午後の紅茶にくちづけを

TomonorI

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第1章 ディンブラ・ティー

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梅雨時に入ったある日の日曜日、今日は本当に梅雨の季節なのかと疑いたくなるほど雲ひとつない晴天の朝。
梅雨時には珍しく外で運動するにはもってこいの晴れた今日、橙子は一日中大好きな本を読むために行きつけの図書館に向かっていた。
久しぶりに顔を合わせた青空めがけて腕を伸ばし、んーぅと伸びをすると自然と息が漏れてその反動で新鮮な空気と清々しい気持ちが体の中に取り入れられたように感じた。
いつもの制服とは違ってお気に入りのパックプリーツトレンチワンピースに身を包み、気分転換で大きめに巻いた髪の毛をいつものリボンを使ってハーフアップに結び普段とは違う自分に生まれ変わったように思え自然と気分があがった。
綺麗に舗装された石畳の歩道を歩く度に履いている黒のショートブーツが心地いい音を鳴らすので歩く足を無意識に早めた。
学校の図書館と違って2年ほど前に自分の父親である久我山頭取が出費や投資をして設立したばかりの図書館は外装がガラス張りで近代的のように見えるが中に入ると木材をふんだんに使ってモダンなデザインではあるが古くからの図書館にあるような温かみがあり本好きにはたまらない雰囲気のある空間が橙子は大好きだった。
自分よりも背の高い本棚に見たことの無い本がぎっしり詰まって壁一面に並び、どの方向を向いても本の詰まった本棚だらけの静かな空間を思い出すだけで橙子の顔には自然と笑みが浮かぶ。
開館時間を20分ほど過ぎた頃に目的地である図書館についた。
ガラスの箱のような建物の自動ドアを通りセキュリティーゲートを抜けて様々な年代と素材の紙媒体の匂いとページをめくる音と人の足音しか聞こえない静寂な空間が普段の雑音だらけの生活とは隔離されたように思える。
本だらけの空間で本に囲まれているだけでも満足出来る橙子だったが、せっかく自分の知らない本が何万冊もあるのだからと一階正面の新刊のコーナーから図書館スタッフのオススメの本や月に一度の特集展示を眺め、興味が湧いたものをたまに手を取り大雑把に中身を覗いたりとを繰り返しながら一階の端から端まで歩き回る。
一階には様々な種類の雑誌や児童書とCD、DVD、こんなもの誰が何に使うのであろうとさえ思うほど多種多様な辞典類が主に配置されていて特に用もない橙子はすぐに階段をのぼり二階に上がった。
高校生と言えども休日に勉強なんかする気になんななれず参考書のコーナーを素通りして行き着くのはいつもの小説のコーナーだった。
知ってる小説家も知らない小説家も入り交じった本棚でタイトルが興味深かったり表紙のカバーが綺麗なものを数冊手に取った。
そして窓際に並んで設置された4人がけのテーブル席に座り1冊目を開いて最初の2行ほどに目を通すと気づけば引き込まれ、夢中で文字一つ一つを体に取り入れた。
紙の上だけで生きている主人公たちの言動を読み取るだけで自分が神にでもなったような優越感にひたっていた前半部分を読み終え後半に入るにつれて思いもしなかった展開にまくし立てられてストーリーを考えた作者に尊敬の念が芽生えるのと同時に自分の考えの浅はかさに恥を感じた。
気づけば3センチほどの厚さの小説を読み終えてしまった橙子はパタンと閉じて同じ作者の作品を新たに手にしてまた1ページ目を開いた。

