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第1章 ディンブラ・ティー
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「あのピアノはどなたかが弾かれるんですの?」
先程の行為でぐったりとして食欲も戦意も失ってしまった橙子の分のチーズケーキをもらった智瑛莉が入部当初からずっと気になっていた部屋の奥に置いてある黒いグランドピアノに目を向けて真美子に問いかける。
「あれは、紫之宮さんが学校に寄付してくださったものですわ。基本弾きたい人が弾きたい時に弾くのですが…紫之宮さんが弾くことが多いですわね」
はめ殺しの窓の手前に置いてあるグランドピアノは最後に使ったのは誰でいつだったかとぼんやりとした記憶をなぞる真美子は智瑛莉に答える。
屋根のしまった光沢のある黒いグランドピアノは最近ではインテリアのように佇んでいる。
「へぇ、陽菜乃さんピアノお弾きになるんですのね」
「まぁね。意外がられる」
「意外だけど、この人の腕は確かよ」
「あっ、そう言えば去年のコンクール最優秀賞貰ってましたわよね?」
「そうだけど…偶然よ、たまたま」
智瑛莉の発言から紅音と蒼も陽菜乃のピアノについて語る。
褒められて少し照れたように笑う陽菜乃はうれしそうにする。
ティーセットをトレーに乗せてあと片付けを始めだした真美子もその様子を見て微笑ましく思う。
「智瑛莉さんも、弾きたくなったら使ってもいいのよ?」
「ええっ!?陽菜乃さんの大切なピアノなんて恐れ多いですわ」
「いやいや、そこまですごくないわよ私」
真美子の提案に両手を振って拒否する智瑛莉をクスクス笑う陽菜乃は褒められて上機嫌になったようで鼻歌交じりに立ち上がると、話題になっているグランドピアノの元に歩み寄ると重そうな屋根を両手で上げて棒で支えて開く。
使っていなかったのに埃のひとつもない鍵盤蓋を開き黒革の高低自在の椅子に腰掛ける。
「あら、何弾いてくださるの?」
「んー、どしよっかなぁ…。しかも調律してないから、どうだろなぁ…」
陽菜乃の細くて長い指が試しに鍵盤を軽く押すと重く厚い音が響く。
指の準備運動と言うように軽く鍵盤を叩く陽菜乃にカチャカチャとティーセットを片していた真美子も動きを止めて静かにピアノの方に目をやる。
「ちょ、ちょっと、そんなにみんな気にしなくていいのよ?いつも通りにしててよ」
「そういう訳にはいきませんわ!!コンクールで最優秀に選ばれるほどのお方の演奏なんて滅多に聞けるものじゃありませんわ」
「やめてよそんな…最近は全然触ってないのよ」
部員みんなの視線を集めて少し照れる陽菜乃のピアノに興味津々な智瑛莉に照れたように微笑みかける陽菜乃はふうっと目をつぶり息を吐くとゆっくりと体を揺らして演奏を始めた。
テンポの遅い楽曲で、甘さの中にほんのり切なさの混じった一つ一つの和音と音色が優しく響く。
普段ガサツな陽菜乃と同一人物とは思えないほど丁寧で細やかな演奏が繊細なこの楽曲をよりよく表現している。
短調で暗い印象のこの曲も外から聞こえてくる雨音と見事に相俟ってさらに魅力的に演出されていく。
終わりに近づくにつれて小さくなっていく音の余韻を残すために踏んでいたペダルの足を退けると、数分間に及ぶ陽菜乃の演奏が終わった。
普段とは違う涼しい顔で演奏していた陽菜乃も演奏が終わると部員にどう?目をやって形式程度の挨拶をすると拍手を贈られる。
「ショパンの雨だれなんて…素敵な選曲ですわ」
「パッと思いついたのがそれしかなくて…うろ覚えだったんだけどどうだった?」
「とても素敵な演奏でしたわ」
「えぇ、翠璃ちゃんなんてあまりの心地良さに眠ってしまいましたわ」
部員がそれぞれ陽菜乃に感想を送ると蒼も笑顔で隣で肘置きに手と頭を置いて枕のようにして安らかな寝顔を見せる翠璃を手で指した。
部員みんなの視線を集めているのに気づきもせずに安心しきった子供のように眠っている翠璃は静かに寝息を立てている。
「よほど陽菜乃さんの演奏が素敵だったんですのね」
「いやいや、蒼のやつが効いてきたんじゃない?」
んー?と陽菜乃の発言に笑顔で首を傾げる蒼はジュンを抱きしめて左隣で大人しくしていた橙子に目を向ける。
橙子は目を向けられるとビクッと反応して目を泳がせた。
「智瑛莉さんもお弾きになられたら?」
陽菜乃の演奏に感動したようでずっとピアノの方を見ていた智瑛莉に気づいた真美子は声をかける。
えっ、と突然の提案に驚く智瑛莉にピアノの椅子に座っていた陽菜乃はもうひとり座れるように椅子に空きを作りおいでと手招きをする。
戸惑った智瑛莉は困ったように紅音に目をやると、行ってきなさいよと紅音に目で言われ少し嬉しそうにテトテト歩き陽菜乃の隣に座った。
「智瑛莉ちゃんはどのくらいピアノしてるの?」
「陽菜乃さんほどではありませんが、小学生の頃に少しだけ」
陽菜乃の隣で嬉しそうにニコニコと笑いながら同じように指慣らしで軽く鍵盤を叩く。
智瑛莉の指が鍵盤を叩く度に少し伸びたジェルネイルがカツカツと音を立てる。
「智瑛莉ちゃんは何の曲が好き?」
「んー、…そうですね…」
