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その林檎は齧るな
その林檎は齧るな-2
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「騎士団長殿、そしてアンタは……相談役とかおっしゃいましたか。貴方方のおっしゃることはご尤もだ。しかしどうか、この老いぼれの身柄辺りで、勘弁してはもらえないだろうか」
「……トリイチ⁉」
シラユキ姫が叫ぶが、トリイチ翁の言葉は止まらない。
「儂は既に老い先も短い。例えば試し斬りに使っていただいても、少しも惜しくなどない。どこか敵国の偵察でも構いませぬぞ。それでシラユキ……姫が、ヒノエが助かるのであれば何ら悔いもありゃしません」
「トリイチ! 早まるな!」
トリイチ……酉市、だろうか?
その外見からして、鍛冶師といったところか。
「……宜しいでしょう。従者の方々も全て、オスヴァイン家の屋敷にご案内します……ただし」
俺は先程からじっと俺を観察しているトリイチ翁と視線を合わせ、ニヤリと笑う。びくりと肩を揺らした彼は、思わずといった様子で拳を握りしめた。
どうやら、俺を『得体が知れない相手』と、判断したようだな。
「トリイチ……様、でしたか。貴方は王城に残りなさい。話は、後から宰相閣下より聞くように」
「……承知いたした」
老人が頷いたので、俺はまたもや片手を胸に当てて、国王ウィクルムに向かって一礼をする。
「では陛下、一旦ご前を失礼いたします。姫君達をオスヴァインの屋敷までご案内しましょう」
「あぁ、頼む」
「……陛下は宰相閣下とご一緒に、どうぞ『確認』を」
「分かった」
ウィクルムと俺が交わした短い会話の内容にヒノエからの使節達は一様に首を捻っているが、彼らがその意味合いを理解できるのは、もう少し後になるだろう。
謁見室の扉が開放され、トリイチ翁を除いた六人の従者と、シラユキ姫が部屋を退出する。少し足取りが覚束ないシラユキ姫をそっと後ろから支えているのは、『セイジ』と『トキワ』の二人だ。
王城の正面扉を開いた先には、オスヴァイン家所有の馬車が、先を見越してか二台準備されていた。俺はヨルガにエスコートされたシラユキ姫とヨルガ、そしてシラユキ姫の側近と思しき『セイジ』と『トキワ』が乗り込んだものと同じ馬車に乗り込む前に、御者に一言告げる。
「遠回りを」
「……承知いたしました」
おそらくベネロペ辺りが既に手を打ってくれているだろうが、王城を出てからほど近い場所にあるオスヴァイン家に馬車で向かうと、ものの十分も経たない内に到着してしまう。常ならば時間が掛からないほうが良いのだが、今回に限っては、時間が足りない。
俺はこの馬車の中で過ごす数分の間に、シラユキ姫から、幾つかの重要な案件を聞き出さなければならないのだ。
「……さて」
馬車の中に乗っているのは、シラユキ姫を中心に左右に分かれて座っている『セイジ』と『トキワ』。そして対面座席の扉側に腰掛けたヨルガと、シラユキ姫の正面に座った俺の、全部で五人だ。
従者の残り四人は、二台目の馬車に乗ってもらっている。これに従者達は不服だった様子でぶちぶちと言っていたが、結果的に俺に押し切られ、まとめて後方の馬車に乗った。
ここまでは良いとして、早めに確認を済ませてしまわねば。
俺は座席に腰掛け、足を組んだ膝の上で左右の手指を重ねる。
何を言われるのだろうと身構えるシラユキ姫の顔色は、ひどく痩せた体質も影響しているのだろうが、青褪めていた。加えて、あの爪と、白眼部分の変化は。
「あまり時間に猶予がございませんので、まずは大事な確認だけをいたしましょう。……私は『若君』の考えを知りたい。大蛇は今も実在していると、お考えですか?」
俺がシラユキ姫に投げかけた疑問に、ヒノエ国の王族兄弟三人は、揃って絶句した。
この態度だけで、俺の指摘が図星であったと分かってしまう。もう少し王族としてリアクションに注意したほうが良いと思うぞ。まぁ、これはパルセミス王国の国王に対しても同じことが言えるのだが。
「……心配せずとも、この馬車の中で交わした会話は、誰にも聞き取ることができない」
「ど、どうして……」
どうして分かったのですか、かな?
「気づいた理由は幾つかあるが、残念ながら、今はゆっくりと説明をしている暇がない。馬車が屋敷に着くまでに、君達の関係性をはっきりさせておきたい。……まず、君達は兄弟だ。それに、間違いはないだろうか?」
「貴方は何故、そこまで……!」
「トキワ殿、だったな。国政に携わっていると、見えてくるものもある。これも詳しい説明は後からするとして、君達はシラユキ姫を害する【敵】がいることに気づいている。これも間違いないだろうか?」
「は、はい……」
「成るほど。では、次だ。『シラユキ姫』を特使に任命したのは誰だ? おそらく、国を治める立場に近い人物だとは思うのだが」
「……私の母です」
先程俺に噛みついてきたセイジが、小さな声で答える。私の母と言うからには、おそらくこの兄弟達は、異母兄弟なのだろう。
「分かった。……そしてシラユキ姫、貴方は、何番目の王子だろうか?」
「……四番目、です」
ふむ。想像通りだな。
「シラユキ姫、そしてセイジ殿とトキワ殿。貴方方が最後に大蛇をその目で見たのは、いつのことだ?」
並んで座っていた三人は顔を見合せて頷き、代表してトキワが口を開く。
「三年前、……八人目の生贄を捧げる前です。長兄のスサノイ兄上が、生贄に選ばれていた三女のミユキを救うために、大蛇に立ち向かった年で……結局、兄もミユキも帰らず、次の年も、次の次の年も、生贄を捧げました」
「……当たってほしくはなかったが、それなりに複雑な状況だな」
俺は座席の背凭れに身体を預け、眉間を軽く指先で押さえながら息を吐く。
何とか国内情勢が落ち着いてきたと思っていたところで、今度は他国の問題に首を突っ込まないといけないのか。
本来であれば放置しても構わないのだが、これから呪いを解く術を探しに行きたいと思っていたヒノエが相手なのだから、ここで恩を売っておいても損はない。とはいえ、面倒でならない。
「では、これで最後だ。シラユキ姫が【生贄】にされるのは、いつ頃になる?」
この問いかけには、対面に座った三人だけでなく、隣のヨルガまでも驚いた表情を浮かべる。
シラユキ姫は暫しの間逡巡したものの、隠しても仕方がないと思ったのか、顔を上げて俺の目を見つめ、静かに言葉を紡いだ。
「……四ヶ月後の、予定です」
ヒノエからパルセミス王国まで、この時期に南回りの経路を取れば、順調な旅路を辿れたとしても一ヶ月はかかる。これからすぐにパルセミス王国を出立しても、ヒノエで事態の解決に費やせる時間は、三ヶ月ということだ。これを短いと思うか、充分と思うかは、流石の俺でも、判断できない。
「……さしあたっては、シラユキ姫の治療と安全確保だな。屋敷に着いたらすぐにマラキアを呼んで診察してもらうとするか」
「え……?」
「治療?」
「シラユキに、何かあるのですか」
俺は頷き、きょとりとしているシラユキ姫の両手を、掬い上げた。
