毒を喰らわば皿まで

十河

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箱詰めの人魚

箱詰めの人魚-3

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   † † †


 パルセミス王国に隣接している国は、サナハ共和国とセムトア共和国の二国である。正確には、大陸の南側に位置するボヴィア共和国とも一部国境が接しているが、パルセミス王国に併呑へいどんされた旧ランジード王国の領土と交易があった頃のりで、その交易路は今はほとんど機能していない。
 くだんのセムトア共和国は、議会の権力が強いことで知られている。そんな共和国の中で十年以上議長を勤め続けているヘルマン・ホセ・エルダウは、ほぼ独裁に近い権力を有していると聞いていた。
 リュトラの学友であったステファン・サリ・エルダウは彼の一人息子で、留学を経て成人し、今は父親の後を継ぐために教育を受けている最中らしい。

「……そして三年ほど前に彼の婚約者となったのが、パルセミス王国の辺境伯、カルヴァド伯の息女、デイジー嬢だ」
「最近なんですね……留学が終わってから交際が続いていると聞いていましたので、二人の婚約は、もっと早い時期かと思っていました」
「それは、ステファン殿に婚約者がいたせいだな」
「えっ、そうなんですか?」

 驚いたリュトラがいきなり顔を上げたので、俺は慌てて眉をカットしていた小さなはさみを彼から離す。即座にしまった、という表情になった若者の顔をけ、鼻先を容赦なくつまみあげた。

「うぁ痛たた!! 痛いです!」
「……動くなと言ったはずだが?」
「すみません! もう動きません!」

 涙目でわめくリュトラの鼻を解放し、俺は軽くため息をつく。

「その気質は嫌いではないが、もう少し落ち着いたらどうだ?」
「いやだって、こんなとかしてもらうの、初めてで……」
「フン、それでは宝の持ち腐れというもの。マラキアめ、甘やかしすぎだ」

 俺は軽くあごを動かしてリュトラをうながし、大人しく瞳を閉じた彼の眉を丁寧に整える。ついでにアイラインを引いて、まぶたにも軽くアイシャドウをほどこす。最後に鼻梁びりょうと頬にハイライトを入れ、持ち合わせた気質のせいか何かと軽い印象が先立つ彼の姿を、落ち着いた男性のものへ変えていった。

「……ふむ」

 神殿騎士を率いる機会が多くなったとは言え、リュトラの籍は未だ王国騎士団にあり、副団長補佐の立場は健在だ。
 俺は礼装用の軍服に着替えた彼が王城に戻ろうとしたところを呼び止め、二人がけのソファに腰掛けさせて、ローテーブルの上に化粧道具を並べたのだ。リュトラは不思議そうだったが、大人しく、隣に座った俺がほどこすままの化粧を受け入れていた。
 こうやって対面で向かい合うと、母親似だと言われている彼でも、やはりヨルガの息子なんだと感じる。
 リュトラの兄であるシグルドはいささかヨルガに似すぎているが、リュトラは顔のパーツ一つ一つに父親ヨルガおもかげがあって面白い。

「……話を戻すが、ステファン殿の婚約自体は珍しいことではあるまい。良家の子息であればありがちな話である。しかし、婚約解消には手間取ったようだな。議長もなかなか首を縦には振らなかったと聞いている」
「ステフの婚約者がごねたのですか」
「相手のことはよく知らんのだが……一番問題になったのは、すでにその婚約者殿が長い年月エルダウ家に入っていたからだ」

 ステファンの元婚約者はヘルマン議長の恩師の娘であり両親を水害で亡くしていたことから、五歳の頃にエルダウ家に入って女主人としての教育を受けた。年齢はステファンより一つ下。
 リュトラと同年齢のステファンがデイジー嬢と恋に落ちた時が十三歳だとしたら、その時点ですでに七年もの間、エルダウ家で過ごしていたことになる。
 ステファンも妹に近い感情を抱いていた父の恩師の娘を無下には扱えず、結局二人の婚約が解消されたのは、ステファンが十八歳の成人を迎えた際のことだ。
 婚約を解消したいと言い出した息子にヘルマン議長は驚き、彼をいさめたが、ステファンはかたくなに主張を曲げなかったと聞く。
 ついには息子可愛さに議長が折れて何かしら手を打ったのか、婚約は無事解消された。

