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第1章 ディンブラ・ティー
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自宅付近の綺麗にアスファルト舗装された道を陽菜乃は走っていた。
毎日見ているはずのアスファルトの道も日が落ちて外灯と辺りの大きな家から漏れる生活中のあかりしかないこの時間帯では雰囲気が変わり、海外のホラー映画をも思わせるほど暗く先の見えない歩道でしっかり目を開いて前を見ていないと足を持っていかれそうだった。
毎日のトレーニングとしてし続けている夜中のジョギングを今日も変わらずに行っている陽菜乃はいつもの半分ほどしか走ってないにも関わらず足を止めて今まで走ってきた薄暗い道を振り返る。
走っていた先程まで自分の呼吸の音と地面を蹴る音だけしか聞こえていなかった辺りには待ってと荒い呼吸の間から微かに漏れる声と不揃いな足音が徐々に近づいてくるのが聞こえてくる。
10数秒遅れでほとんど息の切れていない陽菜乃の元にゼーゼーと肩で大きく息をしながらよろよろと歩いてくる長身の男がいた。
「だらしないわね、これくらいで」
腕を組んで目の前の男にそういうが男はガックリと両膝に手をついて肩を揺らしながら呼吸を整えていて陽菜乃に返事は出来なかった。
困ったようにため息をつく陽菜乃はウェストポーチから500mlのスポーツドリンクを取り出して飲めと言わんばかりに男の頬に押し当てた。
「だから着いてこなくても大丈夫って言ってるのに」
「はぁっ、っだって…ふはぁ…」
自分と同じようなランニングウェアを着ている男の息がある程度整ったらしくやっと呼吸ではない言葉が返ってきた。
「ヒナちゃん走るの早いよ…」
「ジョギングなのにゆっくりしてたら意味ないじゃない」
「…まぁ、そうだけど」
両膝から手を離した男は大丈夫と未開封のスポーツドリンクを断り手の甲で額の汗を拭った。
額から流れた汗が頬を通って首筋にたれる。
「父さんの言う通りに毎日着いてこなくてもいいのよ?今までだってずっと一人で走ってたし」
「ダメだよそんなの。女の子1人でこんな夜中に外出るのは危ないから」
「だからっていちいちあんた待ってたらトレーニングにならないの」
「うっ…じゃあもういっその事ウォーキングに転換するというのは…?」
男はせっかくの綺麗な顔にわざわざ情けない表情を浮かべて台無しになった顔でそんなことを言いながら深く息を吐く。
「なによそれ、私に勝手についてきてるのは響くんでしょ?」
陽菜乃は自分のトレーニングにまでついてくる最近紫之宮家に使用人として雇われた神宮寺 響に呆れたようなため息を漏らしてそう言うと、ジョギングを続けるわけにはいかず彼に合わせて歩き始めた。
「でも、それが俺の仕事だから」
金メッシュの入っている茶髪の前髪が汗で濡れていてそれを鬱陶しそうに払う響は歩き出す陽菜乃の一歩後ろを大人しくついて行く。
自分よりも20cmほど背の高い男にこんなに暗い道で後ろからびっちりと着いてこられるのも不思議な感覚であった。
「ヒナちゃんホントに毎日走るんだね」
使用人なのに社長令嬢である陽菜乃に対してこんなに馴れ馴れしく話しかけてくる響と初めて出会ったのは1週前の学校から帰ってきた日の夜だった。
いつもの通り自宅に帰ってくると黒のジャケットに白い手袋をした若い男が玄関にたっていて、その顔が驚くほどの美形で見慣れなかったので一瞬間違えて違う家に入ってしまったのかと思うほどだった。
小さい頃から今までお世話になっていた女性のお手伝いさんが今年に入って体調を崩し最近そのまま入院してしまったので、突然紫之宮家に前任のお手伝いさんが復帰するまでの期間限定で住み込みの使用人として雇われたのが陽菜乃の父親の執事である男の甥の響であった。