相手が本当の姫君ならば非難される行為であるが、中身は王子だからまぁ良いだろう。
俺も体温が高いほうではないのに、掌に乗せたシラユキ姫の指先は更に冷たく、まるで氷のようだ。そして指先で切り揃えられた小さな爪は、その表面が凸凹に歪んでしまっている。俺の行動を不安そうに見つめる瞳は仔鹿のように丸く黒目がちだが、見え隠れしている白眼の色は明らかに黄ばんでいた。
「相手を全て燻り出すのは、王国滞在中は困難だろうな。ヒノエに帰る旅路の間に見つけ出せると良いが」
「どういう意味ですか……?」
「説明してやりたいが、そろそろ屋敷に到着する。また、何処かで時間を作ろう。……シラユキ姫、屋敷の中では、決して一人にならないように」
やれ往来で喧嘩が起きているだの道がぬかるんでいるだのと言って、先導する馬車を操る御者は、オスヴァイン家の屋敷に到着するまでの道のりを充分に遠回りしてくれたようだ。
屋敷の門を潜ると、すっかり俺とも馴染んでしまったオスヴァイン家の執事長が出迎えて馬車の扉を開き、先に馬車を降りたヨルガに恭しく頭を下げた。続いて馬車を降りた俺がまだ座席に座ったままのシラユキ姫を視線で示し、「ヨルガの新しい嫁さん候補だ」と教える。なかなかの胡乱な目つきになった執事長が面白い。
「揶揄うなアンドリム……レゼフ、ヒノエからの客人が七人だ。滞在の準備を頼む」
「はっ」
セイジとトキワに手を引かれて馬車から降りたシラユキ姫のもとに、後続の馬車で到着した四人が駆け寄ってきた。シラユキ姫の無事を確かめほっとした表情を見せている彼らは、名目上全員シラユキ姫の従者ということになる。
シラユキ姫と年齢が近そうな『アサギ』、穏やかな表情をしている『ツララ』、筋肉質な身体つきの『フカガワ』、飄々とした雰囲気の『ヨイマチ』。四人ともシラユキ姫の身体を案じ、得体の知れない不届き者の馬車に無理やり乗せられた姫の様子を気遣っているように見えた。
しかし俺は言うに及ばず、仮面を被るのが得意な人物は何処にでもいるのだ。ましてや、犯人がそうとは思わず、知らないうちに犯罪に手を貸しているパターンも有り得る。
客人の世話を執事のレゼフに任せ、俺は旧知の仲である神官長のマラキアを呼び寄せる手配をしてから、ヨルガの部屋に向かう。
屋敷の二階にある主人の部屋を訪うと、軍服を脱いで楽な服装に着替えたヨルガが、俺を待っていた。部屋に入るや否や、腰に腕を回して引き寄せられ、深く重ねた唇の隙間から舌を絡めとられる。少し乱暴さを感じるその行為は、表面では平然としていた彼が苛立ちを感じていた証拠だ。
「んっ……ふ……」
求められるままに唇を吸い上げられながら、俺はヨルガの身体に手を這わせる。
逞しい二の腕と、厚い胸板。引き締まった腹筋と、太い腰回り。俺が踏んでもびくともしない、強靭な脚。最近は貴婦人達に愛想を振りまくことに慣れてきた艶のある視線が、熱を孕んで俺を見つめている。
何度確かめてみても、佳いものは佳い。
不惑が近づいているというのに、俺の番は魅力を増すばかりで何よりだ。
「なぁ、アンリ」
「ん……?」
「ご褒美をくれても、良いのでは?」
「ご、ほうび……? んっ……」
口づけの隙間に強請られた言葉の意味は、シンプルだ。
ヨルガにとっては不本意極まりない、娘よりも幼い少女を妾とする提案を、唯々諾々と受け入れてみせたのだから。
もちろん俺とモリノに何らかの意図があると理解していたからこそであろうが、これでもヨルガは、俺と番となって以降わざわざ貞節を誓ってくれている。それを、対外的に踏みにじったことになり、気分が当然良くないのだろう。
つまりは、拗ねているわけだ。
「……可愛いヨルガ。そんなにいじけるな」
「誰のせいだと」
「ふふっ……ん。俺のせい、だが」
ブラウスの隙間から忍び込んだ指先が、飾りのついた胸の上をゆっくりと摩った。貝殻を削ったボタンに阻まれた先がもどかしいが、これ以上進めてしまっては、客人を待たせたまま足腰が立たなくなる状況になる。
仕方なく鼻先を軽く噛んで拒否を示すと、ヨルガは苦笑しつつ、あっさりと俺の身体から手を離す。
余裕を見せるようになった彼の態度は、無心に俺を求めていた頃と比べて執着が薄くなったようにも思えるかもしれない。だがどちらかというとこれは、後から必ず俺を抱けると確信しているがゆえの、余裕から来る行動だと受け止めている。
もちろん俺のほうとて、やぶさかではない。俺は釣った魚にも餌をやるし、更に太らせる方向を目指すタイプだ。
「安心しろ、ヨルガ。今夜は寝かせんぞ」
「……普通その言葉は、俺が口にするものではないのか?」
ソファに腰掛けたヨルガの膝に乗り、顎を撫でてやりながら宣言する俺の腰に、再び腕が回る。だが今度は俺を誘うものではなく、あくまで座る姿勢を安定させるために回してくれたものだ。
「それでアンリ……あの客人達から、何を読み取った?」
「何を読み取ったというか、何を察したか、だな。何処の国もドロドロしていると見える」
「……ほぉ?」
俺はヨルガの右手を掴み、手を開かせる。そこにあるのは当然ながら、親指から小指までの五本の指と掌だ。その隣に俺も同じように手を開き、併せて十本の指が並ぶ。
「ヒノエの国主であるササラギ家の情報はあまり入っていないが、家族構成程度は分かっている。家長のモトナリには十人の子供がいる。……正確には、いた」
内訳は、息子が五人、娘が五人で、丁度十人。
「姫を称していたシラユキは、本当は第四王子だ。セイジ殿とトキワ殿は第二王子と第三王子で、おそらくそれぞれ側室の子だろうな」
「……ふむ」
「十年と少し前、ヒノエで大きな地震があったという事実は、俺も覚えている。その時に大蛇が現れたという話だったよな」
「あぁ」
「暴れ回り、生贄を捧げられると暫くおとなしくなるが、一年後には再び生贄を求める……その繰り返しが十年も続いていながら、何故ヒノエは他国に助けを求めていないと思う?」
例えば、このパルセミス王国においても古代竜カリスという生贄を求める生き物がいるが、彼は犠牲と引き換えに莫大な恩恵を王国に与えてくれている。しかし、ヒノエに巣食う大蛇が何らかの恩恵を齎しているという噂はついぞ聞かない。
あの大蛇は十年前以前の歴史でも、何度となくヒノエに被害を出しては、その度に駆逐されてきた。
だが、ヒノエ国側から他国に救済を求めたのは、今回のパルセミス王国に対してが初めてのアクションになる。隣国から侵略されかけているからかもしれないが……
「何か事情があるのだろうな。……同時にこの話は、後継ぎ問題でもある」
「……そうなのか?」
俺が口にした問題が大蛇の存在と頭の中で結びつかないヨルガは、首を捻っている。
「これは後からセイジ殿とトキワ殿に確かめようと思うのだが……多分その大蛇は【八岐大蛇】と呼ばれている巨大な蛇神だ……そしてその『倒し方』を、ササラギ家の者は知っていた」
つまり、おそらくは――
「八岐大蛇は、既に退治されているかもしれん……しかしその存在を、利用されている可能性が高い」
その事実を踏まえて予想を立てれば。八人目の生贄とそれを助けようとした長兄は、【大蛇に負けた】のではなく、【大蛇の退治後に、誰かに殺された】のではないかと、考えられるのだ。
