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竜の子は竜
竜の子は竜-3
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一度王城に戻るという息子二人を執事達と共に見送ったヨルガは、その足で階段を上って書斎に向かった。
オスヴァイン家はパルセミス王国の建国当時から続く旧家だ。所蔵している資料や書籍の量は相当なものになるため、図書室を兼ねた書庫と書斎の二ヶ所に分けて保管に努めている。
屋敷の二階にある書斎は、オスヴァイン邸の中でヨルガが過ごす時間が長い場所の一つだ。
扉を開いた室内の内装そのものは、記憶と大きく変化していないように見える。しかし明らかに、異なる雰囲気を感じるのも事実だった。
備え付けの椅子を引いて机の前に腰掛けてみると、机の足もとに貼られた幕板の床に近い部分に擦ったような跡が幾つか残っているのが目にとまる。
靴で傷をつけたのかとも思ったが、ヨルガは頻回に足を組むほうではない。それに足を組んだ際の傷であるなら、それはもっと高い位置に刻まれるだろう。
これはヨルガの身長に合わせて調節されたこの椅子に、別の誰かが座った証だ。彼よりも背が低くて、爪先が床から少し浮いてしまう背丈の持ち主がここに座ったなら、靴の縁が低い位置を掠めるのが理解できる。
それは、誰なのか。
脳裏に浮かぶ顔を頭を振って追い払い、ヨルガは身体を屈めて机の下段に設けられた引き出しに手をかける。
重要な書類を収める金庫は地下室にあるのだが、彼には書斎の机にある鍵付きの引き出しにプライベートな小物を入れておく習慣があった。
リュトラから初めて貰った手紙や、亡き妻が刺繍をしてくれたハンカチ。遠征先で助けた子供達から贈られた花の栞……それらは思い出の品が殆どであり、宝石のように高価なものではないが、ヨルガにとっては価値があるものばかり。
いつものように筆記具を入れている文箱からリボン付きの鍵を取り出し引き出しを開けようとしたところで、鍵穴に差し込んだ小さな鍵が空回りすることに気づく。鍵を間違えたかと机の上や他の引き出しも探してみたが、他に鍵は見つからない。
どうしたものかと考えるヨルガの耳に、書斎の扉をノックする音が届く。
「騎士団長殿。こちらにいると聞いたのだが」
「……アスバル殿か」
古代竜カリスのもとに助言を授かりに行っていたアンドリム達は、ヨルガの息子二人が王城に向かうのと入れ違いにオスヴァイン邸に帰ってきていた。
「入ってもいいだろうか?」
「あぁ、構わない」
「では失礼して」
ドアノブを回して書斎の中に入ってきたアンドリムは、机の上に引き出しの中身を広げているヨルガの姿を見つけ、翡翠色の瞳を瞬かせる。
「何事だ?」
「いや……鍵をかけた引き出しを開けたいのだが、その鍵が見つからなくてな」
「もしかして、机の鍵か」
「あぁ」
ヨルガの返答にアンドリムは頷き、机の近くに歩み寄った。
「まずは、全ての引き出しを閉めるんだ」
「全部の引き出しを……?」
「あぁ。その鍵はフェイクだ。文箱の中に入れている時点で、誰でも手に取れるものだからな」
「……なくしたことはないが」
「だからこそだ。そんなに単純な形の鍵では、粘土の一つもあればすぐに合鍵が作れる。貴殿の不在時に、密かにそこを開けられる可能性が出てくるだろう?」
「ふむ……」
指示するままにヨルガが全ての引き出しを閉めると、アンドリムは隣から手を伸ばし、適当としか思えない順番で机の引き出しを開けていく。最後の引き出しをスライドさせたところでカチリと何かが回る音がする。それを察したヨルガが鍵付きの引き出しに手をかけると、それは抵抗なくするりと手前に引き出された。
「……いつの間に、こんな仕掛けに変わっていたんだ」
驚くヨルガをよそに、アンドリムは小さく笑う。
「私の提案だ。貴殿があまりにも貴重品に対して無防備だったからな……ちなみに、まだ終わりではないぞ?」
「そうなのか?」
引き出しの中には、見覚えのある手紙やハンカチが既にあるが。
首を傾げるヨルガの前で、アンドリムは引き出しの中に入っていたヨルガの私物を全て机の上に出した。その中を覗き込むと、木製の引き出しの底に小さな穴が開いているのが分かる。
アンドリムは慣れた様子で、今度は別の引き出しについた把手に手をかけ、それを時計回りに軽く捻る。螺子で固定されているはずのそれが容易く外れた。
「ほう……?」
外れた把手の先端には、小さな凹凸が刻まれている。アンドリムが引き出しの底の穴に先端を差し込み、今度は反時計回りにそれを回す。
再び何かがカチリと嵌まり込む音がして、アンドリムが把手を持ち上げる動きに合わせて、引き出しの底板が持ち上がった。
「っ……二重底、か」
「ご明察。騎士団長殿の宝物は……この中だ」
二重に隠された引き出しの底に置かれていたのは――古びた、一冊の日記帳。題名も何もない冊子の表面にはたった一行、ヨルガが愛した元婚約者の名前が記されている。
鍵の外し方を全て知っているのだから、アンドリムは当然、その中身も承知の上だろう。確かめるように見上げてくるヨルガに「ユリカノがつけていた日記帳だ」とだけ伝え、彼はそのまま踵を返し、壁を埋める本棚の中から一冊の本を手に取って書斎を出ていってしまった。
「っ……?」
その背中を見送ったヨルガは、あることに気づく。
内装そのものがあまり変わらないのに、以前と違う感覚を抱いた、書斎の風景。
その正体は、ヨルガに素っ気ない態度を取り続ける、アンドリムの気配だ。
それが不快ではないことが、ヨルガ自身は不思議で仕方がない。
机や椅子は言うに及ばず、部屋の中の様々な場所に、本来の主人であるヨルガと等しくアンドリムに『使われている』気配が染み付いている。
それは何よりも雄弁に、二人の親密さを伝えてくるものだった。
一つ息を吐き、ヨルガは手にした日記を捲る。
そこには愛したユリカノの筆跡で、アスバル家に嫁いでからの出来事が赤裸々に綴られていた。
ヨルガへの愛を胸に抱いたまま、アンドリムのもとに嫁いだ日のこと。
挙式後の初夜に、アンドリムが夫婦の寝室に姿を見せなかったこと。
