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第一章 エレメス・フィーアン
#11 影の獣たち
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目の前で黒い獣が、僅かにその体躯を収縮させている。地面に横たわるその牙の間から浅い呼吸が漏れていた。辺りに黒い羽根が散っている。カリサがそれを拾い上げると、たちまちそれは黒い塵になって溶けていった。
「……やれやれ。大事な戦いの前に消耗させてくれるね。何事も計画通りにはいかないものだ。まぁ、その方が面白いけどね。その中でも俺の計画を強引に推し進める方がやりがいがある。完全顕現した精霊と戦うのは初めてだったけど……なんとかなるものだね」
ぐるる、と応えるように獣の口角が震える。漆黒の中に微かに白い瞳が開く。もう立ち上がる力はないらしいが、翼だけが力なく微かに動く。
「……この状態の時って、どっちの意識なんだ? 宿主なの? それとも精霊? 立ち上がろうとしてるのは宿主の意思なのかな、それとも主を守ろうとしてるのかな……」
カリサは悠々と獣に歩み寄り、顎を上げ首を傾げる。
「まだその姿を保ってるのもさ。……ふふ、軟弱な奴だと思ってたけど意外と根性あるんだ。そういうところは血筋かな? 兄貴に似てて腹が立つよ……本当に」
獣の頭を踏みつける。唸りが体を伝ってくる。カリサは右手に影の槍を生成した。
「風の力だと実体のあるものを作れなくて困るよね。影の力って出来るだけ使いたくないんだけどさ。影同士は相性もいいし、とどめを刺すには丁度いいか。かわいそうにね。辛そうだしさっさと楽にしてあげよう」
槍を振り上げる。その時、路地の向こうから黒い塊がものすごい勢いで飛んで来た。反射的に持っていた影の槍で薙ぎ払う。その衝撃で槍が霧散する。飛んで来たものも同じく塵となる。それが影の弾であったことは容易に思い至った。
「……来たな怪物が」
カリサは無意識に笑みを浮かべる。次の瞬間、すぐ目の前に跳んで来た人影に殴り飛ばされた。反応しきれなかった。気が付けば天を仰いでいる。胸辺りを殴られて息が詰まる。背中に冷たい地面を感じながら、なんとかカリサは体を起こした。
黒い獣の前に、鬼の形相をした白コートの男が立っている。吐く息は冬の冷気に晒されて白い。その姿を見て、カリサは言葉をこぼす。
「……どうしてここが?」
「────ケレンの声がした」
そう答えたグレンは、表情を緩めて屈んだ。横たわる漆黒の狼の顔を優しくなでる。
「……よく頑張ったな」
くるる、と狼の喉が鳴る。安心したように目を閉じ、そしてその体躯が影を解き放ちながらしゅるしゅると縮んでいく。やがて元の青年の体に戻ると、彼は気を失っているようだった。弟の体を抱き起したグレンは、そのまま抱えて壁際に座らせた。立ち上がり、僅かに振り向いた横髪の間から覗く口元から唸るような声が漏れる。
「……分かってるよな」
「分かってるよ。最初からそのつもりだ。……予定よりは早いけどね」
体を払いながら立ち上がったカリサは、やれやれと肩を竦める。ゆらりと再び目に怒りを宿したグレンが、こちらへと近づいて来る。
「いいね。そういう君とやりたかったんだ……」
「無関係なケレンまで巻き込んで、どこまで外道だてめェはよ」
「無関係? そんなわけないだろう。君が! 俺にしたことを、分かってるのかグレン・レオノール!」
怒号と共に人差し指を突きつける。それをものともせずに、グレンは足を止めない。
「とっくに分かってんだろうがよ、お前は俺に勝てねェってことを」
「さてね。確かに普通にやっても俺に勝機は少ない。なんのためにこんな回りくどいことをしたと思ってるんだ。多少なりとも君の精神を削るためだ。冷静さを欠いた獣ほど御しやすいものはない」
「言ってろ。何もかもお前の思い通りにはさせねェ」
「それはどうだろう。現在進行形で君の大事な弟は殺されてるかもしれない」
「はぁ?」
怪訝な顔をし、そしてグレンはハッとしたようだった。
「……エレン」
「どうせ彼から連絡を貰ったんだろう。いや、実に勇敢だった。仮面の下の正体に気付きながらも、戦うことを選ぶなんて……」
「! どういう意味だ!」
「やっぱり君は気付いてないか。時には獣並みに勘が鋭いくせに、そういうところは鈍いんだ。目の前にあるものを疑おうとしない」