「そんな……十年以上も待ち続けた結婚を、一方的に解消されるとか……まるで」

 過去を思い出してか、リュトラが唇を噛む。
 数年前に彼らは、当時りゅう巫女みこであり、王太子ウィクルムの婚約者でもあったジュリエッタをから糾弾した。そして恋した少女ナーシャのために、王太子との婚約を破棄させ、更にはジュリエッタを古代竜のにえにすると定めたのだ。
 俺は後悔の念をにじませるリュトラのまなじりに触れ、静かに「もう終わったことだ」とさとす。

「今はジュリエッタも幸せになっている。いや、あの苦悩の日々があってこそ、真の幸福を掴んだとも言える……お前がこれ以上、気にむことではない」
「……アンドリム様」
「心配せずとも、ジュリエッタのことはこれからもシグルドが必ず幸せにする。あれでも、俺の自慢の息子だ」
「……はい」

 うなずいたリュトラにほほみ返し、俺は陶器の壺からすくったクリームをてのひらに伸ばして体温で馴染なじませてから、彼の髪を手早く整えた。
 ふわりとリンゴの香りがただよう整髪料は、前世の世界で言えばポマードに近いものだ。てのひらを酷使する技術者達のために準備したワセリンを原料に練ってみたのだが、まだ改良の余地がある。

「よし、これで良いだろう……リュトラ、姿見の前へ」

 俺にうながされたリュトラは誘導されるまま、部屋の壁にかけられていた鏡の前に立ち――絶句した。

「……嘘だろ」
「フフッ、お前は下地が良いからな。少しいじるだけでも、相当見栄えが違う」

 鏡の中から驚いた表情でリュトラを見返している、すずやかな顔立ちの青年。
 意思の強そうな瞳に、彫りの深い顔立ち。秀でたひたいふちる灰色の髪は丁寧にまとめられ、つやを帯びて少し青みがかって見える。薄い唇がひき結ばれると凜々りりしさが際立つのに、その雰囲気は何故なぜか、何処どこかしら優しい。
 いつものリュトラから親しみ易さと気軽さをとし、硬質なイメージを付け足した印象とでも言おうか。
 リュトラをよく知っている人物こそ、本人かどうか疑ってしまうような、そんな出来栄えだ。

「うわぁ……すごいんですけど」

 残された課題は、ペタペタと自分の頬に触れて鏡の中に映し出されているのが本当に自分なのかと確かめてしまっている本人の言動だ。
 流石さすがにこればかりは、今すぐどうこうできるしろものではない。

「あとはその口調だけなのだがな。まぁ、お前がステファン殿とデイジー嬢と交わすのは、挨拶あいさつ程度で良い。久方ぶりに学友と再会できると聞いて、騎士団から顔を見せにきた……その程度で構わない。細かいことは、俺に任せておけ」
「はい」
「ただ、気をつけてもらいたい相手がもう一人」

 どちらかというと、俺がリュトラを同行させるのはこちらがメインの理由である。

「今回、ヘルマン議長はセムトア議会に重要案件が控えているとかで、式への参列が不可能だという話だ」
「えぇ……ですからステフとデイジーが代理で来ているのですよね」
しかり。そして二人の目付役として、いつもは議長補佐をしている男が一人、同行している」

 これはかなり、異例の事態だ。
 何せ議長自身が「議会のために欠席する」と言っているのに、その議会で補佐をするべき議長補佐が、他国の結婚式に参列する代理に付き添うのはおかしい。
 ならばそこには、理由がある。
 そしてこの男が来るのであれば……俺はその目的に、すでに見当がついている。

「同行者は……テルベリ・トス・ロクサヌだ」
「……テルベリ?」
「知らないか?」
「はい。聞き覚えはありません」
「……そうか」

 リュトラは、知らない相手か。

「ロクサヌ殿は、元々はパルセミス王国の地方貴族だ」

 しかし、ある事件をきっかけに領地を王家に返納し、家族諸共セムトアに移籍している。
 そして、まだリュトラには教えないが、この男こそが――

「その男が、何か?」

 首をかしげるリュトラのひたいを軽く指先で弾き、俺はソファから立ち上がった。

「……リュトラよ」
「はい」
「マラキアを、守れよ」
「……アンドリム様?」

 どういう意味ですかといぶかしむ声に構わず歩き出した俺の後を、リュトラが追いかけてくる。
 辺境伯、テルベリ・トス・ロクサヌ。
 その昔。パルセミス王国の腐った貴族達を集め、いんな秘密倶楽部を開催していた男。
 ――幼いマラキアを、いた、男。


