貴の一族

七生雨巳

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私の愛しいピアニスト

2話目

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 貴、奇、鬼と呼ばれるモノが陸人は怖ろしくてたまらなかった。
 幼い頃からなぜか、陸人はそういうモノと縁があった。
 もっとも、貴はそう簡単に市井で出会うことはない。貴は支配者クラスであるからだ。
 ともあれ。
 道を歩いている時に視線を逸らした先の路地裏で鬼が野良犬や野良猫を千切っているシーンを見ることがよくあった。あれらは獲物から滴る血をすすり、湯気を立てる臓物もろとも肉を食べるのだ。
 あまりのことに怖くて目が離せないでいると、にやりと笑いかけられて手招きされることもあった。
 血をしたたらせた笑顔でだ。
 誰も気づかない。ただ陸人だけがなぜか気づいてしまう。
 良くも悪くも縁があったせいで、そういうモノに対する恐怖心が強まった。慣れることはできなかった。
 幼稚園にも保育所にも、ふつうの存在としてひとと交流を持つ奇や鬼はいた。
 少しだけ人間と姿かたちの違う奇の先生などもいたし、鬼の園児なんかもいる。
 そうして角や牙の生えたやんちゃな園児は、なぜか陸人と一緒に遊ぼうと強引に手を伸ばす。
 どうしてそんなことをするのかな?
 先生が泣いている陸人を傍らに、鬼や奇の園児の目線を合わせて尋ねると、
 いい匂いがするんだもん。
 そう言って、やはり陸人に手を伸ばそうとする。
 相手の園児に陸人を虐めているつもりはまるでないのだ。
 それでも。
 相手はただ遊んでいるつもりでも、陸人は毎日苛められてるような気になってしかたがなかった。
 陸人は奇や鬼を避けるようになっていた。
 そうしてついに、決定的な出来事が起きた。
 ひとならざるものに、攫われ、食べられそうになったのだ。
 噛みつかれもう駄目だと思った時、警察組織の忌課に助け出された。
 あの時の恐怖はカウンセラーにかかった後も、陸人の心の中にトラウマとなって住み着いている。
 それなのに―――である。
 目の前にいる銀の髪に赤い目の貴の男が、姉をお嫁にする――と言うのだ。
 年齢不詳に見えた。
 年寄りにも見えたし、若くも見えた。
 五千歳を越えてると聞いた時には、目の前がくらくらした。
 この貴の男が姉をお嫁にして連れて行くのだ。そうなれば、自分は独りになるのだ---陸人は怯えた。
 物心ついてから、陸人には姉しかいなかった。
 ふたりきりの姉弟だった。
 不安で姉にすがるように擦り寄った陸人に、壽盡が『一緒に連れて行く』と言話なければ、どうなっていたのかわからない。施設に入っていたか、誰かに預けられたか。寮がある学校に入ることになったかもしれない。今となれば、その方が良かったかもしれないと陸人は思うのだ。
 しかし、現実は、違った。
 連れて来られた殷という貴の一族の屋敷はとてつもなく大きく広く、果てがない。
 たちまち陸人は不安になった。
 どこを見ても、貴や奇や鬼ばかりだった。
 人間はいない。
 姉と一緒に眠っていた毎日から、与えられた広い棟の一室で眠るようになった。

 震えが、止まらない。
 自分を食べようとしたあの異形の存在がここにはたくさんいるのだと。
 闇の中に鬼や奇が潜んで自分を食べようとしているかのようで、陸人は落ち着けなかった。
 とある夜。
 どうしても陸人は眠れなかった。
 あっちを向いても、こっちを向いても、仰向けになっても、うつ伏せになっても。
 目が冴えて眠れない。
 ベッドから抜け出した。
 晩秋のものに似せたという冷たい空気が、陸人を震わせた。
 毛布をマントのように被り裾を引きずって陸人が庭に出る。
 空にかかった壽盡の瞳のように赤い月が、陸人を見下ろしていた。
 どれくらい歩いたのか、黒い鉄でできた門があった。
 開かれていた唐草模様の門を陸人は通り抜ける。
 ここがどこなのかは当然わからない。後ろを振り返れば、少し小さくなって唐草模様の門が見える。
 怒られるかな---と、陸人は思った。
 けれど。
「お姉ちゃん」
 呟いた時だった。
 悲鳴を聞いた。
 何が---誰があげた叫びだったのかは判らない。ただ、全身が逆毛立つような、絶叫だった。
 逃げればよかったのだが、足が、動かなかった。
 ぶちっ、ぴちゃっという、ゾッとするような音が耳に届く。
 クツクツと嗤う、笑い声は、妙に幼いもののように思えた。
 見たくないのに、まるで見なければいけないものがそこにあるかのように首が動く。
 赤い月に刳り抜いたように黒い影。
 頭に角のある細長い影が手にしたなにかは、奇なのか鬼なのか。それとも、人間だったのか。
 生臭い匂いが鼻に届く。
 血を流しながらまだ痙攣しているそれを、黒い影が口元に引きずりあげた。
 赤い月の逆光のなかそう見えた。
 食べられた。
 次は自分だと思う間もなく悲鳴が短く喉を裂き、陸人は後退さっていた。
 足下の石が音をたてる。
 かすかな音に、それが、陸人に気づいた。
 キロリと月光を弾いた双眸が陸人を見たような気がした。



