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竜の子は竜
竜の子は竜-2
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「そうなのか。では、ジュリエッタ様は、リュトラの妻に?」
「あぁ……それは、その、違うんです。ジュリエッタ様は俺の義理の姉になります」
「なんだと……?」
まだシグルドの出生の秘密を知らないヨルガが再び言葉をなくしているうちに、応接間の扉がノックされた。
こちらからの返事を待たずに開かれた扉の先には、今話題に上りかけていたシグルドの姿がある。珍しく呼吸が乱れているのは、報せを受けて慌てて王城から戻ってきたためか。
「団長! ご無事ですか!」
咄嗟の状況になると、未だにヨルガを『父上』と呼べないでいる息子を、俺はやんわりと諭す。
「そう急くな、シグルド。騎士団長殿が驚くだろう」
「っ! ……申し訳ありません、父上。リュトラ、早かったな。あぁ……神官長とジュリエッタも来てくれていたのか」
ふぅと息を吐くシグルドに、リュトラはひらりと手を振り、マラキアは会釈を返す。そのまま部屋に入ってきたシグルドがジュリエッタの腰を引き寄せ、頬に軽く口づける。ヨルガの腕に抱き上げられていたアルベールが、父親に向かって手を伸ばした。
「とぉさま!」
シグルドは自然な動きでアルベールを抱き上げ、我が子の頬にも優しく口づけを落とす。
「ベルジュ。いい子にしていたか?」
「はぁい!」
「……何がどうなっているんだ」
混乱の極みに陥ったのか、ヨルガは額に手を当てて天を仰ぎ、ついに目を閉じてしまった。荒事に関しては無敵を誇る騎士団長も、流石にこの状況には対応できないか。
「マラキア、ジュリエッタ。俺達は暫し席を外そう。シグルドとリュトラは騎士団長殿に竜神祭からの経緯を説明してやれ……ベルジュ、じぃじとお昼寝をしないか?」
「しゅる!」
迷いなく返ってきた返事に気を良くした俺は、一周回って戻ってきた形になる孫息子を再び抱き上げ、マラキアとジュリエッタを連れて応接間を出る。
ヨルガの傍に残していくのは、かつてはあちら側にいた二人だ。もう終わったこととはいえ、こちら側であった俺達がいる場所では、話し難いこともあるだろうからな。
俺の言葉を聞いてすぐにレゼフがメイドに声を掛け、シグルド一家が滞在する際にいつも使う部屋に風を通しに行かせる。
時間をかけて移動して部屋に入ると、ジュリエッタがコートを脱がせてくれた。俺はアルベールを抱えたまま、キングサイズのベッドの上にごろりと寝転ぶ。
些か行儀の悪い行為だが、可愛い孫は気に入ったようで、きゃらきゃらとはしゃいだ声を上げて俺に抱きついてくれる。
脇や背中を指先でくすぐり笑わせているうちに、心地良いベッドのスプリングとカーテンを揺らす穏やかな風に眠りを促された小さな身体は、ぐしぐしと手の甲で目尻を擦りはじめた。
「んぅ……」
「ベルジュ、そろそろ眠くなったのではないか?」
腕の中に囲った背中をリズム良く叩いてみるが、アルベールは白銀の髪に包まれた小さな頭をふるふると横に振り、拗ねた表情で唇を尖らせる。
「んーん……やぁ……まだじぃじと、あしょぶの……」
「フフッ、可愛いことを言ってくれる」
アルベールに慕ってもらえるのは、当然だが、とても嬉しい。
孫の望みを優先にしてやりたいといつも思っていたものの、俺もヨルガも忙しく、なかなか長い時間を一緒に過ごせなかった。
俺達が扱う事柄は国政に纏わるものが殆どで、おいそれと代理に投げ渡せない案件ばかりなのだ。後進を育ててはいるが、彼らの成長には時間がかかる。口惜しいが、こうやって偶にアルベールを構い倒すことしかできないのが現状だった。
しかし今日は、状況が状況だ。王城から呼び出しが来る可能性は低いと言える。
「大丈夫だぞ、ベルジュ。今日はディナーも、風呂も、夜に眠る時も、じぃじはベルジュと一緒だ」
「ほんちょ……?」
「あぁ、約束だ。だから安心して、お昼寝をすると良い」
「んふ……うれちぃ!」
アルベールはふにゃりとした笑みを浮かべ、もにゅもにゅと唇を動かして、枕に頭をぽふんと乗せる。
「あのねぇ、ベルジュねぇ……じーじ、だいちゅき!」
攻撃力の高い殺し文句を口にした天使は、俺が着ているシャツの袖を指先で弄りながら、とろりと眠りに就いてしまった。
色んな感情が溢れた末に真顔になった俺は、寝息を立てはじめたアルベールの身体にそっと毛布を掛けてから、静かに立ち上がる。
ソファの一つに腰掛けていたマラキアと紅茶のセットをワゴンに乗せて運んできたジュリエッタは、ふらふらになってソファに辿り着く俺の姿に苦笑いの表情だ。
「……孫の可愛さに、殺されるところだ……」
「まぁ、お父様ったら」
「フフッ、パルセミス王国広しといえども、こんなにも容易くアンドリム様を瀕死に追い込めるのは、アルベール様だけでしょうね」
「……間違いないのが困ったことなのだよ」
ジュリエッタが用意してくれたアールグレイを一口飲み、俺は小さく息を吐く。
俺にとってもヨルガにとっても、アルベールは宝だ。
しかしそれはある意味、国政の中枢に深く根を張る俺達の間に生まれた、明らかな弱点でもある。
まだ三歳にも満たないアルベールだが、彼を拐かそうと試みた不逞の輩は、既に両手両足の指を足しても数えられなくなっている。近いうちに何か確実な対抗策を講じねばと、ヨルガと話し合っていた事柄でもあった。
「……そういえば、こうして三人だけで集まるのも、久方ぶりではあるな」
俺の言葉に顔を見合わせたマラキアとジュリエッタは、そうですね、と頷く。
マラキアは護衛も兼ねたリュトラと共に行動しているし、ジュリエッタは夫であるシグルドの傍にいて、俺はヨルガと一緒に動くことが多い。この面子だけで集まる機会は、実に竜神祭の前後以来ではないだろうか。
「……何かの縁が招かれているのか」
忘れることはないが、改めて思い起こされる。この二人は、俺と共に破滅の運命を覆した、大事な共犯者だ。
半年という限られた時間の中で、パルセミス王国という大きな舞台を盤上に繰り広げられた、運命の遊戯。
黒を白に、そして、白を黒に。
手にした駒を裏返し、逃げ場を封じて追い詰め、時には罠に誘い込み……そして手に入れたのは、原作のシナリオから外れた、異端という名の勝利。
そうなれば否が応でも脳裏に浮かぶのは、絶大な力を持つ、もう一人の協力者の存在だった。
「他に当ては少ない……か」
俺は低く唸る。
本音を言えば、問題解決に彼を頼るのは良策ではない。
地に這う蟻の悩みを、人間が理解できるだろうか? 理解できたとしても、それを手助けしようと考えるだろうか?