クツクツとカリサは笑う。
「君たちを拉致し、度々姿を見せたあの黒コートの中身が誰だか考えたか? 俺がどこの馬の骨とも知れない奴を使うと思うか。あれはカフィだ。この意味が分かるか? 元リーダー」
「そんなバカな……」
「簡単な話だ。俺の力で影武者を用意した。文字通りのね。倉庫でカフィ本人に殺させたのは影武者の方だ」
「じゃあウェラは!」
「勿論、俺の手駒だよ。二人に何も知らないフリをしてお前を呼び出させたのも俺だ。それでお前はまんまと浮かれてこの街に来たってわけ。初めから敵に囲まれていたことも知らずにね」
「……」
グレンの顔が青ざめる。さっきまでの気迫は感じられなかった。明らかな動揺が見て取れる。カリサはたたみかけるように続ける。
「カフィの強さは君も知る通りだ。そんな彼に、君の大切な弟は勝てるかなあ。無理だろうね。きっと殺される。カフィは一度目を付けた獲物を逃がしはしない。いずれここに来るかな。首を持ってきてくれるかも」
「……!」
グレンが衝動的に踏み出す。しかしぎしっとその場で踏みとどまった。焦燥と怒りの混じったその顔を、カリサは悠々と見返した。
「……助けに行きたい? 出来ないよね。だってそこにも君の弟がいるもの。俺を放っておくなんてことも出来ないし」
「てめェ……」
「獣は獣らしく目の前の獲物だけを狙えよ」
空気が張り詰める。グレンの顔に気迫が戻る。優先順位を定めたようだった。その目は完全にカリサを見据えている。辺りの影がざわついているようだった。青い瞳が凶暴な光を帯びる。
「……お前をさっさと殺せば済むことだ」
「ふふ。さぁ、始めようか」
カリサは全身の毛が逆立つのを感じた。恐怖? いや興奮だ。
念願がようやく叶う。勝とうが負けようがこれで最後だ。そんなことを思いながら、カリサは地を蹴った。
* * *
剣戟が路地に響き渡る。確実に押されているのを感じながら、エレンは振り続けられる刀を棒で受ける。反撃の余地がない。距離を取ってもすぐに詰められる。斬撃を受けないようにするのが精いっぱいだ。力を使わせてくれる隙もない。
「どうしたどうした! 口だけか!」
元気なカフィはそう叫んで、エレンの腹へ蹴りを叩きこんだ。急な攻撃と足の痛みでエレンは対応できない。そのまま吹き飛んだ。
「がはッ……」
すぐに体を起こすが、血を吐く。内臓が傷付いた。肋骨が折れたか。浅く息をしながら、すぐさま向かってきたカフィを影で迎え撃ち、体を拘束するがそれを越えて風が全身を切り刻んだ。
「ぐぅあっ!」
「“鎌鼬”……纏った風はそう簡単には止められねェぜ。諦めな、お前は俺には勝てねェよ」
エレンへのダメージによって拘束が解けたカフィは、刀を降ろして地に伏すエレンを見下ろした。
「ハァ……ハァ……」
「逃げ足が速いだけのコソ泥かと思いきや、案外タフなもんだね。まぁ兄貴がアレだもんな。弟がそうでも不思議はねェか。俺は正直グレンには勝てる気しねェけど、それにしても随分と……お前は弱いな。普通の人間だ」
「……」
「なんでこんなのにあんな懸賞金が懸かってんだか。探偵も軍もポンコツだよな本当に。こんなに簡単に仕留められるっていうのによ……」
「……まだ…仕留められてねェ」
エレンは声を絞り出す。不意に持ち上がった影が刃となってカフィに斬りかかる。反射的にカフィが距離を取った隙に、エレンは棒を支えに立ち上がった。
「勝手に……決めんなよ」
「……生意気で、諦めが悪い。いいね、折りたくなる」
カフィの顔に凶悪な笑みが張り付いている。天性の人斬りだ。不殺を貫く自分とは決して相容れない人種だ。エレンはそう思いながら、気合で足だけで立った。右足を庇いながら動いていたため、左足は疲労でガクガクと震えている。痛み自体はどこか遠い。アドレナリンがどばどば出ているのを感じる。
「簡単にはとらせねェ。アンタは俺が倒す」
「俺に全く攻撃出来てねェ癖に何言ってんだ? もう既にボロボロだし。ここからどう逆転しようっていうんだ。誰かが助けてくれるわけでもなし。それに、意思が足りねぇな。“倒す”だって? “殺す”って言うんだよ、こういう時はよ!」
風と共に、カフィの姿が消える。反射的に、エレンは棒で目の前を払った。ギン、と手ごたえがあって視界にカフィの姿を捉える。頭上に刀を弾かれたカフィの目がギラリと光る。
