貴の一族

七生雨巳

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ほむら

3話目

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 自分の喉に、懐剣の切っ先を押し当てる。
 真っ赤に興奮していた村人達が、真っ青な顔に変わり、うろたえる。
 やめろ。
 よせ。
 村長が、自分たちを口汚く罵ってきた村人達が、不安げに、手をこまねくさまは、見ていて、楽しかった。
 かあさん。
 もっとはやく岩屋を抜け出せていたら。
 かあさんも、やつらのこのざまを見れたのに。
 逃げ出した少年が穴の底に見たものは、すでに、息をしていない母親の姿だった。
 知らなかった。
 水を乞う代償は、生き埋めではなく、血を流しながら埋められてゆくことだったとは。
 だから、こいつらは、オレを使わなかったんだ。
 どこか遠くで、そう納得している自分がいた。
 自分が血を流した瞬間に起きるだろう、阿鼻叫喚の地獄を、村人達は、いや、世の人々は、恐れている。
 この血が流れるせいで、忌者と、蔑まれ、少年は、鎖され続けてきたのだ。
 自分の流す血の匂いに誘われて現われるだろう、鬼や奇の存在を、人は、何よりも、恐怖しているのだ。
 かあさんは、もういない。
 こいつらに、殺された。
 もういい。
 どうなったって、かまわない。
 少年は、少年がとることのできる一番壮絶に見えるだろう笑みをたたえた。
 涙を流しながら、笑い、そうして、一息に、喉を、掻き切ったのだ。
 痛みと涙とに霞む視界に、少年は、慌てふためく村人の姿を、とどめて、目を閉じた。
 やがて集うだろう鬼や奇に、自分もまた食われるだろうが、かあさんの敵を討てたのだ。これまでにたまりにたまっていた憎悪を解放した清々しさで、喉から血を流しながら地面に横たわる少年の面は、いっそ穏やかな笑みを、たたえてさえいたのである。

 空が掻き曇り、風が吹きはじめる。
 どこか生温かい風は、村人達の恐怖を煽るばかりだった。
 どこからか、けたたましい叫び声がひびいてきた。
 村人は、弾かれたように、おのおのの家に駆け込み、戸口をしっかりと閉て切った。
 家の隅に小さく蹲り、震え慄く。
 家の外は、ただならぬ騒ぎで、先までとよく似た、しかし、異質な興奮が吹き荒れているかのようだった。
 人ならぬ者のざわめきが、増えてゆく。
 大気は、いまや、異形の気に満ち満ちた濃厚なものになっていた。天候すら、異形の気に中てられたのか、雷が、巨大な猫の喉鳴りめいた音をあちこちで狂ったように轟かす。村人は目が回り、息をするのすら苦痛極まりない状態にあった。
 異形のざわめきは、最高潮に達していた。
 何がどうなっているのかを確認する勇気のある村人は、ただひとりとして存在してはいなかった。
 ただただ、異形たちの狂乱が自分たちの上に降りかからないことを祈るばかりだった。
 しかし―――
 狂った猫の喉鳴りめいた雷が、不意に、牙を剥いた。
 鋭く尖った金の牙をきらめかせ、魂消るような轟音を響かせる。
 長い渇水に苦しめられてきた村の家は、あまりに容易く、赤い炎を宿した。めらめらと燃え上がり、ケラケラと異形の笑い声が、悲鳴の合間に村人達の耳を射た。
 見えざる太鼓が叩かれるかのような痛いほどの音をたてて、家が、木々が、雷に燃やされてゆく。
 悲鳴が、笑いが、風が、雷が、村中を席巻していた。

 最初に現われたのは、小さな、虫ほどの異形だった。
 恐る恐る少年の近くに寄り、そっと、少年の首筋に流れる血を、その舌先でつついた。
 と、異形の動きが、止まった。
 ぶるぶると小刻みに震えだし、爆ぜるように、倍の大きさに膨れ上がる。
 その後は、遠慮などなかった。
 ただ、一心不乱に、首筋を彩る朱を舐め続ける。
 しかし、それは、長くは続かなかった。
 次々と姿を現した、大小さまざまな有象無象が、少年を取り囲み、その血の恩恵にあずかった小さな奇にまで、手を伸ばしたからだ。
 逃げるもならず捕らえられた、今は少年の掌ほどの大きさになった小さな奇は、あちこちから伸ばされた異形の手や触手に、絡めとられ、有無を言わさず引きちぎられた。
 小さな奇が撒き散らす血の雫が、異形の上に、しばし、朱の雨を降らす。
 うっとりと、異形たちが、酩酊した表情で、少年を見下ろす。
 次は、少年の番だった。
 雷が、村人の家に落ちたのは、その時だった。
 赤い炎の中で、逃げる術をなくした人の黒い影が、まるで滑稽な踊りめいた動きを見せていた。
 どっと、はぜ割れるように、異形たちが、笑う。
 手を叩き、膝を叩きながら、思わぬ見世物に、喝采を送る。
 次から次へと火柱を上げる家々は、燃えさかる巨大な篝火と化す。
 豪勢な篝火に照らされた少年を、どの異形が最初に思い出したのか。
 伸ばした手が、別の手に止められる。
 我先に少年を喰らおうと、異形たちの間に、小競り合いが起こりはじめた。
 それは、たちまち異形同士の殺し合いへと変貌を遂げ、村は、まさに、地獄絵図の様相を呈していた。
 血や内臓、異形のからだが、累々と散らばる中、やがて、雄叫びを上げたのは、勝ち残った異形だった。
 剛毛の生えた太い手が、少年を無造作に掴みあげようとする。
 異形の長い舌が、少年の首にこびりつき固まりはじめた血を、一舐めした。
 大きな体が、ぶるりと震え、奇妙にあどけないさまを見せて、異形が目を閉じる。
 それは、まるで、少年の、血の味に感動しているかのようだった。
 異形の目が、少年をにらみ付ける。
 何か逡巡しているような表情は、しかし、美味の前ではあまりにはかないものだった。
 鮫の歯めいた鋸状の歯列をあらわに、異形が少年を喰らおうとしたその時、突然、異形の動きが止まった。
 自身で止めたのではない。
 その証拠に、異形のまなざしが、驚愕を宿して、見開かれている。
 きろきろと動く眼球を残して、なにひとつ動かせずにいるのだった。
 やがて、眼球が、動きを止めた。
 いまだ燃えつづけている数多の篝火を映しながら、異形の眼球は、一点を凝視していた。
 異形のまなざしに、畏怖が宿る。
 純粋な恐怖であったのかもしれない。
 止まることのない震えが、異形を支配していた。
 その異形の視線の先には、ただ、端然と佇む男の姿がある。
 黒地に炎にきらめく縫い取りの高価だろう着物と、袴とが、時折り風に、煽られ揺れる。
 男には、無造作に立っているだけだというのに、異形を怯えさせるに足る威圧感が、たたえられていた。
 闘うまでもなく、異形は、存在自体で、すでに、敗北していた。
 動きはじめた男に、異形が、震えながら、少年を差し出す。
 男は、ただ、当然と少年を受け取ると、一顧だにせず、その場から掻き消えたのである。
 後にはただ、ひとつの村の残骸と、累々と散らばる異形の屍だけが、残されていた。

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