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第二章
祈 一
しおりを挟む神籤の祭から半年ほど後。
春の暖かな日差しが降り注ぐ頃に、上岡の上の屋敷に来客があった。
国主本人と、その子息の若殿が現れた。
村の桜が見事であるとは、近隣にも聞こえたものだった。そのための花見に来たという。それを理由として、世に隠れた佳人であると評判の真由を、見に来たのである。
上岡の屋敷に入る華やかな行列を一目見ようと村人が群れる。
村長の一族は、挙げて、国主と若殿を歓迎するために屋敷に集い、饗応を尽くした。
彼らをもてなす人数の中には当然、工兵衛の娘の真由も含まれている。
ある意味では工兵衛の目論見どおり、若殿が、美しい真由をいたく気に入り、城へ参れとしきりに言った。
贄の件がなければ、工兵衛も真由もその申し入れを二つ返事で承諾したことだろう。
しかし、真由は神前の籤により、次の秋の祭礼で御子ヶ池の男神に捧げる贄に定められた。本人も父親も、それを了と思わなくとも、決められたことだ。無作為の神籤に引かれたということは、神に選ばれたことと同意義である。
御子ケ池の神など、本当はどのようなものか、長く祭礼を続けている村の人々も、宮司さえも知らない。
それでも「神」と呼ばれる精霊への畏怖は、人々の心の間には未だ生々しく息づく。
御子ケ池は、その麓の六か村にとって、その初めを思い出せないほど永い間の豊穣をもたらしてくれた水源である。
感謝の念もあり、もし万が一、池の水が涸れたら、という恐怖も大きい。
工兵衛は現世の利に敏く胆の太い男だ。だが御子ケ池の神の贄となることを、やめてしまえ、と娘に言えるほど不遜ではない。神と呼ばれるモノへの敬虔な畏れは、いかに世間ずれしていても胸の底には残っている。
しかし、その祭礼の贄となるという事を明かして、国主の子の誘いを断ることもまた出来かねる。贄とはどういうものかと訊ねられたくはない。いずれ、贄となった後には、その贄は傷物になるかもしれぬと知られたくない。
工兵衛も真由も、懊悩に苛まれた。
真由の苦悩は贄となる本人であるだけに一層深い。本当ならば、悪い噂のある贄になどなりたくない。なろうことなら避けたい。もし避けたとしたら神の罰があるのではないか。その畏れがどうしても胸に刺さっている。
しかし、どうして贄となるように選ばれてしまったのだろうかという憤りもある。
迷信だ、と言い張れるほどに真由も気の強い娘ではない。
真由は悲しくなった。
真由を求めている若殿は、実に魅力に富んだ青年である。富裕な地位の生まれであるせいか、上品で鷹揚であり物腰も和やかで、国主が選んだ美女を母に持つだけに、美男であった。二重の目蓋が晴天のような光を帯び、鼻筋が通って口元が凛々しい。
真由でなくとも、魅力的な青年と感じただろう。
それなのに、その彼を拒んで、誰もが嫌がる「贄」に真由はならねばならぬ。
悲しい、と真由は嘆いた。
「どうして次の贄が、私でなければならないのですか?」
言っても仕方が無いとわかっていても、真由は父にそれを訴えた。黙って耐えられない。
訴えて父親がどうにかしてくれるとは思っては居ない。それでも、どうしても胸の中に抑え続ける事はできなかった。
身もだえするほどに、真由は泣く。
ほんの一日、若殿と顔をあわせて僅かに言葉を交わしたのみだが、それでも真由は、彼に心惹かれてしまった。恋情というものを村の若者達には真由は感じなかった。しかし、今その胸に生じた甘美な痛みが何かと考えて、それが恋であるとようやく気づいた。
そう思うのに。そんな風に真由は嘆く。
あの若殿も、真由を気に入ってくれている。それなのに、断らねばならないほどに贄とは重大な使命なのか。
目が腫れ上がるほどに泣き悶える娘の姿を見て、工兵衛も苦しんだ。
しかし、不意に、工兵衛の目が壁のある一点を睨んで、ぎらりと光を帯び始めた。
次の朝のことである。
夜が明けきらぬ薄暗い払暁に、小さな地震があって、みなほは早くに目を覚ました。
身体を起こして身仕舞いをした頃、みなほの住む家の戸がほとほとと叩かれた。
そのような音は、かつて家族が生きていた頃に聞いたきりである。
「みなほ、みなほ。居るか?」
久しぶりに名を呼ばれている。
誰であろうかと不思議に思いながら、戸口に近づいて、誰? と訊いた。
「村長の工兵衛だ。戸を開けてくれぬか」
「はい、ただいま」
声など出すのは久しぶりだった。みなほの声が上ずってかすれている。
傷んだ戸をがたがたと開けた隙間から、みなほの頭が見える。
(ひどい姿だ)
工兵衛はあきれた。誰に忠告されることもないせいか、みなほの身なりはひどい。
髪はばさばさと伸び放題で、櫛も髪油も知らぬげに潤いも艶もない。色の褪せきった着物の襟元は脂か何かの汚れで真っ黒で、そして擦り切れている。袖口も擦り切れて糸が幾筋も飛び出しており、その袖自体が肩から取れかかっている。雑な縫い目で何度かかがった跡がある。
裄丈の足りない着物から飛び出した手足が白く、垢染みていないことだけが、工兵衛を少しだけ感心させた。
「いいかね、みなほ」
戸口に立ったまま、工兵衛はみなほに笑顔を向けて話した。
「この家は、我が家の離れであり、ここに住む以上はみなほもわしの家族のひとりということになる。家族の一人であるということは、つまり我が家の娘のようなものであろう? ほれ、そもそもみなほの家と我が家は一族であったというし」
娘であるということは、つまり工兵衛の子の真由より若いから、妹のようなものだ、と言った。
「だからね」
幼児を諭すような柔らかな口調で、みなほに言い聞かせる。
「今、こちらの母屋にお殿様がおいでだ。知っているだろう」
みなほは唇を結んだままでうなずいた。
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