アンドリムに抱かれる前に悪阻が始まり、妊娠に気づいた日のこと――
それ以降は日付がまばらになり、ヨルガによく似たシグルドを産んだ後に日記から垣間見えるユリカノの容態は衰弱していく。
最後の日記で、彼女は結婚前夜にヨルガと交わした一夜の過ちを自らの罪と真摯に受け止めている。
それでも、ヨルガを愛し続けた証としてシグルドを授かった幸福に、自分の人生は不幸ではなかったと感謝の言葉を残すことで締め括られていた。
「ユリカノよ……アスバル殿のことには、少しも触れていないのだな」
結婚前後の日記にこそアンドリムの名前があるが、懐妊に気づいた辺りから、ユリカノが愛を綴るのは胎に宿った子供とヨルガに向けてのものだけになっていく。
結婚式前夜であっても既にアンドリムとユリカノは婚約状態にあり、ヨルガと彼女の間に起きたことは不貞行為に他ならない。外聞を加味してもユリカノは地下牢幽閉か、良くて軟禁されるのが妥当なところだったはずだ。
不貞の末に胎に宿した命など、堕胎を強要されても仕方がないだろう。
しかしアンドリムは、何一つ、ユリカノに罰を課さなかった。
揃って社交界に姿を見せることはなくとも、アンドリムにとって妻はユリカノ一人であるというスタンスは、彼女が亡くなるまで崩されていない。
凛と佇むアンドリムの姿を思い浮かべ、ヨルガは彼の名前を口の中で転がしてみる。
「……アスバル殿」
親しい間柄だと、いう。
もし想像が正しいのならば、それはきっと、ヨルガが考えている以上に接触が多いもので。
「アンドリム・ユクト・アスバル……」
それなのに。
彼の名を正しく口にする行為に、僅かな違和感を覚えるのは、何故なのか。
† † †
パルセミス王国からアバ・シウに行くには、まずはユジンナ大陸を南下する必要がある。国境の街からサナハ共和国に入り、そこから東寄りの街道を更に南に進んだ先に見えてくるのが、白い砂漠だ。
アバ・シウには統治国が存在しないので明瞭な国境線がなく、隣接国家の殆どは砂漠の終わりを大凡の国境線と見做している。
砂漠が魔獣の温床となっているのは前述した通りで、独自のルートを開拓済みのキャラバン隊を除けば、軍隊はおろか、ならず者達であっても、おいそれと足を踏み入れることはない。しかし、砂蟲と呼ばれる魔獣を討伐する時だけは、例外となる。
砂蟲は細かな牙がびっしりと生えた大きな口に、巨大な筒状の体躯を持つミミズ型の魔獣だ。リサルサロスの地下に君臨するヤヅほど俊敏な動きはしないが、その性質は貪欲かつ凶暴で、獲物を見つけると身を潜めていた砂の中から飛びかかって人だろうが馬だろうが一口で丸呑みにしてしまう。
そんな砂蟲は何故か、不定期に大量繁殖することで知られている。それが確認された年には、砂蟲が砂漠から溢れ出て周辺国家に被害を及ばさぬよう、各国から討伐兵が派遣される。そして連合軍を編成し、砂蟲の一斉駆除にあたるわけだ。
件の遺跡は、その前線基地に利用されることが多い。
パルセミス王国はアバ・シウと隣接してはいないものの、周辺国家への協力として、砂蟲駆除には毎回必ず派兵している。そのために、ヨルガやシグルドを始めとした騎士団の面々に砂漠での戦闘を経験した者がそれなりに存在するのだ。
「――まぁ、手頃な人数だろうな」
今回の砂漠行きにあたり、シグルドが王国騎士団の中から選出した騎士は二十名。何度か砂蟲討伐隊に参加した経験がある者を中心に選んだとのことだ。
残念ながら神殿騎士団には砂漠の行軍経験がある者はいなかったので、今回は王国騎士団の国内任務を補佐する形で助力してもらうことにしている。
本来ならば、このような編成業務は騎士団長の采配だが、十年前の記憶しかない今のヨルガでは難しい。副騎士団長であるシグルドが団長代理の形で小隊を組んでくれた。
彼から手渡された名簿には、今回の任務に同行する騎士達の名前が全員分記されている。それを視線で辿ったヨルガは何度か首を傾げた。
おそらく、見なれない名前がそれなりにあるのだろう……記憶がないというのは、やはり厄介なものだ。
「……ん? この二人はもしかして、モラシア夫妻か?」
ヨルガの横で一緒に名簿の中身を確認していた俺は、その中に少し気になる二人を見つけ、並んで記されている名前の上を指先で軽く叩く。
ギュンター・クド・モラシアと、ヒルダ・ミチ・モラシア。
ギュンターもヒルダもシグルドの部下で、二年ほど前に結婚したばかりの夫婦だ。
シグルド直属の部隊でギュンターが分隊長を務める傍ら、ヒルダも夫と同じ部隊に配属されている。彼女は騎士団の中でも、弓の名手で知られる女性騎士だ。
この二人の婚姻には、確か一悶着があったと記憶している。
「はい。二人とも砂蟲討伐隊への参加経験がありますから」
「……ふむ」
ギュンターは今年で三十二歳。そして、その妻であるヒルダは二十二歳。二人の年齢は、十も開いている。
ギュンターの性質は良く言えば朴訥な騎士であるが、裏を返せば抜きん出た才能が全くない、平凡な男とも表現できる。
ヒルダは少し気が強いところがあるものの、それを補ってあまりある美貌の持ち主だ。功労爵位のテゼク男爵家出身の彼女が、美貌と弓の腕前以上に有名になったのは――
「お前が気にしないのであれば俺は構わんが、彼女の執着は大丈夫なのか?」
「ギュンターと結婚して二年が経ちます。流石にもう、未練を断ち切っていると思いますが」
「……どうだかな」
「それに最近は、ジュリエッタの護衛をよく務めてくれています」
あまり気にしていない様子のシグルドの前で、俺は軽く肩を竦める。
訳が分からないと言いたげな表情のヨルガを軽く手招き、俺は顔を近づけた彼の耳元に小声で囁く。
「シグルドにお熱だった娘だ」
「……なんと」
ヒルダが騎士団に入団したのは七年前、彼女が十五歳の時だから、今のヨルガは彼女の存在を知らないのだろう。
そもそも彼女の入団動機は日々の狩猟で鍛えた腕前を活かして家計を助けることであり、最初からシグルドを慕っていたのではない。
騎士団に入団してから、年齢が近いヒルダをシグルドが気にかけて面倒を見ていた。そうして、彼女は次第に寡黙で誠実な人柄のシグルドに恋心を抱くようになる。