 身支度を整え、オスヴァイン家の邸宅から王城に戻ろうとした俺とリュトラは、客室から出てきたタイガに呼び止められた。
 急いで王城に向かった俺が一旦帰ってきたのに再び王城に戻ると耳にして、様子を見にきてくれたらしい。
 俺が王城に届いた『生肉』ならぬ『生物なまもの』について簡単に説明をすると、彼は「ふむ」と考え込む仕草を見せた。

「アンドリム殿。差し支えなければ、俺とノーラも王城に同行して良いか。ウィクルム王に挨拶あいさつする必要もあるしな」
「俺は良いが、陛下への謁見をく必要はないぞ。確か、本日は到着予定の賓客が多い。ノイシュラ王とタイガ将軍が王城におもむけば、おそらく、必要以上に視線を集めることになると思うが」
「構わない……どちらかというと、それもの一つだ」

 タイガに続いてつえをつきながら客室から出てきたノイシュラが、腕を伸ばして彼の背中に触れる。すぐにタイガが振り返り、自然な動きで王の手を自分の肩に誘導した。互いの信頼が形取る、良い主従関係の姿だ。

「その正体が掴めぬ少女にも興味はあるが、何より我が国リサルサロスおびやかそうとたくらむ手合いを早めにあぶしたい。……これは俺の勘だが、やはりあの『生肉』と先ほどアンドリム殿から伺った『生物なまもの』は、何か関連がある気がするんだ」
「それに関しては、俺も同感だな」
「あぁ……それに、どうもセムトアとも因縁いんねんがあるようだな? 後でアンドリム殿にも相談しようと思っていたが、今、セムトアは内情がかなり不安定だ。下手をしたら、議会が崩壊しかねない」
「えっ、そうなんですか?」

 驚きに声をあげたリュトラのほうに顔を向けたノイシュラは、瞳を閉じたままほほむ。

「君は……騎士団長殿の御子息か。こうして会うのは、初めてになるな」
「っ……! 失礼いたしました、ノイシュラ王」

 すぐに片膝をついて頭を下げるリュトラに、ノイシュラは「客分なので気にしないでくれ」と軽く首を横に振った。

「ノイシュラ・ラダヴ・ハイネだ。騎士団長殿が我が国を御来訪くださった折に、交友の機会を得た。御子息は二人とも、お父上に負けず劣らずの才覚を持つと聞く。タイガとも気が合うだろう、暇があれば相手をしてやってくれ」
「リュトラ・ミルカ・オスヴァインです。ノイシュラ王のご治世、竜のたけとどろくがごとく、パルセミスの地にも響き渡っております。御拝謁が叶いましたこと、この身に余るほまれにございます。タイガ将軍の武勇も、父より何度も聞き及びました。こうしてお会いできて光栄です」
「フフッ、堅苦しいことこの上ないな」

 挨拶あいさつも良いが、まずは行動が先だろう。
 まだ眠っているダンテ王子にはノイシュラのこの兵達が付いてくれているとのことだったので、俺は三人をうながし、屋敷の玄関に待たせていた馬車に乗り込んで再び王城に向かう。
 途中で王城から入ったしらせによると、セムトアからの客人達がちょうど到着したようだ。

「議長の子息一行が到着しているなら、まずは貴賓室だな。……リュトラ、頼んだぞ」
「はい」
「今回は特に何も聞き出さなくて良い。相手に好印象を抱かれるだけに止めておけ」
「分かりました」
「では行こう」

 到着したばかりの賓客をもてなす部屋は、王城の中でも特にぜいを尽くした装飾がほどこされたものになっている。一時期は某王妃の趣味で成金趣味のごんのような、目に痛い装飾になっていたのだが、今は落ち着いた雰囲気のものに統一されていた。
 王城の警護を受け持つ衛兵達が、リュトラの姿を目にして一様に驚いた表情になるのが面白い。それでも俺が唇の前に指を立てて音を立てずに形だけで合図を送ると、彼らは黙って頭を下げ、貴賓室に向かう俺達を見送った。

しつけが行き届いているな」
「フフ、私のわるだくみに付き合わせることが増えましたからな」

 タイガの軽口に付き合いつつ、セムトアからの一行が休憩している貴賓室に到着する。先触れをさせていたこともあってか、客人達はすでにソファから立ち上がった状態で俺達の到着を待っていた。
 メイドが開いた扉を最初に通ったリュトラは、穏やかな雰囲気の青年と華やかな顔立ちをした少女に視線を向け、嬉しそうにほほむ。

