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3.屋敷
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将軍である赦鶯が所有する屋敷は長安の王宮に近い城下町にある一棟と、黄河沿いの街道を都から三時間ほど馬で走った郊外の小さな街にある一棟の二つだ。皇帝子墨の腹心でもある赦鶯は専ら城下町の屋敷を寝泊りに使うことが多く、使用人達の数も郊外の屋敷より格段に多く揃っている。
しかし郊外にある四合院造りの屋敷は、都より崑崙山脈に近い。
泥に塗れた雨鼬を大きな布で包み、馬上で横抱きに抱えたまま山道を駆け抜けた赦鶯の率いる小隊は、河川の氾濫を避けて下流へ下流へと街道を急ぐうちに、いつしか屋敷のある街の近くまで来てしまっていた。
ここまで来てしまえば、下手に宿場に寄るよりも、赦鶯の屋敷に行った方が早いだろう。
赦鶯は再び数名の部下を屋敷のある街に先触れとして向かわせてから、馬の速度を少しずつ緩め、大人しく赦鶯の胸に寄りかかっている雨鼬の頭を布の上から撫でる。赦鶯の大きな掌に温められて、安心しきったように擦り寄ってくる仕草が愛おしい。妻との離縁以降、娼館に赴き欲を発散させることはあっても特定の相手を作らなかった赦鶯だが、瓦礫の中から掬い上げたこの小さな命には不思議なほどに心惹かれる。今はまだその身体に欲情をぶつけるようなことはしたくないが、生涯を連れ添うのならば、いつかは。
「……大丈夫か、雨鼬。気分は悪くないか」
労りの言葉をかければ、泥で張り付いた前髪の隙間から灰色の瞳が赦鶯を見上げ、ぱちぱちと数度瞬きをする。
「少し、寒い」
「雨鼬は、ずっと水に浸かっていたからな。屋敷についたらすぐに風呂に入れてやるから、もう少しの辛抱だ」
「……お風呂?」
泥水の中から掬い上げた雨鼬の身体は、赦鶯の想像に反して、すらりと長く伸びた少年の手足を持ち合わせていた。もしかしたら雨鼬の年齢は、予想していたよりも少しばかり上なのかもしれない。それでも赦鶯に話しかけられる度におずおずと顔を上げ、視線をあわせてこくりと首を傾げる仕草は、稚さを切に訴えてくるものだ。
「あぁ、風呂だ。身体についた泥を、落とさないといけないからな」
「……うん」
「風呂は、嫌いか?」
「うん……つめたい、から」
「そうか」
その言葉だけで、雨鼬が置かれていた環境は、容易に想像がつく。
閉じ込めた商品を洗うために、わざわざ地下にまで湯を運ぶことは無かったのだろう。
「雨鼬。俺の屋敷についたら、一緒に風呂に入ろうか。冷たい風呂ではないぞ。本当の風呂は、温かくて、とても心地の良いものだ」
「……そう、なの?」
「あぁ。きっと雨鼬も気に入る」
馬の背に揺られながら交わした最初の約束は、残念ながら、叶うことがなかった。
一行が街についてすぐ赦鶯の屋敷に駆けつけた早馬が、『右腕』の僅かな不在を狙い、皇帝の命を狙った刺客が王宮内に潜り込んだという報せを届けたのだ。子墨は簡単に暗殺されるような男ではないが、それでも誰かを守れば窮地に陥ることもある。部下や臣民達の命を軽んじることができない皇帝であれば、なおのこと。
「仕方がない……お前達、もう一走り出来るか」
「はっ」
行軍中ともなれば、荒地を不眠不休で駆け抜けることもあるぐらいだ。街道沿いの道を都まで走り続ける程度、赦鶯に付き従ってきた部下達には造作も無い。すぐに威勢の良い返事を返した春燕達に軽食を取らせている間に、赦鶯は馬から下ろした雨鼬を椅子に座らせ、郊外の屋敷を管理してくれている楊夫妻と引き合わせる。
「楊芳、これは――俺の宝だ。俺が帰るまで、面倒をみてやって欲しい。雨鼬、この二人は、俺が長く世話になっている夫婦で、この屋敷の守り人だ。お前に酷いことをしたり、何処かに閉じ込めたりは、絶対にしない。都で賊を捕らえたら、すぐに戻ってくる。だから楊芳と楊麗の言うことを聞いて、良い子に待っていてくれないか」
赦鶯は既に、雨鼬を妾に囲う心算を決めていた。
いつも赦鶯の留守を預かっている老夫婦は、雨鼬の手を握り優しく言い含める赦鶯の姿に少し驚き、互いに顔を見合わせた後で、嬉しそうな笑みを浮かべた。親友である子墨を皇帝の座に導くこと以外には何一つ興味を持たなかった赦鶯が、初めて見せた執着。それは老いた使用人夫婦にとって息子のようにも思えていた赦鶯に、足りないと思い続けていた感情の一つだ。