それでもその頃のヒルダには、爵位があるとはいっても貧乏男爵家の娘ではアスバル家の嫡男とは到底釣り合わないと、恋心を表に出さない程度の良識はあった。
それが覆された切っ掛けが、五年前の出来事だ。
贄巫女として王城に連れてこられたナーシャを追って、辺境の村から飛び出してきた彼女の双子の妹、メリア。ナーシャへの想いを断ち切るためにシグルドが受け入れたとはいえ、彼女はある程度の期間、周囲からシグルドの恋人だと認識されていた。
それは王国騎士団の中でも同様で、堅物で知られるシグルドが親の決めた婚約者ではなく恋愛で恋人を得たことに団員達は驚きを隠せなかったと聞く。そしてヒルダも、シグルドの恋人となったメリアが平民であることを知り、衝撃を受けていた。やがてメリアがシグルドを裏切り……まぁ、俺が裏切らせたようなものだが……破滅の道を辿ると、ヒルダは喜び、期待に胸を膨らませたに違いない。
まだ女性として意識してもらえずとも、悪い感情は抱かれていない。シグルドが伴侶に選ぶ女性の身分を気にしないのであれば、自分にも機会があるはずだ――自分に言い聞かせるように、ヒルダは周りにもそんな持論を漏らしていた。
しかしそんな淡い希望は、竜神祭が終わった数ヶ月後にシグルドとジュリエッタが結婚したことで、あえなく潰える。
それから程なくして、傷心のヒルダに追い討ちをかけるような事件が起きた。
貧乏男爵家である彼女の生家が新たに始めた事業で大きな損失を出し、多額の借金を抱えてしまったのだ。彼女が王国騎士として稼ぐ給料の殆どは借金の返済に充てられ、彼女自身は騎士団の寮で出される食事でなんとか食い繋ぐ生活を強いられる。
そんなテゼク家に声を掛けたのが、ギュンターの父であるモラシア伯だ。
ギュンターには幼い頃から親が決めた婚約者がいたのだが、彼が騎士として従軍している間に他の男性と恋に落ち国外に駆け落ちしてしまっている。婚約者を愛していたギュンターは、それからというもの、親がどれほど言い聞かせても新たな婚約者を受け入れることはなかった。
だからモラシア伯はあえて弱みを持つヒルダに援助を申し出て、借金の肩代わりを条件にギュンターと結婚させようと考えたのだ。
汚い話ではあるが、金の援助という縛りがあれば、ヒルダはギュンターを裏切れない。最初はヒルダに悪いと良い顔をしなかったギュンターも、若く美しい彼女を妻にできる幸福と、彼女は決して自分から離れられないという確約に心を揺らされる。
結局ギュンターは父親の提案を受け入れ、ヒルダも家族に説得されてそれを了承し、二人が結婚したのが今から二年前というわけだ。
俺は身体の前で腕を組み、軽く眇めた目でシグルドを見つめる。
「シグルドよ……人の心は、確かに移ろいやすいものだ」
どれほど互いを想っていても、この心は揺らがないと信じていても、後になって自分自身に裏切られることすらある。
しかし、中には変わり難いものも、確かにあるのだ。
「だが、覚えておくと良い。執着というものは、な。理性と感情を簡単に凌駕する、化け物なのだよ」
屋敷の主人である男の部屋は、俺にとって既に自室と等しい場所だ。
何せここ五年ほどの間、俺の生活は、ほぼヨルガの予定に沿ったものとなっている。
番とベッドを共にする目的は、愛を確かめあう行為であるのは当然ながら、眠りに落ちるまでに語り合う時間を大切にするためでもあると思う。
それは子供達や国の未来を慮る話の時もあれば、ディナーに出たシチューが絶品だった話の時もあり、中庭に咲いた一輪の花を愛でる話の時もある。
ヨルガの心臓が刻む逞しくも穏やかなリズムを触れ合う肌越しに感じながら、日常と嗜好と思想を分かち合うしじまのひと時を、俺は殊更愛していた。
オスヴァイン邸に長期の居候が決まった折に、それまで客間として使われていた部屋を一つ進呈されたが、そちらは俺の資料部屋兼衣装部屋と化して久しい。
アバ・シウに向かう準備が整った前夜。
湯浴みの後に思考を巡らせながら廊下を歩いていた俺の足は、いつもの習慣で自然とヨルガの部屋に向かってしまった。
扉を軽くノックした時点で犯した失態に気づいたのだが、訂正する間もなく部屋の中から返事が戻ってくる。
仕方がないから顔だけでも見るかと「失礼する」と一声掛けて開いた扉の先には、ナイトウェアを身につけベッドの上で長い足を伸ばすヨルガの姿があった。
彼は訪問者が俺だと分かると、目を通していた資料の束を膝の上に置き、僅かに開いた唇の隙間から吐息を漏らす。
「アスバル殿か」
応える言葉は、何処となく精彩に欠けている。
「騎士団長殿。出立に備えるのは結構だと思うが、随分と早いご就寝だな?」
俺も行程に備えて早めに床に就こうと考えているが、現在の時刻は宵の口といった頃合い。早朝に出立するわけではないのだから、成人男子が眠るには些か早すぎる。
「……そうだな」
少しは怒るだろうかと茶化してみたのに、反応は芳しくない。
ヨルガはサイドチェストの上に置いたボトルから氷の入ったグラスに中身を注ぎ、一口で飲み干した。ふわりと広がる薬草の香りと微かな蜂蜜の気配が、淡い緑色をしたそれがリキュールだと教えてくれる。
「もしや、眠れないのか」
よく見ると、ヨルガの目の下には薄らと隈ができているではないか。
薬草を使ったリキュールは、寝酒に使われることが多い。しかし、ソーダ水辺りで割ることが前提の強い酒なのだから、今のようにロックで飲むのはいかがなものだろう。早い就寝支度も、睡眠時間をできるだけ確保しようと思ったゆえの行動ということか。
状態を確かめるために手を伸ばすと、ヨルガは眉を顰めて顔を背けた。俺はそれを許さず、彼の顎を掴んで無理やり視線を合わせる。
「……不眠は何時からだ」
俺の問いかけに、榛色の瞳が逡巡に揺れた。
ヨルガにとって俺はまだ『敵』であるから、弱みを見せたくないのは分かる。
しかし明日から向かう砂漠には、竜だけでなく、まだ姿を見せぬ黒幕の存在も想定されているのだ。ただでさえ記憶喪失のハンデを背負う男が、寝不足というバッドステータスを重ねた状態のままで赴くのは危険すぎる。
振り払おうと思えば振り払える俺の拘束をそのままに、自覚はあるのか観念して肩を落としたヨルガは、ぼんやりと天井を見上げる。