手助けどころか気まぐれに踏み潰されたとしても、蟻の持つ対抗策は、せいぜい小さな顎で噛み付くことくらいしかない。
人と同じ言葉を使い人に近い感情を見せていたとしても、その感性が同じだと錯覚しては危険なのだ。
彼は確かに、敵ではない。
しかし、良き隣人でも、優しき庇護者でもない。
彼が欲するのは、永劫に等しい時間の中で、彼を愉しませる存在のみ。
興味が失せれば、簡単に見捨てられる――それは気に入りと言われる俺ですらも、おそらく、例外ではない。
それでも今は、足掻いて見せるのが、得策か。
俺は紅茶を飲み干したカップをソーサーの上に置き、愛すべき共犯者の二人に声を掛ける。
「……カリス猊下に、お会いしてみよう」
第二章 五年の空白
勇者パルセミスとの戦いによって魂の一部を削り取られ、四肢に杭を打たれて地底湖に封じられていた古代竜カリス。
夭折しない限り、パルセミス王国の国民であれば、十年に一度開催される竜神祭を体験することになる。贄巫女の資格を持つ聖なる乙女や、竜神祭の日に可視化される精霊など、古代竜の実在を示唆する事柄が幾つも挙げられた。
それでも、国民の中には『古代竜などいない』、と目にする機会のない古代竜についてそんな持論を口にする者がかつては少なからず存在していた。
それが五年前に古代竜が地上に降り立ったことで、彼らの持論は呆気なく打ち砕かれる。
ジュリエッタの手で己の半身を取り戻し、千年ぶりに地上に舞い戻ったカリスは、西の丘にある俺の屋敷からほど近い場所に降り立った。
パルセミス王国全土に届く恩寵が、地底深くからではなく、目に見えるところから齎されるものになったのだ。
国民達は荘厳たる古代竜の姿に熱狂し、国教でもあった竜神信仰は、パルセミス国内のみならず、ユジンナ大陸全土に広がる勢いを見せている。
カリスの新たな住まいとなった丘を囲むように作られた堅牢な壁は、彼を閉じ込める目的のものではない。身勝手な人間達が古代竜のもとに押しかけるのを防ぐためのものだ。
壁の東西南北には頑丈な門が設けられていて、神殿騎士団と王国騎士団の両方から派遣された騎士達が交代で警護を務めている。
以前は利権の絡む仕事に対して諍いがつきものであった両騎士団だが、リュトラとマラキアのおかげで関係が改善された。現在では、交流を深めつつ、仲良く仕事に励んでいると聞く。
俺達はオスヴァイン邸から馬車に揺られて西の丘に向かい、壁に設けられた門の前に赴いた。門兵達を労った後で、マラキアが大きな扉に手をかける。
かつて古代竜の住処に通じていた大きな扉を加工して作った門は、神官長の手でしか開くことができない仕組みだ。
そうはいっても、以前のように地の底にあるわけではないのだから、その気になれば内側に侵入することが可能ではある。これまでにも警邏する騎士達の目を盗み壁を乗り越えてカリスに接触しようと試みた者は多い。その殆どは、再び壁の外に出てくることはなかった。
竜は人を喰う生き物だ。
古代竜カリスは地底に封じられている間、半身を失くした不完全な肉体となっていた。魂から溢れ出る魔素を体内循環させる都合上、聖なる力を蓄えた乙女の肉体を口にするのは、十年に一度の定められた時のみとなる。
しかし今のカリスは、竜種としての完璧な肉体と魂を取り戻したのだ。少食の彼といえども食事量に制限などはなく、不躾にも勝手に足もとに侍ってつまらない話を熱弁する矮小の存在などは、それこそオヤツ代わりに啄まれても文句が言えない。
門を潜った先に敷かれた石畳は、カリスが座する丘の頂に繋がる道だ。
神官長と愛娘を従えて丘を登った先には、白銀の鱗を持つ古代竜が巨大な身体を地面に横たえ、悠々とした姿勢で寛いでいた。
近づいてくる俺達の気配は既に感じ取っていたのだろう。長い鎌首を擡げ、俺を見据えた柘榴色の瞳が喜悦を湛えて僅かに歪む。
竜神祭前には、贄巫女を務めたジュリエッタだけが古代竜と言葉を交わせると対外的に発表していた。それを、面倒だからお前達も祝福を受けて自分の言葉が分かるようになったことにしたら良いと言い出したのは、カリスのほうからだ。
父親として贄巫女となったジュリエッタを心身共に支え、彼女を『竜に愛されし銀月の乙女』に導いた功績。そして、神官長と共に古代竜の代弁者となった事実が重なり、俺の呼称はいつの間にか【元・宰相】から【最後の賢者】に変わっていった。
俺はカリスの前で片膝をつき胸に手を当てて頭を下げ、最上級の敬意を示す。マラキアとジュリエッタも、俺に倣って頭を下げた。
「アンドリム・ユクト・アスバルにございます。再び猊下に拝謁叶いましたこと、恐悦至極に存じ奉ります」
『……来たか、アスバルの末裔よ』
「はい、カリス猊下。ご無沙汰しておりました」
俺が微笑みかけると、カリスが喉の奥で笑う低い音が大気を振動させて響く。
『お前は、我の気に入りだという自覚を今少し持て。もっと頻回に、我が前に顔を見せるが良い』
「……なんという誉れのお言葉。不肖の身ながらこのアンドリム、確かに拝命仕りました」
幸いなことに、カリスの興味は依然として俺のもとにあるようだ。これならば、『相談』がしやすい。
楽にしろという許しを得て立ち上がると、古代竜は話の先を促すかのように、大きな頭を俺の近くに寄せてきた。
『さあ、話せ。此度もお前は、奇妙な縁を引き寄せている』
我を愉しませろと宣う古代竜に、銀縁の眼鏡を外した俺は、唇の端を吊り上げて笑う。
「フフッ。カリス猊下は、何もかもお見通しでございますか。なれば、私めの番に何が起きたかも、ご存じかと」
『然り。アレは、呼ばれたのだ』
「呼ばれた……」
言葉を繰り返す俺の前で、カリスは軽く頷く。
『南方の砂地に居を構える小娘の仕業だろう。異なる性質を持つが、あれもまた我と同じ、竜種に連なるものだ』
マラキアがヨルガの身体に残されていた魔力の痕跡を辿った先で見た、大きな影。砂漠の遺跡に住まうという、竜。
それが何故、ヨルガを呼ぶ必要があるのか。
