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第二章
祈 二
しおりを挟む家族、と工兵衛は言った。
みなほも遠目に見たことのある、あの美しい真由の妹のようなものだと、言った。そもそも一族だったと。
わが娘、そう思ってくれるのだという。みなほの胸がどきどきと鳴る。
工兵衛は、故意に眉間に人の好さげなしわを寄せ、少し悲しそうなような笑顔を作って、言葉を継ぐ。
「あまりわしらが関わると、みなほには煩わしいかと思ってはいたのだが」
良いながら、ずるいことを言うものだと彼自身が感じた。
みなほはその言葉のすぐ後に、はじけたようなしぐさで工兵衛を見上げた。目を見開いて感激のような色を浮かべる。
「しかしながら、国主様が来ているのに、うちの娘であるお前が挨拶をしないというのも失礼なものだ。もし大丈夫ならば、今日、みなほも挨拶に来なさい」
「挨拶……?」
「今、侍女達も来ているから、着替えを手伝わせよう。綺麗な格好でなければ、国主様に失礼だからね」
きょとんと工兵衛を見上げるみなほに言い募り、念を押す。
「良いね。わかったね、みなほ」
「はい。そうします。わかりました。村長さま」
少し弾んだ口調でみなほは答えた。
それから上岡の屋敷内の侍女たちが三人みなほの小屋に入った。
「しっかりやっておくれ」
と命じる工兵衛は入れ違いに出て行く。
みなほはどこか浮き立ったような気持ちになった。
他人の温かい言葉と、優しい笑顔を、間近で見て聞く。幼いころにはそういう経験もあったのだろうが、もう忘れて、記憶にはない。十四歳の頃までみなほに食料を届けてくれたばあやも、みなほに笑顔までは見せなかった。
人の笑顔が、これほどうれしいものだとは。みなほは胸を熱くした。
「みなほ、こっちへ」
侍女たちがみなほに、座れ、立て、と言う冷たい口調も、みなほには暖かいものに響いた。
みなほは土間に持ち込まれた大きなたらいで、頭の先からつめの先までくるくると洗われた。親や兄弟姉妹以外の人の手に体を触れられるなど、記憶にある限り初めてのことで戸惑ったが、悪い心地ではなかった。
髪を米のとぎ汁に浸し、布で拭いながら髪を潤わせるために椿の油を染ませた櫛を通す。
侍女の一人が、へえ、と少し感心したように隣の女に言う。
「肌は綺麗なんだねえ」
「若いからね。まだ十五か六とかだろ? ばあさんみたいな頭はしてたけどさ」
答えるほうは鼻先で笑いながら、みなほに着せ掛けるための洗いざらしの肌着を広げていた。
「ああいやだ。この着物」
先ほどまでみなほが着ていた、着物というより古布を継ぎ合わせただけの襤褸といっていい布地の塊を、侍女の一人がさも汚らわしそうに指先でつまんで部屋の隅に放った。
みなほはその様子を見ていない。髪を拭われながら、硬く目蓋を閉ざしている。
ほれ、と侍女が言いながらみなほの腕を肌着の袖に通す。
着せられた着物は、綺麗な浅葱色だった。その袂を眺めたみなほは、御子ケ池の水の色のような着物を着せてもらえたと解って嬉しくなった。
「上等のだよ。真由様のお下がりなんて、あんたにはもったいないくらい」
「上等……」
良い物という意味なのだろうと思う。みなほが今まで触れたこともないしなやかな生地でできていた。
髪を整えられ、きれいな物を身につけて、みなほは侍女たちの目にも人並みの娘らしく見えるような装いが出来上がった。
ふん、と侍女たちはみなほを斜《はす》に見る。それでもみなほはようやく触れ合った人々が嬉しかった。
「ありがとう」
記憶の限り、こういうときに使うべき言葉なのだろうと思い起こし「ありがとう」と何度も繰り返した。笑顔になっている。
そのあとみなほは女達に追い立てられるようにして、上岡の屋敷の裏口をくぐった。
「ああ、もう良いからさ。何度言うんだい?」
その間にも何度も、みなほは侍女たちに礼を繰り返した。侍女たちは、互いに顔を向けながら、彼女たち自身の頭に指先をつけ、ここがこうだからしかたないやね、というような表情で目を見交わしていた。
しまいに、うっとうしいね、とまで侍女達はみなほに言った。そのころようやく勝手口から屋敷の台所に上がった。
「こちらへおいで、ご挨拶をしよう」
村長の工兵衛がみなほを迎えた。
良いかね、と彼は言う。
「みなほでございます、とだけ言って後は頭を下げておればよい。それだけのことだ。できるね?」
「はい」
こくりとみなほは頷いた。
濡れ縁の廊下で、朝の好天の空を映したか、みなほの目が青く澄んで見える。先ほど、みなほの家の戸口で会ったときと身なりが一変した。そうさせたのは工兵衛であるものの、その変容には驚くばかりだ。見ようによっては美しくさえ思える。もともと目鼻立ちは悪くなかった。
みなほの父を工兵衛は知っている。先々代まで一族の長の家柄であったが、それ以前にそもそもは高貴な流人の血筋、という言い伝えもある。
どこか祖先の血を思わせるものが、みなほの父の容貌には漂っていた。腺病質に整った面差しだったことは記憶にある。その血を、みなほは正しく引いている。くっきりと刻まれた眼裂が鮮やかで、瞳を煙らせる睫毛が長い。
しかしこれまでの食餌の事情もあって顔には肉付きが乏しい。目ばかりがぎょろぎょろと大きく、鼻筋も顎も華奢でありすぎる。部品の位置は整っているが、どこか危うい均衡に成り立った容貌だった。
みなほが親兄弟を失ってから、村長の責任として生き残った彼女に糧だけは与えるように指示した。それが満足な物であるかどうかまで工兵衛は確かめたことはない。みなほは十五歳か十六歳くらいかと記憶している。その実際の年齢に追いつかぬ、小柄で細い体格を見る限り、食料は十分ではなかったと解る。
工兵衛は同情でみなほを見ていない。
糧が不足であったことを、国主の父子に告げられては都合が悪い。
「名前だけ言えばよい。後のことはわしに任せておけば良い。安心おし。偉い方と話すのなど初めてであろう。怖くはないか?」
怖いも何も、人と口を利くこと自体がみなほには不慣れなことだ。怖いかどうかもよく解らない。問われて、戸惑う。
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