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第三章
密 九
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誰かの喜びとなることが出来るのは、嬉しいことだと、みなほは龍彦によって知った。
喜んで欲しいと願うことが嬉しかった。同時に、龍彦にも悦びを与えられた。龍彦はみなほが悦ぶことを喜んだ。
そうして喜悦を与え合うことが、幸せであった。
同時に、みなほに仕えるあゆとますの思いやりも知った。みなほと同じように、相手が嬉しいと思うことを喜ぶ。喜んで欲しいと願う。それが優しさであった。
この身を差し上げます、とまで言ってくれた。気持ちが嬉しくて、それだけで充分だった。
「おきさきさまが、お元気になってくださるなら」
「お願いだから、もう言わないで」
その問答も何度目だろう。
「私は、もう良いのよ。嬉しかったから、もう」
「私達は、いやでございます!」
「お願いですから、召し上がって下さい」
どうしようもない。二人の命を奪ってみなほが生きるべきなのだろうか。二人はそれを望んでいる。
みなほがこのまま衰弱していくなら、それはあゆとますの気持ちを無にすることになる。
だが己の命を長らえるために、二人の命をもらうことが、苦しい。
もし生き長らえるのなら、みなほを元気づけてくれる二人の顔を見ていたい。あゆとますを失ってまで、彼女たちの命を奪ってまで、己に命あることが良いとは、みなほには思えなかった。
「生きて下さいまし」
「おきさきさま、どうぞ生きるために、召し上がって下さいまし」
気持ちが嬉しく、苦しくて悲しい。
「お願いだから、もうそんなことを言わないで。もう、帰って。今日は、もう一人にしてほしいの」
「おきさきさま、でも」
「おきさきさま」
「……もう一日ぐらいなら、大丈夫。ね、お願い。決めるのは、明日にさせて。もう寝るから、帰って」
でも、と渋る二人を説き伏せる。あゆとますに呼びかける声は、しまいにはかすれてしまった。
それから、みなほはようやく独りになった。
龍彦が戻らない。
みなほはこの場所では、龍彦の精を受けなければ生きていられない身であった。
そもそもは、この場所に居るべき者ではない。龍彦に付属してようよう命を繋ぐような、そんな生き物になってしまった。
(ここでは、そう)
生温かい水に囲まれた御殿の中だけで、みなほは生活している。
湖水に触れてはいけない。そこは、龍彦のほかの眷属の者達と繋がっている。触れればみなほという物が在ることが知れてしまう。一度あの中に落ちたとき、みなほは酷く衰弱した。身体中から血を抜かれたように、力を失った。あのまま沈み続けたら、命も失ったに違いない。
村に居た、以前は、どうだったのだろう。
誰とも言葉を交えることもなく、疎まれて、冷たい目を向けられながらも、生きていた。みなほが居て良い場所は、小さな小屋の中だけだったが、村の外では糧を得ることが出来ていた。
春の山菜、秋の木の実。それらを得ることは、可能だった。それと僅かに与えられる穀物と。みなほはそれで身を養っていた。
この場所では。
龍彦が戻らなかったら、あゆとますが言うように、二人を食べなければ命を失うらしい。
それなら、と思った。
この湖水に繋がる龍彦の眷属達は、みなほがこの場に在ることを許していない。
あゆとますが話していたことを思い出す。湖水に落ちて、みなほの存在が知れた故に、龍彦は咎めに遭っているらしい。
(ここも、居てはいけない場所)
そうか、と思った。みなほが居て良い場所ではなかった。
人がましく糧を口にして生きていられる場所でない。薄々感じていた。だが、そうまで許されざる者とは、思っていなかった。
(龍彦様は、私を喜んで下さったから、ここは良いのだと思い込んでいただけだったんだ)
居なくなれば良い。
かつて村の中でみなほに向けられた思いを、みなほは己に向けた。
ここで、みなほがこの場に在ることが龍彦の咎になるなら、居なくなれば良い。みなほを生かすために、あゆやますの命が必要なら、みなほが居なくなれば良い。
それだけのことだ。
手を床に付き、身を起こそうとした。だが膝が伸びない。赤子のように這って、みなほは廊下の端を目指した。
水面に顔が映る。影になって、目鼻の色まで解らない。雨のように雫が落ちた。みなほの目から滴っている。
どうやってこの場所に来たのか、みなほは覚えていない。龍彦に連れられ、いつの間にか居た。
祭礼のために御子ヶ池の畔に建てられた社から出るときにも、扉を通っていない。龍彦の腕に抱かれて、身を委ねて目を閉じているうちに淡い霞のかかった湖水に囲まれた御殿に立っていた。
(龍彦様)
心の中で名を呼んだ。