「……ベッドが」
「ふむ?」
「ベッドが俺の知るものと、違っていたからな」
ヨルガの部屋に置いてあるキングサイズのベッドは、俺と同衾するようになってから誂えたものだ。十年前の記憶しか持たない彼に見覚えがないのも無理はない。
ちなみに独り身になってからも彼が使い続けていたというクィーンサイズのベッドは、俺が寝心地を知る前に処分されている。
おそらく、リュトラの母である前妻のことを俺が意識しないようにとの配慮なのだろうが、俺としてはヨルガが妻を抱いていたベッドで自分が抱かれるという背徳感を味わうのも悪くなかったと密かに思っている。
「……つまり、十年後の世界になった初日から、ということか」
「あぁ」
「もっと早く手を打つことだな。貴殿にとっては、体調管理も勤めのうちだろう」
「……申し開きのしようがない」
呆れた言葉に視線を伏せるヨルガに構わず、俺はボトルの近くに置いてあったベルをつまみあげ、軽く振って音を鳴らした。すぐに姿を見せた不寝番のメイドに、湯とタオルを持ってくるように言いつける。
その間に俺は部屋に置かれたチェストから自分用のナイトウェアを引っ張り出し、ヨルガが疑問の言葉を挟む前にさっさと着ている服を脱いで、それに着替えた。
「アスバル殿……何をするつもりだ?」
「フフッ……何、不肖ながらこの居候めが、騎士団長殿の安眠をお手伝いしようと思ってな」
ヨルガは十二歳の時から騎士団に籍を置き続けた根っからの軍人だ。行軍中など寝台一つ碌に用意できない場所での睡眠も多く経験している。そんな彼が不眠を訴えるとなれば、それは精神的なものに起因すると考えて間違いない。
――例えば、だが。
眠る時に広すぎるベッドの片側を開けてしまう癖や、シーツの隙間に温もりを探す無意識な自分の指先に、他人の存在を感じてしまった……とかな。
リキュールのボトルとグラスをサイドチェストの上から避け、メイドがワゴンに載せてきた陶磁の手洗い鉢を置く。ポットからたっぷりと湯を注ぎ、チェストの引き出しに入れておいた小瓶から精油を垂らすと、仄かに甘い花の香りが湯気に乗って広がった。
「良い香りだ」
「糸を束ねたような桃色の花を咲かせる木が、庭にあるだろう?」
「あぁ、確かに」
「あの合歓木の花から作った精油だ。精神を落ち着かせる効果がある」
俺は湯の温度を指先で確かめ、そこにタオルを浸して、布地を芯まで温める。タオルが十分に温まったところで水気をしっかりと絞ると、ホットタオルの完成だ。時間があれば蒸しタオルを作ってやりたかったが、今回は割愛した。
「騎士団長殿、頭をこちらに乗せてくれ」
ベッドの上に正座をして、厚めのタオルを置いた自分の膝の上を指さすと、ヨルガは一瞬、呆気に取られた表情を浮かべた。
「……何をする気だ?」
「その質問は二度目だぞ。貴殿の安眠を手伝うと言っただろうが」
「……しかし」
「それとも騎士団長殿は、丸腰の俺を相手に、何か懸念でもあるのか?」
ヨルガが相手ならば、首を絞めようとしても俺の力ではまず無理な話。何を警戒する必要があるのかと、俺が投げかけた安い挑発に唇をへの字に曲げたヨルガは、不承不承といった様子で仰向けに寝転び、俺の膝に頭を乗せた。
俺は温めたタオルを軽く畳んで彼の首の後ろに置き、ずしりとした重みのある頭を両手で掬うように包んだ。
指の腹で強張った頭の筋肉を少しずつ解し、そのまま次は顔のほうに指を滑らせて顳顬と目と目の間、耳の下から顎の裏までと、丁寧に揉み解していく。
「ふぅ……」
一つ、ヨルガが大きく呼吸をする。息を吐くと同時に、全身に残っていた緊張がゆるゆると緩むのが分かった。
榛色の瞳が微睡の気配を滲ませてきたところで、俺は冷めたタオルを手に取り、ベッド脇に寄せておいた手洗い鉢に再びそれを浸す。少し控えめの温度に出来上がったホットタオルを軽く畳み、今度はヨルガの閉じた瞼の上に置いてやった。
素直に心地良いと呟くヨルガに満足して、赤みを帯びた髪を指先でゆっくりと梳く。
「アスバル、殿」
「眠れそうか?」
上半身を傾け、膝に乗せた男の耳元で問いかけてやると、大きな掌が俺の頭に触れる。
「……俺は」
「うん?」
「俺はいつも貴方と、このような、距離で……?」
「……フフッ」
おそらくヨルガにはまだ確証がない。
それでも記憶の手がかりを求めて執務室のデスクを確かめていたのだから、見覚えのないベッドとその周りに置かれた調度品の類に一通り目を通した可能性は高かった。
ならば精油の瓶と並んで白磁の平たい小瓶がサイドチェストの引き出しに入っていることにも、当然、気づいているだろう。
小さな花弁が練り込まれたその軟膏がどんな目的で使われるものかを、誰かに教えられたのならば――
俺は顔に触れる固い指先に唇を寄せ、悪魔の誘いを囁く。
「……確かめてみるか? 騎士団長殿」
思わぬ言葉に動揺を見せるヨルガに構わず、自分の頬に触れていた指を掴んだ。
顎の裏から首筋、そして鎖骨の描く曲線の上にと、手本の文字を筆でなぞるように、肌の感触を一つ一つ確かめさせていく。
「アスバル、殿」
呟きと共に瞼の上を覆うタオルを取ろうと動いたもう片方の手を、やんわりと押し留める。
「しー……そのままに」
「っ……」
人間は五感の中でも視覚から得る情報に重きを置く傾向があり、それを遮断されると、他の感覚が鋭敏さを増す。
今のヨルガは、自分の記憶と異なる視覚の情報に戸惑いながら日々を過ごしている状態だ。しかし記憶が巻き戻っていても、この五年間、毎日のように触れていた肌の温もりと質感を、身体が忘れることはない。指先から伝わる慣れた肌の感触が彼の精神に訴えるものは大きいだろう。
「んっ……」
鎖骨の形を辿った指先が胸の頂を掠めると、俺の身体が僅かに跳ねた。
女性のように子を育む機能がなくとも、そこが官能を産む器官になり得るのだと俺に教え込んだのはこの男の指と舌なのだから、この反応は不可抗力というもの。
俺の漏らした声を耳にしてか、重ねた手に導かれるまま一度は通り過ぎた指先が、今度は自分の意思で戻ってくる。
「は……」
突起を指の腹で丹念に捏ねられて応えるように立ち上がった部分を、爪の先で軽く弾かれた。