更に、パルセミス王国に特使として向かったシラユキ姫も命を狙われている。
幼い姫の命を狙うならば、旅路の供に名乗り出るのが一番有効だ。
シラユキ姫の左右を固める二人の兄は、その母親の出自は一旦置いておけば、シラユキ姫を大事にしている様子が窺えるので一応除外していいだろう。
王城に残してきたトリイチ翁は刀の管理のための人物に見えた。まぁ、彼が裏切り者ならそれはそれで、後々に判明してくる。
――残ったのは、二番目の馬車に乗ってきた、あの四人。
† † †
オスヴァイン邸を訪れた神官長マラキアは、応接室のソファにちょこりと腰掛けた幼いシラユキ姫の姿を目にするや否や、いつも笑みの形を崩さない切れ長の目を僅かに眇めた。
俺はその表情には敢えて気づかない素振りで、少し緊張した面持ちのシラユキ姫にマラキアを紹介する。
「シラユキ姫。パルセミス王国の国教神殿で神官長を務めているマラキアだ。医療の心得があり、優れた治癒魔法の遣い手でもある。ヒノエに戻る前に、診察をしてもらうと良いだろう」
「……シラユキの姫君。東国ヒノエより遠路遥々、パルセミス王国にようこそおいでくださいました。カリス猊下を奉る神殿にて、神官長を務めております、マラキアと申します。シラユキ姫様におかれましては、お身体の具合に幾分か難ありの兆しが見受けられるとのこと。若輩者の私で宜しければ、どうか姫様にお力添えをさせてくださいませんか」
元々人心掌握術に長けている神官長マラキアの声は、すんなりと受け止め易い、落ち着きを与える響きをしている。ほっと安心したように微笑んだシラユキ姫が「お願いいたします」と頭を下げると、マラキアはシラユキ姫の前で軽く膝を折り、姫と目の高さを合わせて「失礼しますね」と優しく声をかけた。そのままシラユキ姫の下瞼を指先で少し押し下げて白眼の色を確かめ、細い手首に二本の指を軽く当てて脈を取り、続いて顎の裏から首の後ろまでを丁寧に触診していく。
「……成るほど」
一通りの診察を終えた彼は、得心したように呟き、対面のソファに腰掛けていた俺の顔を見上げた。どうやら、俺と同じ結論を出したと見える。
「アンドリム様。既に、お気づきですか?」
「まぁ、何となくだが、な」
「そうですか。……姫様には、診察結果をそのままお伝えしても、宜しいのでしょうか?」
「構わん。治療には、理由と理解が必要だ」
俺は頷き、シラユキ姫と、姫が腰掛けたソファの背後を守るように立っていたトキワとセイジもマラキアに頷き返した。他の従者達も同じ部屋の中に控えているが、これは彼らにもわざと結果を聞かせるためのデモンストレーションでもある。
「シラユキ姫様は、毒を盛られている疑いがあります。精査は必要ですが、現在の症状を診た限りでは、鉛毒あたりではないかと」
マラキアが口にした言葉に、息を呑んだシラユキ姫は一気に青褪めた。
同時に、ヒノエの客人達が揃う応接室の中が騒然となる。
「鉛毒⁉」
「な、何でそんなものが……」
「それで姫君は、姫君は大丈夫なのですか⁉」
「許せねぇ……誰がそんなことを……!」
喚き合っている従者達を暫く放置し騒がせた後で、俺はパンパンと軽く手を叩き、客人達の注目を集める。
「落ち着きなさい、お客人達。まだ決定打ではありませんが、私は前にこのような症状が出ていた慢性の鉛毒患者を目にした経験があったので、何となく気づいたのです」
白眼の黄疸変化は肝臓がダメージを受けていることを表し、爪の変形と冷たい指先は、極度の貧血に陥っている証拠だ。
慢性の鉛中毒について俺自身はあまり詳しくはないものの、昔、白粉に鉛白が利用されていたために遊女や役者が鉛中毒になりやすかったという話を聞いたことがある。もっと時代を遡ると、古代では今のように白い皿を作る技術がなく、為政者達は見た目の美しい青銅の器で食事を摂ることが多かった。彼らは食物に溶け出した鉛を一緒に摂取することで少しずつ鉛中毒になり、人格に変化が及んだ者もいたらしい。若い頃は名君と呼ばれていた慈悲深い王が、歳月を重ねるうちに狂暴化して残虐な王へ変貌する理由の一端には、この鉛中毒があるのではないかとも言われていたはずだ。
「……しかし誰がシラユキ姫に毒を与えているかは、残念ながら我々の与り知らぬところになります。オスヴァイン家としては、シラユキ姫が健康なお身体を取り戻し、騎士団長が大蛇を退治した後に妾として嫁いでくださるのであれば、特に問題はありませんからね」
「そ、そんな乱暴な……」
ツララと呼ばれていた青年が非難の声を上げるが、俺はそれに軽く首を横に振って答える。
「交換条件をお忘れではないでしょう? シラユキ姫はあくまでも、騎士団長ヨルガがヒノエに赴き、大蛇を倒す対価としてオスヴァイン家に与えられるもの。妾に来ていただくからには子供の産める身体であることが望ましいですし、治療の手筈は整えます」
お家騒動が絡む国家事情に、部外者が口を出すのは良くないことは明白だ。
傍観を貫く姿勢を最初から示し、それがオスヴァイン家の立場だと見せつけることで、姿の見えない敵に対して『牽制』を先んじる。もちろん水面下では色々と動くつもりだが、それはヒノエ国に恩を売り、アスバルの血脈に掛けられた呪いを解く方法についての情報収集をし易くするための布石だ。
悔しそうに唇を噛むツララを余所に、俺は改めてマラキアに声をかける。
「それでマラキアよ。治療は可能か?」
「そうですね、姫様はまだお若く、回復力も強いでしょう。一番弱っている肝臓だけを治癒魔法で回復させて、貧血などの諸症状は、食事と服薬での治癒が望ましいかと。少しばかり時間はかかりますが、治らない病ではありませんよ」
「本当ですか……!」
マラキアの見立てに、一番表情を輝かせたのはシラユキ姫自身だ。
「わ、私でも……城の外に出て、陽の下で遊んでも大丈夫な身体に、なれますか……?」
「えぇ。心配いりませんよ。もう少し詳しい検査を行った後からになりますが、一緒に治療を頑張りましょうね」
「……はい!」
花も綻ぶ笑顔とは、まさにこのことだろう。喜ぶシラユキ姫の後ろに控えた二人も嬉しそうだ。
「それでは治療の方針も決まったところで、まずは旅の疲れを癒していただくとしようか。……レゼフ」
「はい、旦那様。お部屋の準備は既に整っております。皆様、どうぞこちらにおいでくださいませ」
レゼフと荷物を持ったメイド達に誘導されて、ヒノエからの客人達は揃って二階の客室に移動する。それと時を同じくして、シグルドとリュトラが王城から戻ってきた。二人は応接室から二階の客室に移動している客人達とすれ違いざま軽く会釈を交わし、そのまま振り返らず、真っ直ぐに俺とヨルガの待つ応接室に入ってくる。
俺は二人を応接室に招き入れ、木製の重い扉をしっかりと閉じて鍵までかけた。
「……ただいま戻りました!」
「……戻りました」
俺の合図に頷いたリュトラは、応接室の中央に置かれたソファのスプリングを軋ませるほど勢い良く腰掛けて声を上げる。その後、絨毯の上に静かにブーツの爪先を下ろし、猫のように足音を立てないまま、するりと壁際まで移動した。
