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第四章
俗 三
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払暁である。歩き巫女の浮草は朝まで八助の所に居た。
八助は百姓の次男だ。八助が浮草と遊んだのは家の納屋だった。彼の家の主屋には両親と兄一家が暮らす。
浮草は、八助の家から出て畑の道を通って坂を上り、村長の上岡屋敷の塒にしている一角へ帰る。
みなほがかつて住まいとしていた、村長の屋敷の裏手は、今は空き地だ。昨年の秋の内に小屋は壊された。跡に、小さなほこらが建っている。
昼頃まで寝床で過ごし、行水を使って身支度を調えた。
神社の倉庫に閉じ込められたみなほに、浮草が食事を届けた。
「ありがとう」
律儀に礼を述べるみなほの声を聞きながら、浮草はあくびをする。
「あんた、みなほって言うんだっけね」
腹が減っていたらしく、みなほは膳を受け取るやいなや椀の粥を啜った。問いかけには目線だけでうなずく。
石造りの倉庫の窓は小さく、外には格子がはめ込まれている。明かり取りにはなるが出入りはできない。出入り口の頑丈な扉には外から鍵を掛ける。鍵は宮司だけが預かり、見張りの老爺も持っていない。みなほに食料などを渡すときだけ、宮司が浮草に鍵を使わせる。
かび臭くほこりっぽい。薄暗い中で、みなほが食料を貪った。
「お腹減ってたんだ?」
「昨日から、何も」
浮草はふうん、と鼻を鳴らす。昨日も同じような日の高さのときにみなほに浮草が食事を運んだ。みなほはそれしか口にしていないのだ。
色あせた粗末な者を着たみなほの傍らに白い小袖が畳んであった。小袖は遠目にもつややかな絹で、その上に恭しく貝が一つ置かれている。
「その貝は何なの?」
「龍彦様のお屋敷で、よく遊んだもの」
「龍彦様ってのは、このあたりの神様なんだろ? 神様の所に居たの、あんた」
みなほは大きな目をきっぱりと浮草に向けて、うなずいた。
八助の言ったことと符合する。
みなほ、という娘が贄となり、夏の終わりの祭礼の夜に祭神に贄として捧げられ、翌朝姿を消したと聞いた。
「そのときからこんなとこに入れられたって事か」
「ここに戻ったのはついこの前。それまで龍彦様のお屋敷に」
「神様に捧げたってことにして、お社に隠されたわけじゃないの?
ありがたい神様の霊験あらたかってことにしてさ。よくあるわ。知ってるもの。そういうこと」
奇瑞が起きたと民を欺し、驚かせて、社寺に寄進を請う。それを歌舞にして触れ回るのも歩き巫女の仕事の一つだった。
ちがう、とみなほは首を振る。
「それじゃあ、ずっと龍彦様って神様の所に居たっての? すごいね。本当に神様に嫁いだって、すごいことよ、それは。それでどうだったのさ、神様は」
「どう? って」
「お嫁になったんでしょ。あっちのほうはどうだったの? 男と女のあれをするの、当たり前じゃないの。夫婦なんだから」
浮草の言葉を聞いて、みなほは顔に手を当てて含羞を見せた。
「良い思いしちゃったんだねえ。照れなくてもいいよ。女同士じゃないか。はしたなくなんかない。みんなやってることだ」
粥を食べ終えたみなほは、浮草から顔を背ける。椀を置いてそっぽを向き、手で顔に触れたり髪をいじったり、落ち着かない仕草をした。
「それでお屋敷で過ごしてたの?」
少し糸口があれば、次に話を継ぐのは難しくない。
祭殿の社から急に湖水の上の御殿に移り、ひたすら龍彦と居た、とみなほは浮草に話した。悪い思い出ではなかったのだろう。また聞き出す浮草は娘の口をほぐすのにも慣れている。
「面白い話をありがとうね」
幼子をあやすように笑って、みなほの手元から空の膳を引き取る。
また来るね、と言って扉を閉めるとき、浮草を見るみなほがひどく寂しげだった。
それは寂しかろう。一人きり、ずっと薄暗い倉庫に閉じ込められる。誰でも嫌だ。
(あの子の親なんかはどうしてるんだろうね)