「────根本的に折ってやらなきゃダメか」
「!」
嫌な感触がエレンを襲った。右肩に焼け付くような痛みが現れ、その衝撃的な信号が全身を駆け巡る。耳に何かの声が届く。それが自身の叫び声であることに気が付くのに数秒かかった。
「────────ッあああアァァァァ!!!!!」
カランと離れたところで棒が落ちる音がすると共に、どちゃ、と肉が地面に落ちる嫌な音がした。
反射的に左手を右肩にやる。“その先に何もないこと”を理解するのに数秒、“たった今右腕を失ったこと”を理解するのにまた数秒を要した。痛みが頭を支配する。叫びを喉の奥に押し込め、何とか踏ん張る。荒い息が口から漏れる。あまりの衝撃に滲んだ視界に、足元へ流れ落ちる血が映る。
「見ろ。利き腕がなくなった。それで戦えるのかお前。痛みで頭がクラクラするだろ。出血も酷いしな。ほら、早く楽になれよ。何でまだ立ってる」
カフィの言葉が耳に届く。意識の中でぼやぼやとしている。エレンは気付けばがくりと膝をついていた。血の気が引くのを感じる。視界が暗くなっていく。
(止血……止血しねェと……)
そうは思うが体が動かない。傷口を抑えた左手はもうとっくに真っ赤だが、それで収まるわけもない。
────ケレンは無事だろうか。彼を護衛していったアーガイルも。グレンには仮面の男との接触前に連絡を入れておいた。勘の鋭い兄のことだ、ちゃんとケレンのところに辿り着いているだろうか。そういえば、先刻聞き覚えのある遠吠えを聞いた気がする────────。
走馬灯のように、そんな思考が脳裏を駆け巡る。ケレンが助かればそれでいいか。そんなことすら思いもした。
(………本当に?)
それは、思考のもっと奥深くから湧き上がってきた疑問だった。
本当に、それでいいのか。自分はここで終わってもいいのか。兄の確執に巻き込まれて、そのまま────こんなところで。こんな、下らない人生のまま終わっていいのか。やっと、相棒ともまた会えたのに。
『死にたくねェだろ、まだ』
知らない声がした。誰かが話しかけてきている。それは外からじゃない。自分の中から聞こえる。
(……誰だ)
『俺か? 俺は……お前の力みたいなものだ』
何を言っているのか。死に際におかしくなったのだろうか、と思っていると、声の主は続けた。
『俺の名はエレボス。────精霊だ』
声がそう名乗った途端、エレンの意識は暗闇に引きずり込まれた。
#11 END
To be continued...
「……やれやれ。大事な戦いの前に消耗させてくれるね。何事も計画通りにはいかないものだ。まぁ、その方が面白いけどね。その中でも俺の計画を強引に推し進める方がやりがいがある。完全顕現した精霊と戦うのは初めてだったけど……なんとかなるものだね」
ぐるる、と応えるように獣の口角が震える。漆黒の中に微かに白い瞳が開く。もう立ち上がる力はないらしいが、翼だけが力なく微かに動く。
「……この状態の時って、どっちの意識なんだ? 宿主なの? それとも精霊? 立ち上がろうとしてるのは宿主の意思なのかな、それとも主を守ろうとしてるのかな……」
カリサは悠々と獣に歩み寄り、顎を上げ首を傾げる。
「まだその姿を保ってるのもさ。……ふふ、軟弱な奴だと思ってたけど意外と根性あるんだ。そういうところは血筋かな? 兄貴に似てて腹が立つよ……本当に」
獣の頭を踏みつける。唸りが体を伝ってくる。カリサは右手に影の槍を生成した。
「風の力だと実体のあるものを作れなくて困るよね。影の力って出来るだけ使いたくないんだけどさ。影同士は相性もいいし、とどめを刺すには丁度いいか。かわいそうにね。辛そうだしさっさと楽にしてあげよう」
槍を振り上げる。その時、路地の向こうから黒い塊がものすごい勢いで飛んで来た。反射的に持っていた影の槍で薙ぎ払う。その衝撃で槍が霧散する。飛んで来たものも同じく塵となる。それが影の弾であったことは容易に思い至った。
「……来たな怪物が」
カリサは無意識に笑みを浮かべる。次の瞬間、すぐ目の前に跳んで来た人影に殴り飛ばされた。反応しきれなかった。気が付けば天を仰いでいる。胸辺りを殴られて息が詰まる。背中に冷たい地面を感じながら、なんとかカリサは体を起こした。
黒い獣の前に、鬼の形相をした白コートの男が立っている。吐く息は冬の冷気に晒されて白い。その姿を見て、カリサは言葉をこぼす。
