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箱詰めの人魚
箱詰めの人魚-1
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アンドリム・ユクト・アスバルである【俺】が前世の記憶を取り戻してから、三年を越える月日が経過した。
今から二年ほど前。
俺とヨルガは東国ヒノエから持ち帰った【大蛇の鏡】を使い、賢者アスバルの手で歪められていた古代竜カリスの呪いを、娘――ジュリエッタに掛けられていたものだけ元の形に戻すことに成功した。自らの管轄に戻ったものであれば解呪は容易だと、古代竜カリスが建国当時よりアスバル家の血筋を蝕み続けた死の呪いを、片手間だとでもいうほど簡単に解いてくれたのだ。
俺のジュリエッタは定められた寿命という呪いから解放され、夫であるシグルドと同じく年齢を重ねて共に歩む人生を手に入れた。
程なくしてシグルドとジュリエッタの間には銀髪に榛色の瞳を持つ長男アルベールが生まれ、俺とヨルガはめでたく祖父となる。
そして、パルセミス王国の現国王であり、従兄弟でもあるウィクルムから側妃となってほしいと懇願され続けていた宰相補佐官ベネロペは、親友であるジュリエッタの出産を見届けてから、漸くその求婚を受け入れた。
ウィクルムの正妃は今も変わらずナーシャであるが、彼女は出産時に正気を失って以来、静養目的で移り住んだ離宮から一歩も外に出ていない。これからも、生涯、表に出ることはないだろう。
名目上は側妃といえども、その立場や役割はほぼ正妃に等しいものとなる才女ベネロペと国王ウィクルムの婚礼には、各国から多くの重鎮達が招かれた。
俺の後を継いで宰相となったモリノも三年近く政治を動かしているうちに多少は慣れ、相変わらず相談役として俺を王城に呼び出しつつ、何とか国政を回せるようになっている。ベネロペとウィクルムの婚約が決まってからは補佐官の後継育成にも余念がなかったので、彼女が不在となっても執務室は心配いらない。
そうこうしているうちに婚約という名の準備期間は瞬く間に過ぎ去り、一ヶ月後にはベネロペとウィクルムの婚礼が執り行われる日取りとなった。
離宮からはベネロペの実母であるペラジーンが王宮に入り、娘の婚礼支度に追われている。ジュリエッタは親友の結婚式をどうしても手伝いたいということで、ペラジーンと一緒になってベネロペを飾り立てる準備に勤しんでいた。
シグルドは友人でもあるウィクルムから婚礼儀式の警護責任者に直々に指名されている。既に王国騎士団の副団長として、ヨルガの不在時に代理団長を担っている立場ではあるが、一時的にウィクルムの近衛兵に戻っていた。
ヨルガは騎士団長なので、当然ながら挙式にも参列する義務がある。俺も参列を促されたのだが、相談役にすぎない自分には分不相応だと辞退し、挙式後の祝宴から参加させてもらうことにした。
「……さて、そろそろだな」
俺はここ数年で居候先として定着してしまったオスヴァイン邸のロビーで時計を確認し、外に整列しているレゼフ達のもとに向かう。
今回のウィクルムとベネロペの結婚式には、ユジンナ大陸の各地から来賓がある。そこには、前回のナーシャとの挙式の際にはまだ国交に乏しく、今回初めてパルセミス王国に招かれた国が二つあった。東のセムトア共和国を挟んだ大国リサルサロス王国と、ユジンナ大陸の最東端に位置する東国ヒノエだ。
俺とヨルガが【大蛇の鏡】を求める旅路で縁を結んだ国であり、リサルサロス王国からは国王ノイシュラと国王の側近でもあるタイガ将軍、ヒノエからは国主シラユキの筆頭家臣トキワと密偵頭のヨイマチが来訪することになっている。
どちらも賓客ではあるが、既に面識がある俺とヨルガがもてなしたほうが安心できるだろうとの配慮で、二組ともオスヴァイン邸に滞在する予定だ。
半刻程前に先触れの使者が到着しているので、国賓を乗せた馬車もそろそろ到着する頃合いだろう。本来であれば、オスヴァイン家の当主であるヨルガか長男のシグルドが出迎えを行うのが正しいのだが、婚礼の儀が差し迫っていることもあり、生憎二人とも屋敷を不在にしている。ヨルガ曰く「アンリが出迎えておけば問題ないだろう」とのことだ。