「…っぃで!!」
「ひゃっ!?」

2冊目の半分ほどまで読んでいた時、集中していたからか本当に何の音もなく静かだった空間が木製のテーブルに何か硬いものがぶつかったような鈍い音と男の小さなうめき声によって崩され、橙子は驚き栞を挟むのもわすれて本を閉じてしまい何事かと辺りを確認した。
すると、橙子しか使っていなかった4人がけのテーブル席にいつの間にか人が座っていたのに気がついた。
橙子の右斜め前の席に座る男は、寝癖なのかそういうものなのか無造作に伸びきった黒い髪とそれに隠されるようにしている黒縁のメガネのせいもありどこか陰険な印象でさらに病的な程に白い肌のせいで体調すらもよく見えなかった。
学生の程の若い男が自分の額に手を持っていきこちらに苦笑いを浮かべるのを見る限り、男が眠かったのかそれともほかの理由でか机に頭を打ったのだろうと想像できた。

「大丈夫ですか…?」

男につられ自分も苦笑いを浮かべて声をかけるもまた苦笑いを返されたのでもうそれ以上は何も言葉は交わさずに読書に戻ろうと閉じてしまった本を開いて目を落とした。
先程までは周りの音や人なんて何も気にならなかったはずなのにどうしてだか先程読んでいたよりも集中出来ずささいな音や目の前の男が気になってしかたがなかった。
本を読むふりをしてちらりと目の前の男を盗み見る。
やはり何処かの学生なのだろうか、1人では読み切れないだろうと言う程の色々な本を広げて要所要所をノートに書き写してはなにか気に食わないのか大きくバッテンを書いて新しいページを開くという行為を繰り返していた。
橙子は腕時計を確認すると図書館に来て4時間と少しが経っていた。
その間1度も飲食をしていなかった橙子はこの際一階のカフェでお昼ご飯でも食べようと思い本を手に取って長い事座っていた席から立ち上がって本を元あった場所に戻すとそのまま一階に降りた。
図書館内にある少人数のカフェはケーキや紅茶、軽食を本を読みながら楽しむことが出来てさらにここの料理が美味しいと話題になりそれだけの理由でこの図書館を利用する人も数多くいるほどだった。
カウンターが4席と2人がけのテーブル席が3つ4人がけのテーブル席が2つとテラスに2人がけの席が2つ、そのうちお昼時ということもありそのうちの過半数が埋まっていてやっと座れたのは1番奥の2人がけの席だった。
テーブルに置かれたメニュー表に目を通して早速抹茶ラテといちごのパンケーキを注文したが、カフェに店員は2人しかおらず結構時間がかかると言われ読書でもして時間を潰そうと自宅から持ってきた佐久間希の新刊を開いた。
5分ほど本を読んでいるとカフェに空席が無くなっていた。

「申し訳ございませんお客様、こちら2人がけのお席となっておりますが相席をお願いしたいのですが…」
「相席…?えぇ、構いませんわ」

注文も取りにたのと同じ女性が申し訳なさそうに眉を下げて橙子に相席するようにお願いをした。
初めての相席のお願いに少し戸惑うも笑顔で受け入れると、女性店員も営業用の笑みを浮かべ会釈をすると入口で待っていたお客様を橙子がいた席に案内した。
誰が来るのだろうとお冷グラスに口をつけて案内された人を見ると、白いTシャツとジーンズ姿の先程右斜め前にいた机で頭をぶつけた眼鏡の男だった。

「あっ…ど、どうも…」
「ど、どうも…」

お互い変に気まずく引きつった笑みで軽い挨拶をするとその横を女性店員がごゆっくりどうぞーと明るい声と笑顔で立ち去って行った。
眼鏡の男は気まずいながらもメニュー表に視線を落とすので橙子も読んでいた佐久間希の本に視線を戻した。
すると不思議なことに先程から存在が気になって仕方がなかった眼鏡の男の存在さえ霞んでしまうほど本に引き込まれる。
それから橙子の頼んだ抹茶ラテがテーブルに運ばれるのも時間がかからなかった。

「…佐久間希ですか?」
「え?」

本に栞を挟み表紙を上にして閉じて運ばれた抹茶ラテに口をつけたときいきなり男に声をかけられた。
あまりにも唐突な問いかけに驚いた橙子の様子に、あ、急にごめんなさいっ!とすぐに謝罪がされた。