「まぁ小さい頃からそうしてたから。今更辞めるのも気持ち悪いし」
陽菜乃がもう走るわよ?と言うと嫌そうな顔を浮べる響だったがうなづき了承したので走り出す。
特に会話をすることなくしばらく走っているとまた響と陽菜乃の差が開き始める。
以前は1人で一、二時間自分の好きなように走っていたのに響が家に来てからは雇い主である父の指示によりジョギングに関わらず陽菜乃が1人で外出する時はよっぽどの事がない限りは付きっきりでいるように言いつけられ、最近では生活がすこし不自由になった。
自宅に設備されてるトレーニングルームでしか運動をしない弟たちと違って外にトレーニングをしに行く陽菜乃にとっても付き添わなくてはならない響にとってもその指示は厄介極まりないものなのだ。
しばらく走っていると平坦だった道は軽い上り坂になりはじめ軽快だった陽菜乃の足取りも少々重くなり、その後ろで響も必死に追いつこうとしていた。
車も通らない静かな住宅街の道路に響の大袈裟と思えるほどの呼吸する音だけがしている。
「しんどぃいー」
「…」
「ヒナちゃん待ってぇ…」
「もぉ、あなたねぇ…これじゃあどっちが付き人かわかんないわね」
一旦無視して先に進んでいた陽菜乃も背後から情けない男の声がすると見捨てるわけにはいかず、中間部で足を止めて少し苛立ちながら振り返る。
響は先程と同じように遅れて陽菜乃に追いついき、せっかくの綺麗な顔を苦痛に歪めながら大袈裟と感じれるほど肩で呼吸して汗を流していた。
「もうさ…おじさんは若い子に追いつけないのよ…」
「おじさんて…響くん私とあんまり変わんないでしょ」
「いやいや、こんなに走るの高校の体育以来だし…一昨日のジョギングの筋肉痛引きずってるし…」
走りたいが響を置いていくわけにいかない陽菜乃はどうしていいのか分からず困り果て両眉を下げる。
だらしなく自分の体を労わるように腕などを撫でていた響はその様子にはっと気づくと姿勢を正して咄嗟に頭を下げた。
いきなり目の前で頭をさげられた陽菜乃は驚きながらも響の次の言動をまった。
「申し訳ありません、陽菜乃お嬢様。私の自分勝手な振舞いで、陽菜乃お嬢様の気分を害してしまいました」
「ひ、響くん…?いきなりどうしたの?」
「お嬢様の執事としてあるまじき言動でした。申し訳ありません」
先程のフランクな口調と態度とは一変して初めてあった時と同じような執事らしい丁寧な対応に驚きと違和感を感じ陽菜乃はさらに困惑する。
「やめてよその感じ、好きじゃないって言ったでしょ?」
「ですが、本来お嬢様に対してはこのように接するのが妥当かと」
「さっきまで出来てたじゃない。わかったわ。今日はあなたに合わせてそんなに走らないからそういう喋り方はよして」
自分の事をお嬢様として扱われるのが嫌いな陽菜乃は響にそう懇願すると響は顔色を伺うように頭をあげる。
陽菜乃も同じように響の顔を見上げ様子を伺うのでしばらく2人はお互いの気持ちを探るように見つめあうという変な時間が流れた。
「ごめん。俺、毎日ヒナちゃんに追いつけるように体力付けるね」
「いや、私も気をつけるね…」
そしてお互いに小さく頭を下げてこの事案は解決た。
それから陽菜乃はまだ少し気を使いながらもジョギングを続けようと背を向けて足を動かし始めた。
5分ほど上り坂を走って登りきると緩やかな下り坂になり先程よりも軽やかに走る事ができた。
それもあってか弱音ばかり吐いていた響も何も言わずに少しの間隔はあるものの先程よりも着いてこれている。
下り坂が終わり再び平坦な道になり、交差点の白い塀を左折すると家の周りを一周したことになった。
自宅の外観が見えてくるとどことなく安堵の表情を浮べる響だったが陽菜乃はそれに気づかずに自宅の目の前を通り過ぎもう一周目に入った。