俺の意識が胸の上に集中している間に、空いた片手がナイトウェアの裾をたくし上げ、下着越しに尻を揉みしだく。
オスヴァイン家はパルセミス王国の建国当時から続く旧家だ。所蔵している資料や書籍の量は相当なものになるため、図書室を兼ねた書庫と書斎の二ヶ所に分けて保管に努めている。
屋敷の二階にある書斎は、オスヴァイン邸の中でヨルガが過ごす時間が長い場所の一つだ。
扉を開いた室内の内装そのものは、記憶と大きく変化していないように見える。しかし明らかに、異なる雰囲気を感じるのも事実だった。
備え付けの椅子を引いて机の前に腰掛けてみると、机の足もとに貼られた幕板の床に近い部分に擦ったような跡が幾つか残っているのが目にとまる。
靴で傷をつけたのかとも思ったが、ヨルガは頻回に足を組むほうではない。それに足を組んだ際の傷であるなら、それはもっと高い位置に刻まれるだろう。
これはヨルガの身長に合わせて調節されたこの椅子に、別の誰かが座った証だ。彼よりも背が低くて、爪先が床から少し浮いてしまう背丈の持ち主がここに座ったなら、靴の縁が低い位置を掠めるのが理解できる。
それは、誰なのか。
脳裏に浮かぶ顔を頭を振って追い払い、ヨルガは身体を屈めて机の下段に設けられた引き出しに手をかける。
重要な書類を収める金庫は地下室にあるのだが、彼には書斎の机にある鍵付きの引き出しにプライベートな小物を入れておく習慣があった。
リュトラから初めて貰った手紙や、亡き妻が刺繍をしてくれたハンカチ。遠征先で助けた子供達から贈られた花の栞……それらは思い出の品が殆どであり、宝石のように高価なものではないが、ヨルガにとっては価値があるものばかり。
いつものように筆記具を入れている文箱からリボン付きの鍵を取り出し引き出しを開けようとしたところで、鍵穴に差し込んだ小さな鍵が空回りすることに気づく。鍵を間違えたかと机の上や他の引き出しも探してみたが、他に鍵は見つからない。
どうしたものかと考えるヨルガの耳に、書斎の扉をノックする音が届く。
「騎士団長殿。こちらにいると聞いたのだが」
「……アスバル殿か」
古代竜カリスのもとに助言を授かりに行っていたアンドリム達は、ヨルガの息子二人が王城に向かうのと入れ違いにオスヴァイン邸に帰ってきていた。
「入ってもいいだろうか?」
「あぁ、構わない」
「では失礼して」
ドアノブを回して書斎の中に入ってきたアンドリムは、机の上に引き出しの中身を広げているヨルガの姿を見つけ、翡翠色の瞳を瞬かせる。
「何事だ?」
「いや……鍵をかけた引き出しを開けたいのだが、その鍵が見つからなくてな」
「もしかして、机の鍵か」
「あぁ」
ヨルガの返答にアンドリムは頷き、机の近くに歩み寄った。
「まずは、全ての引き出しを閉めるんだ」
「全部の引き出しを……?」
「あぁ。その鍵はフェイクだ。文箱の中に入れている時点で、誰でも手に取れるものだからな」
「……なくしたことはないが」
「だからこそだ。そんなに単純な形の鍵では、粘土の一つもあればすぐに合鍵が作れる。貴殿の不在時に、密かにそこを開けられる可能性が出てくるだろう?」
「ふむ……」
指示するままにヨルガが全ての引き出しを閉めると、アンドリムは隣から手を伸ばし、適当としか思えない順番で机の引き出しを開けていく。最後の引き出しをスライドさせたところでカチリと何かが回る音がする。それを察したヨルガが鍵付きの引き出しに手をかけると、それは抵抗なくするりと手前に引き出された。
「……いつの間に、こんな仕掛けに変わっていたんだ」
驚くヨルガをよそに、アンドリムは小さく笑う。
「私の提案だ。貴殿があまりにも貴重品に対して無防備だったからな……ちなみに、まだ終わりではないぞ?」
「そうなのか?」
引き出しの中には、見覚えのある手紙やハンカチが既にあるが。
首を傾げるヨルガの前で、アンドリムは引き出しの中に入っていたヨルガの私物を全て机の上に出した。その中を覗き込むと、木製の引き出しの底に小さな穴が開いているのが分かる。
アンドリムは慣れた様子で、今度は別の引き出しについた把手に手をかけ、それを時計回りに軽く捻る。螺子で固定されているはずのそれが容易く外れた。
「ほう……?」
外れた把手の先端には、小さな凹凸が刻まれている。アンドリムが引き出しの底の穴に先端を差し込み、今度は反時計回りにそれを回す。
再び何かがカチリと嵌まり込む音がして、アンドリムが把手を持ち上げる動きに合わせて、引き出しの底板が持ち上がった。
「っ……二重底、か」
「ご明察。騎士団長殿の宝物は……この中だ」
二重に隠された引き出しの底に置かれていたのは――古びた、一冊の日記帳。題名も何もない冊子の表面にはたった一行、ヨルガが愛した元婚約者の名前が記されている。
鍵の外し方を全て知っているのだから、アンドリムは当然、その中身も承知の上だろう。確かめるように見上げてくるヨルガに「ユリカノがつけていた日記帳だ」とだけ伝え、彼はそのまま踵を返し、壁を埋める本棚の中から一冊の本を手に取って書斎を出ていってしまった。
「っ……?」
その背中を見送ったヨルガは、あることに気づく。
内装そのものがあまり変わらないのに、以前と違う感覚を抱いた、書斎の風景。
その正体は、ヨルガに素っ気ない態度を取り続ける、アンドリムの気配だ。
それが不快ではないことが、ヨルガ自身は不思議で仕方がない。
机や椅子は言うに及ばず、部屋の中の様々な場所に、本来の主人であるヨルガと等しくアンドリムに『使われている』気配が染み付いている。
それは何よりも雄弁に、二人の親密さを伝えてくるものだった。
一つ息を吐き、ヨルガは手にした日記を捲る。
そこには愛したユリカノの筆跡で、アスバル家に嫁いでからの出来事が赤裸々に綴られていた。
ヨルガへの愛を胸に抱いたまま、アンドリムのもとに嫁いだ日のこと。
挙式後の初夜に、アンドリムが夫婦の寝室に姿を見せなかったこと。
アンドリムに抱かれる前に悪阻が始まり、妊娠に気づいた日のこと――
それ以降は日付がまばらになり、ヨルガによく似たシグルドを産んだ後に日記から垣間見えるユリカノの容態は衰弱していく。