「……どうしてここが?」
「────ケレンの声がした」
そう答えたグレンは、表情を緩めて屈んだ。横たわる漆黒の狼の顔を優しくなでる。
「……よく頑張ったな」
くるる、と狼の喉が鳴る。安心したように目を閉じ、そしてその体躯が影を解き放ちながらしゅるしゅると縮んでいく。やがて元の青年の体に戻ると、彼は気を失っているようだった。弟の体を抱き起したグレンは、そのまま抱えて壁際に座らせた。立ち上がり、僅かに振り向いた横髪の間から覗く口元から唸るような声が漏れる。
「……分かってるよな」
「分かってるよ。最初からそのつもりだ。……予定よりは早いけどね」
体を払いながら立ち上がったカリサは、やれやれと肩を竦める。ゆらりと再び目に怒りを宿したグレンが、こちらへと近づいて来る。
「いいね。そういう君とやりたかったんだ……」
「無関係なケレンまで巻き込んで、どこまで外道だてめェはよ」
「無関係? そんなわけないだろう。君が! 俺にしたことを、分かってるのかグレン・レオノール!」
怒号と共に人差し指を突きつける。それをものともせずに、グレンは足を止めない。
「とっくに分かってんだろうがよ、お前は俺に勝てねェってことを」
「さてね。確かに普通にやっても俺に勝機は少ない。なんのためにこんな回りくどいことをしたと思ってるんだ。多少なりとも君の精神を削るためだ。冷静さを欠いた獣ほど御しやすいものはない」
「言ってろ。何もかもお前の思い通りにはさせねェ」
「それはどうだろう。現在進行形で君の大事な弟は殺されてるかもしれない」
「はぁ?」
怪訝な顔をし、そしてグレンはハッとしたようだった。
「……エレン」
「どうせ彼から連絡を貰ったんだろう。いや、実に勇敢だった。仮面の下の正体に気付きながらも、戦うことを選ぶなんて……」
「! どういう意味だ!」
「やっぱり君は気付いてないか。時には獣並みに勘が鋭いくせに、そういうところは鈍いんだ。目の前にあるものを疑おうとしない」
クツクツとカリサは笑う。
「君たちを拉致し、度々姿を見せたあの黒コートの中身が誰だか考えたか? 俺がどこの馬の骨とも知れない奴を使うと思うか。あれはカフィだ。この意味が分かるか? 元リーダー」
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「勿論、俺の手駒だよ。二人に何も知らないフリをしてお前を呼び出させたのも俺だ。それでお前はまんまと浮かれてこの街に来たってわけ。初めから敵に囲まれていたことも知らずにね」
「……」
グレンの顔が青ざめる。さっきまでの気迫は感じられなかった。明らかな動揺が見て取れる。カリサはたたみかけるように続ける。
「カフィの強さは君も知る通りだ。そんな彼に、君の大切な弟は勝てるかなあ。無理だろうね。きっと殺される。カフィは一度目を付けた獲物を逃がしはしない。いずれここに来るかな。首を持ってきてくれるかも」
「……!」
グレンが衝動的に踏み出す。しかしぎしっとその場で踏みとどまった。焦燥と怒りの混じったその顔を、カリサは悠々と見返した。
「……助けに行きたい? 出来ないよね。だってそこにも君の弟がいるもの。俺を放っておくなんてことも出来ないし」
「てめェ……」
「獣は獣らしく目の前の獲物だけを狙えよ」
空気が張り詰める。グレンの顔に気迫が戻る。優先順位を定めたようだった。その目は完全にカリサを見据えている。辺りの影がざわついているようだった。青い瞳が凶暴な光を帯びる。
「……お前をさっさと殺せば済むことだ」
「ふふ。さぁ、始めようか」
カリサは全身の毛が逆立つのを感じた。恐怖? いや興奮だ。
念願がようやく叶う。勝とうが負けようがこれで最後だ。そんなことを思いながら、カリサは地を蹴った。
* * *
剣戟が路地に響き渡る。確実に押されているのを感じながら、エレンは振り続けられる刀を棒で受ける。反撃の余地がない。距離を取ってもすぐに詰められる。斬撃を受けないようにするのが精いっぱいだ。力を使わせてくれる隙もない。
「どうしたどうした! 口だけか!」
元気なカフィはそう叫んで、エレンの腹へ蹴りを叩きこんだ。急な攻撃と足の痛みでエレンは対応できない。そのまま吹き飛んだ。
「がはッ……」
すぐに体を起こすが、血を吐く。内臓が傷付いた。肋骨が折れたか。浅く息をしながら、すぐさま向かってきたカフィを影で迎え撃ち、体を拘束するがそれを越えて風が全身を切り刻んだ。