祭礼の夜、初めて触れられたときは怖かった。もう少しも怖くない。人ならざる美しい容貌を思い出すと、吐息に甘い熱が籠もる。
(会いたい)
そして触れたい。触れて欲しい。
水際の縁に置いた拳の甲に涙をこすりつけた。嗚咽の声を殺す。
この場に在るために、あゆやますを犠牲にするなら、みなほは飢えたまま己の命を絶ってしまいたいと思う。
しかし、それではきっと優しい二人が苦しんでしまう。
やはり人の身は、人の世に在るのが相応しい。
帰るのだ。あの冷たい視線のただ中に。息苦しい、あの地面の上の世に帰る。
どれほど苦しくとも、あゆやますを食うよりはましだ。
みなほは、力を振り絞って立ち上がった。足を引きずりながら、建物の床から張り出した縁を歩む。水面に近づくための階段の近くに、あゆやますたちと興じた玩具が置いてある。
艶やかな漆塗りの箱を開け、貝合わせの貝をつかみ出した。袂にそれをがしゃがしゃと詰め込む。身体から力が失せているから、重みで腕が上がらなくなった。
「もうし、聞こえているなら、聞いて下さい」
帰りたいものか。
許されるなら、生きていられるのなら、ずっとここに居たい。
おきさきさまと呼びかけるあゆやますの声や顔。叶うなら、これからも彼女たちの顔を見て、言葉を交わして、罅を暮らしていたい。
我が故に生きる者よ……。
龍彦の言葉が耳に蘇る。慈しみに満ちた声だった。
誰が、あの声と離れてしまいたいなどと、思うものか。
「どうか、龍彦様をお許し下さい。龍彦様をお召し放ち下さい」
身体を波打たせ、精一杯の力を込めて、空に、湖水に、訴えかけた。
湖面に向いて、みなほは膝をついた。貝を詰め込んだ袖の重みで、立っているのが辛かったからだ。
「私が居ることがいけないのなら、私はここから消えても構いません。だから、どうか、お許し下さい」
湖水に沈めば、息の出来ないみなほは死ぬかもしれない。
「あゆとますを、許して下さい。どうか、私を生かしておけないのなら、命を奪って下さい。でもどうか、あの子たちには、私は死んだと言わないで、元の世に帰ったのだと言って下さい」
どうか、とみなほは手を合わせて固く目を閉じた。
「龍彦様を、お解き放ち下さい」
さようなら、と呟いた。
愛おしい人。
愛おしいと、言ってくれた人。
人ならぬ精霊か、神であったのかわからないが、誰よりも、美しく、優しく、温かだった。
みなほは建物から、落ちた。同心円状のわずかな波紋を残して、湖水に静かに沈んでいった。呼吸を塞ぐ湖水に、みなほはわずかにもがき、袖に詰めた貝の重みで底へ底へと沈みゆく。
板敷きの上には、袂から零れた貝殻が一つ。
喜んで欲しいと願うことが嬉しかった。同時に、龍彦にも悦びを与えられた。龍彦はみなほが悦ぶことを喜んだ。
そうして喜悦を与え合うことが、幸せであった。
同時に、みなほに仕えるあゆとますの思いやりも知った。みなほと同じように、相手が嬉しいと思うことを喜ぶ。喜んで欲しいと願う。それが優しさであった。
この身を差し上げます、とまで言ってくれた。気持ちが嬉しくて、それだけで充分だった。
「おきさきさまが、お元気になってくださるなら」
「お願いだから、もう言わないで」
その問答も何度目だろう。
「私は、もう良いのよ。嬉しかったから、もう」
「私達は、いやでございます!」
「お願いですから、召し上がって下さい」
どうしようもない。二人の命を奪ってみなほが生きるべきなのだろうか。二人はそれを望んでいる。
みなほがこのまま衰弱していくなら、それはあゆとますの気持ちを無にすることになる。
だが己の命を長らえるために、二人の命をもらうことが、苦しい。
もし生き長らえるのなら、みなほを元気づけてくれる二人の顔を見ていたい。あゆとますを失ってまで、彼女たちの命を奪ってまで、己に命あることが良いとは、みなほには思えなかった。
「生きて下さいまし」
「おきさきさま、どうぞ生きるために、召し上がって下さいまし」
気持ちが嬉しく、苦しくて悲しい。
「お願いだから、もうそんなことを言わないで。もう、帰って。今日は、もう一人にしてほしいの」
「おきさきさま、でも」
「おきさきさま」
「……もう一日ぐらいなら、大丈夫。ね、お願い。決めるのは、明日にさせて。もう寝るから、帰って」
でも、と渋る二人を説き伏せる。あゆとますに呼びかける声は、しまいにはかすれてしまった。
それから、みなほはようやく独りになった。
龍彦が戻らない。
みなほはこの場所では、龍彦の精を受けなければ生きていられない身であった。
そもそもは、この場所に居るべき者ではない。龍彦に付属してようよう命を繋ぐような、そんな生き物になってしまった。
(ここでは、そう)
生温かい水に囲まれた御殿の中だけで、みなほは生活している。
湖水に触れてはいけない。そこは、龍彦のほかの眷属の者達と繋がっている。触れればみなほという物が在ることが知れてしまう。一度あの中に落ちたとき、みなほは酷く衰弱した。身体中から血を抜かれたように、力を失った。あのまま沈み続けたら、命も失ったに違いない。