 陸人が気づいたのは、自分の部屋のベッドの中だった。
 助かったとは思えなかった。
 あの目。
 赤い月の光を浴びて緑に光ったあの目。まるで自分を、見つけた次の獲物だとそう看做した獣のようなあの目を思い出して、陸人は泣き叫ぶこともできなかった。
 舘は違っても同じ結界の中にいるのだ。
 それに。
 ただでさえ人じゃないものたちは訳の分からないいろんな能力を持っている。
 見つかるかもしれない。
 見つかってしまったら?
 怖かった。
 自分を食べようとしたあの遠い日の人外を思い出して、震えが止まらなかった。
 ただ徒に震えて、姉に会いたいとつぶやきつづけるだけだった。
 お姉ちゃんがいてくれたら、抱きしめてくれたら、そうしたら大丈夫だと安心できる。
 しかし、姉に会いたいと身の回りの世話をしてくれる歳老いた外見の奇に頼んでも、いつも姉は忙しいという返事しか貰えなかった。
 花嫁修業をしているとそう聞かされて、ここにつれてこられた理由を思い出す。
 自分は、姉のおまけなのだと。
 あまり我儘を言ったりしたらお姉ちゃんが困るのだ。
 ぼんやりとそんなことを考えてから、陸人はおとなしく部屋で過ごすようになった。
 きっと部屋から出なければあの恐ろしい目の貴だろう存在は、自分を見つけることはないだろうと。そう考えるしかなかったのだ。
 そんな時だった。
 姉からと言って、たくさんの玩具や道具が陸人に届けられたのは。
 たくさんの玩具や道具の中で陸人を虜にしたのは、一台のピアノだった。
 黒く艶やかな不思議な形をした楽器は、陸人が見慣れた幼稚園などにあるような形のものではなくグランド・ピアノだった。胴体部分の蓋を持ち上げバーで支える。そうして、鍵盤の蓋を開けて、赤いビロードの布を外した。白と黒の鍵盤がピカピカに光って見えた。
 特別な才能があったのだろう。陸人は音を一度聞けばピアノの鍵盤を確かめながら音色を再現できた。そうやって幼稚園でも時々ピアノを弾いていたことを連絡帳で姉は知っていたのだろう。アパート暮らしではピアノなどは到底買えなかったが、あの時から姉は陸人にピアノをと考えていたのかもしれない。
 ピアノは陸人を慰めてくれた。
 鍵盤を叩けば鍵盤は嫌がることなく答えてくれる。
 誰も何も言わないことをいいことに、陸人は一日中ピアノを弾いて過ごすようになったのだった。
 そうして、姉の結婚式の日になった。
 姉の結婚式は盛大で華麗で、陸人はくらくらした。
 ここにつれてこられて三ヶ月目の、二月下旬のことだった。
 なぜか結婚式は洋風で、香は真っ白いウェディング姿だった。隣に立つ壽盡もまた白いタキシード姿が恐ろしいくらいに似合っていた。
 姉はとても綺麗で近寄りがたかった。
 式が終わり披露宴に移ったときも、陸人は姉を遠目で見るだけしかできなかった。
 幸せなんだ。
 そう思った。
 中国風の極彩色の衣装に着替えた姉が向こうのほうで微笑んでいる。
 お姉ちゃんはぼくなんかいなくても幸せなんだ。
 黄色いつやつやした花を陸人は無意識で毟った。
 目の前の池に投げる。
 水音をたてて魚が飛び上がる。
 馬鹿だ――
 食べられないのに。
 そう思って次々投げる。
 しかし二度と魚は飛び上がらない。
 やけになって陸人は花を投げ続けていた。
「陸人」
と、呼ばれたのはその時だった。
 知らない声に振り向いた陸人は、その場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。
 黒い髪をきっちりと撫で付けた顔を怖いと思った。
 視線が怖ろしいくらいにきつい。
 なぜかあの月の赤い夜に見た光景を、陸人は思い出していた。
 ゆったりと近づいてくる男に、
「おじさん、誰?」
 そう言うのが、精一杯だった。
「私は、星辰―――おまえの、甥になるか。よろしく、叔父さん」
 星辰がニヤリと笑うのを、陸人は、蝋梅を背に、見上げていた。
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