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私の愛しいピアニスト
3話目
しおりを挟む陸人はピアノを弾いていた。
高い壇上でスポットライトを浴びてグランドピアノを弾く。
鍵盤の上を彼のよく動くしなやかな指が走る。
この時ばかりは陸人の心も解放される。
憂いも悩みも、なにもかもから陸人は乖離できるのだ。
耳に心地好いクラッシックのメロディが、広いホールに反響して消えてゆく。
今は、陸人にはピアノの教師がついていた。まだ年若い教師は彼専属となって衣食住を同じくしている。それは星辰が決めた人物であり、決定であった。
そこまでされては当然のことだーーーそんな風に陸人のことを知るものの中には妬み嫉むものもいる。しかし陸人はそんな言葉には耳を塞ぐ。彼の置かれた境遇が周囲から見れば恵まれていることなど、陸人だとて理解している。自分と同じように恵まれた境遇にあれば、おそらく、誰だってコンクールでいい成績を残すことができるに違いない。第一、才能があるのならば得て不得手があろうとも、毎回一位でなければおかしいのに違いないのだから。
なのに成績にムラがあるということは、胸に溜め込んだ思いをピアノの調べに乗せることでしか彼には発散することができないためなのだろう。
そう。
コンクールに出場して上位にはいるものの、上位でしかないのだ。
一位もある。低くても三位である。
それでも。
胸の奥深く、秘めやかに望んでいる夢を叶えるためにはコンスタントに一位を取りつづけなければならないと考えている。
自分の恵まれた境遇を鑑みれば、そうでなければならないのだ---と。
他人にとっては上々の結果であり、妬み嫉みも当然生まれるようなものであったとしても---彼にとっては、喜べるようなものではないのだ。
だから陸人は誰にも告げない。
なのにいつも星辰は知っている。考えなくてもピアノ教師が知らせているのだろうことは陸人だとてわかっていた。彼の雇い主は、自分ではなく星辰なのだから当然だろう。
そんな時、タイミングが合えば星辰は陸人を外食に連れ出す。そうして教師以外には誰からも贈られない、そうして望んでもいない「おめでとう」をくれるのもまた星辰だけなのだ。
十年前のあの次の日、星辰が訊ねてきた時も陸人はピアノを弾いていた。
そうして、またその翌日、陸人は星辰に雇われたというピアノ教師と会っていた。
あれから十年、陸人は同じ教師についている。
いつの間にか陸人の身の回りのことは星辰が決める。それが当然になってしまったのは、それがあってからだ。
いつしか生活スペースも星辰の舘の一翼に移されて、通う学校も星辰が決めた。
ピアノ以外の家庭教師も星辰が厳選した人間が、結界の外から招かれた。
まだ幼かった陸人に、どうして星辰に逆らうことができるだろう。
香には年に数度会えるかどうかで、相談することもできなかった。
結界の外の音楽に力を入れている学校への送り迎えも、星辰が決めた運転手と車だった。
人間ばかりの学校の空気に陸人の心はほっと息をついたが、それだけだった。仲良くなった数人のクラスメイトともすぐに疎遠になった。寄り道も友だち付き合いも、許可されなかったからだ。
数回、星辰の言い付けに反抗をして寄り道や友だちの家に行ったことがあった。しかし、すぐにばれた。迎えに来るのは、無表情な奇や鬼の男たちであり、ごく稀に星辰であることもあった。
芸術のパトロンに貴が珍しくないとはいえ、学校に人外が来ることは滅多にない。芸術を志す者は基本人間であり、大成するのも人間だけなのだ。手遊びにそこそこの芸術をものする人外はいても、芸術家にはなり得ない。だからこそ陸人の通う学校は、今の世の中では珍しく、純粋に人間だけの空間でありえたのだ。その分生徒たちも、人外とのふれ合いには免疫があまりない。そうして、人外を拒否ではなかったが、敬遠する風潮もあった。ある意味感じやすい生徒たちにとって、人外は存在そのものが苛烈すぎるのだ。そんな中、常に人外に囲まれ、その結界の中から日々通ってくる陸人は、彼らにとって人外並みに異質なものと映ったのに違いない。
陸人は、学校でも孤立することになった。
虐められることはなかったが、いつも、独りだった。
慣れたと嘯いてはみても、寂しい。
寂しさに押しつぶされそうになればなるほど、陸人はピアノに縋った。
教師が腱鞘炎を心配するほど、ピアノに向かう日々が続いた。
何年も何年も。
そんな陸人も年頃になり、気がつけばひとりの少女を目で追うようになっていた。
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