「ステフ! 息災そくさいだったか」
「えっ……リュトラ!? 本当に、リュトラか!?」
「まぁ、リュトラ様……?」

 リュトラに名前を呼ばれた議長の息子は驚きを隠せない声を漏らし、少女のほうは口元を手で隠して目を丸くしている。
 そして二人から少し離れた位置に控えた中年の男は、リュトラを見た後で俺とリサルサロスの二人に視線を移し、一瞬、身体をこわらせた。
 すぐにそれを隠して笑みを浮かべて見せたが、注意深くこちらの動向を探る気配を感じる。
 ……この緊張は、俺に対するものか? それとも、ノイシュラとタイガに対するものか?

「本当に、とは穏やかではないな、ステフ。友達の顔を見忘れたのか?」

 困ったように眉尻を下げたリュトラに、ステファンが慌てて首を横に振る。

「いや、忘れたわけじゃないけど……すごく雰囲気が違っていて驚いたんだ。なんていうか、大人っぽくなっていたから」
「そうか? 自分ではそんなに変わったつもりはないんだが……だが、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
「……リュトラ様」

 おずおずといった様子でリュトラに声をかけた少女が、ステファンの新しい婚約者であるデイジー・ラシ・カルヴァドだ。
 俺はカルヴァド辺境伯とは交流がないが、娘がいることくらいは知っている。社交会デビューした後もなかなか婚約の発表がないとは聞いていたが、まさかヘルマン議長の息子と関係が進んでいるとは夢にも思わず、報告を受けた折には、どんな縁だろうと首をかしげたものだ。
 そんなデイジー嬢は、凜々りりしい騎士姿のリュトラを見上げ、うっとりとしている。

「デイジー、君に会うのも数年ぶりだね。カルヴァド伯とは新年祭でお会いしたんだが、ステファンと婚約したとは知らなかったものだから、お祝いを言うのが遅れてすまない。婚約おめでとう、デイジー」
「あ、ありがとうございます」
「ステフ、勿論もちろん君もだ。婚約おめでとう」
「ありがとうリュトラ! ……君は、まだ結婚は……?」
「していないし、これからもするつもりはないんだ。ちょっと、色々あってね」
「っ! あぁ、そうか……ごめん、変なことを聞いて」

 苦笑するリュトラの表情でそのを察したらしいステファンは、すぐに頭を下げた。
 ……成るほど。議長の息子殿は、オスヴァイン家の嫡男が入れ替わった事実を知っているわけだな。それを考慮した上での謝罪だろうが、リュトラが口にした決意の本当の理由は、実は異なる。まぁ、今は訂正する必要はないだろう。
 しかししゅしょうに口をつぐんだステファンとは裏腹に、デイジー嬢のほうは愛らしく肩をすくめ、上目遣いの視線をリュトラに向ける。

「えぇ? どうしてですか、リュトラ様。リュトラ様みたいに素敵な御方でしたら、奥方になりたいと願う女性がたくさんいらっしゃるでしょう?」
「……デイジー」

 いさめるような声色で婚約者から名前を呼ばれ、彼女は不服そうにしつつも尖らせた唇を閉じた。
 ……確か彼女もリュトラと同年代なのだから、二十歳を迎えているはずなのだが……奇妙に幼い仕草は、いびつなあざとさを感じさせるものだ。
 俺が言うのも何だが、計算高い行動、とでも言おうか。

「それで、ステフ。そちらの方は……」
「あぁ、紹介が遅れてすまない。彼はテルベリ。テルベリ・トス・ロクサヌだ。今回は僕達の従者を務めてもらっている」

 ステファンに紹介されたテルベリはリュトラの前に進み出て、胸に片手を当てて悠然と頭を下げる。

「リュトラ・ミルカ・オスヴァイン様。テルベリにございます。どうぞ、以後、お見知りおきを」
「あぁ、初めまして。あなたがロクサヌ殿か。確か、ヘルマン議長の補佐をされているとか」
「よく知ってるね、リュトラ。父がどうしても議会に穴を開けられなくて、僕が代理でウィクルム陛下の婚礼に参列させていただくことになったんだけれど、僕はパルセミス王国についてあまり詳しくないからね。デイジーもパルセミス王国の貴族令嬢ではあるけれど、王家の方々とは関わりが少ないそうだから」
「……私は諸事情ございまして今は身分を捨てましたが、以前はパルセミス王国において貴族の末席に名をつらねておりました。その関係もあり、今回はヘルマン議長からステファン様の補佐を命じられまして、お二人に同行させていただいた次第です」
「へえ、そうなのか」