「それでシグルド、王城のほうはどうだ」
「概ね、想定通りです。ご指示をいただいた通り、トリイチ殿を鍛冶場にお連れしました。鍛冶長とすぐに打ち解けていて、早速鍛造についての談義に花を咲かせていたご様子です」
「それは良かった。鍛造の技術において、ヒノエに勝る国はないと聞くからな……武器精錬の技術が発展するのは良いことだ」
「そうですね」
俺とシグルドが会話を交わす傍らで、俺の隣りに座っているヨルガが指でリュトラに指示を与える。
「では陛下は、宰相閣下の提案を承認するおつもりと考えて間違いないな」
「はい。何と言っても騎士団長を派遣するのですから、軍事力の低下に対する補填としてトリイチ殿に滞在していただき鍛冶スキルの全体的な底上げを図りたいという希望を主軸に、更に幾つか条件を重ねるかと」
「成るほどな。まぁ、ヒノエは小国といえども豊かな国だ。多少の無理を言っても良いだろう」
「何処まで要求できるかは、モリノの手腕次第ですね」
「あぁ」
貼りつくようにして壁際をそろそろと移動していたリュトラは、壁紙が僅かに捲れている場所を見つけ、ヨルガと静かに頷き合う。
隙間の多い日本家屋と違ってこの屋敷のような西洋式の建築物は、覗き見には向いていない。柱で建築物を支えるのではなく壁で支えているために、壁そのものに丈夫な厚みがあるからだ。そうなると、情報を得る手段としては、音が頼りになる。
視界は簡単に増強させることができないが、音は小さなグラス一つあればその縁を壁につけて耳を押し当て、漏れ聞こえる音を集めて大きく変換することが可能だ。
「それでヨルガよ。あの姫君を本当に妾にするつもりか?」
「……冗談を言うな。息子達の妾にならばともかく、俺にとっては子供より幼い姫だぞ」
「フフ。五年もすれば美しく成長すると思うが?」
他愛のない会話を続ける俺とヨルガが横目で見守る中。リュトラは、撓んだ壁紙の前で手をかざす。そして壁の向こう側で隙間に耳を押し当てている『誰か』に向かって、強く掌を叩き合わせた。それは、部屋の中にいる俺達ですら少し腰を浮かせてしまうほど大きな音だった。
「っ……!」
明らかに、誰かが動揺した気配。
すぐに部屋を飛び出したシグルドが、応接室前から繋がる廊下の曲がり角――死角になり易い位置で耳を押さえて転がっていた従者の一人を捕まえて戻ってくる。
「……貴方でしたか」
先程までは少し眠そうな雰囲気を醸し出していたその従者の表情は、打って変わってひどく険しい。
従者四人の中で、この男だけは何となく掴みどころがないと思っていたのだが、どうやらそれはフェイクだったようだ。
「ヨイマチ殿……でしたね。盗み聞きとは。何か興味を惹かれることでもありましたか?」
「いけしゃあしゃあと……大事な姫様を嫁がせる先だ。慎重になるのは当然だろう」
「フフ、それならばヨルガだけを捕まえて話せば良い。何も私達の会議を盗み聞きする必要はない……君は、『草』だろう」
「っ!」
「呼び名を私が知っていたので、驚いたか? 情報は遍く集めるものだ」
まぁ、これも前世で知っていた呼称なのだが。
時代劇や映画でよく耳にした名である『草』は、所謂、忍者を表す言葉だ。
「……アンタ、何者だ。単なる相談役ではないな」
他の従者達の前ではあまり言葉を発しなかった『ヨイマチ』が、ひたりと俺の顔を見据え、問いかけた。
どうやら彼もトリイチと同じように、俺にきな臭さを感じたと思われる。
「見たところかなり若い、セイジ殿やトキワ殿と同年輩のように感じるが……。だとすると、その老獪な思考の説明がつかない。何処の地獄を超えてきた」
やたらと大層な想像をしていただいているが……さて、何から説明しよう。
まぁまず、これから聞いておくか。
「質問には可能な限り答えたいが、その前に、確かめさせてほしい。……大蛇はもういないな?」
「うっ!」
「君は、誰の配下だ? シラユキ姫の護衛は、君だけだろう」
「どうして、それを……!」
ヨイマチはかなり驚いているが、これは不確定要素を排除していけば、すぐに出る答えだ。
セイジとトキワはシラユキ姫に対して好意的だが、その母親がどう出るかはまだ不明で護衛として充分とは言えない。トリイチは想像通り鍛冶職人で間違いないだろう。これは【龍屠る剣】の手入れ要員だから違う。アサギと呼ばれていた青年は様子を見ていたヨルガ達曰く、剣の腕前がそれほどではないはずとのこと。年齢的にも外せる。
そうなると、残りは三人。その中で行動を起こした者が、一番の姫の味方だ。
今パルセミス王国側は、シラユキ姫とヒノエ国に対して少しでも多くの要求を挙げようとしている最中だ。
パルセミスの弱みを握り、交渉を有利に運ぼうと行動を起こしたヨイマチは、シラユキ姫サイドの人間と言える。逆に動かなかったからと言って、確実に敵であるとは判断できないが。
ただそれを、残りの従者達には気づかれないようにしているのだろう。
「……さて、説明してくれないか? この茶番劇の裏に隠された、ヒノエとササラギ家に纏わる因縁を」
† † †
幼少の頃よりササラギ家に『草』として仕え、前国王のモトチカに重用されて多くの敵と相対してきたヨイマチは、対峙した相手の大まかな力量を推し量る能力に長けていた。
それは経験の豊富さが与えてくれたある種の勘に近いものだが、主に情報を持ち帰るには勝敗の結果よりも生き残ること、逃げのびることが何より肝要だ。その『勘』は今までに何度もヨイマチの窮地を救ってくれたことがあり、その精度に疑う余地は少ないと自負している。……はずだった。
「何か?」
その言葉の欠片に含まれた澱みの気配に、ヨイマチの背筋はひやりと凍りつく。
長い脚を組んでソファに腰掛け、背凭れにゆったりと体重を預けた、若く美しい男。パルセミス王国宰相の相談役であるというその男の口には緩い笑みが浮かんでいるが、弧を描いた唇の形に反して、翡翠色の瞳に友好の感情はこれっぽっちも湛えてはいない。
線の細い身体つきと理知的な雰囲気は、如何にも彼が荒事を苦手とする文官であると示している。それなのに、幾度思考を巡らせても、彼を物理的に屈服させるヴィジョンが浮かばない。どころか、ヨイマチの脳裏に入れ替わり立ち替わりで浮かんでは消える映像の断片は、男に危害を加えようとした後に待つ、惨たらしい場面ばかりだ。
逃げることは敵わず、かと言って国の内情を易々と漏らすこともできず、結果的に口を噤むことしか選択の余地がないヨイマチを、男は喉の奥でくつりと笑う。
「全てを明かす必要はない。君が明かして良いと判断できるものだけで構わないさ」
それは、その程度の情報でも、お前を丸裸にしてやれるぞと宣言されたのと同義だ。
底知れぬ相手の態度に腰に差したままの脇差に手が伸びかける。
「……トリイチ⁉」
シラユキ姫が叫ぶが、トリイチ翁の言葉は止まらない。
「儂は既に老い先も短い。例えば試し斬りに使っていただいても、少しも惜しくなどない。どこか敵国の偵察でも構いませぬぞ。それでシラユキ……姫が、ヒノエが助かるのであれば何ら悔いもありゃしません」
「トリイチ! 早まるな!」
トリイチ……酉市、だろうか?
