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第一章
贄 一
しおりを挟む山の奥、その奥の高い山の頂きに、青く透明な湖があるという。
霧に包まれるその湖を、麓の人々は龍神湖と呼ぶ。
龍神湖の山の麓に、小さくも美しく碧い水を湛えた池がある。
池の底から澄み切った水を渾々と湧かせたその池は、龍神の子であろうかと人は言う。
ゆえに池の名を御子ヶ池と言った。
御子ヶ池を水源に取る山の麓の六か村は、御子ヶ池の聖霊を「龍彦様」と呼び習わし、おのおのの村の社の祭神にした。
秋の始め、稲刈りの前に御子ヶ池の恵みに感謝する祭礼を催す。
早くに出穂した稲穂を祭壇に供え、これまでの恵みへの感謝と共に、この年の豊作を祈願する。
辰の年は、大祭だった。
十二年に一度の辰年の祭礼には、御子ヶ池のほとりに社を築き、龍彦様へと贄を捧げる。
贄は、若い乙女に限られた。
その年の贄は、みなほ、という娘だった。
「きれいね」
輿に乗って現れた贄を見上げた童女が言う。
祭礼のその日。
夕暮れに、十日の精進潔斎を終えた贄が、その出身の村の社から現れる。
龍彦様へ捧げるための稲穂を手に捧げ、輿の上に贄が端座する。
白い水干、緋の袴。髪を項で束ね、顔に白粉を塗る。額に描かれた赤い五つの点で花の形に表された印が、その容貌を人ならぬもののように見せた。
八人の担い手に担がれた四角い朱色の輿に乗るみなほを見る村人たちはその神秘な姿に嘆息した。
東の空が藍色に、西の空が茜に染まる。
村人が並び、松明を掲げる。村の社から、御子ヶ池の社へとその松明の列は続く。そのゆらりと揺らぐ明かりの列は遠望して美しい。
見とれる視線に見上げられながら、贄のみなほは大きな瞳を伏せたまま。長い睫毛の陰から雫がときにころりと落ちていく。
不吉なことを。
涙に気づいた大人がふと呟いた。
どん、どん、どんどん
贄の行列を太鼓を叩く者達が先導する。
無言のまま太鼓を鳴らす。祭礼の間、仕手たちは言葉を発しない。道を開けよ、その意味で太鼓を鳴らす。同時にまた、それは祭神の龍彦様への訪問の知らせでもあった。
御子ヶ池の周辺に、人々はみだりに立ち入ってはならぬ。
身の丈より少し高いばかりの古びた石鳥居を、贄の列がくぐった。そこからは、まさに神域である。
どんどん、どん、どんどん
太鼓が鳴る。
少し道が急になる。贄の輿がわずかに斜めになった。
贄の列を照らすために祭礼に参加する六か村の者達が道の脇に並び、松明を掲げる。彼らも皆、無言となる。
三人の鼓手、贄の輿、その後ろに十に満たない六人の少女たちが巫女の姿で続いていく。幼い顔を緊張に引き締めて、黙って輿の後ろを歩く。
その後ろを、祭礼を見物する人々が続く。鳥居をくぐってからは皆、無言。神域の木立の気配がしんしんと迫る。
かがり火が、御子ヶ池に映って揺らぐ。天には月。いつしか空には紫紺の闇が広がっていた。
どおん、どおおん
ひときわ大きく打ち鳴らされた太鼓の後は無音。
祭礼の数日前に建てられた社の前に輿が着く。緋毛氈が敷かれた上に、贄のみなほの爪先が下りた。
輿に従っていた少女たちがみなほの前後に並ぶ。前に四人、後ろに松明を掲げた二人。前の四人のうち二人が、段を上って社の戸を左右に片側ずつの扉に手をかけ、開いた。みなほの前の二人がすっと左右に分かれ、扉を持つ童女たちの横に跪く。
祭壇の奥の丸い大きな鏡に、外の松明が映る。存外な明るさに、みなほはわずかに驚いた。
みなほは一人で社の中に足を踏み入れる。床がきしむ音がする。中を見渡して、麓の社から手に持っていた稲穂を、鏡の前に置かれた三方に捧げた。
振り返り、童女の一人から松明を受け取り、室内を照らす。
それから祭壇の左右の端に置かれた燭台に松明から火を移す。おもむろに振り向いて、少女の一人に松明を返した。
同時に二人の少女が社殿に入り、みなほの身体から水干と緋の袴を奪う。白絹の小袖一枚のみなほは、祭壇に相対してただ立ち尽くす。舞うような仕草で少女達の手で畳まれた衣装は、祭壇の鏡の下の段に捧げられた。
息を殺すようにして、全ての動作は無言。
衣装を捧げ終えた二人の少女が扉の外へ滑り出た。
それを合図に、少女たちが社の戸を閉める。外からかんぬきをかける音がした。鍵は贄の輿を担った男の一人が持つ。
外から開けられぬ限り、贄はもう外には出られない。
三間四方の社殿の中に、みなほは一人残された。
祭壇の前に敷き延べられた白い褥。
贄のみなほは、祭神の龍彦様に一夜の妻として捧げられた。
無言のまま、人々が去っていく。その気配を音だけでみなほは聞いた。
周囲を圧していた祭りの熱が遠ざかる。虫の音と、えもいえぬ沈黙がみなほを圧する。静けさが怖い。そのくせ、己の吐息を騒々しく感じた。
身体の底が震えている。
畏れなのか、憤りなのか。身体と共に呼気も震えた。
褥の隅に正座したまま、一瞬の眠りに落ちた。
刹那。
「ほう……」
「……!」
座したまま三寸ほど飛び上がったかもしれない。
みなほは、背後に立った人の気配に気づかなかった。
扉の開く気配はなかった。壁の二方にある格子の嵌まった明り取りの窓は閉ざされている。
息を引いた。
空気がざわめく。
その人が、人ではないのかもしれないが、みなほに近寄る気配がした。みなほはその気配のほうへ顔を向け得ない。逃げ出したい思いに駆られる。
贄など、嘘かと思っていた。
ただ御子ヶ池の社に起居して帰るだけなのだと思っていた。
みなほだけではあるまい。
夕暮れの祭礼で御子ヶ池に上ってきた麓の六か村の人々も皆、そのことは半信半疑であったはずだ。
では、どう説明が付くのだろう。
何の気配も無く現われ、みなほの顔に手をかけた、人の形をしたその存在については。
人であろうか。
人ならば、みなほがこれまで見たこともないような美しい青年だった。村の男たちのような髷を結わず、艶やかな髪を流水のように背に垂らしている。
火灯りだけの薄闇に、その瞳の底が青白く光って見える。
人ならざる証であろうか。
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