 軽くうなずかえしたリュトラが一歩横に身体をずらし、彼に続いて入室していた俺とリサルサロスの主従をセムトアからの客人達に相対させた。
 リュトラがリサルサロスの国王であるノイシュラと将軍のタイガを紹介する。
 ステファンはかなり驚いた様子で、テルベリと並んでノイシュラの前に膝をつく。一歩遅れて頬をこうちょうさせたデイジーもカーテシーと共に頭を下げたが……何だろうな、この粘着質な、遠慮なく注がれる視線の意味は。宰相を退しりぞいて久しい俺はともかく、ノイシュラはリサルサロスの国王なのだが……いや、そうか。
 彼女達にとってノイシュラは、の凶王のままか。
 次いでリュトラに「前宰相であり、今は相談役」とだけ紹介された俺に対しては、ステファンは「お若く見えますね」と驚いただけだったが、テルベリからじっとりと値踏みするような気配を向けられる。
 何となく、このセムトアから来た三人に感じるそれぞれの印象が形になってきたな。……それが、良いものとは限らないわけだが。
 そんな思考を巡らせる俺の前で最初に行動に出たのは、かつてパルセミス王国に仕える貴族の一人であったテルベリだ。

「アスバル様、お伺いしたいことがございます。カリスげいたてまつる竜神神殿に、神官長のマラキア様がいらっしゃると思うのですが……本日は王城においでではないのですか?」

 マラキアの名を耳にしたリュトラがわずかに目をすがめたが、俺に視線を向けているテルベリは気づいていない。

「今はいないようだが……テルベリ殿は、神官長マラキアと親交が?」
「えぇ……以前に少しばかり。この機会に、是非ぜひ、再会を果たせればと願っております」

 えて聞き返した俺の問いかけに答えるテルベリの表情は、陶然とうぜんとした――デイジー嬢がリュトラとノイシュラに向けたものと同じような、熱をはらむものだ。
 ……何ともまた、分かりやすい。
 露骨なテルベリの態度は、遠い昔に手放したお気に入りの玩具にまだ執着があるのだと、あからさまに知らしめている。
 傷ついた幼いマラキアが腐敗貴族達のもとに戻されないよう神殿にゆだねたのは当時の医師達の尽力だが、書類上の制約では未だにマラキアはこの男の奴隷で、であるはず。
 パルセミスを捨ててセムトアに亡命し議長の側近にまで上り詰めたテルベリの手腕は、それなりに評価できるものだ。マラキアと遭遇させた場合、ろくなことにならないのは目に見えている。
 俺は笑みを浮かべたままそれとなくリュトラの様子を探った。
 当の本人は先ほど一瞬ただよわせた不穏な気配を綺麗に引っ込め、今は騎士然とした態度を保っている。ふむ、良い成長具合だな。

「……成るほど。しかし神官長は、陛下の婚礼前でかなり忙しくされているだろう。上手うまく会う機会があれば良いが」

 そんなふうにセムトアの客人達と簡単な挨拶あいさつを交わしてから貴賓室を離れる。ほぼ同時に、謁見の準備が整いました、と王城詰めの騎士がノイシュラとタイガを迎えにきた。
 ユジンナ大陸に名高い二国を治める国王同士の初顔合わせだが、今日はどうせ形式通りの言葉しか交わさないだろう。俺がわざわざ同行する必要はない。
 ノイシュラとタイガもそれは分かっているようで、謁見が終わった後でまた合流しようと提案した俺の言葉にうなずき、騎士に連れられて謁見室に向かった。
 廊下を遠ざかる背中を何気なく見送っていた俺の腕が、ぐいと掴まれる。
 その持ち主が誰かを確かめるべくもなく引き寄せられた俺の身体は、背中から廊下の壁に強く押し付けられていた。強引すぎる行動にわずかにゆがんだ俺の顔の横に、どんと大きな音を立てててのひらが打ちつけられる。

