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17・リンの準備

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 心臓が、止まったのかと思った。

「うっ……ぐ、あがぁぁっ!?」

 ぞわぞわぞわぞわ、ぞわぞわぞわぞわ。
 蟲が這うような得体の知れない感覚。怖気が全身を埋め尽くし、見えないナニカが俺の中をグチャグチャグチャグチャにしていく。
 
「あぁ、あぁぁ……うっぷ、ぐげぇえぇぇっ!!」

 嘔吐した。
 涙が出た。悲しくないのに、勝手にこぼれた。
 そして、気が付いてしまった。

「……………………え」

 俺の左手が、炭のように炭化していた。
 指先が真っ黒になり、手のひらが、手首が、黒いナニカに侵食されていく。

「あ、あぁぁぁぁ……なんだ、これ」

 指は動く。
 でも、皮膚が黒くなっていく。
 おかしい。こんな病気ない。気持ち悪い。

「お、げぇぇぇぇぇっ!!」

 胃液を吐いた。
 気持ち悪い。なんだこれ。なんで急に。何が起こってる。

『——————————キロ』
「え……?」

 何かが聞こえた。
 頭の中に、どす黒い何かが響く。

『——————————オキロ』

 オキロ?

『——————————オキロヨ、アイボウ』

 おきろよ、あいぼう?

『——————————ヤツガ、クルゼ』

 奴が……来るぜ?
 なんだこの声、なんだこれ、なんだこれ。

「……来る」

 わかる。
 何かが、来る。
 恐るべき何かが、来る。
 
 俺は、誰もいない地下牢で叫んだ。

「——————————ダメだ!!」

 ◇◇◇◇◇◇

 それは、とても美しい女性だった。
 聖母という言葉を体現したような美しさ、背中に生える12枚の翼、この世の物とは思えない装飾の法衣に、地上では絶対に採取できないであろう宝石を身に着けていた。

「お、おぉ……これが、祝福の聖母フリアエ、か」

 勇者レイジが、自ら召喚した祝福の女神を見て呟いた。
 女神は、地上の人間に向けて……勇者レイジに向けて言う。

『わが子らよ……』

 透き通るような、優しい声だった。
 レイジは、いや……すべての国民は自然と跪いていた。まるで呼吸のごとく、自然な動作だった。

「あ、あの! オレ……勇者です! その」
『大丈夫。全て知っていますよ』
「え……あ、あ、ありがとうございます!!」
『勇者レイジ、そしてその仲間たち……人間たちの守護者にして、我が《五星祝福アーク・ギフト》を宿し者たち。これからも人類の守護者として、大いなる祝福を』

 女神フリアエは翼を広げ、勇者レイジたちを祝福する。
 純白の輝きは周囲を照らし、圧倒的な神々しさがこの場にいる全員を圧倒した。
 これが、神。

「すごい……」
「ああ、すごい」
「美しい……」
「…………」

 リリカ、セエレ、アルシェ、アンジェラは感極まっていた。
 ギフトをくれた女神フリアエ。包み込むような優しさを感じていた。

「…………」

 一人、リンだけは……この状況を訝しんでいた。

 ◇◇◇◇◇◇

 リンは、勇者レイジの戴冠式に出席し、その後は旅の準備をしていた。
 一応、この国を救った勇者の1人だ。このファーレン王国に未練などないが、勇者レイジの仲間として、戴冠式くらいは出席しないと禍根が残る。

 リンは、この国の未来は暗いと考えている。
 お調子者にして魔刃王討伐で増長しているレイジに、国の運営などできるはずがないと思っていた。
 現に、レイジを国王として担ぎ上げた連中は、国の運営について貴族たちと話をしている。レイジという英雄を盾にして、レイジを操り人形とするつもりなのは見えていた。

 この国に見切りを付け、新天地を目指したほうがいい。それがリンが魔獣討伐をする一つの目的であった。
 ほかに、この国以外で召喚技術を持つ国があるかもしれない。そこで日本に帰る手段を探す……この世界にある程度は馴染んだが、やはり故郷は恋しい。
 
 それに、戦う力はある。
 祝福の女神がくれたギフトの1つ、《斬滅》という刀が。
 それに、仲間もできた。

「ライトさん……」

 彼には、申し訳なかったと思う。
 幼馴染の二人は、旅の初めはレイジのことをただの勇者としか見ていなかった。
 でも、時間が経つにつれ、心を開き、いつの間にか惚れていた。戦いに不慣れなリリカとセエレが、何度もレイジに助けられたこともあるからだろう。
 いつしか、ライトのことを忘れ、レイジのことばかり話すようになった。
 
「何度も言ったんだけどな……」

 リンは、何度かリリカとセエレに言った。
 幼馴染はどうするのか、幼馴染が好きではなかったのか。だが、返ってきた答えは。

「ライト……ごめんなさい。私、レイジが好き」
「ライト、あなたはあなたで幸せになってね」

 届かない言葉を呟き、幼馴染ライトの思いを断ち切った。
 それからは、レイジのために尽くすようになっていた。身も心も……。

「よし、準備完了。あとは……」

 旅の荷物をまとめ、リンは頷く。
 あとは、地下牢のライトを迎えに行き、そのまま国を出る。
 表向きは魔獣討伐だが、リンはこの国に戻るつもりはなかった。レイジが治める国など、興味はない。

 ライトを連れて行く理由は、一人では大変だから。仲間がいれば心強いというのに嘘はない。でも、哀れみもあった。
 この国で騎士をやるより、レイジやリリカたちがいない国で新しい出会いでもあれば、立ち直れるかもしれない。そういった考えもあった。
 
「旅かぁ……ラノベで言うと、冒険者かな。この世界にもギルドはあるみたいだし、ライトさんと一緒に冒険者登録でも……」

 そう思った瞬間だった。
 唐突に、外が明るくなった。

「……なに?」

 ここは、王城にあるリンの私室。
 窓を開け、外を見ると……純白の天使が、浮いていた。

「……まさか、あれが祝福の女神?」

 不思議と、見てるだけで幸福感が満ちていく。
 心臓が高鳴り、面白くもないのに顔がにやけてしまう。

「っ……なにこれ」

 妙な違和感を感じていた。
 まるで、ぬるま湯に浸かってるような……得体の知れない感じ。
 リンは窓を閉め、首を振る。

「女神?……なに、これ」

 ぞわっと、背筋が凍るような感覚がリンを襲う。
 そして、聞こえるはずのない声が聞こえた。





『……おや、一本足りませんね』





 次の瞬間、リンの背後に——————————。
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