「まだ走るの?」
「うん。でも私1人で帰って来れるから響くんはもう戻ってもいいよ」
気を使ってそう言う陽菜乃の提案に乗ろうとした響だったが自分を律するように頭を小さく横に振ってついて行きますと真剣に頷き意思表示をすると一度止めそうになった足を再度動かす。
「あんまり無理しないでね?」
「ヒナちゃんこそ、無理しないでね」
しんどそうな響にそう言う陽菜乃に響は悟られないように爽やかな笑顔をうかべて答える。
自宅前の明かりでぼんやりとだが見えた響の不意にみせた笑顔に見とれてしまった。
「でもなんでわざわざ外を走るの?ルームランナーがあるのに」
無理をしてるのか慣れたのか車道側で陽菜乃の横を並走する響がしんどそうな息を混じえつつ問いかける。
「んー、家の奴は弟達が使うからね。それに外の方が室内で黙々とするよりも刺激あるしねー」
「そう?暗いし虫いるし嫌なこといっぱいじゃん」
「そんなのもう慣れた」
「へー、ヒナちゃんは強いんだね」
そんな受け答えをしてまたしばらく沈黙が流れ、お互いに黙々とひたすらに目的地につくまで足を動かす。
「後どのくらい走るつもり?」
10分ほど走るとさっきと同じ上り坂をお互いに重い足取りで登っていた時に置いていかれないように必死な響が問いかける。
「今日はこれで最後。次に家に着いたら終わり」
「なら、頑張んなきゃだ」
もう少し走りたかった陽菜乃だがいちいち響に小言を言われるのがめんどくさくなり、もう終わると口約束をして上り坂を登り終わり緩やかな下り坂を走る。
緩やかな下り坂といえど考えて走らなければ足に変に負担をかけたり滑り落ちて怪我をする、なんてことちゃんと考えなくても分かるはずなのだがその時の陽菜乃はどうしてだかなんにも考えずに足の動くままに走っていた。
「うわぁっ!?」
暗闇の中、目の前には気をつけていたが足元に十分な注意を払っていなかった陽菜乃は足元に何か光る黒いものがあるのに気が付かなかった。
蹴飛ばされそうと感じたのかその黒いものは陽菜乃から逃れるようにサッと消えたので野良猫か何かだったのだろうと想像出来た。
野良猫は逃げていったが咄嗟に避けようとした陽菜乃は下り坂の傾斜もありバランスを崩しそのままその場でずっこける。
「えぇ!!ヒナちゃん!?大丈夫!?」
自分の目の前を走っていたはずの陽菜乃の背中が地面に倒れ込むのを目の当たりにした響は驚きの表情を浮かべて地面にくずれおちた陽菜乃に駆け寄り状況を確認するべくしゃがみこんで上半身を抱き上げる。
意外と近い顔に驚き思わず逸らした陽菜乃にお構いなく響は抱き上げた体を注視する。
「びっくりした…野良猫?」
「いや、それどころじゃないよ!!どっか痛いところない!?」
「そんな大袈裟な…」
抱き起こされた陽菜乃は転けた恥ずかしさを隠すように黒いものが消えていった方に目をやって笑うが、響はそんな転んだ原因よりも大事な社長令嬢に自分が付いていながらも怪我をさせてしまったのではないかという方が気になるようだった。
「足首捻ったりしてない?膝とか、手とか擦りむいてない?」
「大丈夫、心配しすぎ。私そんなにヤワじゃない」
無駄に真剣な顔の響に苦笑いを浮かべる陽菜乃は地面についた手を払って何も無かったかの様に立ち上がる。
不安そうな響も立ち上がり手を掴んで手のひらをみたりと陽菜乃の全身をくまなく確認する。
「もぉ、大丈夫ってば…」
掴まれた手を鬱陶しそうに振り払う陽菜乃は不安そうな響を置いてそそくさと歩き出す。
しかし陽菜乃自身自分でどこを怪我しているのか把握しきれておらず、歩きながら違和感のあるところには目をやって確認するが、見てわかるほどの怪我はしていなかった。
「嘘だ。歩き方が違うよ」
また背後からの響の声で足を止める。