「え、えぇ…そうです。…ご存じですか…?」
「…え、えぇ…その、まぁ…」

男は橙子止めを合わそうともせずに落ち着きなく眼鏡のブリッジを指先で持ち上げる。
さすがの橙子も気味悪く感じた。

「最近…その人の本よく目にします…」
「えぇ、人気の作家さんです。あ、良ければ後で図書館でお読みになられては?」
「はぁ…。では、何かオススメの作品とかありますか?」

男の目の前にあったお冷の入ったグラスの氷がカランとなった。

「…そうですね…。話題性なら映画化も決まったデビュー作なんてどうでしょう?私初めてあの作品を呼んだ時こんなにも素敵なヒロインが…あっ、ネタバレになってしまいますね…でも、あの作品は何度読んでも毎回違う人物の視点で楽しめるんですよ。あと、私個人の好みですと3作品の『左手の愛を焼きつけて』は本当に感服します…。タイトルに左手って入ってるのに作中には左手要素はあんまり出てこなくて…不思議だなって思ってたら最後に全部の謎が解けて…ホントに佐久間先生って天才!!って思いました。あ、あとっ」
「…ほ、ホットコーヒーお持ち致しました…」

佐久間希について橙子が熱く語っていると男が注文していたであろうホットコーヒーが苦笑を浮かべる女性店員によって運ばれてきた。
はっと我に返り話しすぎたと口元を手で覆って俯く橙子の目の前で男はどうも、とコーヒーを受け取りまだ湯気の出ている黒い液体をひとくち啜った。

「…いやだ、私ったら…つい話しすぎてしまいました…」
「よほどかれの事お好きなんですね。こんなにも大好きでいてくれる人がいるなんて佐久間先生も嬉しいでしょうね」
「好き…ですけど…。私、普段から本について話すようなお友達がいなかったら、ちょっと話せて嬉しかったんです…」

橙子は俯いたまま少し笑みを浮かべて抹茶ラテをコクリと一口だけ飲んだ。
男も橙子につられてか愛想笑いか笑みを浮かべ同じようにコーヒーをすする。

「…僕も、本について誰かと話すなんて…そんなにないので…。それに貴方のように熱く語る女性に初めて出会いました」
「うぅ…はしたない女と思わないでくださいね」
「は、はしたないなんてそんな…何かについてここまで熱くなれるのは素敵なことですよ!!…あ、すいません、こんなこと言われても気持ち悪いですよね…すみません」

男はそういってまた謝罪をするとコーヒーを啜る。
お互いに飲み物が残りわずかだった。

「あの、つかぬ事をお聞きしてもよろしいですか?」
「ぼ、僕にですか?…えぇ、構いませんよ」
「さっき大量に本を見ていらしたので、何をしてらしたのか気になって…」

男は思いもしなかった質問に驚き眼鏡に隠された目を開いては少し笑ってはずはしそうに続ける。

「あはは…やはりあんなに本を置いてたら気になりますよね…すみません。読書をしてたのに邪魔してしまったみたいで」
「あ、いや、とんでもないです」
「実は…僕、今大学院で世界の文学について研究してまして…今日は学校の図書館にはない文献などを見てました…」

恥ずかしそうに目をふせながら男がコーヒーをすするとコーヒーの薄い膜を張られた真っ白なティーカップのそこが見えた。

「へぇ、文学ですか…。では、やはり本がお好きなんですか?」
「えぇ。…今では立派な活字中毒です」

そう言った後に橙子が頼んでいたパンケーキが運ばれてきてテーブルにはクリームの甘い匂いといちごの甘酸っぱい香りに包まれた程よい焼き具合のパンケーキの香ばしい匂いとに包まれた。
その匂いを嗅いだ瞬間に空腹感を思い出した橙子はフォークを右手に持つと早速手をつけようとしたが一応まだ頼んだ品が来ていない目の前の男に目だけで挨拶をしてパンケーキにフォークを押し付けた。
違う食べ物のように柔らかい生地にいちごソースとクリームを思いっきりつけて口に運ぶと口の中に人工的な甘みが広がる。
何時間ぶりかの食事に手が止まることは無かった。