最後の日記で、彼女は結婚前夜にヨルガと交わした一夜の過ちを自らの罪と真摯に受け止めている。
それでも、ヨルガを愛し続けた証としてシグルドを授かった幸福に、自分の人生は不幸ではなかったと感謝の言葉を残すことで締め括られていた。
「ユリカノよ……アスバル殿のことには、少しも触れていないのだな」
結婚前後の日記にこそアンドリムの名前があるが、懐妊に気づいた辺りから、ユリカノが愛を綴るのは胎に宿った子供とヨルガに向けてのものだけになっていく。
結婚式前夜であっても既にアンドリムとユリカノは婚約状態にあり、ヨルガと彼女の間に起きたことは不貞行為に他ならない。外聞を加味してもユリカノは地下牢幽閉か、良くて軟禁されるのが妥当なところだったはずだ。
不貞の末に胎に宿した命など、堕胎を強要されても仕方がないだろう。
しかしアンドリムは、何一つ、ユリカノに罰を課さなかった。
揃って社交界に姿を見せることはなくとも、アンドリムにとって妻はユリカノ一人であるというスタンスは、彼女が亡くなるまで崩されていない。
凛と佇むアンドリムの姿を思い浮かべ、ヨルガは彼の名前を口の中で転がしてみる。
「……アスバル殿」
親しい間柄だと、いう。
もし想像が正しいのならば、それはきっと、ヨルガが考えている以上に接触が多いもので。
「アンドリム・ユクト・アスバル……」
それなのに。
彼の名を正しく口にする行為に、僅かな違和感を覚えるのは、何故なのか。
† † †
パルセミス王国からアバ・シウに行くには、まずはユジンナ大陸を南下する必要がある。国境の街からサナハ共和国に入り、そこから東寄りの街道を更に南に進んだ先に見えてくるのが、白い砂漠だ。
アバ・シウには統治国が存在しないので明瞭な国境線がなく、隣接国家の殆どは砂漠の終わりを大凡の国境線と見做している。
砂漠が魔獣の温床となっているのは前述した通りで、独自のルートを開拓済みのキャラバン隊を除けば、軍隊はおろか、ならず者達であっても、おいそれと足を踏み入れることはない。しかし、砂蟲と呼ばれる魔獣を討伐する時だけは、例外となる。
砂蟲は細かな牙がびっしりと生えた大きな口に、巨大な筒状の体躯を持つミミズ型の魔獣だ。リサルサロスの地下に君臨するヤヅほど俊敏な動きはしないが、その性質は貪欲かつ凶暴で、獲物を見つけると身を潜めていた砂の中から飛びかかって人だろうが馬だろうが一口で丸呑みにしてしまう。
そんな砂蟲は何故か、不定期に大量繁殖することで知られている。それが確認された年には、砂蟲が砂漠から溢れ出て周辺国家に被害を及ばさぬよう、各国から討伐兵が派遣される。そして連合軍を編成し、砂蟲の一斉駆除にあたるわけだ。
件の遺跡は、その前線基地に利用されることが多い。
パルセミス王国はアバ・シウと隣接してはいないものの、周辺国家への協力として、砂蟲駆除には毎回必ず派兵している。そのために、ヨルガやシグルドを始めとした騎士団の面々に砂漠での戦闘を経験した者がそれなりに存在するのだ。
「――まぁ、手頃な人数だろうな」
今回の砂漠行きにあたり、シグルドが王国騎士団の中から選出した騎士は二十名。何度か砂蟲討伐隊に参加した経験がある者を中心に選んだとのことだ。
残念ながら神殿騎士団には砂漠の行軍経験がある者はいなかったので、今回は王国騎士団の国内任務を補佐する形で助力してもらうことにしている。
本来ならば、このような編成業務は騎士団長の采配だが、十年前の記憶しかない今のヨルガでは難しい。副騎士団長であるシグルドが団長代理の形で小隊を組んでくれた。
彼から手渡された名簿には、今回の任務に同行する騎士達の名前が全員分記されている。それを視線で辿ったヨルガは何度か首を傾げた。
おそらく、見なれない名前がそれなりにあるのだろう……記憶がないというのは、やはり厄介なものだ。
「……ん? この二人はもしかして、モラシア夫妻か?」
ヨルガの横で一緒に名簿の中身を確認していた俺は、その中に少し気になる二人を見つけ、並んで記されている名前の上を指先で軽く叩く。
ギュンター・クド・モラシアと、ヒルダ・ミチ・モラシア。
ギュンターもヒルダもシグルドの部下で、二年ほど前に結婚したばかりの夫婦だ。
シグルド直属の部隊でギュンターが分隊長を務める傍ら、ヒルダも夫と同じ部隊に配属されている。彼女は騎士団の中でも、弓の名手で知られる女性騎士だ。
この二人の婚姻には、確か一悶着があったと記憶している。
「はい。二人とも砂蟲討伐隊への参加経験がありますから」
「……ふむ」
ギュンターは今年で三十二歳。そして、その妻であるヒルダは二十二歳。二人の年齢は、十も開いている。
ギュンターの性質は良く言えば朴訥な騎士であるが、裏を返せば抜きん出た才能が全くない、平凡な男とも表現できる。
ヒルダは少し気が強いところがあるものの、それを補ってあまりある美貌の持ち主だ。功労爵位のテゼク男爵家出身の彼女が、美貌と弓の腕前以上に有名になったのは――
「お前が気にしないのであれば俺は構わんが、彼女の執着は大丈夫なのか?」
「ギュンターと結婚して二年が経ちます。流石にもう、未練を断ち切っていると思いますが」
「……どうだかな」
「それに最近は、ジュリエッタの護衛をよく務めてくれています」
あまり気にしていない様子のシグルドの前で、俺は軽く肩を竦める。
訳が分からないと言いたげな表情のヨルガを軽く手招き、俺は顔を近づけた彼の耳元に小声で囁く。
「シグルドにお熱だった娘だ」
「……なんと」
ヒルダが騎士団に入団したのは七年前、彼女が十五歳の時だから、今のヨルガは彼女の存在を知らないのだろう。
そもそも彼女の入団動機は日々の狩猟で鍛えた腕前を活かして家計を助けることであり、最初からシグルドを慕っていたのではない。
騎士団に入団してから、年齢が近いヒルダをシグルドが気にかけて面倒を見ていた。そうして、彼女は次第に寡黙で誠実な人柄のシグルドに恋心を抱くようになる。
それでもその頃のヒルダには、爵位があるとはいっても貧乏男爵家の娘ではアスバル家の嫡男とは到底釣り合わないと、恋心を表に出さない程度の良識はあった。
それが覆された切っ掛けが、五年前の出来事だ。