確かにその時右足首に変な違和感を感じた陽菜乃だが、そんな事ないと相手にしなかった。
「そんな事ある!!さっきはそんなに右足を庇うような歩き方してなかった」
「そんなの響くんには分からないでしょ?」
「わかるよ。俺ずっと後ろからヒナちゃん見てたんだから」
その発言には気持ち悪さを感じた陽菜乃だが発言にそぐわないほどの真剣な表情の響から視線を外すことが出来なかった。
「…だとしてもそんなに痛くないし、大したことないから大丈夫…」
「ダメだよ、ほっておくともっと悪くなるって。お願い見せて」
響はそう言ってトレーニングウェアから細いスポーツタオルを取り出しながらその場にしゃがみこんで陽菜乃を安心させるように微笑む。
悪くなるという単語に怖気付いた陽菜乃は降参したように右足のクッション性の高い青色の靴を脱いでしゃがんだ響の膝の上に控えめに乗せる。
「あ、ふらつくなら肩に手乗せていいからね」
「そんなに体幹弱くないっての…っ」
どこが痛むのかと触診していた響の指が足首の内側に力を入れた時に鈍い痛みをかんじて陽菜乃は反射的にその手から逃れるように足をふるわせて顔を歪ませた。
ごめんね、痛いねと言いながら響はタオルを折りたたんで包帯のように細くすると慣れた手つきで足首を固定させる。
「靭帯かな、捻挫したのかもね。応急処置で足固めとくけど家に帰ったら金永さんに診てもらお」
足首の前で少しも動かない様にきつく固結びをすると靴を吐けないほどタオルでこんもりとした右足が完成した。
「響くん、なんか手際がいいね」
「まぁ、これでも執事だから」
冗談ぽく笑う響にありがとうと、つられて微笑み感謝する陽菜乃だったが靴をはこうとするが当たり前に足首が収まらずに思わず困惑する。
その様子に響は苦笑いをするとタオルがつっかえて足が入らない陽菜乃の青い靴を脱がして片手に持ち、両ももと脇の下から背中に手を回して抱きかかえる。
「わっ!?な、なに!?」
いきなり地面から体が切り離されて響の体に陽菜乃の全体重がのしかかる。
陽菜乃は驚きのあまり降りようと暴れることもせずに自分を抱きあげてそのまま歩き出す響の顔を凝視していた。
「もう少しで家だからそれまで我慢してね」
「やだっ、ちょっと、下ろしてよ!!」
「ダメだよ安静にしないと」
「こんなっ…恥ずかしいから下ろしてよ!!」
「でも、女の子に股を開かせるわけには行かないでしょ?」
響の腕にだかれている陽菜乃はそこまで言われると、誰にも見られてないしと諦観する自分と誰かに助けられている自分に対して情けなく感じて大人しく響に体を預けた。
「重くない?…私…」
響が歩く度に大きく揺れる自分の体を手から落ちないよう支えるために響のトレーニングウェアの胸元を控えめに掴む陽菜乃は恥ずかしそうに問いかける。
「重くない…って言ったら嘘になるかな…?」
「やだ、ごめん…」
「あはは、うそうそ。男だからこれくらい何ともないよ」
そう言っておかしく笑う響に陽菜乃は内心苛立ったがその屈託ない笑顔にどこか安心する。
ずっと見ていた顔から視線を外して進行方向に目を向けると自宅に近い交差点の白い壁が見える。
「足、何ともないといいね」
「大丈夫、ここまでしてくれたんだからきっと大したことないよ」
「ごめんね…俺がついていながら…ヒナちゃんに怪我なんてさせて…」
「…響くんのせいじゃないよ、私が勝手に転けただけ。それに、ちゃんと固定までしてくれて…感謝してる」
さっきまでの笑顔とは一変して紫之宮家に近づくにつれて執事長の金永さんに怒られるのではないかも不安そうな顔をうかべる響を安心させるように微笑んで再度感謝を伝えると、少し照れたように響は微笑んだ。
そのまましばらく進んでいき自宅に帰りつく頃には、締め付けられすぎて感覚を失ったのか足の痛みはほとんど感じなくなっていた。