「…オススメのほんとかありませんか?私、色んな本読んでみたいんですけど…やっぱり1人で選ぶとやっぱり偏ってしまうから…あ、不躾なお願いですみません…」

会話が終わっていたはずなのに橙子に声をかけられた男はまた話しかけられるとは思っていなかったらしく戸惑い驚きながらも目線を斜め上にあげて何かを考えているようだった。

「んー、…ジャンル的には何がいいとかありますか?それともただの僕の好みでも?」
「えぇ、お好みのものをお願いします」

男が腕を組んで考えると頼んでいたらしいガトーショコラのセットが運ばれた。

「そうですね…国外の作品だと文量が多いですがロシア文学作品はオススメです。ちょっとその当時のロシアについても知っておかなくてはなりませんが…日本とは違って信仰宗教の違いによって起こる紛争や政治問題なら社会主義国ならではの観点から書かれているのでとても興味深いですよ。トルストイの『アンナ・カレーニナ』だと映画かもされて女性なら親しみやすいかもしれませんね。あ、あと日本の作品でなら高田陽一の『おわり』が好きです。…女性にはおすすめ出来ないほど残虐で非道な作品なんですが、よくそこまで忠実にかつ繊細に表現出来るなって胸糞悪さを通り越して感心してしまいます」

男は運ばれてきたガトーショコラには目もくれずに目の前でパンケーキを食している橙子に向かって一方的に嬉嬉として語りかけた。
眼鏡のレンズが光で反射しているからかそれとも本当なのか、男の目が生き生きと輝いて見えて橙子は思わず真っ直ぐに男の目を見つめて話を聞いた。

「あ、ご、ごめんなさい…。初対面の男にこんなに語られても気持ち悪いですよね…すみません…」

それまで夢を語る少年のように輝いた目をしていた男は橙子に真っ直ぐに見つめられているのに気づくと恥ずかしさからかすぐに頭ごと動かして目線を外しては謝罪をしながらブリッジを薬指で押し上げた。

「ふふ、さすが文学研究者ですね。作品の感想が私と違って根深いところまで読んでらっしゃんですね。…ロシア文学ですか…私まだ読んだことないので今日から読んでみますね」
「いえいえ、そんな…。大したこと言えないで申し訳ないです」

男は何度も首を横に振って謙虚に否定するとやっと藍色の丸皿に盛られたクリーム付きのガトーショコラにフォークを刺して急いで口に運んだ。

「ふふっ。面白い方ですね…あ、ここで出会ったのも何かの縁ですから良ければお名前を聞いてもよろしいですか?」
「ぼ、僕のですか…?」
「あ、そんな…無理にとは言いません。…ただ、ここまで本について話せるお友達が欲しくて…」

橙子は止めることなかったフォークを皿の上に乗せて1時中断すると不躾なお願いと心得つつも男に頼み込んだ。
すると男はガトーショコラを咀嚼するのを止めて驚いたように橙子を見ると、同じようにフォークを皿において両手を膝の上に乗せて改まったような姿勢をとり口に残った咀嚼物を飲み込んだ。

「…慶成大学大学院文学研究科、西洋文学専攻の現在1回生の冴島 望さえじま のぞむです…」

よろしくお願いします、と冴島と名乗る男は頭を下げた。

「私は久我山橙子と申します。聖白百合女学院の2年生です」
「聖白百合って…久我山さん、お嬢様なんですね…」
「冴島さんだって慶成大学の大学院に在籍されてるなんて…すごい…」
「いやいや、その…学校は凄くても僕は大したことなくて…」

あくまでも謙虚な姿勢をみせる望に橙子は好感が持てた。
そこからまたお互いの好みな本の話をしながらパンケーキを食べ終わり、そろそろお開きという頃に橙子が残った抹茶ラテを口にした時にはもう生ぬるくなっていて、壁一面の窓には西日がさしていた。



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