「……うん」
椅子に座ったまま頷いた雨鼬の唇を軽く啄んだ赦鶯は、再び愛馬に跨り、休憩を終えた部下達を引き連れて都へと駆け戻るのだった。
しかし郊外にある四合院造りの屋敷は、都より崑崙山脈に近い。
泥に塗れた雨鼬を大きな布で包み、馬上で横抱きに抱えたまま山道を駆け抜けた赦鶯の率いる小隊は、河川の氾濫を避けて下流へ下流へと街道を急ぐうちに、いつしか屋敷のある街の近くまで来てしまっていた。
ここまで来てしまえば、下手に宿場に寄るよりも、赦鶯の屋敷に行った方が早いだろう。
赦鶯は再び数名の部下を屋敷のある街に先触れとして向かわせてから、馬の速度を少しずつ緩め、大人しく赦鶯の胸に寄りかかっている雨鼬の頭を布の上から撫でる。赦鶯の大きな掌に温められて、安心しきったように擦り寄ってくる仕草が愛おしい。妻との離縁以降、娼館に赴き欲を発散させることはあっても特定の相手を作らなかった赦鶯だが、瓦礫の中から掬い上げたこの小さな命には不思議なほどに心惹かれる。今はまだその身体に欲情をぶつけるようなことはしたくないが、生涯を連れ添うのならば、いつかは。
「……大丈夫か、雨鼬。気分は悪くないか」
労りの言葉をかければ、泥で張り付いた前髪の隙間から灰色の瞳が赦鶯を見上げ、ぱちぱちと数度瞬きをする。
「少し、寒い」
「雨鼬は、ずっと水に浸かっていたからな。屋敷についたらすぐに風呂に入れてやるから、もう少しの辛抱だ」
「……お風呂?」
泥水の中から掬い上げた雨鼬の身体は、赦鶯の想像に反して、すらりと長く伸びた少年の手足を持ち合わせていた。もしかしたら雨鼬の年齢は、予想していたよりも少しばかり上なのかもしれない。それでも赦鶯に話しかけられる度におずおずと顔を上げ、視線をあわせてこくりと首を傾げる仕草は、稚さを切に訴えてくるものだ。
「あぁ、風呂だ。身体についた泥を、落とさないといけないからな」
「……うん」
「風呂は、嫌いか?」
「うん……つめたい、から」
「そうか」
その言葉だけで、雨鼬が置かれていた環境は、容易に想像がつく。
閉じ込めた商品を洗うために、わざわざ地下にまで湯を運ぶことは無かったのだろう。
「雨鼬。俺の屋敷についたら、一緒に風呂に入ろうか。冷たい風呂ではないぞ。本当の風呂は、温かくて、とても心地の良いものだ」
「……そう、なの?」
「あぁ。きっと雨鼬も気に入る」
馬の背に揺られながら交わした最初の約束は、残念ながら、叶うことがなかった。
一行が街についてすぐ赦鶯の屋敷に駆けつけた早馬が、『右腕』の僅かな不在を狙い、皇帝の命を狙った刺客が王宮内に潜り込んだという報せを届けたのだ。子墨は簡単に暗殺されるような男ではないが、それでも誰かを守れば窮地に陥ることもある。部下や臣民達の命を軽んじることができない皇帝であれば、なおのこと。
「仕方がない……お前達、もう一走り出来るか」
「はっ」
行軍中ともなれば、荒地を不眠不休で駆け抜けることもあるぐらいだ。街道沿いの道を都まで走り続ける程度、赦鶯に付き従ってきた部下達には造作も無い。すぐに威勢の良い返事を返した春燕達に軽食を取らせている間に、赦鶯は馬から下ろした雨鼬を椅子に座らせ、郊外の屋敷を管理してくれている楊夫妻と引き合わせる。
「楊芳、これは――俺の宝だ。俺が帰るまで、面倒をみてやって欲しい。雨鼬、この二人は、俺が長く世話になっている夫婦で、この屋敷の守り人だ。お前に酷いことをしたり、何処かに閉じ込めたりは、絶対にしない。都で賊を捕らえたら、すぐに戻ってくる。だから楊芳と楊麗の言うことを聞いて、良い子に待っていてくれないか」
赦鶯は既に、雨鼬を妾に囲う心算を決めていた。
いつも赦鶯の留守を預かっている老夫婦は、雨鼬の手を握り優しく言い含める赦鶯の姿に少し驚き、互いに顔を見合わせた後で、嬉しそうな笑みを浮かべた。親友である子墨を皇帝の座に導くこと以外には何一つ興味を持たなかった赦鶯が、初めて見せた執着。それは老いた使用人夫婦にとって息子のようにも思えていた赦鶯に、足りないと思い続けていた感情の一つだ。
「……うん」
椅子に座ったまま頷いた雨鼬の唇を軽く啄んだ赦鶯は、再び愛馬に跨り、休憩を終えた部下達を引き連れて都へと駆け戻るのだった。
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