水霊の贄 孤独な少女は人ならぬ彼へ捧げられた

春想亭 桜木春緒

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第三章

密 十

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 お許し下さい。
 龍彦様をお許し下さい。
 そればかりを祈った気がする。沈みゆく目で、水面の明かりを見上げても、息が出来なくなってからも。


 初めに感じたのは、寒さだった。
 それからふわりと柔らかな草の気配である。顔の横にゆれる緑の草が揺れた。
 みなほは、掌に土を感じた。小石と、草と。
 土の匂いが濃い。木々の葉の色も淡く、若葉にもならぬ芽吹きの姿が見て取れた。
 ゆっくりと身を起こす。身体が濡れた気配がない。髪も乾いている。湖水に落ちたはずなのに、不思議なことだった。
 湖水、とみなほは思っているが、あの場所は本当に湖沼のたぐいであったのかどうか、定かではない。
 水底に沈んだはずの身体は、生きていた。生きて、胸一杯に息を吸っていた。あの建物で感じていたように、身体に力はなくなっている。が、それは魂が消えるような心許なさではない。
 かつて、ほんの一年ほど前まで慣れ親しんだ、空腹の感覚であった。
 春なのか、と周囲を見渡してみなほは思う。
 龍彦に出会ったのは夏の祭礼だった。春になるほどの月日を、龍彦と過ごしたようだ。
 もう、会えないのだろう。

 身を起こして、気付いた。祭礼の夜と同じ、白絹の小袖を纏っていた。今は昼であるらしい。日差しの下で、小袖が眩しいほど白い。
 空も青い。
 水の音がしていた。
 みなほは、ちょうど祭礼の時に社が建てられた跡に横たわっていたらしい。
 しばし、御子ヶ池を見つめる。澄んだ水が青い。空を映している。
 魚影が揺れた。人の近寄らぬ御子ヶ池には魚が多く住んでいる。あの中に、鮎や鱒は居たのだろうか。神のものである御子ヶ池では誰もすなどりする者はない。
 寒いと感じる。龍彦のあの御殿では、感じたことがない。いつも肌に優しい温度が身体を包み込んでいた。
 ここは、厳しい。
 ようやく雪の覆いの取れた土が、蔵していた種子達を芽吹かせている。まだ春になったばかりの気配である。
 そっと、掌で両方の肩から腕を撫で下ろす。少しは温まる。
 この先どうしたらいいのだろう。
(あのまま、ずっと、本当は)
 龍彦の側に居たかった。彼に抱かれて、甘やかな心地に酔い続けていたかった。
 そっと御子ヶ池に近づき、掌を冷たい水に浸す。
「生きているわ。あゆ、ます、心配しないで」
 御子ヶ池と、あの湖水が繋がっているのかどうかは知らぬ。確証はないが、水ならばあの場所の眷属には聞こえるのでは、とみなほは思う。半ば願いでもあった。
(生きています、どうか伝わって)
 龍彦を捕らえたという眷属にも、伝わって欲しい。みなほはあの場所を出た。
「私は戻りました。龍彦様は何も罪を為していません。どうかもう、龍彦様をお許しください」
 冷たい水を感じながら、みなほは訴えた。
 龍彦様をお許しください。声に出し、胸に叫んだ。
 届け、届け! と願う。開いた指を閉じ、水面を叩いた。お許しください。昂ぶるままに水面を叩いた。顔も髪も濡れた。