確かにノイシュラもトキワも気にしないとは思うが、対外的には多少問題がある気がしてならない。
しかし屋敷の使用人達もその取り纏めである執事長のレゼフもすっかり俺の指示に慣れてしまっているから、これは多少自業自得と言ったところか。
そんなことをつらつらと考えている間に、二頭立ての馬車がオスヴァイン邸の門を潜ってポーチに近づいてきた。扉がちょうど目の前に来る位置で止まり、俺は胸に片手を当てて緩く頭を下げる。久方ぶりの再会となったリサルサロス王国の国王に、恭しく一礼を捧げた。
馬で並走してきた騎士の一人が馬車の扉を開くと、片手に杖を携えた美しい青年が緩く微笑み、ゆっくりと足元を確かめながらタラップを降りる。次いで右目を眼帯で覆った幼児を抱えた長身の男性が馬車から降り、その背中を守るように青年の背後に立つ。
「ノイシュラ王、タイガ将軍。ようこそおいでくださいました」
「アンドリム殿、久しいな。息災であったか。また貴殿と会えて、嬉しく思う」
「ありがとうございます、ノイシュラ王。私のほうこそ、不肖の身でありながら、こうしてお二人と再会できましたことに感謝しております。ときに……タイガ将軍がお連れしている王子は、もしや」
「ああ、息子のダンテだ。……事前に連絡ができず申し訳ないが、訳あって私達に同行させた」
「……何やら事情があるご様子ですな。なに、こちらに来られたからには、心配には及びません。レゼフ、至急、王太子殿下をもてなす手配を」
「はっ」
数人のフットマンを連れて先に屋敷の中に戻った執事長を見送り、俺はノイシュラとダンテを抱いたタイガを促し、オスヴァイン邸の応接間に三人を案内した。
二人掛けのソファに腰掛けたノイシュラの隣に降ろされた幼い王子は、おどおどとした表情で落ち着きなく周囲を見回している。そんなダンテにノイシュラが優しく声をかけた。
「ダンテ、怖がらなくて良い。ここは、父の友人の屋敷だ」
「……ちちうえ」
こくんと頷いた王太子ダンテは、まだ三歳になるかならないかという年齢だったはずだ。ちなみに俺が名付け親でもあるのだが、パルセミス王国に帰国してからは、その成長を知ることもなかった。
何はともあれ、まずは身体を休めてもらうのが先だ。
メイド達がワゴンを押して運んできた紅茶と軽食をセッティングしているうちに、今度はヒノエからの馬車が到着しそうだと先触れが届く。
「……やれやれ、忙しいことだ」
「アンドリム殿、ヒノエからは誰が参列を?」
「トキワ殿とヨイマチ殿ですな。シラユキ様自身がおいでになりたかったらしいが、どうしても都合がつけられなかったそうです」
「そうか。シラユキにも久方ぶりに会いたかったのだが、こればかりは仕方がないな」
「フフッ、焦らずとも、また会う機会もあるでしょう。では、暫し御前を失礼」
俺は応接間に戻ってきたレゼフにその場を預け、今度はヒノエからの馬車を出迎えに向かう。
ヒノエからパルセミス王国までは、単純にリサルサロスからの二倍に近い距離がある。それでも隣国のリサルサロスと国交が正常化した今日では、整備された街道を使ってリサルサロス国内を安全に横断できるので、以前よりは楽な道程だっただろう。
馬車から降りてきたトキワは二年前より少し背が伸びて、身体つきも逞しくなっているようだ。一方、トキワに続いて馬車を降りてきたヨイマチは、相変わらず年齢不詳の雰囲気を保っている。
「アンドリム様、お久しぶりです」
「トキワ殿もご健勝で何より。ヨイマチ殿も、変わりなく」
ヒノエからの客人二人もそのまま応接間に案内すると、ノイシュラの膝に抱かれてサンドイッチを頬張っていたダンテが驚いた表情になる。ぎゅっとノイシュラの腕にしがみついて、顔を隠してしまった。
けれど、ノイシュラとタイガに再会の挨拶を終えたトキワがソファの前で膝をつき、優しい声で丁寧に言葉をかけ続けているうちに、少しずつ頷くようになる。
以前、歳の離れた弟達の世話をしていたと言っていたのは本当だったようで、一時間もしないうちにダンテはトキワに懐いた。一緒に遊ぶうちに旅の疲れが出たのか、ダンテはそのうちことりと眠ってしまう。
「ありがとう、トキワ殿。あんなに嬉しそうなダンテの声は久々だ」