毎日見ているはずのアスファルトの道も日が落ちて外灯と辺りの大きな家から漏れる生活中のあかりしかないこの時間帯では雰囲気が変わり、海外のホラー映画をも思わせるほど暗く先の見えない歩道でしっかり目を開いて前を見ていないと足を持っていかれそうだった。
毎日のトレーニングとしてし続けている夜中のジョギングを今日も変わらずに行っている陽菜乃はいつもの半分ほどしか走ってないにも関わらず足を止めて今まで走ってきた薄暗い道を振り返る。
走っていた先程まで自分の呼吸の音と地面を蹴る音だけしか聞こえていなかった辺りには待ってと荒い呼吸の間から微かに漏れる声と不揃いな足音が徐々に近づいてくるのが聞こえてくる。
10数秒遅れでほとんど息の切れていない陽菜乃の元にゼーゼーと肩で大きく息をしながらよろよろと歩いてくる長身の男がいた。
「だらしないわね、これくらいで」
腕を組んで目の前の男にそういうが男はガックリと両膝に手をついて肩を揺らしながら呼吸を整えていて陽菜乃に返事は出来なかった。
困ったようにため息をつく陽菜乃はウェストポーチから500mlのスポーツドリンクを取り出して飲めと言わんばかりに男の頬に押し当てた。
「だから着いてこなくても大丈夫って言ってるのに」
「はぁっ、っだって…ふはぁ…」
自分と同じようなランニングウェアを着ている男の息がある程度整ったらしくやっと呼吸ではない言葉が返ってきた。
「ヒナちゃん走るの早いよ…」
「ジョギングなのにゆっくりしてたら意味ないじゃない」
「…まぁ、そうだけど」
両膝から手を離した男は大丈夫と未開封のスポーツドリンクを断り手の甲で額の汗を拭った。
額から流れた汗が頬を通って首筋にたれる。
「父さんの言う通りに毎日着いてこなくてもいいのよ?今までだってずっと一人で走ってたし」
「ダメだよそんなの。女の子1人でこんな夜中に外出るのは危ないから」
「だからっていちいちあんた待ってたらトレーニングにならないの」
「うっ…じゃあもういっその事ウォーキングに転換するというのは…?」
男はせっかくの綺麗な顔にわざわざ情けない表情を浮かべて台無しになった顔でそんなことを言いながら深く息を吐く。
「なによそれ、私に勝手についてきてるのは響くんでしょ?」
陽菜乃は自分のトレーニングにまでついてくる最近紫之宮家に使用人として雇われた神宮寺 響に呆れたようなため息を漏らしてそう言うと、ジョギングを続けるわけにはいかず彼に合わせて歩き始めた。
「でも、それが俺の仕事だから」
金メッシュの入っている茶髪の前髪が汗で濡れていてそれを鬱陶しそうに払う響は歩き出す陽菜乃の一歩後ろを大人しくついて行く。
自分よりも20cmほど背の高い男にこんなに暗い道で後ろからびっちりと着いてこられるのも不思議な感覚であった。
「ヒナちゃんホントに毎日走るんだね」
使用人なのに社長令嬢である陽菜乃に対してこんなに馴れ馴れしく話しかけてくる響と初めて出会ったのは1週前の学校から帰ってきた日の夜だった。
いつもの通り自宅に帰ってくると黒のジャケットに白い手袋をした若い男が玄関にたっていて、その顔が驚くほどの美形で見慣れなかったので一瞬間違えて違う家に入ってしまったのかと思うほどだった。
小さい頃から今までお世話になっていた女性のお手伝いさんが今年に入って体調を崩し最近そのまま入院してしまったので、突然紫之宮家に前任のお手伝いさんが復帰するまでの期間限定で住み込みの使用人として雇われたのが陽菜乃の父親の執事である男の甥の響であった。
「まぁ小さい頃からそうしてたから。今更辞めるのも気持ち悪いし」
陽菜乃がもう走るわよ?と言うと嫌そうな顔を浮べる響だったがうなづき了承したので走り出す。
特に会話をすることなくしばらく走っているとまた響と陽菜乃の差が開き始める。