その外見からして、鍛冶師といったところか。
「……宜しいでしょう。従者の方々も全て、オスヴァイン家の屋敷にご案内します……ただし」
俺は先程からじっと俺を観察しているトリイチ翁と視線を合わせ、ニヤリと笑う。びくりと肩を揺らした彼は、思わずといった様子で拳を握りしめた。
どうやら、俺を『得体が知れない相手』と、判断したようだな。
「トリイチ……様、でしたか。貴方は王城に残りなさい。話は、後から宰相閣下より聞くように」
「……承知いたした」
老人が頷いたので、俺はまたもや片手を胸に当てて、国王ウィクルムに向かって一礼をする。
「では陛下、一旦ご前を失礼いたします。姫君達をオスヴァインの屋敷までご案内しましょう」
「あぁ、頼む」
「……陛下は宰相閣下とご一緒に、どうぞ『確認』を」
「分かった」
ウィクルムと俺が交わした短い会話の内容にヒノエからの使節達は一様に首を捻っているが、彼らがその意味合いを理解できるのは、もう少し後になるだろう。
謁見室の扉が開放され、トリイチ翁を除いた六人の従者と、シラユキ姫が部屋を退出する。少し足取りが覚束ないシラユキ姫をそっと後ろから支えているのは、『セイジ』と『トキワ』の二人だ。
王城の正面扉を開いた先には、オスヴァイン家所有の馬車が、先を見越してか二台準備されていた。俺はヨルガにエスコートされたシラユキ姫とヨルガ、そしてシラユキ姫の側近と思しき『セイジ』と『トキワ』が乗り込んだものと同じ馬車に乗り込む前に、御者に一言告げる。
「遠回りを」
「……承知いたしました」
おそらくベネロペ辺りが既に手を打ってくれているだろうが、王城を出てからほど近い場所にあるオスヴァイン家に馬車で向かうと、ものの十分も経たない内に到着してしまう。常ならば時間が掛からないほうが良いのだが、今回に限っては、時間が足りない。
俺はこの馬車の中で過ごす数分の間に、シラユキ姫から、幾つかの重要な案件を聞き出さなければならないのだ。
「……さて」
馬車の中に乗っているのは、シラユキ姫を中心に左右に分かれて座っている『セイジ』と『トキワ』。そして対面座席の扉側に腰掛けたヨルガと、シラユキ姫の正面に座った俺の、全部で五人だ。
従者の残り四人は、二台目の馬車に乗ってもらっている。これに従者達は不服だった様子でぶちぶちと言っていたが、結果的に俺に押し切られ、まとめて後方の馬車に乗った。
ここまでは良いとして、早めに確認を済ませてしまわねば。
俺は座席に腰掛け、足を組んだ膝の上で左右の手指を重ねる。
何を言われるのだろうと身構えるシラユキ姫の顔色は、ひどく痩せた体質も影響しているのだろうが、青褪めていた。加えて、あの爪と、白眼部分の変化は。
「あまり時間に猶予がございませんので、まずは大事な確認だけをいたしましょう。……私は『若君』の考えを知りたい。大蛇は今も実在していると、お考えですか?」
俺がシラユキ姫に投げかけた疑問に、ヒノエ国の王族兄弟三人は、揃って絶句した。
この態度だけで、俺の指摘が図星であったと分かってしまう。もう少し王族としてリアクションに注意したほうが良いと思うぞ。まぁ、これはパルセミス王国の国王に対しても同じことが言えるのだが。
「……心配せずとも、この馬車の中で交わした会話は、誰にも聞き取ることができない」
「ど、どうして……」
どうして分かったのですか、かな?
「気づいた理由は幾つかあるが、残念ながら、今はゆっくりと説明をしている暇がない。馬車が屋敷に着くまでに、君達の関係性をはっきりさせておきたい。……まず、君達は兄弟だ。それに、間違いはないだろうか?」
「貴方は何故、そこまで……!」
「トキワ殿、だったな。国政に携わっていると、見えてくるものもある。これも詳しい説明は後からするとして、君達はシラユキ姫を害する【敵】がいることに気づいている。これも間違いないだろうか?」
「は、はい……」
「成るほど。では、次だ。『シラユキ姫』を特使に任命したのは誰だ? おそらく、国を治める立場に近い人物だとは思うのだが」
「……私の母です」
先程俺に噛みついてきたセイジが、小さな声で答える。私の母と言うからには、おそらくこの兄弟達は、異母兄弟なのだろう。
「分かった。……そしてシラユキ姫、貴方は、何番目の王子だろうか?」
「……四番目、です」
ふむ。想像通りだな。
「シラユキ姫、そしてセイジ殿とトキワ殿。貴方方が最後に大蛇をその目で見たのは、いつのことだ?」
並んで座っていた三人は顔を見合せて頷き、代表してトキワが口を開く。
「三年前、……八人目の生贄を捧げる前です。長兄のスサノイ兄上が、生贄に選ばれていた三女のミユキを救うために、大蛇に立ち向かった年で……結局、兄もミユキも帰らず、次の年も、次の次の年も、生贄を捧げました」
「……当たってほしくはなかったが、それなりに複雑な状況だな」
俺は座席の背凭れに身体を預け、眉間を軽く指先で押さえながら息を吐く。
何とか国内情勢が落ち着いてきたと思っていたところで、今度は他国の問題に首を突っ込まないといけないのか。
本来であれば放置しても構わないのだが、これから呪いを解く術を探しに行きたいと思っていたヒノエが相手なのだから、ここで恩を売っておいても損はない。とはいえ、面倒でならない。
「では、これで最後だ。シラユキ姫が【生贄】にされるのは、いつ頃になる?」
この問いかけには、対面に座った三人だけでなく、隣のヨルガまでも驚いた表情を浮かべる。
シラユキ姫は暫しの間逡巡したものの、隠しても仕方がないと思ったのか、顔を上げて俺の目を見つめ、静かに言葉を紡いだ。
「……四ヶ月後の、予定です」
ヒノエからパルセミス王国まで、この時期に南回りの経路を取れば、順調な旅路を辿れたとしても一ヶ月はかかる。これからすぐにパルセミス王国を出立しても、ヒノエで事態の解決に費やせる時間は、三ヶ月ということだ。これを短いと思うか、充分と思うかは、流石の俺でも、判断できない。
「……さしあたっては、シラユキ姫の治療と安全確保だな。屋敷に着いたらすぐにマラキアを呼んで診察してもらうとするか」
「え……?」
「治療?」
「シラユキに、何かあるのですか」
俺は頷き、きょとりとしているシラユキ姫の両手を、掬い上げた。
相手が本当の姫君ならば非難される行為であるが、中身は王子だからまぁ良いだろう。
俺も体温が高いほうではないのに、掌に乗せたシラユキ姫の指先は更に冷たく、まるで氷のようだ。そして指先で切り揃えられた小さな爪は、その表面が凸凹に歪んでしまっている。俺の行動を不安そうに見つめる瞳は仔鹿のように丸く黒目がちだが、見え隠れしている白眼の色は明らかに黄ばんでいた。
「相手を全て燻り出すのは、王国滞在中は困難だろうな。ヒノエに帰る旅路の間に見つけ出せると良いが」
「どういう意味ですか……?」