贄巫女として王城に連れてこられたナーシャを追って、辺境の村から飛び出してきた彼女の双子の妹、メリア。ナーシャへの想いを断ち切るためにシグルドが受け入れたとはいえ、彼女はある程度の期間、周囲からシグルドの恋人だと認識されていた。
それは王国騎士団の中でも同様で、堅物で知られるシグルドが親の決めた婚約者ではなく恋愛で恋人を得たことに団員達は驚きを隠せなかったと聞く。そしてヒルダも、シグルドの恋人となったメリアが平民であることを知り、衝撃を受けていた。やがてメリアがシグルドを裏切り……まぁ、俺が裏切らせたようなものだが……破滅の道を辿ると、ヒルダは喜び、期待に胸を膨らませたに違いない。
まだ女性として意識してもらえずとも、悪い感情は抱かれていない。シグルドが伴侶に選ぶ女性の身分を気にしないのであれば、自分にも機会があるはずだ――自分に言い聞かせるように、ヒルダは周りにもそんな持論を漏らしていた。
しかしそんな淡い希望は、竜神祭が終わった数ヶ月後にシグルドとジュリエッタが結婚したことで、あえなく潰える。
それから程なくして、傷心のヒルダに追い討ちをかけるような事件が起きた。
貧乏男爵家である彼女の生家が新たに始めた事業で大きな損失を出し、多額の借金を抱えてしまったのだ。彼女が王国騎士として稼ぐ給料の殆どは借金の返済に充てられ、彼女自身は騎士団の寮で出される食事でなんとか食い繋ぐ生活を強いられる。
そんなテゼク家に声を掛けたのが、ギュンターの父であるモラシア伯だ。
ギュンターには幼い頃から親が決めた婚約者がいたのだが、彼が騎士として従軍している間に他の男性と恋に落ち国外に駆け落ちしてしまっている。婚約者を愛していたギュンターは、それからというもの、親がどれほど言い聞かせても新たな婚約者を受け入れることはなかった。
だからモラシア伯はあえて弱みを持つヒルダに援助を申し出て、借金の肩代わりを条件にギュンターと結婚させようと考えたのだ。
汚い話ではあるが、金の援助という縛りがあれば、ヒルダはギュンターを裏切れない。最初はヒルダに悪いと良い顔をしなかったギュンターも、若く美しい彼女を妻にできる幸福と、彼女は決して自分から離れられないという確約に心を揺らされる。
結局ギュンターは父親の提案を受け入れ、ヒルダも家族に説得されてそれを了承し、二人が結婚したのが今から二年前というわけだ。
俺は身体の前で腕を組み、軽く眇めた目でシグルドを見つめる。
「シグルドよ……人の心は、確かに移ろいやすいものだ」
どれほど互いを想っていても、この心は揺らがないと信じていても、後になって自分自身に裏切られることすらある。
しかし、中には変わり難いものも、確かにあるのだ。
「だが、覚えておくと良い。執着というものは、な。理性と感情を簡単に凌駕する、化け物なのだよ」
屋敷の主人である男の部屋は、俺にとって既に自室と等しい場所だ。
何せここ五年ほどの間、俺の生活は、ほぼヨルガの予定に沿ったものとなっている。
番とベッドを共にする目的は、愛を確かめあう行為であるのは当然ながら、眠りに落ちるまでに語り合う時間を大切にするためでもあると思う。
それは子供達や国の未来を慮る話の時もあれば、ディナーに出たシチューが絶品だった話の時もあり、中庭に咲いた一輪の花を愛でる話の時もある。
ヨルガの心臓が刻む逞しくも穏やかなリズムを触れ合う肌越しに感じながら、日常と嗜好と思想を分かち合うしじまのひと時を、俺は殊更愛していた。
オスヴァイン邸に長期の居候が決まった折に、それまで客間として使われていた部屋を一つ進呈されたが、そちらは俺の資料部屋兼衣装部屋と化して久しい。
アバ・シウに向かう準備が整った前夜。
湯浴みの後に思考を巡らせながら廊下を歩いていた俺の足は、いつもの習慣で自然とヨルガの部屋に向かってしまった。
扉を軽くノックした時点で犯した失態に気づいたのだが、訂正する間もなく部屋の中から返事が戻ってくる。
仕方がないから顔だけでも見るかと「失礼する」と一声掛けて開いた扉の先には、ナイトウェアを身につけベッドの上で長い足を伸ばすヨルガの姿があった。
彼は訪問者が俺だと分かると、目を通していた資料の束を膝の上に置き、僅かに開いた唇の隙間から吐息を漏らす。
「アスバル殿か」
応える言葉は、何処となく精彩に欠けている。
「騎士団長殿。出立に備えるのは結構だと思うが、随分と早いご就寝だな?」
俺も行程に備えて早めに床に就こうと考えているが、現在の時刻は宵の口といった頃合い。早朝に出立するわけではないのだから、成人男子が眠るには些か早すぎる。
「……そうだな」
少しは怒るだろうかと茶化してみたのに、反応は芳しくない。
ヨルガはサイドチェストの上に置いたボトルから氷の入ったグラスに中身を注ぎ、一口で飲み干した。ふわりと広がる薬草の香りと微かな蜂蜜の気配が、淡い緑色をしたそれがリキュールだと教えてくれる。
「もしや、眠れないのか」
よく見ると、ヨルガの目の下には薄らと隈ができているではないか。
薬草を使ったリキュールは、寝酒に使われることが多い。しかし、ソーダ水辺りで割ることが前提の強い酒なのだから、今のようにロックで飲むのはいかがなものだろう。早い就寝支度も、睡眠時間をできるだけ確保しようと思ったゆえの行動ということか。
状態を確かめるために手を伸ばすと、ヨルガは眉を顰めて顔を背けた。俺はそれを許さず、彼の顎を掴んで無理やり視線を合わせる。
「……不眠は何時からだ」
俺の問いかけに、榛色の瞳が逡巡に揺れた。
ヨルガにとって俺はまだ『敵』であるから、弱みを見せたくないのは分かる。
しかし明日から向かう砂漠には、竜だけでなく、まだ姿を見せぬ黒幕の存在も想定されているのだ。ただでさえ記憶喪失のハンデを背負う男が、寝不足というバッドステータスを重ねた状態のままで赴くのは危険すぎる。
振り払おうと思えば振り払える俺の拘束をそのままに、自覚はあるのか観念して肩を落としたヨルガは、ぼんやりと天井を見上げる。
「……ベッドが」
「ふむ?」
「ベッドが俺の知るものと、違っていたからな」
ヨルガの部屋に置いてあるキングサイズのベッドは、俺と同衾するようになってから誂えたものだ。十年前の記憶しか持たない彼に見覚えがないのも無理はない。