『お前の番は本来、精神力が強靭だ。それに加え、お前と魂が繋がっているゆえに、多少のことでは揺らがない。何度呼んでもアレが応えなかったので、強硬手段に出たのであろう。魂の結びつきを緩めるには、関係性の根源……記憶を奪うのが容易な手段だ』
「……ふむ」
つまり、ヨルガを呼び寄せたい【小娘】の竜が、俺とヨルガの関係性を崩す目的で、彼から十年分の記憶を奪ったということか。
わざわざ砂漠に招く動機は不明だが、記憶を奪った理由は理解できた。
だがそれでも、依然として疑問は残る。
俺とヨルガが「このような」関係に落ち着いたのは、竜神祭の前後からだ。多く見積もっても五年分ほどの記憶を奪ってしまえば、魂の結びつきとやらを緩める目的は簡単に達成できる。
しかし、ヨルガから奪われたのは『十年分』の記憶だ。
「それならば何故……奪われた記憶が、十年に及ぶのでしょうか」
五年間の差分は……いったい何を、示しているのか。
『思い返せ、アスバルの末裔。お前自身はその【変化】を、感じ取っていたはずだ』
「変化……で、ございますか」
俺が前世の記憶を取り戻したのは五年前のことだが、それ以前のアンドリムとして生きた記憶を失っているわけではない。十年前の出来事も、仔細にとまではいかないが、覚えている。
当時の俺は、三十七歳。寿命である五十五歳のタイムリミットにはまだ遠く、騎士団に身を置くシグルドの存在を捨て置き、ジュリエッタを神殿に預けたまま、パルセミス王国の中枢深くにまで権力の根を伸ばしていた。悪業ムスロは何年も前に頓死を遂げ、悪の宰相アンドリム・ユクト・アスバルの行手を阻むものは何もない。国家の重鎮達は烏合の衆にすぎず、王侯達すらもアンドリムに異を唱えることはできなかった。
唯一。榛色の瞳に敵愾の光を爛々と灯して正面から睨みつけてくる王国騎士団の騎士団長以外には、誰一人として。
「十年前……確かその頃から、私の策略に奇妙な横槍が入るようになったのを覚えております」
言いつけた指示が滞って仕込みが上手くいかなかったり、罠に嵌めようとした相手がタイミング良く他国に逃れたり。
盤石に近かった宰相の権威は僅かに綻びを見せ、そこから少しずつ、王太子ウィクルムを中心とした優秀な若者達の台頭が目立つようになっていったのだ。
そしてその流れは緩やかに、ジュリエッタが【悪役令嬢】として王太子に断罪された運命の日に繋がっていったようにも思う。
「まさか……それがあの日に影響を及ぼしたのですか」
柘榴色の瞳で見下ろす古代竜の前で、腕組みをした俺は低く唸る。
千年の歴史を紡いできたパルセミス王国。そして、この国を舞台にした『竜と生贄の巫女』というゲームのシナリオ。
竜巫女であったジュリエッタが糾弾を受けて気を失い、悪の宰相アンドリムが激昂して王太子達と敵対する一幕は、ゲーム二部の始まりに当たるものだ。
しかし冷静に考えてみれば、あの状況にはかなり無理がある。
たとえ悪徳でも、宰相の地位にあったアンドリムを追放しようものなら、国営が立ち行かなく成るのは分かりきっている話だ。一夜の無政府主義より数百年に亘る圧政のほうがましだ、とはアラブの格言だったか。実際に俺から宰相職を丸ごと放り投げられたモリノは、引き継ぎ当初、相当苦労していた。
そんな無理を通そうと、あの断罪が正しく繰り広げられるための歴史そのものに対する介入が、十年前から始められていたのだとしたら。
『世界の理を踏み外すには、それなりの代償が必要だ』
人智を超えた存在である古代竜は、俺の思考を見透かすように、静かに言葉を紡ぐ。
『しかし、長い時間をかけて「揺さぶる」のであれば、代償は僅かなものでこと足りる』
ほんの小さな綻びでも長期に亘って少しずつ力を与え続ければ、やがては大きな崩壊を招くように。
パルセミス王国に積み重ねられた歴史は、シナリオという強制力に影響を受けて徐々に変化し続けた。
つまり、俺とヨルガの間にかつて横たわっていた純然たる敵対関係の中にも、それが歪む瞬間があったということか。
「……それでも、私とヨルガとの間に、互いの心を慮るような接触があったとは思えないのですが」
頭を捻って暫く記憶を探ってみたが、残念ながら、これだと確証の持てるものは思いつかない。
アンドリムとヨルガとユリカノ――国家を牛耳る悪の宰相。その宰相に、婚約者を奪われた騎士。夫となる宰相を裏切り、愛する騎士の子を産んだ女。
確かに愛憎渦巻く展開ではあるが、それこそ一番世間を騒がせたのは、ジュリエッタが生まれた後にあった子供達の披露目付近だ。
当時、王国騎士団の副騎士団長となっていたヨルガに酷似したシグルドの存在は、噂好きの貴族達にとって格好の獲物だった。しかし十年前の時点では、シグルドの出自を巡る風評は既に落ち着きを見せていた。
ならばおそらくは、俺が他愛のないことと判断して脳の片隅に放り込んだ記憶の何処かに、絡まっている因果の糸口があるはず。
俺の懊悩を見透かすように、カリスは再び鎌首を擡げてクツクツと笑う。
『あの【小娘】は自らの望みを叶えるべく、お前達の間に芽吹いた感情の根底にまで遡り、それを記憶ごと奪った。アレの記憶を取り戻そうとするならば、小娘の離宮に赴くことだ。奪われた記憶に秘められていた真価を知ることになるだろう』
砂漠の遺跡に住むという、カリス曰くは【小娘】の竜。その目的がなんなのかは、未だに不明だ。
カリスは真相に気づいているのだろうが、それをわざわざ親切に伝える気配はない。自分達の目と耳で確かめろということだろう。
俺としても、大事な夫に手を出され、生半可な終わらせ方をするつもりはなかったので、むしろ好都合だ。現地に赴くことにも、さして異論はない。
何はともあれ、これで俺達が取るべき行動の指針をはっきりさせることができた。
「感謝いたします、カリス猊下。このアンドリム、猊下のご厚情、痛み入りましてございます」
礼の言葉と共に俺が頭を下げると、カリスは組んだ前脚の上に自らの頭を乗せ、大きく口を開いて欠伸を一つこぼす。