「説明してやりたいが、そろそろ屋敷に到着する。また、何処かで時間を作ろう。……シラユキ姫、屋敷の中では、決して一人にならないように」
やれ往来で喧嘩が起きているだの道がぬかるんでいるだのと言って、先導する馬車を操る御者は、オスヴァイン家の屋敷に到着するまでの道のりを充分に遠回りしてくれたようだ。
屋敷の門を潜ると、すっかり俺とも馴染んでしまったオスヴァイン家の執事長が出迎えて馬車の扉を開き、先に馬車を降りたヨルガに恭しく頭を下げた。続いて馬車を降りた俺がまだ座席に座ったままのシラユキ姫を視線で示し、「ヨルガの新しい嫁さん候補だ」と教える。なかなかの胡乱な目つきになった執事長が面白い。
「揶揄うなアンドリム……レゼフ、ヒノエからの客人が七人だ。滞在の準備を頼む」
「はっ」
セイジとトキワに手を引かれて馬車から降りたシラユキ姫のもとに、後続の馬車で到着した四人が駆け寄ってきた。シラユキ姫の無事を確かめほっとした表情を見せている彼らは、名目上全員シラユキ姫の従者ということになる。
シラユキ姫と年齢が近そうな『アサギ』、穏やかな表情をしている『ツララ』、筋肉質な身体つきの『フカガワ』、飄々とした雰囲気の『ヨイマチ』。四人ともシラユキ姫の身体を案じ、得体の知れない不届き者の馬車に無理やり乗せられた姫の様子を気遣っているように見えた。
しかし俺は言うに及ばず、仮面を被るのが得意な人物は何処にでもいるのだ。ましてや、犯人がそうとは思わず、知らないうちに犯罪に手を貸しているパターンも有り得る。
客人の世話を執事のレゼフに任せ、俺は旧知の仲である神官長のマラキアを呼び寄せる手配をしてから、ヨルガの部屋に向かう。
屋敷の二階にある主人の部屋を訪うと、軍服を脱いで楽な服装に着替えたヨルガが、俺を待っていた。部屋に入るや否や、腰に腕を回して引き寄せられ、深く重ねた唇の隙間から舌を絡めとられる。少し乱暴さを感じるその行為は、表面では平然としていた彼が苛立ちを感じていた証拠だ。
「んっ……ふ……」
求められるままに唇を吸い上げられながら、俺はヨルガの身体に手を這わせる。
逞しい二の腕と、厚い胸板。引き締まった腹筋と、太い腰回り。俺が踏んでもびくともしない、強靭な脚。最近は貴婦人達に愛想を振りまくことに慣れてきた艶のある視線が、熱を孕んで俺を見つめている。
何度確かめてみても、佳いものは佳い。
不惑が近づいているというのに、俺の番は魅力を増すばかりで何よりだ。
「なぁ、アンリ」
「ん……?」
「ご褒美をくれても、良いのでは?」
「ご、ほうび……? んっ……」
口づけの隙間に強請られた言葉の意味は、シンプルだ。
ヨルガにとっては不本意極まりない、娘よりも幼い少女を妾とする提案を、唯々諾々と受け入れてみせたのだから。
もちろん俺とモリノに何らかの意図があると理解していたからこそであろうが、これでもヨルガは、俺と番となって以降わざわざ貞節を誓ってくれている。それを、対外的に踏みにじったことになり、気分が当然良くないのだろう。
つまりは、拗ねているわけだ。
「……可愛いヨルガ。そんなにいじけるな」
「誰のせいだと」
「ふふっ……ん。俺のせい、だが」
ブラウスの隙間から忍び込んだ指先が、飾りのついた胸の上をゆっくりと摩った。貝殻を削ったボタンに阻まれた先がもどかしいが、これ以上進めてしまっては、客人を待たせたまま足腰が立たなくなる状況になる。
仕方なく鼻先を軽く噛んで拒否を示すと、ヨルガは苦笑しつつ、あっさりと俺の身体から手を離す。
余裕を見せるようになった彼の態度は、無心に俺を求めていた頃と比べて執着が薄くなったようにも思えるかもしれない。だがどちらかというとこれは、後から必ず俺を抱けると確信しているがゆえの、余裕から来る行動だと受け止めている。
もちろん俺のほうとて、やぶさかではない。俺は釣った魚にも餌をやるし、更に太らせる方向を目指すタイプだ。
「安心しろ、ヨルガ。今夜は寝かせんぞ」
「……普通その言葉は、俺が口にするものではないのか?」
ソファに腰掛けたヨルガの膝に乗り、顎を撫でてやりながら宣言する俺の腰に、再び腕が回る。だが今度は俺を誘うものではなく、あくまで座る姿勢を安定させるために回してくれたものだ。
「それでアンリ……あの客人達から、何を読み取った?」
「何を読み取ったというか、何を察したか、だな。何処の国もドロドロしていると見える」
「……ほぉ?」
俺はヨルガの右手を掴み、手を開かせる。そこにあるのは当然ながら、親指から小指までの五本の指と掌だ。その隣に俺も同じように手を開き、併せて十本の指が並ぶ。
「ヒノエの国主であるササラギ家の情報はあまり入っていないが、家族構成程度は分かっている。家長のモトナリには十人の子供がいる。……正確には、いた」
内訳は、息子が五人、娘が五人で、丁度十人。
「姫を称していたシラユキは、本当は第四王子だ。セイジ殿とトキワ殿は第二王子と第三王子で、おそらくそれぞれ側室の子だろうな」
「……ふむ」
「十年と少し前、ヒノエで大きな地震があったという事実は、俺も覚えている。その時に大蛇が現れたという話だったよな」
「あぁ」
「暴れ回り、生贄を捧げられると暫くおとなしくなるが、一年後には再び生贄を求める……その繰り返しが十年も続いていながら、何故ヒノエは他国に助けを求めていないと思う?」
例えば、このパルセミス王国においても古代竜カリスという生贄を求める生き物がいるが、彼は犠牲と引き換えに莫大な恩恵を王国に与えてくれている。しかし、ヒノエに巣食う大蛇が何らかの恩恵を齎しているという噂はついぞ聞かない。
あの大蛇は十年前以前の歴史でも、何度となくヒノエに被害を出しては、その度に駆逐されてきた。
だが、ヒノエ国側から他国に救済を求めたのは、今回のパルセミス王国に対してが初めてのアクションになる。隣国から侵略されかけているからかもしれないが……
「何か事情があるのだろうな。……同時にこの話は、後継ぎ問題でもある」
「……そうなのか?」
俺が口にした問題が大蛇の存在と頭の中で結びつかないヨルガは、首を捻っている。
「これは後からセイジ殿とトキワ殿に確かめようと思うのだが……多分その大蛇は【八岐大蛇】と呼ばれている巨大な蛇神だ……そしてその『倒し方』を、ササラギ家の者は知っていた」
つまり、おそらくは――
「八岐大蛇は、既に退治されているかもしれん……しかしその存在を、利用されている可能性が高い」
その事実を踏まえて予想を立てれば。八人目の生贄とそれを助けようとした長兄は、【大蛇に負けた】のではなく、【大蛇の退治後に、誰かに殺された】のではないかと、考えられるのだ。
更に、パルセミス王国に特使として向かったシラユキ姫も命を狙われている。
幼い姫の命を狙うならば、旅路の供に名乗り出るのが一番有効だ。