以前は1人で一、二時間自分の好きなように走っていたのに響が家に来てからは雇い主である父の指示によりジョギングに関わらず陽菜乃が1人で外出する時はよっぽどの事がない限りは付きっきりでいるように言いつけられ、最近では生活がすこし不自由になった。
自宅に設備されてるトレーニングルームでしか運動をしない弟たちと違って外にトレーニングをしに行く陽菜乃にとっても付き添わなくてはならない響にとってもその指示は厄介極まりないものなのだ。
しばらく走っていると平坦だった道は軽い上り坂になりはじめ軽快だった陽菜乃の足取りも少々重くなり、その後ろで響も必死に追いつこうとしていた。
車も通らない静かな住宅街の道路に響の大袈裟と思えるほどの呼吸する音だけがしている。
「しんどぃいー」
「…」
「ヒナちゃん待ってぇ…」
「もぉ、あなたねぇ…これじゃあどっちが付き人かわかんないわね」
一旦無視して先に進んでいた陽菜乃も背後から情けない男の声がすると見捨てるわけにはいかず、中間部で足を止めて少し苛立ちながら振り返る。
響は先程と同じように遅れて陽菜乃に追いついき、せっかくの綺麗な顔を苦痛に歪めながら大袈裟と感じれるほど肩で呼吸して汗を流していた。
「もうさ…おじさんは若い子に追いつけないのよ…」
「おじさんて…響くん私とあんまり変わんないでしょ」
「いやいや、こんなに走るの高校の体育以来だし…一昨日のジョギングの筋肉痛引きずってるし…」
走りたいが響を置いていくわけにいかない陽菜乃はどうしていいのか分からず困り果て両眉を下げる。
だらしなく自分の体を労わるように腕などを撫でていた響はその様子にはっと気づくと姿勢を正して咄嗟に頭を下げた。
いきなり目の前で頭をさげられた陽菜乃は驚きながらも響の次の言動をまった。
「申し訳ありません、陽菜乃お嬢様。私の自分勝手な振舞いで、陽菜乃お嬢様の気分を害してしまいました」
「ひ、響くん…?いきなりどうしたの?」
「お嬢様の執事としてあるまじき言動でした。申し訳ありません」
先程のフランクな口調と態度とは一変して初めてあった時と同じような執事らしい丁寧な対応に驚きと違和感を感じ陽菜乃はさらに困惑する。
「やめてよその感じ、好きじゃないって言ったでしょ?」
「ですが、本来お嬢様に対してはこのように接するのが妥当かと」
「さっきまで出来てたじゃない。わかったわ。今日はあなたに合わせてそんなに走らないからそういう喋り方はよして」
自分の事をお嬢様として扱われるのが嫌いな陽菜乃は響にそう懇願すると響は顔色を伺うように頭をあげる。
陽菜乃も同じように響の顔を見上げ様子を伺うのでしばらく2人はお互いの気持ちを探るように見つめあうという変な時間が流れた。
「ごめん。俺、毎日ヒナちゃんに追いつけるように体力付けるね」
「いや、私も気をつけるね…」
そしてお互いに小さく頭を下げてこの事案は解決た。
それから陽菜乃はまだ少し気を使いながらもジョギングを続けようと背を向けて足を動かし始めた。
5分ほど上り坂を走って登りきると緩やかな下り坂になり先程よりも軽やかに走る事ができた。
それもあってか弱音ばかり吐いていた響も何も言わずに少しの間隔はあるものの先程よりも着いてこれている。
下り坂が終わり再び平坦な道になり、交差点の白い塀を左折すると家の周りを一周したことになった。
自宅の外観が見えてくるとどことなく安堵の表情を浮べる響だったが陽菜乃はそれに気づかずに自宅の目の前を通り過ぎもう一周目に入った。
「まだ走るの?」
「うん。でも私1人で帰って来れるから響くんはもう戻ってもいいよ」
気を使ってそう言う陽菜乃の提案に乗ろうとした響だったが自分を律するように頭を小さく横に振ってついて行きますと真剣に頷き意思表示をすると一度止めそうになった足を再度動かす。
「あんまり無理しないでね?」
