことも特に奇異なことではなかった。
ナセアとジェイは、レスフォを訪れ、まず最初に現在十七歳の若い王太子に、当地に数日滞在する旨の挨拶をした。
レスフォと言う街が思いのほかに殷賑な都市であることをナセアは喜んだ。
軍港であると共に、海上流通の拠点であるために色々な国の様々な文物が集まっており、賑わいもたいへんなものである。
それでいて首都キーウほどには堅苦しくなく、南方の温暖な空気のためか、絶え間なくなだらかに吹く海風のためか、開放的な雰囲気の街だった。
その日はレスフォの領主館の一隅に宿り、翌日は、リディスの勧めにしたがってレスフォの隣領のソントに行くことにしている。
「弟はまだ十三歳で、作法などわきまえませんが、ご容赦ください」
とまだ十七歳になったばかりのリディス王太子は言った。微笑ましい事だとナセアはソントへ向かう馬車の中でジェイに話していた。
レスフォを朝に出発し、左手にずっと淡く青い海の光を見ながら半日、ソントの領主館に到着する。
前日のリディス王太子に対したように、ジェイもナセアも、領主であり現王の第二王子である十三歳のソント公ラシアヴィラムに丁重に挨拶をした。なるほど兄であるリディスがあらかじめ許しを求めたように、礼儀としてかけるべき言葉は彼からは出てこなかった。
少年領主は眉の辺りに憂いを帯びながら、ただ無愛想に黙ってうなずいただけであり、挨拶を受けながらも居心地の悪そうな落ち着きのない態度を改めることもない。
そのいささか無礼な少年の顔を見て、それでも、怒りがわくこともなく、ナセアもジェイも一時は言葉を忘れるほどに魅入られていた。
これが噂のラシャ王子か、と。
噂とは、彼の容貌に関してである。父親はいうまでもなく現ロティオール王のヴァルト・オーディアスで、既に亡き人になっている彼の母親は、現リコリス子爵の妹で名はファルミナという。
ファルミナは、未だに宮中の伝説と化している美貌の人であった。
その母にラシャは酷似している、と彼を見た事のある人が言う。ナセアも、ジェイもそう思った。
ナセアがファルミナを見たのは幼い頃のことであったが、まるで絵の中から脱け出したような現実離れしたような美しさだと印象があった。ジェイはもっと鮮明に覚えていて、ファルミナの切れ長の大きな眼の艶やかな光に、少年ながら憧れて止まなかったという記憶が残っていた。
「綺麗な子ね。ずっと眼を奪われてしまうようです」
とナセアは感嘆しきりであった。
そんな話をしながら二人が眺めのいい海辺を散歩している間に、遠くに見えた。
そのラシャが他の少年たちと共に無邪気に大きな声で笑いながら海に飛び込んでいく。それは、わんぱくな、ただの男の子そのものの姿であった。
「私にもあんなふうだった頃があるのだよ、と言って信じる?」
「うそ。ジェイはそれほど自分が綺麗だと思っていて?」
「そうじゃなくて……」
手をつないで歩きながら、ナセアは、わかってます、と明るい声で笑った。
ジェイもナセアに手を引かれながら、笑い声を重ね、そんな楽しげな二人の声は海風に吹き飛ばされていた。
と蟲惑に満ちた美しい女は言った。
「助けて、とはどういうことです?」
「……そうね、また今度話すことにするわ」
女は高貴な血筋を持っている。
いま彼女の頬の下に居る男よりはるかに。
二年前は良かったと、ナセアは良く思う。
彼女の母親は、現王の庶腹の姉であった。先の王に見初められた彼女の祖母は、王の湯殿の世話をするような身分の低い端下女ではあったが、庶民にしては美しかったそうだ。
そしてまぎれもないロティオール王の胤を授かり、女児を産んだ。
それを王も認めてくれた。
そうやって生まれたナセアの母は、ロティオール国内の子爵家に嫁ぎ、四人の子供をもうけた。ナセアは三番目の娘で、美貌を謳われながら生い立った。