みなほが贄となってから半年程を龍彦の屋敷で過ごし、御子ヶ池に戻ってきた話だけしか聞いていない。そのほかの身の上を浮草は知らない。
「かわいそうな子ですねえ」
「何も言うな」
「誰にも言いはしませんよ。ただちょっとね、何回も会ってると少しくらい情が移ったって仕方ありませんよ」
宮司に鍵を返しながら、浮草はみなほのことを言った。
「そのうち村長が身の振り方を考えるだろう。誰かの嫁にするとか。あそこに置くのもそれまでのことだ」
「ああ、あんな所に居るのもかわいそうですけどね、あたしが言ってるのはそういうんじゃない。他の土地にも居たんだ。あんな風に、夢みたいな話にしちまう女が」
「何のことだ」
「だからさ、よっぽど酷い目に遭ったんだろうねってこと。前に知ってたのは、戦場の近くに住んでた女でね。何人もの輩に犯されてそりゃあ酷い有様だったのに、少し経ったら、あのときは光源氏みたいないい男とまぐあったって話をするんだよ」
「本当に光源氏のような男に抱かれたのではないのか?」
はは、と浮草は放り投げるように笑った。
「残念だけど」
「なるほどな……」
残念だと言う浮草は、宮司が神妙に黙る程に、痛ましい顔をした。
「酷い有様をこの目で見たからね。本当の事なんてわからないほうが、本人には良いんだ。そんなこと思い出したら辛すぎるから、頭のほうが心をかばった。そういうこともあるってあたしは知ってるんだ」
浮草の推察を同情とともに聞いたが、宮司としてはそれだけでは終わらせられない。
もし浮草が言うとおりなら、みなほは誰か不埒な輩にさらわれ、正気で居られないほど酷い狼藉に遭って、半年経って帰ってきた事になる。身なりがさほど崩れていなかったから、移動距離は短かっただろう。
女をさらって嬲り者にする危険な連中が、御子ヶ池の近くに潜んでいるかもしれない。霞のかかった湖水の上の御殿だか屋敷だかの話より、よほど信憑性がある。
そしてみなほは、その危ない輩のもとから来た。場所をどうにか聞き出さねば、と宮司は思った。
八助は百姓の次男だ。八助が浮草と遊んだのは家の納屋だった。彼の家の主屋には両親と兄一家が暮らす。
浮草は、八助の家から出て畑の道を通って坂を上り、村長の上岡屋敷の塒にしている一角へ帰る。
みなほがかつて住まいとしていた、村長の屋敷の裏手は、今は空き地だ。昨年の秋の内に小屋は壊された。跡に、小さなほこらが建っている。
昼頃まで寝床で過ごし、行水を使って身支度を調えた。
神社の倉庫に閉じ込められたみなほに、浮草が食事を届けた。
「ありがとう」
律儀に礼を述べるみなほの声を聞きながら、浮草はあくびをする。
「あんた、みなほって言うんだっけね」
腹が減っていたらしく、みなほは膳を受け取るやいなや椀の粥を啜った。問いかけには目線だけでうなずく。
石造りの倉庫の窓は小さく、外には格子がはめ込まれている。明かり取りにはなるが出入りはできない。出入り口の頑丈な扉には外から鍵を掛ける。鍵は宮司だけが預かり、見張りの老爺も持っていない。みなほに食料などを渡すときだけ、宮司が浮草に鍵を使わせる。
かび臭くほこりっぽい。薄暗い中で、みなほが食料を貪った。
「お腹減ってたんだ?」
「昨日から、何も」
浮草はふうん、と鼻を鳴らす。昨日も同じような日の高さのときにみなほに浮草が食事を運んだ。みなほはそれしか口にしていないのだ。
色あせた粗末な者を着たみなほの傍らに白い小袖が畳んであった。小袖は遠目にもつややかな絹で、その上に恭しく貝が一つ置かれている。
「その貝は何なの?」
「龍彦様のお屋敷で、よく遊んだもの」
「龍彦様ってのは、このあたりの神様なんだろ? 神様の所に居たの、あんた」
みなほは大きな目をきっぱりと浮草に向けて、うなずいた。
八助の言ったことと符合する。
みなほ、という娘が贄となり、夏の終わりの祭礼の夜に祭神に贄として捧げられ、翌朝姿を消したと聞いた。
「そのときからこんなとこに入れられたって事か」
「ここに戻ったのはついこの前。それまで龍彦様のお屋敷に」
「神様に捧げたってことにして、お社に隠されたわけじゃないの?