俺の訪問というイレギュラーに満足したのか。幾つか有益な忠告を与えたので、後は結果を寝て待つといったところか。
『……そうだな、アスバルの末裔よ。帰った折には、連れてくるが良い』
宝玉の瞳が瞼に覆われる寸前に、預言めいた言葉を一つ、残して。
古代竜カリスはそのまま静かに、眠りに就いてしまった。
† † †
「俄かには、信じ難い話だな……」
オスヴァイン邸の応接間に対面で置かれた来客用のソファに、王国騎士団の騎士団長と副騎士団長、それに副騎士団長補佐にあたる三人が腰掛けていた。
若い二人からここ十年に亘るパルセミス王国の変遷を説明された騎士団長ヨルガは、額を押さえてソファの背凭れに身体を預け、低い声で呻く。
彼の対面に座るシグルドとリュトラは、父親でもある騎士団長の憔悴した姿に、眉尻を下げて心配そうな表情になる。
「……成人を迎えた殿下が、国王として即位されているのは良い。ウィクルム様は統治者としての資質がおありだった。前王陛下も皇妃様もお喜びのことだろう。しかし、あのアンドリム・ユクト・アスバルがこちらについているとは……」
神殿騎士団と違い、王国騎士団は貴族出身の騎士が多い。貴族の家から騎士を目指すのは、パルセミス王国と王族を護ろうという志の高い若者達ばかりだ。稀に騎士の肩書き目当てで入団した者がいたとしても、課される訓練の多さや規律の厳しさに辟易として、すぐに辞めていく。
そんな騎士団と対極の位置にあるのが、宰相アンドリムと彼に媚び諂う腐敗貴族達だった。
アンドリムの庇護を傘に不正に手を染めて堂々と私腹を肥やし、守るべき領民達を虐げる。
そんな輩と、王国騎士団は何度対立してきたことか。
本来は中立を保つはずの神殿すら神官長マラキアを通じてアンドリムの影響下にあり、手の出せぬもどかしさに歯噛みした日々は、到底忘れることができない。
しかし二人の説明では、そんな状況が一転したのが五年前の竜神祭からだという。
宰相アンドリムの愚行は計算し尽くされたものであり、彼は汚泥の中に我が身を置くことで、陰からパルセミス王国を護り続けていた。そんな彼が全ての責務を放棄するに至ったのは、長く竜巫女の苦行に耐えてきた愛娘のジュリエッタが、当時王太子であった婚約者のウィクルムに裏切られたせいだ。
絶望したアンドリム――早逝の呪いに侵されながらも王国の守護を続けてきたアスバルの末裔は、娘と共に消える運命を選ぶ。真実を知ったヨルガ達はそんな親子に歩み寄り、彼らの運命を覆そうと奔走することになった。
その過程でシグルドは自身の出自を知り苦悩するのだが、ただ静かに贄となる刻を待っていた義妹のジュリエッタと養父アンドリムに支えられ、二人を愛することで立ち直っている。
「……シグルド」
「……はい。父上」
「お前を守れずに、すまない」
シグルドとヨルガが本当の親子であることは、既に打ち明けられていた。
ヨルガもずっと自分に似ているとは思っていたのだ。シグルドの生まれた日が、自分とユリカノが犯した過ちの一夜から十月ほど後であることも知っている。
成長していく彼の中に愛した女性と自分の面影を見つける度に、間違いであってほしいと願う理性の片隅で、仄かな悦びが確かにあった。
それでも王国の盾たる騎士団長として、そしてオスヴァイン家の当主として、心臓を苛む声から耳を塞ぎ続けたのだ。真実が白日のもとに晒される瞬間が後になればなるほど、シグルドが傷つくと知りながらも。
「いいえ……俺は果報者です」
頭を下げようとするヨルガをテーブルの向こう側から身を乗り出すようにして押しとどめ、シグルドは微笑む。
「今の俺には、尊敬する父が二人いる。リュトラとも変わらずに仲良くできているし、愛しい妻子もいます。苦悩の日々が幸福に至るための試練だと思えば……あの日々があったからこそ、今の俺があるとも言えますから」
「……強く育ったのだな、シグルド」
「父上の息子ですから」
母親譲りの黒髪を揺らすシグルドを見つめるヨルガの脳裏には、遠い日に失った婚約者の笑顔が鮮やかに甦る。彼女を奪われてからというもの、ヨルガは地の底で激る溶岩の如き憤りを抱き続けてきた。ユリカノではない女性を妻に迎え、リュトラが生まれ、守るべき家族を持ちながらも、過去を忘れることなどできなかったのだ。
そんなヨルガの心を縛り付けていた因果の鎖は、アンドリムが抱え続けた秘密の暴露によって、少しずつ緩んでいったらしい。
まだユリカノとヨルガが婚約者でいた頃、舞踏会でユリカノを見初めて彼女を妾にしようとその両親を罠にかけたのは悪業ムスロだ。彼女の両親に懇願される形で、アンドリムは守るためにユリカノを妻に迎えた。副団長候補と目されていたといっても、当時のヨルガは一介の騎士にすぎず、ムスロには到底太刀打ちできなかった。もしそんなヨルガがユリカノを守ろうと抗えば、その塁は二人だけに収まらず、オスヴァイン家と領民達にも及ぶ可能性があっただろう。
そしてユリカノを妻としたアンドリムは、その真意をヨルガに教えなかった。ことの経緯を知れば、彼が無力感に苛まれると分かっていたからだ。
若い有望な騎士から婚約者を奪ったという汚名を被り続けることになっても、ヨルガが自分への憎しみを糧に立ち直り、王国を護る騎士になってくれたらそれでいいと――愛する妻が産んだヨルガの子を、自分の嫡男として育てさえもした。
そんなアンドリムをヨルガは擁護し、紆余曲折があったものの、今では二人は同じ屋根の下で寝泊まりする間柄だというのだ。
息子達から明確な言葉で伝えられはしなかったが、自分とアンドリムの間には、友愛や親愛とは異なる関係を窺わせるものがあった。
「あぁ……それは、その、違うんです。ジュリエッタ様は俺の義理の姉になります」
「なんだと……?」
まだシグルドの出生の秘密を知らないヨルガが再び言葉をなくしているうちに、応接間の扉がノックされた。
こちらからの返事を待たずに開かれた扉の先には、今話題に上りかけていたシグルドの姿がある。珍しく呼吸が乱れているのは、報せを受けて慌てて王城から戻ってきたためか。