「ヒナちゃんこそ、無理しないでね」
しんどそうな響にそう言う陽菜乃に響は悟られないように爽やかな笑顔をうかべて答える。
自宅前の明かりでぼんやりとだが見えた響の不意にみせた笑顔に見とれてしまった。
「でもなんでわざわざ外を走るの?ルームランナーがあるのに」
無理をしてるのか慣れたのか車道側で陽菜乃の横を並走する響がしんどそうな息を混じえつつ問いかける。
「んー、家の奴は弟達が使うからね。それに外の方が室内で黙々とするよりも刺激あるしねー」
「そう?暗いし虫いるし嫌なこといっぱいじゃん」
「そんなのもう慣れた」
「へー、ヒナちゃんは強いんだね」
そんな受け答えをしてまたしばらく沈黙が流れ、お互いに黙々とひたすらに目的地につくまで足を動かす。
「後どのくらい走るつもり?」
10分ほど走るとさっきと同じ上り坂をお互いに重い足取りで登っていた時に置いていかれないように必死な響が問いかける。
「今日はこれで最後。次に家に着いたら終わり」
「なら、頑張んなきゃだ」
もう少し走りたかった陽菜乃だがいちいち響に小言を言われるのがめんどくさくなり、もう終わると口約束をして上り坂を登り終わり緩やかな下り坂を走る。
緩やかな下り坂といえど考えて走らなければ足に変に負担をかけたり滑り落ちて怪我をする、なんてことちゃんと考えなくても分かるはずなのだがその時の陽菜乃はどうしてだかなんにも考えずに足の動くままに走っていた。
「うわぁっ!?」
暗闇の中、目の前には気をつけていたが足元に十分な注意を払っていなかった陽菜乃は足元に何か光る黒いものがあるのに気が付かなかった。
蹴飛ばされそうと感じたのかその黒いものは陽菜乃から逃れるようにサッと消えたので野良猫か何かだったのだろうと想像出来た。
野良猫は逃げていったが咄嗟に避けようとした陽菜乃は下り坂の傾斜もありバランスを崩しそのままその場でずっこける。
「えぇ!!ヒナちゃん!?大丈夫!?」
自分の目の前を走っていたはずの陽菜乃の背中が地面に倒れ込むのを目の当たりにした響は驚きの表情を浮かべて地面にくずれおちた陽菜乃に駆け寄り状況を確認するべくしゃがみこんで上半身を抱き上げる。
意外と近い顔に驚き思わず逸らした陽菜乃にお構いなく響は抱き上げた体を注視する。
「びっくりした…野良猫?」
「いや、それどころじゃないよ!!どっか痛いところない!?」
「そんな大袈裟な…」
抱き起こされた陽菜乃は転けた恥ずかしさを隠すように黒いものが消えていった方に目をやって笑うが、響はそんな転んだ原因よりも大事な社長令嬢に自分が付いていながらも怪我をさせてしまったのではないかという方が気になるようだった。
「足首捻ったりしてない?膝とか、手とか擦りむいてない?」
「大丈夫、心配しすぎ。私そんなにヤワじゃない」
無駄に真剣な顔の響に苦笑いを浮かべる陽菜乃は地面についた手を払って何も無かったかの様に立ち上がる。
不安そうな響も立ち上がり手を掴んで手のひらをみたりと陽菜乃の全身をくまなく確認する。
「もぉ、大丈夫ってば…」
掴まれた手を鬱陶しそうに振り払う陽菜乃は不安そうな響を置いてそそくさと歩き出す。
しかし陽菜乃自身自分でどこを怪我しているのか把握しきれておらず、歩きながら違和感のあるところには目をやって確認するが、見てわかるほどの怪我はしていなかった。
「嘘だ。歩き方が違うよ」
また背後からの響の声で足を止める。
確かにその時右足首に変な違和感を感じた陽菜乃だが、そんな事ないと相手にしなかった。
「そんな事ある!!さっきはそんなに右足を庇うような歩き方してなかった」
「そんなの響くんには分からないでしょ?」
「わかるよ。俺ずっと後ろからヒナちゃん見てたんだから」
その発言には気持ち悪さを感じた陽菜乃だが発言にそぐわないほどの真剣な表情の響から視線を外すことが出来なかった。
