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ほむら
4話目 ほむら 終話
しおりを挟む少年の記憶をさぐった太智花は、珍しく、後悔した。
虐げられた過去が、母親の死が、少年を、苦しめていた。
太智花が記憶を探ったせいなのか、少年は、突然、正気を取り戻した。
滂沱と流れ落ちる涙が、少年の頬を濡らしている。
苦しさに胸元を押さえても、少年のくちびるが、うめきを漏らすことはなかった。
震えるからだの細さが、痛々しく思えてならなかった。
知らず、太智花は、少年―――記憶の中で、少年は織衛と呼ばれていた―――を、抱きしめていたのである。
少しずつ、太智花は織衛を、屋敷から外に連れ出した。
首の傷はふさがり、しかし、結局、声を出せるようにはならなかった。
ただ、骨ばかりが目立っていた体形が、わずかではあったが丸みを帯びてきていた。―――それだけが、太智花には救いに思えたのだ。
織衛――と、呼びかければ、ゆっくりと振り返る。
しかし、そのまなざしは、暗いままである。
その表情が、動くのは、ただ、過去が脳裏を過ぎるのだろう、辛そうに顔をしかめるときだけだ。
「笑え」
顎をもたげて、そう見下ろせば、織衛は、太智花の腕の中から、逃れ出ようとする。
花々で満ちた結界の中、織衛だけが、黒々とした影をまとっているように、太智花には思えたのだ。
まさに百花繚乱と呼ぶにふさわしい、季節も何も無視した花々の狂い咲きすら、織衛の双眸には映っていないのだろう。
ただ、過去に、母親の死に囚われているのだ。
ちりちりと、胸が、焼ける。
これが、嫉妬の焔なのだと、太智花は、ひっそりと自嘲する。
織衛の母親に、太智花は、嫉妬しているのだ。
喉の奥にこみあげてくる苦い笑いを、おさえる術は、なかった。
それでも、日々は穏やかだった。
胸に渦巻く思いはあるものの、太智花は、存在してはじめての、愛しいものを手に入れた。
もう少し、もう少し織衛が健康を取り戻せば、そうすれば、太智花は、織衛に、永劫を与えるのだ。ただの貴珠に与える不確かなものでなどない、真の永劫を与えよう。
織衛が太智花と共にあってくれることを、太智花は、強く望んでいた。
いつかは、織衛も、太智花に微笑んでくれるだろう。
我ながら女々しいまでの願望にすがる自分に、苦笑を、禁じえなかった。
しかし。
こんなことになるのなら、吸ってしまえばよかったのだ。
見る影もなく老いた貴珠が、足元には、転がっている。
太智花は、まだ脈打っている手の中の貴珠の心臓を握りつぶした。
饐えた匂いを撒き散らして、かつては貴珠であったものの血が、飛び散った。
織衛を汚した血を拭いながら、太智花は、脇腹血を流す織衛を抱きしめたまま、屋敷へと急いだ。
貴珠の館のことなど、忘れていた。
なにが起きたのか、気づいたときには、条件反射のように、貴珠の胸から、心臓をつかみ出していた。
貴に血を吸われなくなって久しい貴珠の血は、どろりと、濁っていた。
死を間直に感じた恐怖から、貴珠は、暴挙に出たのだろうか。すでに、まともに喋ることすらできないほど老いていた貴珠は、ただ、喚きながら、織衛を、その手にかけようとしたのだ。
貴珠の骸は、花々が、貪欲に、貪るだろう。
数日もすれば、骨さえもぼろぼろに、砕けてしまうに違いない。
―――かすり傷ですよ。
織衛の傷を見てのあきれたような医師の口調に、太智花は、カッとなるどころか、緊張がほどけてゆくのを感じていた。
よかった。
心の底から、太智花は、そう思ったのだ。
なのに。
織衛は、
「死にたかったのに………」
掠れた、か細い声で、そう言ったのだ。
刹那、太智花は、自分を抑えることができなかった。
太智花がはじめて聞いた織衛の声がつむいだことばが、太智花の逆鱗に触れたのだ。
目の隅では、医師が、よろめきながら、後退さる。
気がつけば、太智花は、織衛の心臓を、掴み出していた。
織衛の悲鳴が、不思議なほど耳に心地好かった。
脈動を繰り返す心臓に、太智花は、口を寄せていた。
芳しい香が、鼻腔を満たす。
太智花は、織衛の心臓に、牙を突きたてた。
織衛の、甲高い悲鳴。
これ以上はありえないだろう美味が、口の中にあふれ出す。
それを飲み下し、ぞろりと、心臓を舐めた。
それだけで、織衛が、跳ねるように、慄いた。
クツクツと、狂ったような笑いが、太智花の口からこぼれ落ちる。
そうして、太智花は、自身左胸から心臓を、引きずり出したのだ。
医師が、腰をぬかして放心したように、こちらを見ている。
あまり、知られてはいないことだが、貴の心臓は、右と左にひとつづつ、一対あるのだ。
そうして―――――――――――
ああ――と、織衛のひときわ甲高い悲鳴が、かすれて、消えた。
太智花は、太智花の左の心臓を、織衛の心臓があった場所へと押し込んだ。
織衛の心臓を、太智花の左の心臓があった場所へと。
―――これが、唯一の例外だった。
そう。貴珠が、定期的に貴に血を啜られなくとも、老いる心配のない。
ただし、その負担は、貴珠に、壮絶な負荷をかけることになる。
織衛が、苦しげに、蹲り、藻掻いている。
それを、太智花は、愛しく、見下ろす。
大丈夫だ。
「死なせはしない」
これから織衛は、一ト月かそれ以上、仮死状態になるだろう。しかし、それを過ぎれば、太智花の心臓は、織衛に馴染み、織衛に、貴と同じ不老不死を与えるのだ。
そうなれば、織衛、おまえは、
「私の永劫の伴侶だ」
太智花は、藻掻く織衛を抱き上げ、額にくちづけた。
うっすらと開かれた織衛のまなざしの中に、くちびるをゆがめた太智花の顔が映っていた。
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