「団長! ご無事ですか!」
咄嗟の状況になると、未だにヨルガを『父上』と呼べないでいる息子を、俺はやんわりと諭す。
「そう急くな、シグルド。騎士団長殿が驚くだろう」
「っ! ……申し訳ありません、父上。リュトラ、早かったな。あぁ……神官長とジュリエッタも来てくれていたのか」
ふぅと息を吐くシグルドに、リュトラはひらりと手を振り、マラキアは会釈を返す。そのまま部屋に入ってきたシグルドがジュリエッタの腰を引き寄せ、頬に軽く口づける。ヨルガの腕に抱き上げられていたアルベールが、父親に向かって手を伸ばした。
「とぉさま!」
シグルドは自然な動きでアルベールを抱き上げ、我が子の頬にも優しく口づけを落とす。
「ベルジュ。いい子にしていたか?」
「はぁい!」
「……何がどうなっているんだ」
混乱の極みに陥ったのか、ヨルガは額に手を当てて天を仰ぎ、ついに目を閉じてしまった。荒事に関しては無敵を誇る騎士団長も、流石にこの状況には対応できないか。
「マラキア、ジュリエッタ。俺達は暫し席を外そう。シグルドとリュトラは騎士団長殿に竜神祭からの経緯を説明してやれ……ベルジュ、じぃじとお昼寝をしないか?」
「しゅる!」
迷いなく返ってきた返事に気を良くした俺は、一周回って戻ってきた形になる孫息子を再び抱き上げ、マラキアとジュリエッタを連れて応接間を出る。
ヨルガの傍に残していくのは、かつてはあちら側にいた二人だ。もう終わったこととはいえ、こちら側であった俺達がいる場所では、話し難いこともあるだろうからな。
俺の言葉を聞いてすぐにレゼフがメイドに声を掛け、シグルド一家が滞在する際にいつも使う部屋に風を通しに行かせる。
時間をかけて移動して部屋に入ると、ジュリエッタがコートを脱がせてくれた。俺はアルベールを抱えたまま、キングサイズのベッドの上にごろりと寝転ぶ。
些か行儀の悪い行為だが、可愛い孫は気に入ったようで、きゃらきゃらとはしゃいだ声を上げて俺に抱きついてくれる。
脇や背中を指先でくすぐり笑わせているうちに、心地良いベッドのスプリングとカーテンを揺らす穏やかな風に眠りを促された小さな身体は、ぐしぐしと手の甲で目尻を擦りはじめた。
「んぅ……」
「ベルジュ、そろそろ眠くなったのではないか?」
腕の中に囲った背中をリズム良く叩いてみるが、アルベールは白銀の髪に包まれた小さな頭をふるふると横に振り、拗ねた表情で唇を尖らせる。
「んーん……やぁ……まだじぃじと、あしょぶの……」
「フフッ、可愛いことを言ってくれる」
アルベールに慕ってもらえるのは、当然だが、とても嬉しい。
孫の望みを優先にしてやりたいといつも思っていたものの、俺もヨルガも忙しく、なかなか長い時間を一緒に過ごせなかった。
俺達が扱う事柄は国政に纏わるものが殆どで、おいそれと代理に投げ渡せない案件ばかりなのだ。後進を育ててはいるが、彼らの成長には時間がかかる。口惜しいが、こうやって偶にアルベールを構い倒すことしかできないのが現状だった。
しかし今日は、状況が状況だ。王城から呼び出しが来る可能性は低いと言える。
「大丈夫だぞ、ベルジュ。今日はディナーも、風呂も、夜に眠る時も、じぃじはベルジュと一緒だ」
「ほんちょ……?」
「あぁ、約束だ。だから安心して、お昼寝をすると良い」
「んふ……うれちぃ!」
アルベールはふにゃりとした笑みを浮かべ、もにゅもにゅと唇を動かして、枕に頭をぽふんと乗せる。
「あのねぇ、ベルジュねぇ……じーじ、だいちゅき!」
攻撃力の高い殺し文句を口にした天使は、俺が着ているシャツの袖を指先で弄りながら、とろりと眠りに就いてしまった。
色んな感情が溢れた末に真顔になった俺は、寝息を立てはじめたアルベールの身体にそっと毛布を掛けてから、静かに立ち上がる。
ソファの一つに腰掛けていたマラキアと紅茶のセットをワゴンに乗せて運んできたジュリエッタは、ふらふらになってソファに辿り着く俺の姿に苦笑いの表情だ。
「……孫の可愛さに、殺されるところだ……」
「まぁ、お父様ったら」
「フフッ、パルセミス王国広しといえども、こんなにも容易くアンドリム様を瀕死に追い込めるのは、アルベール様だけでしょうね」
「……間違いないのが困ったことなのだよ」
ジュリエッタが用意してくれたアールグレイを一口飲み、俺は小さく息を吐く。
俺にとってもヨルガにとっても、アルベールは宝だ。
しかしそれはある意味、国政の中枢に深く根を張る俺達の間に生まれた、明らかな弱点でもある。
まだ三歳にも満たないアルベールだが、彼を拐かそうと試みた不逞の輩は、既に両手両足の指を足しても数えられなくなっている。近いうちに何か確実な対抗策を講じねばと、ヨルガと話し合っていた事柄でもあった。
「……そういえば、こうして三人だけで集まるのも、久方ぶりではあるな」
俺の言葉に顔を見合わせたマラキアとジュリエッタは、そうですね、と頷く。
マラキアは護衛も兼ねたリュトラと共に行動しているし、ジュリエッタは夫であるシグルドの傍にいて、俺はヨルガと一緒に動くことが多い。この面子だけで集まる機会は、実に竜神祭の前後以来ではないだろうか。
「……何かの縁が招かれているのか」
忘れることはないが、改めて思い起こされる。この二人は、俺と共に破滅の運命を覆した、大事な共犯者だ。
半年という限られた時間の中で、パルセミス王国という大きな舞台を盤上に繰り広げられた、運命の遊戯。
黒を白に、そして、白を黒に。
手にした駒を裏返し、逃げ場を封じて追い詰め、時には罠に誘い込み……そして手に入れたのは、原作のシナリオから外れた、異端という名の勝利。
そうなれば否が応でも脳裏に浮かぶのは、絶大な力を持つ、もう一人の協力者の存在だった。
「他に当ては少ない……か」
俺は低く唸る。
本音を言えば、問題解決に彼を頼るのは良策ではない。
地に這う蟻の悩みを、人間が理解できるだろうか? 理解できたとしても、それを手助けしようと考えるだろうか?
