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自由の果てに
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あるところに男がいた。男は人生に疲れていた。
仕事はうまくいかず、友人もほとんどいなかった。妻とは冷え切った関係で、唯一の慰めは毎日見る夢だけだった。どのような夢であっても、夢の中では男は悲惨な現実から逃避することができた。
ある日、男は夢の中で誰からも認識されない存在になっていた。誰も男を見ない。話しかけない。男の存在自体に気付かない。
男は自分が透明人間になったような思いだった。最初は奇妙に感じたものだが、次第に誰も自分がここにいることに気付かないという感覚が心地よくなり始めた。
「今の俺は誰にも何にも縛られることもない。完璧な自由だ。」
この自由の中では、男は誰の目を気にする必要も誰の期待にも応える必要もない。男は夢の中で思うがままに振る舞った。他人の家に入り込んだり、街の中を裸で歩き回ったりもした。元々そういう趣味や欲求があったわけではない。ただ常識や社会による制限から抜け出したいと思ったのだった。そうして、考え得るあらゆる非常識な行動を取ったが、いかなる行動を取っても誰も男には注意を払わなかった。
気が付くと朝になっていた。男は夢から醒めても、夢の内容をはっきりと覚えていた。自分が夢の中で何をして、何を思ったか。そして、思い出すだけで、あの幸福が身体を駆け巡った。
男はまたあの夢を見たいと思った。男にとって、今ではあの夢だけが日々の疲れから解放してくれる唯一の癒しであった。男はあれ以来、あの夢が見られるように祈りながら床につく。うまく夢を見られる日もあれば、見られない日もあった。そうして日々を過ごしている内に、いつしか男はあの夢が現実になることを強く願っていた。あの夢のように人々の目、そして、社会の呪縛から解放される感覚を現実でも味わいたい。そんな日が来ればどんなに嬉しいことかと心から願っていた。
ある日のこと。それは神のイタズラか、それとも神が与えたもうた奇跡か。驚くべきことに、その願いは突如として叶った。
朝、男は寝室で目を覚ますと、音を立てないように細心の注意を払いながらリビングに向かった。少しでも音を立てると別室で眠る妻がうるさいとヒステリックにわめき散らす。結婚してからずっと、男にはそれが苦痛だった。
男が朝食を終えリビングで会社に行く準備をしていると妻が起きてきた。いつもであれば、妻はもっと遅い時間まで寝ているというのに、今日はなぜか早起きだった。
男は妻と顔を合わせることになり、内心ドキッとしていた。妻は男を見るといつも露骨に嫌な顔をする。そして、どこかしら不満を見つけ、男の何もかもを否定する。
妻が起きてきたことで、男は朝から罵詈雑言を聞かなければならないのかと身構えたが、妻の表情に怒りや苛立ちは見えなかった。機嫌がいいというより、男がそこにいることに気付いていないかのような態度だった。
妻は男の方を一度も見ることなく、朝食の準備を始めた。男は不思議そうに妻を見ていたが、妻は一向に気が付く気配がない。そのとき、ふとある考えが頭をよぎった。もしかしたら自分はまだ透明人間の夢を見ていて、自分の存在が妻に認識されていないのかもしれない。
男は試しに妻の前を何度も通り過ぎたが、妻は一切反応しなかった。男は思い切って、パンを焼こうとしている妻の手を払いのけてみた。パンは妻の手から離れ、床にポトンと落ちた。妻は床に落ちたパンを見て、「落としちゃった」と呟くだけだった。
男はまだ夢を見ているのかと思い、頬をつねってみた。ぎゅっと力を込めると頬が痛んだ。
「なんと、奇跡が現実になったと言うのか!」
男は夢が現実になったことに驚いたが、それと同時に喜びが止まらなかった。
それから男は街に出て、様々な奇行を繰り返した。大声で叫んでも裸で踊りまわっても、誰も男を認識してしない。自由だ。これが本当の自由だ。男は叫んだ。誰にも見られない、誰にも期待されない、これこそが彼が求めていたものだった。
今ではどこに行き、何をしようとも男を妨げるものはない。旅行に行きたいときは電車や船に乗り、お腹が空いたらコンビニでご飯を食べる。お金を払わなくても誰も気付かない。男は今までの人生で我慢していたあらゆることをやり尽くした。