ありがたい神様の霊験あらたかってことにしてさ。よくあるわ。知ってるもの。そういうこと」
奇瑞が起きたと民を欺し、驚かせて、社寺に寄進を請う。それを歌舞にして触れ回るのも歩き巫女の仕事の一つだった。
ちがう、とみなほは首を振る。
「それじゃあ、ずっと龍彦様って神様の所に居たっての? すごいね。本当に神様に嫁いだって、すごいことよ、それは。それでどうだったのさ、神様は」
「どう? って」
「お嫁になったんでしょ。あっちのほうはどうだったの? 男と女のあれをするの、当たり前じゃないの。夫婦なんだから」
浮草の言葉を聞いて、みなほは顔に手を当てて含羞を見せた。
「良い思いしちゃったんだねえ。照れなくてもいいよ。女同士じゃないか。はしたなくなんかない。みんなやってることだ」
粥を食べ終えたみなほは、浮草から顔を背ける。椀を置いてそっぽを向き、手で顔に触れたり髪をいじったり、落ち着かない仕草をした。
「それでお屋敷で過ごしてたの?」
少し糸口があれば、次に話を継ぐのは難しくない。
祭殿の社から急に湖水の上の御殿に移り、ひたすら龍彦と居た、とみなほは浮草に話した。悪い思い出ではなかったのだろう。また聞き出す浮草は娘の口をほぐすのにも慣れている。
「面白い話をありがとうね」
幼子をあやすように笑って、みなほの手元から空の膳を引き取る。
また来るね、と言って扉を閉めるとき、浮草を見るみなほがひどく寂しげだった。
それは寂しかろう。一人きり、ずっと薄暗い倉庫に閉じ込められる。誰でも嫌だ。
(あの子の親なんかはどうしてるんだろうね)
みなほが贄となってから半年程を龍彦の屋敷で過ごし、御子ヶ池に戻ってきた話だけしか聞いていない。そのほかの身の上を浮草は知らない。
「かわいそうな子ですねえ」
「何も言うな」
「誰にも言いはしませんよ。ただちょっとね、何回も会ってると少しくらい情が移ったって仕方ありませんよ」
宮司に鍵を返しながら、浮草はみなほのことを言った。
「そのうち村長が身の振り方を考えるだろう。誰かの嫁にするとか。あそこに置くのもそれまでのことだ」
「ああ、あんな所に居るのもかわいそうですけどね、あたしが言ってるのはそういうんじゃない。他の土地にも居たんだ。あんな風に、夢みたいな話にしちまう女が」
「何のことだ」
「だからさ、よっぽど酷い目に遭ったんだろうねってこと。前に知ってたのは、戦場の近くに住んでた女でね。何人もの輩に犯されてそりゃあ酷い有様だったのに、少し経ったら、あのときは光源氏みたいないい男とまぐあったって話をするんだよ」
「本当に光源氏のような男に抱かれたのではないのか?」
はは、と浮草は放り投げるように笑った。
「残念だけど」
「なるほどな……」
残念だと言う浮草は、宮司が神妙に黙る程に、痛ましい顔をした。
「酷い有様をこの目で見たからね。本当の事なんてわからないほうが、本人には良いんだ。そんなこと思い出したら辛すぎるから、頭のほうが心をかばった。そういうこともあるってあたしは知ってるんだ」
浮草の推察を同情とともに聞いたが、宮司としてはそれだけでは終わらせられない。
もし浮草が言うとおりなら、みなほは誰か不埒な輩にさらわれ、正気で居られないほど酷い狼藉に遭って、半年経って帰ってきた事になる。身なりがさほど崩れていなかったから、移動距離は短かっただろう。
女をさらって嬲り者にする危険な連中が、御子ヶ池の近くに潜んでいるかもしれない。霞のかかった湖水の上の御殿だか屋敷だかの話より、よほど信憑性がある。
そしてみなほは、その危ない輩のもとから来た。場所をどうにか聞き出さねば、と宮司は思った。
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