ノイシュラに穏やかな笑顔を向けられて、トキワは少し面映そうに頭を掻く。
「いえ……ダンテ王子も大きくなられたなと感慨深くて。ミルケの町でこの手に抱き上げた時は、とても小さくて軽い赤子で……王城に戻るまでに心臓が止まってしまいはしないかと、気が気でなりませんでしたから」
「あぁ、そういえばダンテを迎えに行ってくれたのは、アンドリム殿と騎士団長殿と、貴殿だったな」
「はい。もう、あれから二年ほどになるのですね……」
相手が幼い子供であれば、二年という歳月が齎す変化はかなり顕著だ。一方で、俺のように、二年経とうが何年経とうが、変わらない存在もあるのだが。
「それでノイシュラ王よ。早速ではあるが、大事な王太子であるダンテ王子を今回の旅に同行させた理由は何故だ?」
使用人達も下がらせたことだし、俺は少し砕けた口調に変えて問いかける。
聞かれたくない話であればヒノエの二人にはそれぞれの客室に下がってもらおうかとも思ったが、ノイシュラは構わないと首を横に振り、ソファの上で寝息を立てているダンテの頭をそっと指先で撫でた。
「パルセミス王国に旅立つ数日前のことだ。ネピメンの王城に、送り主が不明の木箱が一つ、俺宛てに届いた」
盲目の凶王と恐れられていても、正しく生きる者からの人気はすこぶる高いノイシュラのもとには、民衆達からの贈り物が届く。それは当然ながら、王城に届いた時点で衛兵達に中身を確かめられて、安全と判断されたものだけが城の中に持ち込まれることになる。
その木箱は両腕で抱えられる大きさのもので、ノイシュラ宛てだと記されている以外には、荷札も何もついていなかった。
怪しんだ衛兵達が釘打ちされた木箱の蓋を開いてみると、中には木毛が一杯に詰められていて、その中央には、赤い肉の塊が入っていた。その肉は常温で送られてきているにも拘らず、たった今切り出したもののように鮮やかな肉色をしているばかりか、何とも食欲をそそる何かを放っている。
衛兵達は一瞬生唾を飲んだが、幸いにも「これはおかしい」と判断する理性のほうが勝った。出所を調べる前にこの肉を処分してしまわなければ、と燃やす準備をする。けれどその間に、王城で飼っていた犬が一目散に駆け寄り、肉に噛み付き、呑み込んでしまった。
肉を口にした犬は口から泡を吹いて悶絶したかと思うと――見るも悍ましい化け物に姿を変えた。
「……ダンテが可愛がっていた犬だったんだ」
苦々しく呟くタイガが、衛兵達の報告で荷物が集められている詰所に駆けつけ、化け物に変化して暴れる犬を始末した。しかしタイミング悪く、犬に餌を与えようとメイド達と一緒に外庭近くまで下りてきていたダンテが、犬が化け物に変わるところも、タイガに退治されるところも、目撃してしまったのだ。
「……それは、災難でしたな」
「ああ……ダンテも相当ショックを受けたみたいだが……俺が嫌われなかったのだけは、不幸中の幸いだった」
「幼心にも、タイガ将軍が皆を助けるために行ったのだと理解できたのでしょう。聡い王子だ」
――口にしたものを、化け物に変える肉。
それは何とも、不気味としか言いようがない。
「早急に調べさせてはいるが、まだ出所がはっきりしない。このままダンテを一人王城に置いていくのは危険だと判断して、急遽俺達に同行させたというわけだ」
「そうでしたか」
俺は口元に手を当て、暫く考え込む。
まだ情報が少なすぎて何とも言えないが、この事件の背後に、何か良くない気配を感じるのは間違いない。
その直後。王城からの早馬が俺に届けた知らせは、応接間に集った全員の背筋を容易に凍りつかせるものだった。
挙式を控えたパルセミス王城には、国王の婚礼を寿ぐ贈り物が、各地から数多く届いている。
そんな大小様々の贈り物が詰められた箱に混じって……
送り主が分からない、正体不明の大きな木箱が一つ。
いつの間にか、届けられていたようだ――と。
第一章 海から来たもの
知らせを受けた俺が王城に駆けつけると、件の木箱はまだ蓋が閉じられた状態のまま、衛兵達の詰所前に放置されていた。
伝令を急がせた甲斐があって、誰も木箱に触れなかったのは幸いである。そして、何より俺の目を引いたのはその木箱の大きさだ。
「……でかいな」