シラユキ姫の左右を固める二人の兄は、その母親の出自は一旦置いておけば、シラユキ姫を大事にしている様子が窺えるので一応除外していいだろう。
王城に残してきたトリイチ翁は刀の管理のための人物に見えた。まぁ、彼が裏切り者ならそれはそれで、後々に判明してくる。
――残ったのは、二番目の馬車に乗ってきた、あの四人。
† † †
オスヴァイン邸を訪れた神官長マラキアは、応接室のソファにちょこりと腰掛けた幼いシラユキ姫の姿を目にするや否や、いつも笑みの形を崩さない切れ長の目を僅かに眇めた。
俺はその表情には敢えて気づかない素振りで、少し緊張した面持ちのシラユキ姫にマラキアを紹介する。
「シラユキ姫。パルセミス王国の国教神殿で神官長を務めているマラキアだ。医療の心得があり、優れた治癒魔法の遣い手でもある。ヒノエに戻る前に、診察をしてもらうと良いだろう」
「……シラユキの姫君。東国ヒノエより遠路遥々、パルセミス王国にようこそおいでくださいました。カリス猊下を奉る神殿にて、神官長を務めております、マラキアと申します。シラユキ姫様におかれましては、お身体の具合に幾分か難ありの兆しが見受けられるとのこと。若輩者の私で宜しければ、どうか姫様にお力添えをさせてくださいませんか」
元々人心掌握術に長けている神官長マラキアの声は、すんなりと受け止め易い、落ち着きを与える響きをしている。ほっと安心したように微笑んだシラユキ姫が「お願いいたします」と頭を下げると、マラキアはシラユキ姫の前で軽く膝を折り、姫と目の高さを合わせて「失礼しますね」と優しく声をかけた。そのままシラユキ姫の下瞼を指先で少し押し下げて白眼の色を確かめ、細い手首に二本の指を軽く当てて脈を取り、続いて顎の裏から首の後ろまでを丁寧に触診していく。
「……成るほど」
一通りの診察を終えた彼は、得心したように呟き、対面のソファに腰掛けていた俺の顔を見上げた。どうやら、俺と同じ結論を出したと見える。
「アンドリム様。既に、お気づきですか?」
「まぁ、何となくだが、な」
「そうですか。……姫様には、診察結果をそのままお伝えしても、宜しいのでしょうか?」
「構わん。治療には、理由と理解が必要だ」
俺は頷き、シラユキ姫と、姫が腰掛けたソファの背後を守るように立っていたトキワとセイジもマラキアに頷き返した。他の従者達も同じ部屋の中に控えているが、これは彼らにもわざと結果を聞かせるためのデモンストレーションでもある。
「シラユキ姫様は、毒を盛られている疑いがあります。精査は必要ですが、現在の症状を診た限りでは、鉛毒あたりではないかと」
マラキアが口にした言葉に、息を呑んだシラユキ姫は一気に青褪めた。
同時に、ヒノエの客人達が揃う応接室の中が騒然となる。
「鉛毒⁉」
「な、何でそんなものが……」
「それで姫君は、姫君は大丈夫なのですか⁉」
「許せねぇ……誰がそんなことを……!」
喚き合っている従者達を暫く放置し騒がせた後で、俺はパンパンと軽く手を叩き、客人達の注目を集める。
「落ち着きなさい、お客人達。まだ決定打ではありませんが、私は前にこのような症状が出ていた慢性の鉛毒患者を目にした経験があったので、何となく気づいたのです」
白眼の黄疸変化は肝臓がダメージを受けていることを表し、爪の変形と冷たい指先は、極度の貧血に陥っている証拠だ。
慢性の鉛中毒について俺自身はあまり詳しくはないものの、昔、白粉に鉛白が利用されていたために遊女や役者が鉛中毒になりやすかったという話を聞いたことがある。もっと時代を遡ると、古代では今のように白い皿を作る技術がなく、為政者達は見た目の美しい青銅の器で食事を摂ることが多かった。彼らは食物に溶け出した鉛を一緒に摂取することで少しずつ鉛中毒になり、人格に変化が及んだ者もいたらしい。若い頃は名君と呼ばれていた慈悲深い王が、歳月を重ねるうちに狂暴化して残虐な王へ変貌する理由の一端には、この鉛中毒があるのではないかとも言われていたはずだ。
「……しかし誰がシラユキ姫に毒を与えているかは、残念ながら我々の与り知らぬところになります。オスヴァイン家としては、シラユキ姫が健康なお身体を取り戻し、騎士団長が大蛇を退治した後に妾として嫁いでくださるのであれば、特に問題はありませんからね」
「そ、そんな乱暴な……」
ツララと呼ばれていた青年が非難の声を上げるが、俺はそれに軽く首を横に振って答える。
「交換条件をお忘れではないでしょう? シラユキ姫はあくまでも、騎士団長ヨルガがヒノエに赴き、大蛇を倒す対価としてオスヴァイン家に与えられるもの。妾に来ていただくからには子供の産める身体であることが望ましいですし、治療の手筈は整えます」
お家騒動が絡む国家事情に、部外者が口を出すのは良くないことは明白だ。
傍観を貫く姿勢を最初から示し、それがオスヴァイン家の立場だと見せつけることで、姿の見えない敵に対して『牽制』を先んじる。もちろん水面下では色々と動くつもりだが、それはヒノエ国に恩を売り、アスバルの血脈に掛けられた呪いを解く方法についての情報収集をし易くするための布石だ。
悔しそうに唇を噛むツララを余所に、俺は改めてマラキアに声をかける。
「それでマラキアよ。治療は可能か?」
「そうですね、姫様はまだお若く、回復力も強いでしょう。一番弱っている肝臓だけを治癒魔法で回復させて、貧血などの諸症状は、食事と服薬での治癒が望ましいかと。少しばかり時間はかかりますが、治らない病ではありませんよ」
「本当ですか……!」
マラキアの見立てに、一番表情を輝かせたのはシラユキ姫自身だ。
「わ、私でも……城の外に出て、陽の下で遊んでも大丈夫な身体に、なれますか……?」
「えぇ。心配いりませんよ。もう少し詳しい検査を行った後からになりますが、一緒に治療を頑張りましょうね」
「……はい!」
花も綻ぶ笑顔とは、まさにこのことだろう。喜ぶシラユキ姫の後ろに控えた二人も嬉しそうだ。
「それでは治療の方針も決まったところで、まずは旅の疲れを癒していただくとしようか。……レゼフ」
「はい、旦那様。お部屋の準備は既に整っております。皆様、どうぞこちらにおいでくださいませ」
レゼフと荷物を持ったメイド達に誘導されて、ヒノエからの客人達は揃って二階の客室に移動する。それと時を同じくして、シグルドとリュトラが王城から戻ってきた。二人は応接室から二階の客室に移動している客人達とすれ違いざま軽く会釈を交わし、そのまま振り返らず、真っ直ぐに俺とヨルガの待つ応接室に入ってくる。
俺は二人を応接室に招き入れ、木製の重い扉をしっかりと閉じて鍵までかけた。
「……ただいま戻りました!」
「……戻りました」
俺の合図に頷いたリュトラは、応接室の中央に置かれたソファのスプリングを軋ませるほど勢い良く腰掛けて声を上げる。その後、絨毯の上に静かにブーツの爪先を下ろし、猫のように足音を立てないまま、するりと壁際まで移動した。