手助けどころか気まぐれに踏み潰されたとしても、蟻の持つ対抗策は、せいぜい小さな顎で噛み付くことくらいしかない。
人と同じ言葉を使い人に近い感情を見せていたとしても、その感性が同じだと錯覚しては危険なのだ。
彼は確かに、敵ではない。
しかし、良き隣人でも、優しき庇護者でもない。
彼が欲するのは、永劫に等しい時間の中で、彼を愉しませる存在のみ。
興味が失せれば、簡単に見捨てられる――それは気に入りと言われる俺ですらも、おそらく、例外ではない。
それでも今は、足掻いて見せるのが、得策か。
俺は紅茶を飲み干したカップをソーサーの上に置き、愛すべき共犯者の二人に声を掛ける。
「……カリス猊下に、お会いしてみよう」
第二章 五年の空白
勇者パルセミスとの戦いによって魂の一部を削り取られ、四肢に杭を打たれて地底湖に封じられていた古代竜カリス。
夭折しない限り、パルセミス王国の国民であれば、十年に一度開催される竜神祭を体験することになる。贄巫女の資格を持つ聖なる乙女や、竜神祭の日に可視化される精霊など、古代竜の実在を示唆する事柄が幾つも挙げられた。
それでも、国民の中には『古代竜などいない』、と目にする機会のない古代竜についてそんな持論を口にする者がかつては少なからず存在していた。
それが五年前に古代竜が地上に降り立ったことで、彼らの持論は呆気なく打ち砕かれる。
ジュリエッタの手で己の半身を取り戻し、千年ぶりに地上に舞い戻ったカリスは、西の丘にある俺の屋敷からほど近い場所に降り立った。
パルセミス王国全土に届く恩寵が、地底深くからではなく、目に見えるところから齎されるものになったのだ。
国民達は荘厳たる古代竜の姿に熱狂し、国教でもあった竜神信仰は、パルセミス国内のみならず、ユジンナ大陸全土に広がる勢いを見せている。
カリスの新たな住まいとなった丘を囲むように作られた堅牢な壁は、彼を閉じ込める目的のものではない。身勝手な人間達が古代竜のもとに押しかけるのを防ぐためのものだ。
壁の東西南北には頑丈な門が設けられていて、神殿騎士団と王国騎士団の両方から派遣された騎士達が交代で警護を務めている。
以前は利権の絡む仕事に対して諍いがつきものであった両騎士団だが、リュトラとマラキアのおかげで関係が改善された。現在では、交流を深めつつ、仲良く仕事に励んでいると聞く。
俺達はオスヴァイン邸から馬車に揺られて西の丘に向かい、壁に設けられた門の前に赴いた。門兵達を労った後で、マラキアが大きな扉に手をかける。
かつて古代竜の住処に通じていた大きな扉を加工して作った門は、神官長の手でしか開くことができない仕組みだ。
そうはいっても、以前のように地の底にあるわけではないのだから、その気になれば内側に侵入することが可能ではある。これまでにも警邏する騎士達の目を盗み壁を乗り越えてカリスに接触しようと試みた者は多い。その殆どは、再び壁の外に出てくることはなかった。
竜は人を喰う生き物だ。
古代竜カリスは地底に封じられている間、半身を失くした不完全な肉体となっていた。魂から溢れ出る魔素を体内循環させる都合上、聖なる力を蓄えた乙女の肉体を口にするのは、十年に一度の定められた時のみとなる。
しかし今のカリスは、竜種としての完璧な肉体と魂を取り戻したのだ。少食の彼といえども食事量に制限などはなく、不躾にも勝手に足もとに侍ってつまらない話を熱弁する矮小の存在などは、それこそオヤツ代わりに啄まれても文句が言えない。
門を潜った先に敷かれた石畳は、カリスが座する丘の頂に繋がる道だ。
神官長と愛娘を従えて丘を登った先には、白銀の鱗を持つ古代竜が巨大な身体を地面に横たえ、悠々とした姿勢で寛いでいた。
近づいてくる俺達の気配は既に感じ取っていたのだろう。長い鎌首を擡げ、俺を見据えた柘榴色の瞳が喜悦を湛えて僅かに歪む。
竜神祭前には、贄巫女を務めたジュリエッタだけが古代竜と言葉を交わせると対外的に発表していた。それを、面倒だからお前達も祝福を受けて自分の言葉が分かるようになったことにしたら良いと言い出したのは、カリスのほうからだ。
父親として贄巫女となったジュリエッタを心身共に支え、彼女を『竜に愛されし銀月の乙女』に導いた功績。そして、神官長と共に古代竜の代弁者となった事実が重なり、俺の呼称はいつの間にか【元・宰相】から【最後の賢者】に変わっていった。
俺はカリスの前で片膝をつき胸に手を当てて頭を下げ、最上級の敬意を示す。マラキアとジュリエッタも、俺に倣って頭を下げた。
「アンドリム・ユクト・アスバルにございます。再び猊下に拝謁叶いましたこと、恐悦至極に存じ奉ります」
『……来たか、アスバルの末裔よ』
「はい、カリス猊下。ご無沙汰しておりました」
俺が微笑みかけると、カリスが喉の奥で笑う低い音が大気を振動させて響く。
『お前は、我の気に入りだという自覚を今少し持て。もっと頻回に、我が前に顔を見せるが良い』
「……なんという誉れのお言葉。不肖の身ながらこのアンドリム、確かに拝命仕りました」
幸いなことに、カリスの興味は依然として俺のもとにあるようだ。これならば、『相談』がしやすい。
楽にしろという許しを得て立ち上がると、古代竜は話の先を促すかのように、大きな頭を俺の近くに寄せてきた。
『さあ、話せ。此度もお前は、奇妙な縁を引き寄せている』
我を愉しませろと宣う古代竜に、銀縁の眼鏡を外した俺は、唇の端を吊り上げて笑う。
「フフッ。カリス猊下は、何もかもお見通しでございますか。なれば、私めの番に何が起きたかも、ご存じかと」