十代の半ばの頃から、さまざまの男性の目を引き、いくつかの浮名は流したものの、十八歳で無事にジェイ・グローセン男爵の奥方に納まることができたのである。
夫のジェイは六歳上で、若く美しいナセアを可愛がった。これほど愛らしい者を妻としたことを喜んだ。
つややかな褐色の髪に桜色の頬、秋の夕闇のような蒼の瞳。ふっくらした唇が少し尖っていて、どこか拗ねたように見えるが、そのために微笑んだときの変化が鮮やかで、彼女の印象を彩り豊かにする。
彼女自身は、夫を愛したとも愛していないとも、そのときには良くわからなかった。
むしろ疎ましくさえ思ったかもしれない。
宮中の様々な催しでも以前のように男性たちにもてはやされることもなくなり、そういう輪の中に入ることも遠慮しなければならなくなっていた。結婚してから三ヶ月ほどの頃には、つまらないと思いはじめてさえいた。
その後、子供も生まれなかったが、それでもジェイはナセアをこよなく愛し、いろいろなわがままをも快く許していた。その少し男を振り回すような仕草を、むしろ愛すべき性情として彼は受け入れていたのだろう。
海を見たいといえば旅に付き合い、南国の真珠の髪飾りが宮廷の娘たちの間で話題になれば、それを購うために産出国へわざわざ使いを出して最新の細工の物を手に入れたり、馬車が地味だと言えば改造し、湯殿が狭いといえば広く改築をした。
浪費が過ぎると、執事が言っていることも、ナセアには聞こえないように彼は心を砕いていた。
そんな風に、言いなりの夫を愉しんでいたナセアなのである。
ジェイ・グローセンは取り立てて美男ではなく、少し猫背気味の中肉中背の、さして風采の上がった男ではない。彼女と結婚するまでは、服装も地味で趣味もよくなかった。
いざ結婚すると決まったときでさえ、その名前の男爵とはいったい誰だろう、とナセアが疑問に思ったくらい印象も薄かった。
そんな彼と、宮中の催しや他家の宴席にも一緒に行かねばならないことをナセアは不満ですらあった。だから多少のわがままは言っても許されると思っていた。
なぜなら自分は結婚するまでは貴族の青年たちの憧れの的であったのだから、その自分を娶る幸せを得たのだから。
とはいえ、そんな彼とナセアの結婚生活も二年を過ぎるとそれはそれで安定して、ナセア自身も「こんなものかな」と思うようになった。ジェイがナセアに対して穏やか過ぎることが物足りなくはあったが、優しさのない男よりはずっと良いと思うようにしていた。
相変わらずナセアがいろいろなわがままをジェイに仕掛けては、彼が困り顔をしながら応えることが習慣になっていた。それも二人の独特の心の交流であると、時がたってナセアは気づいてきたのだった。そして、そうやってナセアに応えようと努力する彼にかわいらしさを見出し始めていた。
そんな安らいだ生活が破綻したのはナセアが二十三歳、ジェイが二十九歳のときであった。
ジェイが隣国サンサとの戦に行かなければならなくなったのだ。彼は以前にも一度出征している。貴族たちはそれが通過儀礼のように、義務として戦役を課されていたが、一度は義務を終えたジェイにも、長引く戦争のためにもう一度その役目が回ってきてしまったのである。
「嫌だわ」
ナセアはジェイの胸に頬を乗せながらそう言った。彼の胸は着衣の時に見るより、ずっと厚くたくましい。
「大丈夫。前に行った時にも危ないことはなかった。今度も無事に帰ってくるよ」
彼はそっとナセアの頬を両手で挟み、これほど愛しい者が居るのにどうして無事に帰らないことがあるだろうか、と言った。ジェイもそんな台詞めいた言い回しをするようになったのか、とナセアは意外に思った。
「サンサに行く前に、一緒に旅にでも行こうか?」
「美しい所が良いわ」
「南へ行こうか。レスフォの辺りの海は綺麗だと聞く」