そうして遊び続け、一体どれ程の時が経ったであろうか。男の自由に対する喜びは次第に鈍くなっていった。そしてそれと比例して、自由に対する不満ばかりが募っていく。自由であればこそできることもあるが、できないこともある。
男を最も苦しめたものは孤独だった。誰からも認識されず誰とも話せないことは男の心を蝕んでいった。自分の存在は誰にも縛られない変わりに、誰の人生に関わることもできない。最初はこの自由が心から幸せだと感じていたのに、今では自分がここにいることに、誰でもいいから気が付いてほしいと願っていた。
男はこの孤独な自由に耐え続けていたが、ある日のこと、とうとう男の精神に限界がやってきた。もはや一刻も我慢できない。すぐに元の生活に戻りたいと男は強く願った。しかし、何も変わらなかった。あの日からずっと、誰も男を見つめることはなく、その存在を認める者はいなかった。
男はいつしか、この現実を終わらせる方法を考え始めた。色々なことを試し、様々なことを考え、最終的に男は自らを消し去ることを思い付いた。自分が死ねば誰かが自分に気づいてくれるかもしれないし、これが夢なら自宅のベッドで目を覚ますかもしれない。そうして、ビルの屋上から飛び下りるために歩き始めた。
50階建のビルの屋上へと行き、落下防止用の柵を乗り越えた。今柵から手を離せば、地上100mからの自由落下が始まる。
男は飛び下りる心の準備をした。決心がついたら飛び下りようと思ったが、いつまで経っても飛び下りる決心などつきようもなかった。男は心のどこかで、誰かが自分を引き止めることを期待していた。しかし、誰も彼の存在など気にも留めない。男は悩んだ挙げ句、やはり飛び下りるのは止めようと思い、柵の内側に戻ろうとした。が、その瞬間、男は足を踏み外した。
落ちていく一瞬が永遠に思えた。今までの人生が走馬灯のように思い出される。いいことばかりではなかったが、幸福を感じられる瞬間は確かにあった。煩わしい妻との結婚生活の中でさえも、そこでしか手に入れることのできない幸せがあった。
人生が終わろうと言う瞬間になって、男は気付いた。自分を縛っていた枷でさえも、幸福の一部だったのだと。
一瞬の後、鈍く大きな音が空気を引き裂いた。高所から落ちたことで、男の体はむごたらしく変形し、物言わぬ屍となった。
男は最期にこの夢が終わることを望み身を投げようと考えたが、死んでなお誰からも認識されることはなく、朽ち果てるまでそこにあり続けた。
仕事はうまくいかず、友人もほとんどいなかった。妻とは冷え切った関係で、唯一の慰めは毎日見る夢だけだった。どのような夢であっても、夢の中では男は悲惨な現実から逃避することができた。
ある日、男は夢の中で誰からも認識されない存在になっていた。誰も男を見ない。話しかけない。男の存在自体に気付かない。
男は自分が透明人間になったような思いだった。最初は奇妙に感じたものだが、次第に誰も自分がここにいることに気付かないという感覚が心地よくなり始めた。
「今の俺は誰にも何にも縛られることもない。完璧な自由だ。」
この自由の中では、男は誰の目を気にする必要も誰の期待にも応える必要もない。男は夢の中で思うがままに振る舞った。他人の家に入り込んだり、街の中を裸で歩き回ったりもした。元々そういう趣味や欲求があったわけではない。ただ常識や社会による制限から抜け出したいと思ったのだった。そうして、考え得るあらゆる非常識な行動を取ったが、いかなる行動を取っても誰も男には注意を払わなかった。
気が付くと朝になっていた。男は夢から醒めても、夢の内容をはっきりと覚えていた。自分が夢の中で何をして、何を思ったか。そして、思い出すだけで、あの幸福が身体を駆け巡った。
男はまたあの夢を見たいと思った。男にとって、今ではあの夢だけが日々の疲れから解放してくれる唯一の癒しであった。男はあれ以来、あの夢が見られるように祈りながら床につく。うまく夢を見られる日もあれば、見られない日もあった。そうして日々を過ごしている内に、いつしか男はあの夢が現実になることを強く願っていた。あの夢のように人々の目、そして、社会の呪縛から解放される感覚を現実でも味わいたい。そんな日が来ればどんなに嬉しいことかと心から願っていた。
ある日のこと。それは神のイタズラか、それとも神が与えたもうた奇跡か。驚くべきことに、その願いは突如として叶った。
朝、男は寝室で目を覚ますと、音を立てないように細心の注意を払いながらリビングに向かった。少しでも音を立てると別室で眠る妻がうるさいとヒステリックにわめき散らす。結婚してからずっと、男にはそれが苦痛だった。