確かノイシュラ達の話では、送られてくる木箱のサイズは、両腕でひと抱えできるほどのものだった。
しかし目の前に鎮座している木箱の大きさは、どう見てもその範疇を超えている。しかもその直方体は、横に長い。
つまり、俺達がよく知る『箱』の概念として一番似ているのは――
「棺桶のようだな」
思考を読んだような台詞が、背後からかけられる。
振り返るより先に腰に回された太い腕が俺の背中を引き寄せ、後頭部に口づけが落とされた。
「ヨルガ」
名を呼ばれた俺の番である美丈夫は、緩く微笑む。
ヨルガも騎士団長として仕事に追われていた最中に、不審な荷物が届いたと呼び出されたらしい。
「わざわざ来てくれたのか、アンリ。客人はどうした」
「その客人からの情報を受けて、来たのだよ。ヨルガ、あの箱の詳細は分かるか」
「……俺も今しがた報告を受けたばかりでな。誰か、説明を頼む」
「それでございましたら、私が」
今度は涼やかな声が、木箱をぐるりと囲んでいた人垣の後ろからした。
頭を下げて道を空ける衛兵達に軽く会釈を返して労いの態度を示しつつ姿を見せたのは、純白の法衣を身につけた神官長マラキアだ。彼の後ろにはヨルガの息子であるリュトラが付き従い、その背中をしっかりと守っている。
「マラキア、お前も来ていたのか」
「はい。……と言いますか、アンドリム様と騎士団長殿にご足労いただきますようお願い申し上げましたのは、私ですので」
「ほう?」
首を傾げる俺に頷き返したマラキアの話では、婚礼の打ち合わせで王城に来ていたところ、水の精霊達が何処かで騒いでいる気配を感じたそうだ。
優れた治癒魔法の使い手である彼は、水の精霊と相性が良い。言葉を交わすことはできなくとも彼らがひどく動揺していることを察したマラキアは、何事だろうとその出処を探し歩き、辿り着いたのが衛兵の詰所前だったということだ。
それはちょうど、荷札も送状もつけられないまま届いた大きな荷物を不審に感じた衛兵達が、何はともあれ木箱を開いてみようと、蓋を封じていた釘を抜いていた最中のことだという。そこでまずマラキアは衛兵達の行動を中断させ、精霊達の騒ぎの元凶がこの木箱であることを確認した。
そして、そのまま木箱を観察しているうちに、不思議な感覚に襲われる。
「まるで、水底に沈んだかのような……そんな、心地がしたのです」
「……それはまた、奇妙なことだ」
マラキアの説明を受けて俺も木箱に視線を向けてみたが、今のところは、棺桶ほどのサイズだなと思う以上の情報はさして得られない。
ノイシュラに教えられたことを伝えると、眉を顰めたヨルガが木箱を囲んでいる衛兵達を一旦下がらせた。
もしこの木箱の中身がリサルサロスの王城に届けられたものと同じであるならば、無闇に蓋を開けるのは得策ではない。距離を取った上で、長い棒か何かを使って開けてみるか、いっそこのまま油をかけて燃やしてしまうか。
対処法を話し合っている俺達の耳に、ゴトリと、木箱の中から何かの音が聞こえてきた。
「っ!」
「……アンリ、下がれ」
すぐにヨルガが俺を背中に庇い、リュトラもマラキアの前に出て剣を構える。木箱から距離を取っていた衛兵達もそれぞれ腰に下げていた剣を抜いて盾を構え、臨戦態勢を取った。
ゴトゴトと得体の知れない音を立てながら小刻みに揺れていた木箱の蓋が、ガタンと一際大きな音を立てて浮き上がる。
いや、浮き上がるというか、これは中から押し上げられているのか。
警戒を緩めないリュトラの背後に庇われたマラキアは、何か大きな音でも聞こえているかのように両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと眉根を寄せる。
「水の精霊達が、興奮しています……! こんなことは、初めてです」
直後、蓋が持ち上がり、木の軋む音と共に横にずれた。
中には木毛が敷き詰められている。
だが、その隙間から這い出してきたのは、間違いなく人の指だ。
息を呑む俺達の前でその細い指は木箱の縁を掴み、のそりと起き上がる。
「っ……!?」
「これは……」
リュトラは更に警戒を強め、マラキアは茜色の目を見開く。
不意に俺の鼻腔を突いたのは、覚えのある香り――パルセミス王国で生活する上では、接する機会に乏しい場所の匂いだ。
「潮の匂い……」