それはどこなの、とナセアは聞いた。
ロティオールの南端にある軍港の町の名前がレスフォということなど、首都のキーウに生まれ育ち、そこからほとんど出た事のない彼女は知らない。
レスフォには王太子リディスが先年より領主となって赴任している。もともと次代の王になる人間が治める習慣の土地であったから、それは順当な人事で特に話題にもならぬことだった。同時にレスフォの隣領の跡取りの絶えたソント公の名跡と領地を、庶腹の第二王子に王が与えたことも特に奇異なことではなかった。
ナセアとジェイは、レスフォを訪れ、まず最初に現在十七歳の若い王太子に、当地に数日滞在する旨の挨拶をした。
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軍港であると共に、海上流通の拠点であるために色々な国の様々な文物が集まっており、賑わいもたいへんなものである。
それでいて首都キーウほどには堅苦しくなく、南方の温暖な空気のためか、絶え間なくなだらかに吹く海風のためか、開放的な雰囲気の街だった。
その日はレスフォの領主館の一隅に宿り、翌日は、リディスの勧めにしたがってレスフォの隣領のソントに行くことにしている。
「弟はまだ十三歳で、作法などわきまえませんが、ご容赦ください」
とまだ十七歳になったばかりのリディス王太子は言った。微笑ましい事だとナセアはソントへ向かう馬車の中でジェイに話していた。
レスフォを朝に出発し、左手にずっと淡く青い海の光を見ながら半日、ソントの領主館に到着する。
前日のリディス王太子に対したように、ジェイもナセアも、領主であり現王の第二王子である十三歳のソント公ラシアヴィラムに丁重に挨拶をした。なるほど兄であるリディスがあらかじめ許しを求めたように、礼儀としてかけるべき言葉は彼からは出てこなかった。
少年領主は眉の辺りに憂いを帯びながら、ただ無愛想に黙ってうなずいただけであり、挨拶を受けながらも居心地の悪そうな落ち着きのない態度を改めることもない。
そのいささか無礼な少年の顔を見て、それでも、怒りがわくこともなく、ナセアもジェイも一時は言葉を忘れるほどに魅入られていた。
これが噂のラシャ王子か、と。
噂とは、彼の容貌に関してである。父親はいうまでもなく現ロティオール王のヴァルト・オーディアスで、既に亡き人になっている彼の母親は、現リコリス子爵の妹で名はファルミナという。
ファルミナは、未だに宮中の伝説と化している美貌の人であった。
その母にラシャは酷似している、と彼を見た事のある人が言う。ナセアも、ジェイもそう思った。
ナセアがファルミナを見たのは幼い頃のことであったが、まるで絵の中から脱け出したような現実離れしたような美しさだと印象があった。ジェイはもっと鮮明に覚えていて、ファルミナの切れ長の大きな眼の艶やかな光に、少年ながら憧れて止まなかったという記憶が残っていた。
「綺麗な子ね。ずっと眼を奪われてしまうようです」
とナセアは感嘆しきりであった。
そんな話をしながら二人が眺めのいい海辺を散歩している間に、遠くに見えた。
そのラシャが他の少年たちと共に無邪気に大きな声で笑いながら海に飛び込んでいく。それは、わんぱくな、ただの男の子そのものの姿であった。
「私にもあんなふうだった頃があるのだよ、と言って信じる?」
「うそ。ジェイはそれほど自分が綺麗だと思っていて?」
「そうじゃなくて……」
手をつないで歩きながら、ナセアは、わかってます、と明るい声で笑った。
ジェイもナセアに手を引かれながら、笑い声を重ね、そんな楽しげな二人の声は海風に吹き飛ばされていた。
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