男が朝食を終えリビングで会社に行く準備をしていると妻が起きてきた。いつもであれば、妻はもっと遅い時間まで寝ているというのに、今日はなぜか早起きだった。
男は妻と顔を合わせることになり、内心ドキッとしていた。妻は男を見るといつも露骨に嫌な顔をする。そして、どこかしら不満を見つけ、男の何もかもを否定する。
妻が起きてきたことで、男は朝から罵詈雑言を聞かなければならないのかと身構えたが、妻の表情に怒りや苛立ちは見えなかった。機嫌がいいというより、男がそこにいることに気付いていないかのような態度だった。
妻は男の方を一度も見ることなく、朝食の準備を始めた。男は不思議そうに妻を見ていたが、妻は一向に気が付く気配がない。そのとき、ふとある考えが頭をよぎった。もしかしたら自分はまだ透明人間の夢を見ていて、自分の存在が妻に認識されていないのかもしれない。
男は試しに妻の前を何度も通り過ぎたが、妻は一切反応しなかった。男は思い切って、パンを焼こうとしている妻の手を払いのけてみた。パンは妻の手から離れ、床にポトンと落ちた。妻は床に落ちたパンを見て、「落としちゃった」と呟くだけだった。
男はまだ夢を見ているのかと思い、頬をつねってみた。ぎゅっと力を込めると頬が痛んだ。
「なんと、奇跡が現実になったと言うのか!」
男は夢が現実になったことに驚いたが、それと同時に喜びが止まらなかった。
それから男は街に出て、様々な奇行を繰り返した。大声で叫んでも裸で踊りまわっても、誰も男を認識してしない。自由だ。これが本当の自由だ。男は叫んだ。誰にも見られない、誰にも期待されない、これこそが彼が求めていたものだった。
今ではどこに行き、何をしようとも男を妨げるものはない。旅行に行きたいときは電車や船に乗り、お腹が空いたらコンビニでご飯を食べる。お金を払わなくても誰も気付かない。男は今までの人生で我慢していたあらゆることをやり尽くした。
そうして遊び続け、一体どれ程の時が経ったであろうか。男の自由に対する喜びは次第に鈍くなっていった。そしてそれと比例して、自由に対する不満ばかりが募っていく。自由であればこそできることもあるが、できないこともある。
男を最も苦しめたものは孤独だった。誰からも認識されず誰とも話せないことは男の心を蝕んでいった。自分の存在は誰にも縛られない変わりに、誰の人生に関わることもできない。最初はこの自由が心から幸せだと感じていたのに、今では自分がここにいることに、誰でもいいから気が付いてほしいと願っていた。
男はこの孤独な自由に耐え続けていたが、ある日のこと、とうとう男の精神に限界がやってきた。もはや一刻も我慢できない。すぐに元の生活に戻りたいと男は強く願った。しかし、何も変わらなかった。あの日からずっと、誰も男を見つめることはなく、その存在を認める者はいなかった。
男はいつしか、この現実を終わらせる方法を考え始めた。色々なことを試し、様々なことを考え、最終的に男は自らを消し去ることを思い付いた。自分が死ねば誰かが自分に気づいてくれるかもしれないし、これが夢なら自宅のベッドで目を覚ますかもしれない。そうして、ビルの屋上から飛び下りるために歩き始めた。
50階建のビルの屋上へと行き、落下防止用の柵を乗り越えた。今柵から手を離せば、地上100mからの自由落下が始まる。
男は飛び下りる心の準備をした。決心がついたら飛び下りようと思ったが、いつまで経っても飛び下りる決心などつきようもなかった。男は心のどこかで、誰かが自分を引き止めることを期待していた。しかし、誰も彼の存在など気にも留めない。男は悩んだ挙げ句、やはり飛び下りるのは止めようと思い、柵の内側に戻ろうとした。が、その瞬間、男は足を踏み外した。
落ちていく一瞬が永遠に思えた。今までの人生が走馬灯のように思い出される。いいことばかりではなかったが、幸福を感じられる瞬間は確かにあった。煩わしい妻との結婚生活の中でさえも、そこでしか手に入れることのできない幸せがあった。
人生が終わろうと言う瞬間になって、男は気付いた。自分を縛っていた枷でさえも、幸福の一部だったのだと。
一瞬の後、鈍く大きな音が空気を引き裂いた。高所から落ちたことで、男の体はむごたらしく変形し、物言わぬ屍となった。
男は最期にこの夢が終わることを望み身を投げようと考えたが、死んでなお誰からも認識されることはなく、朽ち果てるまでそこにあり続けた。
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