パルセミス王国はユジンナ大陸の中で最北に位置するが、国土に面した北海は古代竜カリスの恩寵を受けておらず常に荒れ、凄腕の船乗りであろうとまともな航行はできないと言われている。ゆえにパルセミス王国の食卓に上がる海産物は、磯で採れるものか陸地近くの浅瀬で漁れる魚に限られていて、それ以外は淡水のものが殆どだ。海が常にそんな状態であるから海水浴のような習慣も発達しておらず、生涯海とは無縁で終わる国民も少なくない。
俺自身、アンドリム・ユクト・アスバルとしてこの世界に生まれ落ちてからの記憶を遡ってみても、海岸近くに赴いた機会は片手の指の数ほどだ。それでもこの特徴的な香りは、間違いようがない。
潮の香りが更に強くなった。
箱の中から木毛を掻き分けるようにして姿を見せたのは――
「何だと!」
「おぉ……!」
武器を構えて木箱を取り囲んでいた衛兵達から、感嘆の声が漏れる。
流石の俺とヨルガも、言葉を失った。
「……ぅ……ぁ」
言葉になっていない、空気が喉を通る音だけが僅かに漏れる声。
表情は呆然とした虚ろなものだったが、その視線はゆっくりと俺達を見回した後、ひたりとリュトラの前で止まる。
「……ぁ……」
それは何故か微笑み、木箱の縁に寄りかかった姿勢のまま、リュトラに向かって手を伸ばした。
しかし、片側だけに体重がかかったせいで、箱が傾く。
「あっ!」
一瞬の後、俺達が止める間もなく横転した木箱の中から、彼女の身体は地面に投げ出された。
真珠のように白い肌に、波打つ長く美しい金髪。瞳は深い青色で、憂いを含んだその相貌は、御伽噺に語られる姫君のように麗しい。
均整の取れた瑞々しい身体は形の良い乳房を惜しげもなく晒し、細い脚に続く下半身を覆うもの一つ身につけていなかった。
咄嗟に駆け寄り助け起こしたリュトラの腕の中で、彼女は彼の頬に触れ、安堵した表情を見せる。
俺とヨルガは、ただ、それを見守ることしかできない。
「……どういうことだ?」
「分からん。ただ……何か、良くない予感がする」
――木箱の中から姿を現したのは、得体の知れない何かの『肉』ではなく、得体の知れない、若く美しい、裸の少女だった。
† † †
俺達が呆然として見守る中、笑みを浮かべた少女はゆっくりと瞳を閉じたかと思うと、そのままリュトラの腕の中で意識を失った。
動揺しつつも横倒しになった木箱の中から木毛を掻き集めたリュトラは、少女の身体をそれで覆ってやっている。
俺は衛兵達の詰所に設置してある仮眠用の寝台から毛布を拝借してきて、ぐったりとしている少女の身体にかけた。
毛布を広げて近づくと、やはり潮の香りが濃く漂う。まるで海から引き上げられて、そのまま木箱に詰めて送られてきたようだ。
マラキアも意識を失くした少女の額や頬にそっと手を当て、彼女の様子を診察した。
「……呼吸も脈もしっかりしています。体温はやや低めですが、あのような木箱に裸で入れられていたのであれば、当然のことかと。気絶しているだけでしょう」
「そうか」
「ただ、やはり水の精霊が騒ぎ続けています」
そう呟く彼の纏う白い法衣の上で、青白い光が点滅するように姿を見せては輝いて跳ねる。
「マラキア、それは……」
「えぇ、水の精霊達です。彼らが日中でも可視状態になるほどの興奮を見せるのは、それこそ竜神祭の時しかないのですが」
奪われた半身を取り戻すまで、十年に一度、聖なる乙女の血肉を糧としていた古代竜カリス。彼に贄が捧げられる竜神祭の日には、古代竜の魔力に惹き寄せられてパルセミス王国に集まっている精霊達も影響を受けて、色鮮やかな光の粒に姿を変えて宙を飛び交う。
前の竜神祭でもそんな光景を目にしたが、何故この少女に対して、水の精霊達が同じような興奮を見せているのか。
「……何はともあれ詮索は、この子が目を覚ましてからだな」
俺の言葉を受け、同じように身を屈めて少女を観察していたヨルガが軽く頷く。
立ち上がった騎士団長が大きく手を叩くと、魅入られたように視線を少女に注ぎ続けていた衛兵達の表情が、はたと夢から覚めたようなものに変わった。互いに顔を見合わせた彼らは身震いをして、今度はあからさまに警戒を滲ませた様子で遠巻きになりつつも少女を取り囲む。
