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第三章
密 八
しおりを挟む湖水に小さな波が立ち、あゆとますが顔を見せた。
「おきさきさま」
「おきさきさま」
「おはよう」
みなほは横たわったままで二人に声をかける。何を言って良いか解らない。身を起こすことが出来ない。
「おきさきさま、お辛いのでございますか?」
あゆが今にも泣きそうな顔になっている。みなほを心配しているのだ。
(嬉しい、というのも変だけど)
みなほの身体の具合を心に掛け、苦しげな様子が辛いと思ってくれる。温かく優しい気持ちがあゆにもますにもある。嬉しかった。
「ありがとう。二人とも」
誰かの心の優しさに触れることが、己の心を温める。乾きを潤す。龍彦に出会わなければ、あゆやますにも会えなかった。二人の優しい思いを知ることもなかった。
このまま命が無くなるとしても、優しい思いの中で果てるのなら良い。
「おきさきさま」
目を閉じかけた目蓋の隙間から、あゆとますが互いに目を合わせてうなずいたのを見た。
ざぶん、と大きな水音がして、みなほの顔にまで水がかかる。冷たくはないが、その感触に驚いて目を開いた。
目の前の床に一尺ほどの魚が二匹、跳ねていた。つやつやとした身体がうねり、跳ねるたびに飛沫が散って光る。
贄になると聞かされて村長の屋敷に住んでいた頃に、魚を食べたことがある。跳ね回る姿そのままに身をうねらせた魚に串を打ち、塩を振って炭火で焼いたものだった。非常に美味だった。
滋養に良いということで、日に一度は膳に上がっていた気がする。葉や根などの野菜より、食べると力になるのはよく知っている。
「おきさきさま」
聞こえてくる声は、あゆとますのものだ。だが二人の姿が湖水の中に見当たらない。
「おきさきさま」
何度も声をかけてくれるが、姿が見えず、不安になって、みなほは重い身体を起こした。床に手をつき、震えながら肘を伸ばしていく。
声がするたび、目の前の魚たちが激しく跳ねる。
「ああ……!」
この子達は、とみなほは目を見張った。
「おきさきさま、お辛いのですか?」
「どうか、早くお元気になってくださいまし」
「御子様のためにも」
どうか、どうか、とあゆとますの声が響く。
「私達を、どうぞ、召し上がって下さいまし」
「そのために御子様は私達を残されました」
鮎と鱒だった。
焼いた身がほのかな塩味とともに口の中で溶け崩れる風情は美味で、思い出すと口の中が潤うほどだ。炭火で焼いた皮が歯に触れるとぱりっと割れる。あの歯触りは嬉しいものだった。美味しくて、骨のそこここに付いた身をもしゃぶるように食べ尽くした。
大きく、よく肥えた魚たちが、みなほの目の前で跳ねている。
みなほは飢えている。記憶の中に在る魚たちの味が、空っぽの腹を刺激する。
「やめて、お願いだから……!」
「いいえ、おきさきさま、どうぞ」
「召し上がって下さい」
手を伸ばして、かぶりついてしまいたい衝動に駆られる。
「いやよ、いや!」
「私達は構わないのでございます」
「おきさきさまのお力になりたいのでございます」
みなほは拳を握りしめて、床にうずくまる。彼女たちの言うとおり、魚を食べれば身体の力は戻るだろう。心許ないほどの飢えから、逃れることも出来る。何より、腹が減っている。
「やめて!」
ぬめりを帯びた魚を掴んだ。鮎だった。せごしと言って、生の身体を輪切りにして酢味噌で食べることもある。あれも美味しかった。
目を閉じたまま、みなほは鮎を湖水に投げた。続いて鱒も拾って投げる。二つの水音がした。
たったそれだけの動作だけで、肩が波打つほど息が切れる。
「おきさきさま、どうぞ」
「お元気になるために」
「お願いだから、二度とそんなことを言わないで」
悲しくなってしまった。
「二人を、食べるなんて、できない……!」
かすれた声で叫び上げる。胸が苦しい。吐きたいほど空腹であることは確かだ。身体に力がない。苦しみは、もしかしたら魚を食べたら治まるかもしれない。
だが、心が苦しい。
あゆもますも、可愛い少女達で、みなほを大切に思ってくれた。心を温めてくれた。
「おきさきさま、人は、そういうものではありませんか」
「眷属の者達は、皆、そうして人に力を与えています。だから」
あゆとますの言うことは確かだ。みなほもかつてそうやって、魚を食べて力を得た。何匹、口にしたか覚えていないが、膳に上がれば喜んで食べた。
「私達を召し上がっても、明日にはまた」
「同じあゆとますが参りますよ。気になさらないで」
「同じじゃない。同じではないわ」
貝あわせが上手で、みなほに勝って困った顔をするあゆは、一人しか居ない。一緒にがんばろう、と言って大らかにうなずくますは、やはり一人だけだ。代わりはいない。
「確かにこれまで、貴方たちの仲間の命を頂いてきたけれど」
「そうでございましょう?」
「それゆえ」
「お願い、もう言わないで」
村の外れに川があって、御子ヶ池に湧いた水もそこに注ぎ込んでいただろう。魚は、恐らくその辺りから獲った物だ。
どんな顔をして、どんな暮らしをしてきた魚たちだったのだろう。やはり貝合わせが上手だったり、双六が強かったり、したのだろうか。
そんな命を、頂いてきたのだろうか。魚たちにとっては、人は何と残酷な生き物だったのだろう。
「あゆと、ますを、私は食べられません」
「そんなことおっしゃらないで」
「おきさきさまがお命をつなぐためなら、私達は喜んでこの身を差し上げますのに」
「おきさきさまと、御子様が、お元気になるためなら」
「私達は嬉しいのでございますよ」
誰かの喜びになるのなら、力になるのなら。
それが嬉しいと思う気持ちは、今のみなほには理解ができる。
こういうときは、何と言えば良いのか。
「ありがとう、……二人とも、ありがとう」
そうだった。
そう言うのだよと、ずっと以前、生きていた頃の父と母に教わった。兄や姉も教えてくれた。父母やきょうだいの命があったころ、みなほの命も生まれてきたのだった。
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