「それでシグルド、王城のほうはどうだ」
「概ね、想定通りです。ご指示をいただいた通り、トリイチ殿を鍛冶場にお連れしました。鍛冶長とすぐに打ち解けていて、早速鍛造についての談義に花を咲かせていたご様子です」
「それは良かった。鍛造の技術において、ヒノエに勝る国はないと聞くからな……武器精錬の技術が発展するのは良いことだ」
「そうですね」
俺とシグルドが会話を交わす傍らで、俺の隣りに座っているヨルガが指でリュトラに指示を与える。
「では陛下は、宰相閣下の提案を承認するおつもりと考えて間違いないな」
「はい。何と言っても騎士団長を派遣するのですから、軍事力の低下に対する補填としてトリイチ殿に滞在していただき鍛冶スキルの全体的な底上げを図りたいという希望を主軸に、更に幾つか条件を重ねるかと」
「成るほどな。まぁ、ヒノエは小国といえども豊かな国だ。多少の無理を言っても良いだろう」
「何処まで要求できるかは、モリノの手腕次第ですね」
「あぁ」
貼りつくようにして壁際をそろそろと移動していたリュトラは、壁紙が僅かに捲れている場所を見つけ、ヨルガと静かに頷き合う。
隙間の多い日本家屋と違ってこの屋敷のような西洋式の建築物は、覗き見には向いていない。柱で建築物を支えるのではなく壁で支えているために、壁そのものに丈夫な厚みがあるからだ。そうなると、情報を得る手段としては、音が頼りになる。
視界は簡単に増強させることができないが、音は小さなグラス一つあればその縁を壁につけて耳を押し当て、漏れ聞こえる音を集めて大きく変換することが可能だ。
「それでヨルガよ。あの姫君を本当に妾にするつもりか?」
「……冗談を言うな。息子達の妾にならばともかく、俺にとっては子供より幼い姫だぞ」
「フフ。五年もすれば美しく成長すると思うが?」
他愛のない会話を続ける俺とヨルガが横目で見守る中。リュトラは、撓んだ壁紙の前で手をかざす。そして壁の向こう側で隙間に耳を押し当てている『誰か』に向かって、強く掌を叩き合わせた。それは、部屋の中にいる俺達ですら少し腰を浮かせてしまうほど大きな音だった。
「っ……!」
明らかに、誰かが動揺した気配。
すぐに部屋を飛び出したシグルドが、応接室前から繋がる廊下の曲がり角――死角になり易い位置で耳を押さえて転がっていた従者の一人を捕まえて戻ってくる。
「……貴方でしたか」
先程までは少し眠そうな雰囲気を醸し出していたその従者の表情は、打って変わってひどく険しい。
従者四人の中で、この男だけは何となく掴みどころがないと思っていたのだが、どうやらそれはフェイクだったようだ。
「ヨイマチ殿……でしたね。盗み聞きとは。何か興味を惹かれることでもありましたか?」
「いけしゃあしゃあと……大事な姫様を嫁がせる先だ。慎重になるのは当然だろう」
「フフ、それならばヨルガだけを捕まえて話せば良い。何も私達の会議を盗み聞きする必要はない……君は、『草』だろう」
「っ!」
「呼び名を私が知っていたので、驚いたか? 情報は遍く集めるものだ」
まぁ、これも前世で知っていた呼称なのだが。
時代劇や映画でよく耳にした名である『草』は、所謂、忍者を表す言葉だ。
「……アンタ、何者だ。単なる相談役ではないな」
他の従者達の前ではあまり言葉を発しなかった『ヨイマチ』が、ひたりと俺の顔を見据え、問いかけた。
どうやら彼もトリイチと同じように、俺にきな臭さを感じたと思われる。
「見たところかなり若い、セイジ殿やトキワ殿と同年輩のように感じるが……。だとすると、その老獪な思考の説明がつかない。何処の地獄を超えてきた」
やたらと大層な想像をしていただいているが……さて、何から説明しよう。
まぁまず、これから聞いておくか。
「質問には可能な限り答えたいが、その前に、確かめさせてほしい。……大蛇はもういないな?」
「うっ!」
「君は、誰の配下だ? シラユキ姫の護衛は、君だけだろう」
「どうして、それを……!」
ヨイマチはかなり驚いているが、これは不確定要素を排除していけば、すぐに出る答えだ。
セイジとトキワはシラユキ姫に対して好意的だが、その母親がどう出るかはまだ不明で護衛として充分とは言えない。トリイチは想像通り鍛冶職人で間違いないだろう。これは【龍屠る剣】の手入れ要員だから違う。アサギと呼ばれていた青年は様子を見ていたヨルガ達曰く、剣の腕前がそれほどではないはずとのこと。年齢的にも外せる。
そうなると、残りは三人。その中で行動を起こした者が、一番の姫の味方だ。
今パルセミス王国側は、シラユキ姫とヒノエ国に対して少しでも多くの要求を挙げようとしている最中だ。
パルセミスの弱みを握り、交渉を有利に運ぼうと行動を起こしたヨイマチは、シラユキ姫サイドの人間と言える。逆に動かなかったからと言って、確実に敵であるとは判断できないが。
ただそれを、残りの従者達には気づかれないようにしているのだろう。
「……さて、説明してくれないか? この茶番劇の裏に隠された、ヒノエとササラギ家に纏わる因縁を」
† † †
幼少の頃よりササラギ家に『草』として仕え、前国王のモトチカに重用されて多くの敵と相対してきたヨイマチは、対峙した相手の大まかな力量を推し量る能力に長けていた。
それは経験の豊富さが与えてくれたある種の勘に近いものだが、主に情報を持ち帰るには勝敗の結果よりも生き残ること、逃げのびることが何より肝要だ。その『勘』は今までに何度もヨイマチの窮地を救ってくれたことがあり、その精度に疑う余地は少ないと自負している。……はずだった。
「何か?」
その言葉の欠片に含まれた澱みの気配に、ヨイマチの背筋はひやりと凍りつく。
長い脚を組んでソファに腰掛け、背凭れにゆったりと体重を預けた、若く美しい男。パルセミス王国宰相の相談役であるというその男の口には緩い笑みが浮かんでいるが、弧を描いた唇の形に反して、翡翠色の瞳に友好の感情はこれっぽっちも湛えてはいない。
線の細い身体つきと理知的な雰囲気は、如何にも彼が荒事を苦手とする文官であると示している。それなのに、幾度思考を巡らせても、彼を物理的に屈服させるヴィジョンが浮かばない。どころか、ヨイマチの脳裏に入れ替わり立ち替わりで浮かんでは消える映像の断片は、男に危害を加えようとした後に待つ、惨たらしい場面ばかりだ。
逃げることは敵わず、かと言って国の内情を易々と漏らすこともできず、結果的に口を噤むことしか選択の余地がないヨイマチを、男は喉の奥でくつりと笑う。
「全てを明かす必要はない。君が明かして良いと判断できるものだけで構わないさ」
それは、その程度の情報でも、お前を丸裸にしてやれるぞと宣言されたのと同義だ。
底知れぬ相手の態度に腰に差したままの脇差に手が伸びかける。
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