村に居た、以前は、どうだったのだろう。
誰とも言葉を交えることもなく、疎まれて、冷たい目を向けられながらも、生きていた。みなほが居て良い場所は、小さな小屋の中だけだったが、村の外では糧を得ることが出来ていた。
春の山菜、秋の木の実。それらを得ることは、可能だった。それと僅かに与えられる穀物と。みなほはそれで身を養っていた。
この場所では。
龍彦が戻らなかったら、あゆとますが言うように、二人を食べなければ命を失うらしい。
それなら、と思った。
この湖水に繋がる龍彦の眷属達は、みなほがこの場に在ることを許していない。
あゆとますが話していたことを思い出す。湖水に落ちて、みなほの存在が知れた故に、龍彦は咎めに遭っているらしい。
(ここも、居てはいけない場所)
そうか、と思った。みなほが居て良い場所ではなかった。
人がましく糧を口にして生きていられる場所でない。薄々感じていた。だが、そうまで許されざる者とは、思っていなかった。
(龍彦様は、私を喜んで下さったから、ここは良いのだと思い込んでいただけだったんだ)
居なくなれば良い。
かつて村の中でみなほに向けられた思いを、みなほは己に向けた。
ここで、みなほがこの場に在ることが龍彦の咎になるなら、居なくなれば良い。みなほを生かすために、あゆやますの命が必要なら、みなほが居なくなれば良い。
それだけのことだ。
手を床に付き、身を起こそうとした。だが膝が伸びない。赤子のように這って、みなほは廊下の端を目指した。
水面に顔が映る。影になって、目鼻の色まで解らない。雨のように雫が落ちた。みなほの目から滴っている。
どうやってこの場所に来たのか、みなほは覚えていない。龍彦に連れられ、いつの間にか居た。
祭礼のために御子ヶ池の畔に建てられた社から出るときにも、扉を通っていない。龍彦の腕に抱かれて、身を委ねて目を閉じているうちに淡い霞のかかった湖水に囲まれた御殿に立っていた。
(龍彦様)
心の中で名を呼んだ。
祭礼の夜、初めて触れられたときは怖かった。もう少しも怖くない。人ならざる美しい容貌を思い出すと、吐息に甘い熱が籠もる。
(会いたい)
そして触れたい。触れて欲しい。
水際の縁に置いた拳の甲に涙をこすりつけた。嗚咽の声を殺す。
この場に在るために、あゆやますを犠牲にするなら、みなほは飢えたまま己の命を絶ってしまいたいと思う。
しかし、それではきっと優しい二人が苦しんでしまう。
やはり人の身は、人の世に在るのが相応しい。
帰るのだ。あの冷たい視線のただ中に。息苦しい、あの地面の上の世に帰る。
どれほど苦しくとも、あゆやますを食うよりはましだ。
みなほは、力を振り絞って立ち上がった。足を引きずりながら、建物の床から張り出した縁を歩む。水面に近づくための階段の近くに、あゆやますたちと興じた玩具が置いてある。
艶やかな漆塗りの箱を開け、貝合わせの貝をつかみ出した。袂にそれをがしゃがしゃと詰め込む。身体から力が失せているから、重みで腕が上がらなくなった。
「もうし、聞こえているなら、聞いて下さい」
帰りたいものか。
許されるなら、生きていられるのなら、ずっとここに居たい。
おきさきさまと呼びかけるあゆやますの声や顔。叶うなら、これからも彼女たちの顔を見て、言葉を交わして、罅を暮らしていたい。
我が故に生きる者よ……。
龍彦の言葉が耳に蘇る。慈しみに満ちた声だった。
誰が、あの声と離れてしまいたいなどと、思うものか。
「どうか、龍彦様をお許し下さい。龍彦様をお召し放ち下さい」
身体を波打たせ、精一杯の力を込めて、空に、湖水に、訴えかけた。
湖面に向いて、みなほは膝をついた。貝を詰め込んだ袖の重みで、立っているのが辛かったからだ。
「私が居ることがいけないのなら、私はここから消えても構いません。だから、どうか、お許し下さい」
湖水に沈めば、息の出来ないみなほは死ぬかもしれない。
「あゆとますを、許して下さい。どうか、私を生かしておけないのなら、命を奪って下さい。でもどうか、あの子たちには、私は死んだと言わないで、元の世に帰ったのだと言って下さい」
どうか、とみなほは手を合わせて固く目を閉じた。
「龍彦様を、お解き放ち下さい」
さようなら、と呟いた。
愛おしい人。
愛おしいと、言ってくれた人。
人ならぬ精霊か、神であったのかわからないが、誰よりも、美しく、優しく、温かだった。
みなほは建物から、落ちた。同心円状のわずかな波紋を残して、湖水に静かに沈んでいった。呼吸を塞ぐ湖水に、みなほはわずかにもがき、袖に詰めた貝の重みで底へ底へと沈みゆく。
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