「…だとしてもそんなに痛くないし、大したことないから大丈夫…」
「ダメだよ、ほっておくともっと悪くなるって。お願い見せて」
響はそう言ってトレーニングウェアから細いスポーツタオルを取り出しながらその場にしゃがみこんで陽菜乃を安心させるように微笑む。
悪くなるという単語に怖気付いた陽菜乃は降参したように右足のクッション性の高い青色の靴を脱いでしゃがんだ響の膝の上に控えめに乗せる。
「あ、ふらつくなら肩に手乗せていいからね」
「そんなに体幹弱くないっての…っ」
どこが痛むのかと触診していた響の指が足首の内側に力を入れた時に鈍い痛みをかんじて陽菜乃は反射的にその手から逃れるように足をふるわせて顔を歪ませた。
ごめんね、痛いねと言いながら響はタオルを折りたたんで包帯のように細くすると慣れた手つきで足首を固定させる。
「靭帯かな、捻挫したのかもね。応急処置で足固めとくけど家に帰ったら金永さんに診てもらお」
足首の前で少しも動かない様にきつく固結びをすると靴を吐けないほどタオルでこんもりとした右足が完成した。
「響くん、なんか手際がいいね」
「まぁ、これでも執事だから」
冗談ぽく笑う響にありがとうと、つられて微笑み感謝する陽菜乃だったが靴をはこうとするが当たり前に足首が収まらずに思わず困惑する。
その様子に響は苦笑いをするとタオルがつっかえて足が入らない陽菜乃の青い靴を脱がして片手に持ち、両ももと脇の下から背中に手を回して抱きかかえる。
「わっ!?な、なに!?」
いきなり地面から体が切り離されて響の体に陽菜乃の全体重がのしかかる。
陽菜乃は驚きのあまり降りようと暴れることもせずに自分を抱きあげてそのまま歩き出す響の顔を凝視していた。
「もう少しで家だからそれまで我慢してね」
「やだっ、ちょっと、下ろしてよ!!」
「ダメだよ安静にしないと」
「こんなっ…恥ずかしいから下ろしてよ!!」
「でも、女の子に股を開かせるわけには行かないでしょ?」
響の腕にだかれている陽菜乃はそこまで言われると、誰にも見られてないしと諦観する自分と誰かに助けられている自分に対して情けなく感じて大人しく響に体を預けた。
「重くない?…私…」
響が歩く度に大きく揺れる自分の体を手から落ちないよう支えるために響のトレーニングウェアの胸元を控えめに掴む陽菜乃は恥ずかしそうに問いかける。
「重くない…って言ったら嘘になるかな…?」
「やだ、ごめん…」
「あはは、うそうそ。男だからこれくらい何ともないよ」
そう言っておかしく笑う響に陽菜乃は内心苛立ったがその屈託ない笑顔にどこか安心する。
ずっと見ていた顔から視線を外して進行方向に目を向けると自宅に近い交差点の白い壁が見える。
「足、何ともないといいね」
「大丈夫、ここまでしてくれたんだからきっと大したことないよ」
「ごめんね…俺がついていながら…ヒナちゃんに怪我なんてさせて…」
「…響くんのせいじゃないよ、私が勝手に転けただけ。それに、ちゃんと固定までしてくれて…感謝してる」
さっきまでの笑顔とは一変して紫之宮家に近づくにつれて執事長の金永さんに怒られるのではないかも不安そうな顔をうかべる響を安心させるように微笑んで再度感謝を伝えると、少し照れたように響は微笑んだ。
そのまましばらく進んでいき自宅に帰りつく頃には、締め付けられすぎて感覚を失ったのか足の痛みはほとんど感じなくなっていた。
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※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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