 かみしめた奥歯が、ふと緩む。はあ、と吐いた息が空に消えた。
 この先どうしたら、と考えると途方に暮れる。祭礼の夏から、少なくとも半年は過ぎたのだろう。

  居なくなれば良い
  帰ってこなきゃ良い

 聞こえるはずのない声に、みなほは耳を塞ぐ。踏みしめた地面の先には、あの声が待っている。
 それでも、この場所に留まっては居られない。雨風をしのぐ手立てもなく口にするべき糧もない。
 村に帰るのは嫌だが、この場ではないどこかへ行かねばなるまい。さもなければ御子ヶ池の傍らに骸をさらす事になってしまう。御子ヶ池の風景を汚すのは、みなほは嫌だった。
 身を起こし、何度も御子ヶ池を振り返り、振り返り、みなほはようやく歩き出す。
 雨風をしのぐ場所を、と探す。
 人里へ行かねばと考えたが、もしや屋根のある場所があるならそこで過ごせば良い。木のうろでも洞穴でも構わない。
 過去に見知った景色がある。獣道のようなところをたどって、何度か御子ヶ池まで通った道だろうか。その道をたどると、村に帰ってしまう。
 違うほうへと道を逸れた。迷うことは怖くない。
 贄となるための長い支度の間に、宮司に聞いたのだ。御子ヶ池の麓六か村では池を神と崇めていると。そのために村で回り持ちで贄を立てると話していた。
 ならば、下ったどこかに別の村がある。できるなら、見知らぬ人達のところで生き直したい。
(龍彦様……)
 二度と会えないだろう。
 語り合う誰もなく山の道を分け入りながら、みなほはただ龍彦の面影を心に抱いた。

 この世の人ではなかった。
 どこか、見知らぬ湖水を住処とする精霊の一族。御子ヶ池の神だった。みなほを救ってくれた、神だ。
 贄となることとなって、みなは孤独ではなくなった。村長も真由も優しくしてくれた。偽りの優しさであったとしても、おかげでみなほは少し世間を広げることが出来た。
 独りよりは物を知ることが出来たと思う。それもこれも、龍彦の贄となることが決まったからだ。
(会いたい)
 脈絡もなく想いがわき上がる。会いたい。そして触れたい。あの腕に縋って、胸に抱かれたい。貫かれたい。
 もう二度と叶わない願いなのだろう。
 あるいはあの場所で過ごした日々のことは、全てが夢で会ったのかもしれない。
 夢ではなかったと、信じていたい。

 みなほはふと、手の下に触れた物を拾い上げた。
(ああ、夢ではなかった)
 大切に握った。


 上岡の村長の工兵衛が、その報せを聞いたのは二月も末であった。
「……みなほが?」
 騙して、真由の代わりに神事の贄に差し出したみなほが、行方知れずになって半年が過ぎている。
 贄を載せる輿の担い手達から、みなほが行方知れずになったと聞いて、どこぞの賊が入り込んで掠ったかと思っていた。そういった夜盗のたぐいは、いつでもうろついている。
 もしくは、担い手の若者達がみなほを嬲るうちに殺してしまったかとも考えた。そう思う村の者は多く、担い手たちは村でいささか白い目を向けられている。
(みなほは帰らぬと思っていた。そのほうが楽で良かったのにな)
 今まで一体どこに居たのか。それも解らないが、何より面倒なものが帰って来た。工兵衛は小さく舌打ちした。

 みなほは上の屋敷に近い、神社に居る。上の屋敷と神社はほぼ並びのような位置で、神社の方が山を少し登る。御子ヶ池の祭礼について、取り仕切るのがそこである。麓六か村には同じように神社がある。
 タラの芽やワラビを採りに山に入った村人が、御子ヶ池から下がった場所で見つけた。禁忌の地付近に立ち入った者を叩き殺すような、短絡に迷信を恐れる者ではなかった。それがむしろ残念だと工兵衛は思った。
 ごく木訥な中年の村人は、岩陰にひっそり身を潜めたみなほを見つけたのである。力なく弱った姿を気の毒に感じたのだろう。
 それに、祭礼で見た贄でもある。
 祭りの後、いつの間にかいずこかへ姿を消したみなほは、かつてのように忌み嫌われるだけの存在ではなくなった。畏怖を帯びた神秘的な存在として語られるようになっている。
 昨年の秋はかつてない豊作だった。社の下に美味い湧き水の池もできた。

 だから神社に届けられた。
 どんな顔をして帰って来たのか。工兵衛も気にはなる。
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