「リュトラ、その子を監視できる場所に連れていけ。必ず、見張りを立てるように。武器を身につけていないのは確認できているが、正体が分からぬうちは油断できん」
「分かりました」
「それと神官長殿。リュトラの補佐と、彼女の診察を続けてお願いできるだろうか」
「ええ、構いませんよ」
「……俺は陛下に報告に上がる。アンリ、一緒に来てノイシュラ王から受けた忠告も伝達してくれ」
「良いだろう」
毛布に包まれたままリュトラに抱き上げられた少女の身柄は、一旦、衛兵達の詰所近くに設けられた出入り業者用の控室に置くことになった。地下牢とまでは行かずとも不審者を一時収監する目的がある部屋なので、窓には鉄格子が嵌められており、入り口の扉も分厚く頑丈だ。
少女の監視と看病をリュトラとマラキアに任せ、俺はヨルガと連れ立って国王ウィクルムに事態の報告に向かう。
婚礼を一ヶ月後に控えての思わぬ『贈り物』にウィクルムは眉根を寄せ、同時に報告を耳にした側妃となるベネロペも不安そうな表情を見せた。
リサルサロス側からの報告もあるので、尚更だろう。
「それでアンドリム様、何かお気づきの点はありませんでしたか」
宰相のモリノに尋ねられた俺は顎に指を当て、暫く考え込む。
「流石に情報が少なすぎてまだ推察にすぎませんが……あの木箱の出処は、セムトアからではないかと推察しております」
「何故、そうお考えに?」
「まずは単純に、セムトアがリサルサロスとパルセミスの間にある国だということ。荷札がなく、送り主と中身が不明な荷物は、目につきやすい。国を幾つも跨げば不審に思われ、蓋を開けられる機会が増えるでしょう。しかし隣国であれば、そのリスクがかなり減ることになる」
そう考えると、王城にあの木箱を持ち込んだ業者も怪しい。
しかしこれは後でノイシュラにも確かめるが、リサルサロス側でも既に調べを進めているはずだ。答えが出ていないのであれば、それなりの組織が後ろについているという証左になる。
偶然同じ木箱で送られてきただけで、リサルサロス王国に不審な肉を送りつけた何かとパルセミス王国に裸の少女を送りつけてきた何かが、全くの別である可能性もあるにはあった。だが、状況を鑑みる限り、同じ出処の可能性が高い。
「もう一つの理由は、香りです」
「香り……?」
「騎士団長殿も気づいたでしょう。あの木箱から……というか、あの少女から漂っていた香りです」
「あぁ、あれは潮の匂いだな」
ヨルガの率いる王国騎士団は万が一の事故に備え、大きな湖と河川、そして海岸での水泳訓練を定期的に行っていたので、潮の香りを知っていて当然だ。
パルセミス王国の北海は荒れた海で有名だが、旧ランジード王国の領土との間で向かい合わせに陸地が迫り出した半島の間に広がる入江は比較的潮流が穏やかで、養殖業が盛んに営まれている。ヨルガ達が訓練を行うのも同じ入江だ。
俺は文官から受け取ったユジンナ大陸の地図を広げ、リサルサロス王国とパルセミス王国の間にあるセムトア共和国を指さした。
セムトアはパルセミス王国のすぐ東に位置しており、南側に隣接するサナハと同じく共和制国家だ。しかしサナハはユジンナ大陸の中央に位置し、海に面する国土を持っていない。セムトアは国土の北側に、ユジンナ大陸の北海に面した海岸線を持っている。
「ユジンナ大陸の南に位置するボヴィア共和国やキコエド連合国から運ばれてきた可能性も皆無ではありませんが……現実的ではないでしょう。特にセムトアは、雨季が終わったばかりです」
サナハが温暖な気候に恵まれている一方で、セムトアはユジンナ大陸特有の気候変化により、年に二回、大規模な雨季に見舞われる。大陸の南西に位置するボヴィア共和国は農耕が盛んな国ではあるが、パルセミス王国の首都までかなりの距離がある上に、街道の整備が整っていない。逆に南東に位置するキコエド連合国から運搬するとなれば、それこそセムトアを縦断する必要があり、雨季が終わったばかりのセムトアを通過するには手がかかる。
「遠距離を運ばれた全裸の少女が、木箱に閉じ込められたまま生きていられるとは思えませぬ」
――ただしそれが、ただの人間であった場合ではあるが。
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