「で、説明してもらえますか」

 低く、怒気をはらんだ声。
 おりのように俺を壁際に囲い込む、長い腕。
 いつもの快活さを消し去った声色とギラついたはしばみいろの瞳が、俺をける。

「何だ、我慢していただけか」
「……それは、そうでしょう」

 腕の持ち主――リュトラは、恨めしそうに俺の顔を見下ろす。

「いくら俺でも、セムトアの議長補佐を勤める男をいきなり半殺しにしたりしません」
しゅしょうな心掛けだと褒めてやりたいところだが、その言い分だと、いきなりでなければ半殺しにして構わないとの意味合いになりかねないぞ?」
「……だめでしょうか」
「時と場合によりけりだな……それに」
「それに?」
「ヨルガに、息子殺しの汚名を着てほしくないものでな」

 尋ね返したリュトラと俺の間をさえぎるように、何かが差し込まれる。

「っ!」

 それは、さやに収められたままの、一振りの剣。竜のたましいをも削り取る【竜を制すものクイスタシス】。
 リュトラが何か言葉を口にする前に、長身を誇る彼の身体が有無を言わさぬ力で押しのけられた。代わりに俺が引き寄せられたのは、んだ太い腕の中だ。

「……何があった?」

 見知らぬやからを相手にする時よりはかなり控えめではあるものの、それでも充分に圧を伴う言葉が、リュトラに投げかけられた。視線だけで動けなくなる者も多いけんのんまなしが、少しあおめた表情にひたりと注がれている。
 俺を腕の中に囲ったヨルガの全身からじわりとにじているのは、静かな怒りの気配だ。

「っ……父上」
「何があったと、聞いているのだが?」

 口籠くちごもるリュトラを問いただすヨルガの声色は抑揚がなく、それが逆に恐ろしい。

「ヨルガよ、そう殺気立つな」

 俺は言葉をなくしたリュトラを助けるために手を伸ばし、形の良いヨルガのあごに指先で触れた。視線を下ろした美丈夫の顔を見上げてほほみかけ、更に胸骨のくぼみに軽く頭を擦り付けて甘えてやると、底辺に沈みかけていた彼の機嫌が少しずつ浮上してくるのが分かる。
 リュトラの準備に時間をかけた俺達より一足先に王城に戻っていたヨルガも、今日は略式ではなく、正式な騎士団長の衣装だ。斜めがけにされた色鮮やかなサッシュが、軍服姿をいっそう引き立てている。

「ちょうど、セムトアから来た一行に挨拶あいさつしたところだ。なかなか、面白いことになっているようでな」
「面白いこと?」
「婚礼に招かれていた議長が出席できないとのことで、その名代で来た三人がいるのだが」
「あぁ、議長の息子と、その婚約者と、議長補佐だったか」
「その三人だ。どうも三人三様に、それぞれ思惑おもわくがあると見える」
「ふむ」

 首をかしげるヨルガに構わず、俺は言葉を続けた。
 ヨルガもセムトアからの三人と挨拶あいさつを交わしたようだが、話が弾むまでには至らなかったらしい。

「まず議長補佐殿は、我が国パルセミスの神官長殿にご執心の気配がある」
「あぁ……成るほどな」

 道理で、とつぶやくヨルガの隣でこぶしを握りしめているリュトラのことは、一旦そのままだ。

「議長の息子であるステファン殿は、ぼくとつそうな、悪くない雰囲気の持ち主だったが。その婚約者であるデイジー嬢は……何というか、色目を使い慣れているというか、びる姿勢を隠していないというか」
「……アンリも感じたか」

 デイジー嬢に対する俺の見解に、勘違いであれば良かったんだが、と漏らすヨルガの表情は暗い。

「それにまだ詳しい説明は受けていないのだが、表面上は落ち着いていると思われているセムトア議会は、その実、色々と紛争状態にあるようだな。ここ辺りは、ノイシュラ王が陛下との謁見を終えて屋敷に戻ってから拝聴することにしよう」
「そのセムトアからの客人達が、寝泊まりする場所は?」
流石さすがにオスヴァイン邸に連れていくことはできないのでな、このまま城内に滞在していただく予定にしたが……何か気になることでも?」

 そんなにおおに悩むことではないと思うが、と続けようとした俺の前で、ヨルガは渋面を作った。

「……どう考えても、おかしな話だ」
「おかしな話……?」

 聞き返した俺の頭を包むようになぞったてのひらが、後ろ髪が隠している焼印の跡に触れる。


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