水霊の贄 孤独な少女は人ならぬ彼へ捧げられた

春想亭 桜木春緒

文字の大きさ
上 下
9 / 32
第二章

祈 三

しおりを挟む
 戸惑いの視線を、工兵衛は怯えと取ったらしい。
「わしが居るゆえ、安心おし。ご挨拶を、と言うからそのときに名前を言うんだ。その後は何も言うことはない。次の間で、ただお辞儀をしておれば良い」
 上の屋敷は広い。
 その奥の客間に国主とその子息が居る。朝餉を終えて、真由を相手に寛いでいた。
「養い子にご挨拶をさせていただきたく」
 工兵衛がそう言って、みなほを従えて客間の次の間に入った。
 みなほを一人だけ次の間に残し、工兵衛は客間の中に入り、真由の傍らに座した。
 みなほは敷居をまたぐことなく、その場に正座して膝の前に手を付いて頭を下げた。高貴の人を直接に見てはならないと工兵衛は言った。それゆえに顔は決して上げない。
 ただ指の間の板敷きをみなほは見て、平伏する。
「幼き頃に両親を失いまして、我が家の離れにて養っておる、一族の娘でございます」
 工兵衛は国主と子息に説明をする。
 そのうえで、申し合わせどおりに
「みなほ、ご挨拶を」
 工兵衛がみなほに呼びかけた。
「みなほでございます」
 教えられたとおりに、みなほは声を発した。一間を隔てて遠くの人に話しかけるなど初めてであり、力の無い声は震えた。
「いくつであろう」
 国主が言った。
 みなほは自分に問われていると気づいたが、対処がわからない。直に答えては成らないと先ほど工兵衛に言われている。
「十五歳になります」
 国主の傍らから工兵衛が言う。その声が聞こえて、みなほは喉にせりあがった緊張が腹に下りていくのを感じた。
 まかせておけと言う工兵衛の声が耳によみがえる。本当にただ頭を下げて居ればいいのだと悟ると、少し肩の力が抜けた。実際は十六歳なのだが、それを言う必要もあるまい。
「養い子であるか」
「左様でございます。遠き縁者になります。今は、養女として、我が娘でございます」
「みなほと申したか。顔を上げよ」
 国主の子息が言う。彼がみなほに興味を示したことに、工兵衛の傍らの真由が少し不快げな表情をする。
 だが、そう言われては拒むわけにもいかない。
「みなほ、顔をお上げ」
 工兵衛はそう告げざるを得ない。
 打ち合わせに無かったことであるが、工兵衛が言うからには顔を上げなければならない。沈黙の後、はい、と小さな声で言いながら、少しだけみなほは顔を上げた。
「これはまた愛らしい」
 若殿は自らの顎先をなでながらみなほへの讃を述べた。
「ありがとうございます」
 工兵衛としては、不本意であったが、我が娘であると言ってしまった以上、礼を言うしかない。
「しかしずいぶんと細いな。もう少し肥えたほうがいい」
「食の細い娘でございまして、こちらの真由ともども、案じております」
 背中に冷や汗を感じながら工兵衛は苦しい言い訳をする。みなほにも聞こえているだろう。彼女はどう思うのだろう。この場で、十分な糧など与えられていない、とみなほに反論されては困る。工兵衛も真由も嫌な汗が浮かんだ。
「目が綺麗だの。いま少し肥えれば見違える」
「お褒めいただき光栄でございます。……こ、このみなほは」
 まさか、真由をやめて、みなほを城へ、などと若君が言い出しはしないかと、工兵衛は危惧しながら言う。
「みなほは、この秋の祭礼で大役を務めることとなっておりまして」
 いささか強引に、話を変えた。
 みなほは初めて耳にする話に、驚いて工兵衛を見た。彼は顔を赤くして、奇妙なほど汗をかきながら、国主とその子息だけを見て言葉を継いでいる。
 父の傍らで、娘の真由は静かな様子でみなほに横顔を向けていた。目は、父と同じく客人だけを見ている。言葉を継ぐ工兵衛より落ち着いた顔だった。 
「この山の頂の龍神湖をご存知でございますか?」
「無論、存じている。深山の奥の奥、めったに姿を現さぬ霧の深い湖であると。まこと龍神の住処と呼ぶにふさわしき神秘の湖であったな」
 国主が重厚な声で答えた。
「その少しふもとに、龍神の御子の成したと言われる池がございます。御子ヶ池と呼び習わしております。池の底からこんこんと澄み切った水の湧く、それはそれは美しい池でございます。これまでに涸れたことの無い豊かな湧き水の池でございます。我が村を含む麓の六か村の豊穣は、まさにこの御子ヶ池の恵みであろうかと、皆、感謝しております」
「なるほど」
「それゆえ我が村を含め、御子ヶ池の恵みを受ける村々はかの池を神と崇めております。当地の社も御子ヶ池の神、龍彦様を祭神としてございます。毎年秋には感謝の祭りを行いますが、今年は辰年ゆえに大祭となります。その大祭には、御子ヶ池の龍彦様に贄を差し上げるのでございます」
「にえ? 生贄か」
 剣呑な響きの言葉に、国主が眉を寄せて怪訝な顔をした。
「贄と申しても命を奉げるわけではございませぬ。いわば龍彦様への一夜の嫁として、献上するのでございます。贄を差し上げるのは龍彦様を祭る六か村の持ち回りでして、今年は我が村からと定められました」
「それがこのみなほであるのは、何故であろうか?」
 若君が問う。よほど、みなほを気に入ったのか。
「神籤により決めまする。昨年の秋の例祭の折、六か村の社の宮司が寄り合いまして、神籤を引きました。そこで定められた者が、贄と成ります。神籤、すなわち、神の思し召しで選ばれし贄でございます」
「なるほど。それでは」
 仕方が無い、と国主が息子に言った。
「神の嫁ではのう」

 おさがり、と告げられて、みなほはまた深々とお辞儀をして立ち上がった。
 少し足がしびれた。しかし、足の感覚などよりも、たった今聞いた話で頭がくらくらとするようだった。
 客間を出て、濡れ縁の廊下を渡り、屋敷の中庭に近い渡り廊下を通り、先ほど通ってきた経路を思い出しながら台所へたどり着く。屋敷に入ったのも台所からだった。
 さがれといわれてもみなほには上の屋敷に居る場所はない。台所から勝手口を出て、北の裏門をくぐって、住まいの小屋へ戻る。来たときは侍女らと一緒だったが、帰りは一人だった。
 土間からの上がり框に腰を下ろす。ひどく背中がだるいような疲労を感じた。
 暗い室内の隅に、布切れの塊がある。それが今朝ほどまで身につけていた衣類だと解った。
 今みなほが身に纏っているのは、真由の御下がりだ。しなやかな生地の、綺麗な浅葱色の着物である。
 それに比べればなんと惨めなボロ布だろうか。膝の上にそのボロを持って、なにやらわからぬような涙に襲われて、ふと膝に突っ伏して泣いた。
 朝まで身につけていた襤褸切れが、獣じみた臭いに感じた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました

加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

ハイスペック上司からのドSな溺愛

鳴宮鶉子
恋愛
ハイスペック上司からのドSな溺愛

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...