『然り。アレは、呼ばれたのだ』
「呼ばれた……」
言葉を繰り返す俺の前で、カリスは軽く頷く。
『南方の砂地に居を構える小娘の仕業だろう。異なる性質を持つが、あれもまた我と同じ、竜種に連なるものだ』
マラキアがヨルガの身体に残されていた魔力の痕跡を辿った先で見た、大きな影。砂漠の遺跡に住まうという、竜。
それが何故、ヨルガを呼ぶ必要があるのか。
『お前の番は本来、精神力が強靭だ。それに加え、お前と魂が繋がっているゆえに、多少のことでは揺らがない。何度呼んでもアレが応えなかったので、強硬手段に出たのであろう。魂の結びつきを緩めるには、関係性の根源……記憶を奪うのが容易な手段だ』
「……ふむ」
つまり、ヨルガを呼び寄せたい【小娘】の竜が、俺とヨルガの関係性を崩す目的で、彼から十年分の記憶を奪ったということか。
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俺とヨルガが「このような」関係に落ち着いたのは、竜神祭の前後からだ。多く見積もっても五年分ほどの記憶を奪ってしまえば、魂の結びつきとやらを緩める目的は簡単に達成できる。
しかし、ヨルガから奪われたのは『十年分』の記憶だ。
「それならば何故……奪われた記憶が、十年に及ぶのでしょうか」
五年間の差分は……いったい何を、示しているのか。
『思い返せ、アスバルの末裔。お前自身はその【変化】を、感じ取っていたはずだ』
「変化……で、ございますか」
俺が前世の記憶を取り戻したのは五年前のことだが、それ以前のアンドリムとして生きた記憶を失っているわけではない。十年前の出来事も、仔細にとまではいかないが、覚えている。
当時の俺は、三十七歳。寿命である五十五歳のタイムリミットにはまだ遠く、騎士団に身を置くシグルドの存在を捨て置き、ジュリエッタを神殿に預けたまま、パルセミス王国の中枢深くにまで権力の根を伸ばしていた。悪業ムスロは何年も前に頓死を遂げ、悪の宰相アンドリム・ユクト・アスバルの行手を阻むものは何もない。国家の重鎮達は烏合の衆にすぎず、王侯達すらもアンドリムに異を唱えることはできなかった。
唯一。榛色の瞳に敵愾の光を爛々と灯して正面から睨みつけてくる王国騎士団の騎士団長以外には、誰一人として。
「十年前……確かその頃から、私の策略に奇妙な横槍が入るようになったのを覚えております」
言いつけた指示が滞って仕込みが上手くいかなかったり、罠に嵌めようとした相手がタイミング良く他国に逃れたり。
盤石に近かった宰相の権威は僅かに綻びを見せ、そこから少しずつ、王太子ウィクルムを中心とした優秀な若者達の台頭が目立つようになっていったのだ。
そしてその流れは緩やかに、ジュリエッタが【悪役令嬢】として王太子に断罪された運命の日に繋がっていったようにも思う。
「まさか……それがあの日に影響を及ぼしたのですか」
柘榴色の瞳で見下ろす古代竜の前で、腕組みをした俺は低く唸る。
千年の歴史を紡いできたパルセミス王国。そして、この国を舞台にした『竜と生贄の巫女』というゲームのシナリオ。
竜巫女であったジュリエッタが糾弾を受けて気を失い、悪の宰相アンドリムが激昂して王太子達と敵対する一幕は、ゲーム二部の始まりに当たるものだ。
しかし冷静に考えてみれば、あの状況にはかなり無理がある。
たとえ悪徳でも、宰相の地位にあったアンドリムを追放しようものなら、国営が立ち行かなく成るのは分かりきっている話だ。一夜の無政府主義より数百年に亘る圧政のほうがましだ、とはアラブの格言だったか。実際に俺から宰相職を丸ごと放り投げられたモリノは、引き継ぎ当初、相当苦労していた。
そんな無理を通そうと、あの断罪が正しく繰り広げられるための歴史そのものに対する介入が、十年前から始められていたのだとしたら。
『世界の理を踏み外すには、それなりの代償が必要だ』
人智を超えた存在である古代竜は、俺の思考を見透かすように、静かに言葉を紡ぐ。
『しかし、長い時間をかけて「揺さぶる」のであれば、代償は僅かなものでこと足りる』
ほんの小さな綻びでも長期に亘って少しずつ力を与え続ければ、やがては大きな崩壊を招くように。
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俺の懊悩を見透かすように、カリスは再び鎌首を擡げてクツクツと笑う。
『あの【小娘】は自らの望みを叶えるべく、お前達の間に芽吹いた感情の根底にまで遡り、それを記憶ごと奪った。アレの記憶を取り戻そうとするならば、小娘の離宮に赴くことだ。奪われた記憶に秘められていた真価を知ることになるだろう』
砂漠の遺跡に住むという、カリス曰くは【小娘】の竜。その目的がなんなのかは、未だに不明だ。
カリスは真相に気づいているのだろうが、それをわざわざ親切に伝える気配はない。自分達の目と耳で確かめろということだろう。
俺としても、大事な夫に手を出され、生半可な終わらせ方をするつもりはなかったので、むしろ好都合だ。現地に赴くことにも、さして異論はない。
何はともあれ、これで俺達が取るべき行動の指針をはっきりさせることができた。
「感謝いたします、カリス猊下。このアンドリム、猊下のご厚情、痛み入りましてございます」
礼の言葉と共に俺が頭を下げると、カリスは組んだ前脚の上に自らの頭を乗せ、大きく口を開いて欠伸を一つこぼす。
俺の訪問というイレギュラーに満足したのか。幾つか有益な忠告を与えたので、後は結果を寝て待つといったところか。
『……そうだな、アスバルの末裔よ。帰った折には、連れてくるが良い』