「ぐぅあっ!」
「“鎌鼬”……纏った風はそう簡単には止められねェぜ。諦めな、お前は俺には勝てねェよ」
エレンへのダメージによって拘束が解けたカフィは、刀を降ろして地に伏すエレンを見下ろした。
「ハァ……ハァ……」
「逃げ足が速いだけのコソ泥かと思いきや、案外タフなもんだね。まぁ兄貴がアレだもんな。弟がそうでも不思議はねェか。俺は正直グレンには勝てる気しねェけど、それにしても随分と……お前は弱いな。普通の人間だ」
「……」
「なんでこんなのにあんな懸賞金が懸かってんだか。探偵も軍もポンコツだよな本当に。こんなに簡単に仕留められるっていうのによ……」
「……まだ…仕留められてねェ」
エレンは声を絞り出す。不意に持ち上がった影が刃となってカフィに斬りかかる。反射的にカフィが距離を取った隙に、エレンは棒を支えに立ち上がった。
「勝手に……決めんなよ」
「……生意気で、諦めが悪い。いいね、折りたくなる」
カフィの顔に凶悪な笑みが張り付いている。天性の人斬りだ。不殺を貫く自分とは決して相容れない人種だ。エレンはそう思いながら、気合で足だけで立った。右足を庇いながら動いていたため、左足は疲労でガクガクと震えている。痛み自体はどこか遠い。アドレナリンがどばどば出ているのを感じる。
「簡単にはとらせねェ。アンタは俺が倒す」
「俺に全く攻撃出来てねェ癖に何言ってんだ? もう既にボロボロだし。ここからどう逆転しようっていうんだ。誰かが助けてくれるわけでもなし。それに、意思が足りねぇな。“倒す”だって? “殺す”って言うんだよ、こういう時はよ!」
風と共に、カフィの姿が消える。反射的に、エレンは棒で目の前を払った。ギン、と手ごたえがあって視界にカフィの姿を捉える。頭上に刀を弾かれたカフィの目がギラリと光る。
「────根本的に折ってやらなきゃダメか」
「!」
嫌な感触がエレンを襲った。右肩に焼け付くような痛みが現れ、その衝撃的な信号が全身を駆け巡る。耳に何かの声が届く。それが自身の叫び声であることに気が付くのに数秒かかった。
「────────ッあああアァァァァ!!!!!」
カランと離れたところで棒が落ちる音がすると共に、どちゃ、と肉が地面に落ちる嫌な音がした。
反射的に左手を右肩にやる。“その先に何もないこと”を理解するのに数秒、“たった今右腕を失ったこと”を理解するのにまた数秒を要した。痛みが頭を支配する。叫びを喉の奥に押し込め、何とか踏ん張る。荒い息が口から漏れる。あまりの衝撃に滲んだ視界に、足元へ流れ落ちる血が映る。
「見ろ。利き腕がなくなった。それで戦えるのかお前。痛みで頭がクラクラするだろ。出血も酷いしな。ほら、早く楽になれよ。何でまだ立ってる」
カフィの言葉が耳に届く。意識の中でぼやぼやとしている。エレンは気付けばがくりと膝をついていた。血の気が引くのを感じる。視界が暗くなっていく。
(止血……止血しねェと……)
そうは思うが体が動かない。傷口を抑えた左手はもうとっくに真っ赤だが、それで収まるわけもない。
────ケレンは無事だろうか。彼を護衛していったアーガイルも。グレンには仮面の男との接触前に連絡を入れておいた。勘の鋭い兄のことだ、ちゃんとケレンのところに辿り着いているだろうか。そういえば、先刻聞き覚えのある遠吠えを聞いた気がする────────。
走馬灯のように、そんな思考が脳裏を駆け巡る。ケレンが助かればそれでいいか。そんなことすら思いもした。
(………本当に?)
それは、思考のもっと奥深くから湧き上がってきた疑問だった。
本当に、それでいいのか。自分はここで終わってもいいのか。兄の確執に巻き込まれて、そのまま────こんなところで。こんな、下らない人生のまま終わっていいのか。やっと、相棒ともまた会えたのに。
『死にたくねェだろ、まだ』
知らない声がした。誰かが話しかけてきている。それは外からじゃない。自分の中から聞こえる。
(……誰だ)
『俺か? 俺は……お前の力みたいなものだ』
何を言っているのか。死に際におかしくなったのだろうか、と思っていると、声の主は続けた。
『俺の名はエレボス。────精霊だ』
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