ちなみに独り身になってからも彼が使い続けていたというクィーンサイズのベッドは、俺が寝心地を知る前に処分されている。
おそらく、リュトラの母である前妻のことを俺が意識しないようにとの配慮なのだろうが、俺としてはヨルガが妻を抱いていたベッドで自分が抱かれるという背徳感を味わうのも悪くなかったと密かに思っている。
「……つまり、十年後の世界になった初日から、ということか」
「あぁ」
「もっと早く手を打つことだな。貴殿にとっては、体調管理も勤めのうちだろう」
「……申し開きのしようがない」
呆れた言葉に視線を伏せるヨルガに構わず、俺はボトルの近くに置いてあったベルをつまみあげ、軽く振って音を鳴らした。すぐに姿を見せた不寝番のメイドに、湯とタオルを持ってくるように言いつける。
その間に俺は部屋に置かれたチェストから自分用のナイトウェアを引っ張り出し、ヨルガが疑問の言葉を挟む前にさっさと着ている服を脱いで、それに着替えた。
「アスバル殿……何をするつもりだ?」
「フフッ……何、不肖ながらこの居候めが、騎士団長殿の安眠をお手伝いしようと思ってな」
ヨルガは十二歳の時から騎士団に籍を置き続けた根っからの軍人だ。行軍中など寝台一つ碌に用意できない場所での睡眠も多く経験している。そんな彼が不眠を訴えるとなれば、それは精神的なものに起因すると考えて間違いない。
――例えば、だが。
眠る時に広すぎるベッドの片側を開けてしまう癖や、シーツの隙間に温もりを探す無意識な自分の指先に、他人の存在を感じてしまった……とかな。
リキュールのボトルとグラスをサイドチェストの上から避け、メイドがワゴンに載せてきた陶磁の手洗い鉢を置く。ポットからたっぷりと湯を注ぎ、チェストの引き出しに入れておいた小瓶から精油を垂らすと、仄かに甘い花の香りが湯気に乗って広がった。
「良い香りだ」
「糸を束ねたような桃色の花を咲かせる木が、庭にあるだろう?」
「あぁ、確かに」
「あの合歓木の花から作った精油だ。精神を落ち着かせる効果がある」
俺は湯の温度を指先で確かめ、そこにタオルを浸して、布地を芯まで温める。タオルが十分に温まったところで水気をしっかりと絞ると、ホットタオルの完成だ。時間があれば蒸しタオルを作ってやりたかったが、今回は割愛した。
「騎士団長殿、頭をこちらに乗せてくれ」
ベッドの上に正座をして、厚めのタオルを置いた自分の膝の上を指さすと、ヨルガは一瞬、呆気に取られた表情を浮かべた。
「……何をする気だ?」
「その質問は二度目だぞ。貴殿の安眠を手伝うと言っただろうが」
「……しかし」
「それとも騎士団長殿は、丸腰の俺を相手に、何か懸念でもあるのか?」
ヨルガが相手ならば、首を絞めようとしても俺の力ではまず無理な話。何を警戒する必要があるのかと、俺が投げかけた安い挑発に唇をへの字に曲げたヨルガは、不承不承といった様子で仰向けに寝転び、俺の膝に頭を乗せた。
俺は温めたタオルを軽く畳んで彼の首の後ろに置き、ずしりとした重みのある頭を両手で掬うように包んだ。
指の腹で強張った頭の筋肉を少しずつ解し、そのまま次は顔のほうに指を滑らせて顳顬と目と目の間、耳の下から顎の裏までと、丁寧に揉み解していく。
「ふぅ……」
一つ、ヨルガが大きく呼吸をする。息を吐くと同時に、全身に残っていた緊張がゆるゆると緩むのが分かった。
榛色の瞳が微睡の気配を滲ませてきたところで、俺は冷めたタオルを手に取り、ベッド脇に寄せておいた手洗い鉢に再びそれを浸す。少し控えめの温度に出来上がったホットタオルを軽く畳み、今度はヨルガの閉じた瞼の上に置いてやった。
素直に心地良いと呟くヨルガに満足して、赤みを帯びた髪を指先でゆっくりと梳く。
「アスバル、殿」
「眠れそうか?」
上半身を傾け、膝に乗せた男の耳元で問いかけてやると、大きな掌が俺の頭に触れる。
「……俺は」
「うん?」
「俺はいつも貴方と、このような、距離で……?」
「……フフッ」
おそらくヨルガにはまだ確証がない。
それでも記憶の手がかりを求めて執務室のデスクを確かめていたのだから、見覚えのないベッドとその周りに置かれた調度品の類に一通り目を通した可能性は高かった。
ならば精油の瓶と並んで白磁の平たい小瓶がサイドチェストの引き出しに入っていることにも、当然、気づいているだろう。
小さな花弁が練り込まれたその軟膏がどんな目的で使われるものかを、誰かに教えられたのならば――
俺は顔に触れる固い指先に唇を寄せ、悪魔の誘いを囁く。
「……確かめてみるか? 騎士団長殿」
思わぬ言葉に動揺を見せるヨルガに構わず、自分の頬に触れていた指を掴んだ。
顎の裏から首筋、そして鎖骨の描く曲線の上にと、手本の文字を筆でなぞるように、肌の感触を一つ一つ確かめさせていく。
「アスバル、殿」
呟きと共に瞼の上を覆うタオルを取ろうと動いたもう片方の手を、やんわりと押し留める。
「しー……そのままに」
「っ……」
人間は五感の中でも視覚から得る情報に重きを置く傾向があり、それを遮断されると、他の感覚が鋭敏さを増す。
今のヨルガは、自分の記憶と異なる視覚の情報に戸惑いながら日々を過ごしている状態だ。しかし記憶が巻き戻っていても、この五年間、毎日のように触れていた肌の温もりと質感を、身体が忘れることはない。指先から伝わる慣れた肌の感触が彼の精神に訴えるものは大きいだろう。
「んっ……」
鎖骨の形を辿った指先が胸の頂を掠めると、俺の身体が僅かに跳ねた。
女性のように子を育む機能がなくとも、そこが官能を産む器官になり得るのだと俺に教え込んだのはこの男の指と舌なのだから、この反応は不可抗力というもの。
俺の漏らした声を耳にしてか、重ねた手に導かれるまま一度は通り過ぎた指先が、今度は自分の意思で戻ってくる。
「は……」
突起を指の腹で丹念に捏ねられて応えるように立ち上がった部分を、爪の先で軽く弾かれた。
俺の意識が胸の上に集中している間に、空いた片手がナイトウェアの裾をたくし上げ、下着越しに尻を揉みしだく。
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