宝玉の瞳が瞼に覆われる寸前に、預言めいた言葉を一つ、残して。
古代竜カリスはそのまま静かに、眠りに就いてしまった。
† † †
「俄かには、信じ難い話だな……」
オスヴァイン邸の応接間に対面で置かれた来客用のソファに、王国騎士団の騎士団長と副騎士団長、それに副騎士団長補佐にあたる三人が腰掛けていた。
若い二人からここ十年に亘るパルセミス王国の変遷を説明された騎士団長ヨルガは、額を押さえてソファの背凭れに身体を預け、低い声で呻く。
彼の対面に座るシグルドとリュトラは、父親でもある騎士団長の憔悴した姿に、眉尻を下げて心配そうな表情になる。
「……成人を迎えた殿下が、国王として即位されているのは良い。ウィクルム様は統治者としての資質がおありだった。前王陛下も皇妃様もお喜びのことだろう。しかし、あのアンドリム・ユクト・アスバルがこちらについているとは……」
神殿騎士団と違い、王国騎士団は貴族出身の騎士が多い。貴族の家から騎士を目指すのは、パルセミス王国と王族を護ろうという志の高い若者達ばかりだ。稀に騎士の肩書き目当てで入団した者がいたとしても、課される訓練の多さや規律の厳しさに辟易として、すぐに辞めていく。
そんな騎士団と対極の位置にあるのが、宰相アンドリムと彼に媚び諂う腐敗貴族達だった。
アンドリムの庇護を傘に不正に手を染めて堂々と私腹を肥やし、守るべき領民達を虐げる。
そんな輩と、王国騎士団は何度対立してきたことか。
本来は中立を保つはずの神殿すら神官長マラキアを通じてアンドリムの影響下にあり、手の出せぬもどかしさに歯噛みした日々は、到底忘れることができない。
しかし二人の説明では、そんな状況が一転したのが五年前の竜神祭からだという。
宰相アンドリムの愚行は計算し尽くされたものであり、彼は汚泥の中に我が身を置くことで、陰からパルセミス王国を護り続けていた。そんな彼が全ての責務を放棄するに至ったのは、長く竜巫女の苦行に耐えてきた愛娘のジュリエッタが、当時王太子であった婚約者のウィクルムに裏切られたせいだ。
絶望したアンドリム――早逝の呪いに侵されながらも王国の守護を続けてきたアスバルの末裔は、娘と共に消える運命を選ぶ。真実を知ったヨルガ達はそんな親子に歩み寄り、彼らの運命を覆そうと奔走することになった。
その過程でシグルドは自身の出自を知り苦悩するのだが、ただ静かに贄となる刻を待っていた義妹のジュリエッタと養父アンドリムに支えられ、二人を愛することで立ち直っている。
「……シグルド」
「……はい。父上」
「お前を守れずに、すまない」
シグルドとヨルガが本当の親子であることは、既に打ち明けられていた。
ヨルガもずっと自分に似ているとは思っていたのだ。シグルドの生まれた日が、自分とユリカノが犯した過ちの一夜から十月ほど後であることも知っている。
成長していく彼の中に愛した女性と自分の面影を見つける度に、間違いであってほしいと願う理性の片隅で、仄かな悦びが確かにあった。
それでも王国の盾たる騎士団長として、そしてオスヴァイン家の当主として、心臓を苛む声から耳を塞ぎ続けたのだ。真実が白日のもとに晒される瞬間が後になればなるほど、シグルドが傷つくと知りながらも。
「いいえ……俺は果報者です」
頭を下げようとするヨルガをテーブルの向こう側から身を乗り出すようにして押しとどめ、シグルドは微笑む。
「今の俺には、尊敬する父が二人いる。リュトラとも変わらずに仲良くできているし、愛しい妻子もいます。苦悩の日々が幸福に至るための試練だと思えば……あの日々があったからこそ、今の俺があるとも言えますから」
「……強く育ったのだな、シグルド」
「父上の息子ですから」
母親譲りの黒髪を揺らすシグルドを見つめるヨルガの脳裏には、遠い日に失った婚約者の笑顔が鮮やかに甦る。彼女を奪われてからというもの、ヨルガは地の底で激る溶岩の如き憤りを抱き続けてきた。ユリカノではない女性を妻に迎え、リュトラが生まれ、守るべき家族を持ちながらも、過去を忘れることなどできなかったのだ。
そんなヨルガの心を縛り付けていた因果の鎖は、アンドリムが抱え続けた秘密の暴露によって、少しずつ緩んでいったらしい。
まだユリカノとヨルガが婚約者でいた頃、舞踏会でユリカノを見初めて彼女を妾にしようとその両親を罠にかけたのは悪業ムスロだ。彼女の両親に懇願される形で、アンドリムは守るためにユリカノを妻に迎えた。副団長候補と目されていたといっても、当時のヨルガは一介の騎士にすぎず、ムスロには到底太刀打ちできなかった。もしそんなヨルガがユリカノを守ろうと抗えば、その塁は二人だけに収まらず、オスヴァイン家と領民達にも及ぶ可能性があっただろう。
そしてユリカノを妻としたアンドリムは、その真意をヨルガに教えなかった。ことの経緯を知れば、彼が無力感に苛まれると分かっていたからだ。
若い有望な騎士から婚約者を奪ったという汚名を被り続けることになっても、ヨルガが自分への憎しみを糧に立ち直り、王国を護る騎士になってくれたらそれでいいと――愛する妻が産んだヨルガの子を、自分の嫡男として育てさえもした。
そんなアンドリムをヨルガは擁護し、紆余曲折があったものの、今では二人は同じ屋根の下で寝泊まりする間柄だというのだ。
息子達から明確な言葉で伝えられはしなかったが、自分とアンドリムの間には、友愛や親愛とは異なる関係を窺わせるものがあった。
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