何を弾こうか首を傾げながら考えて鍵盤の指の位置を確認するとゆっくりと演奏を始めた。
指慣らしのために軽く弾いた明るいものとは違い、重く響く低音から始まるローテンポの曲の切なさが雨の部室にひしひしと伝わった。
ジェルネイルを施した綺麗な指が鍵盤を軽やかに叩く度に奏でられる低音のメロディーを聴きながら智瑛莉は自分の下唇を噛み締める。
隣の陽菜乃はその様子に驚きながらも智瑛莉の演奏に小さく体を揺らしながら耳を傾ける。
6分程の曲なのだが智瑛莉は途中で手を止めて、無理やりに演奏を終わらせた。
不自然に終わった演奏に部員一同が不思議に思い首を傾げた。
「どうかしたの…?」
「この曲…若くして才能に恵まれたベートーヴェンが日に日に酷くなる難聴に怯え、いつか完全に聞こえなくなる日が来るのではないかと悲しみに嘆き苦しんでいた時に作ったものです…」
止めた手を膝の上に乗せて顔を伏せる智瑛莉がボソボソと今弾いていたベートーヴェン『悲愴』についてを語り出す。
陽菜乃と並んでピアノを弾いていた先程までの微笑ましい雰囲気とは一変して重苦しい雰囲気に困惑する。
「何気なく弾いていたこの曲にこんな話があったと知ったのはイギリスに渡った後でした」
「わぁ…悲しい話…」
眉を下げて切ない表情を浮かべる蒼はそう漏らしてキュッとジュンを抱きしめる。
「その話を聞いた時、聴覚を失うのに怯えていたベートーヴェンが紅音お姉様を失いそうになっていく私の事に思えて…それからは、どうしても紅音お姉様のことを思い出して寂しい時この曲を弾いていたんですが…。その時の辛さを思い出してしまって…すみません…」
熱くなった目頭を指の関節で抑える智瑛莉の背中を慰めるように陽菜乃は撫でる。
突然話の中に放り込まれた紅音は何事だとため息とともに顔を両手で覆う。
「運命的に出会って…でも少し離れただけなのに、もうこのまま一生逢えないんじゃないかとか…つい考えてしまって…。でも、今こうしてまた巡り会えて…改めて喜びを噛み締めていますの…」
自分の手を胸の前で強く握りしめながら嬉しそうに破顔させる智瑛莉は陽菜乃の隣から紅音の元にすぐさま飛んで行って抱きしめる。
強い力で抱きしめられる紅音はぐぇっ、と苦しそうに顔を歪めるが抵抗することもせず大人しくされるがままになる。
「もう逢えないんだと思っていた方が…今ではこんな近くにいて…こうして肌と肌を重ねることも出来るんですのよ…」
「もうっ、わかったわよ…。はいはい、私が好きなのよね」
「えぇ、とても大好きです。…いや、大好きなんて言葉ではこの気持ちを表現するのに足りませんわ…」
幸せオーラ全開の智瑛莉がむぎゅうと抱きしめる紅音のかおに頬を擦り寄せる。
苦しそうにする紅音だがなんだかんだ言っても智瑛莉のことが可愛いらしく無理に引き剥がそうとせずに気の済むまで好きにさせている。
「…なら、もう貴方があの曲は弾くことはないわね」
紅音の唐突の発言に智瑛莉は疑問符を浮かべて首を傾げた。
背後では陽菜乃がゆっくりと音を立てずにグランドピアノの後始末をしている。
「お姉様…?それってどういう?」
「しばらくは私がいるんだから、寂しい思いなんてしないでしょう?」
真っ直ぐに自分を見つめる智瑛莉から顔を背けて恥ずかしそうにぶっきらぼうな口調でそう言うと智瑛莉の反応を気にした。
初めは意味がわからずぽかんとしていた智瑛莉だが意味が分かれば徐々に嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「お姉様、それは愛の告白と受け取ってもいいのでしょうか?それならば答えはYESです!!」
「ちょっと、待ちなさい。早まらないでっ!!」
「蒼さん、私達結ばれましたわ!!これであのゲームはクリアですわよね!?」
「馬鹿言わないでよ、私はまだ受け入れてないわよ!!」
さらにわちゃわちゃしだす紅音と智瑛莉を笑顔で見つめる蒼は悪ノリしたようで、結ばれたなら永遠を誓うキスをしないとー、と困り果てる紅音に意地悪く言う。
「ですってお姉様ぁ」
「なら、この話はなしね」
紅音の両頬を掴んでキスをせがむ智瑛莉から全力で顔を背けて唇を死守している紅音は智瑛莉の顔面を手で抑えて避ける。
「ひ、ひどい…お姉様ったら…照れてらっしゃるのよね?」
「はいはい、もうこの話は終わり。私もう帰る」
「お姉様ぁ!?」
紅音は智瑛莉の腕を振り払うと逃げるように立ち上がって、帰り支度をする。
その様子を見ていた真美子達も時計を確認するとそろそろいい時間であることに気づく。
「でもそうね、いい時間だからそろそろお開きね」
「蒼さん、翠璃さんを起こして差しあげて」
銀トレーを給湯室に運ぶ真美子が未だにすやすやと寝息を立てる翠璃に目をやり蒼に頼む。
蒼は翠璃の肩を優しく揺らすと、翠璃の閉じられていた目はゆっくりと開いて焦点がっあってなくてぽんやりしていた。
橙子も大人しく帰り支度をしはじめて自分の鞄だけでなく他の2年生の鞄を2人に渡す。
自分の気持ちとキスを拒まれて落ち込んでいる智瑛莉はグスグスしながらも帰り支度をした後に紅音に何度も猛アタックを繰り返している。
「どうしても私とじゃして下さりませんの?」
「…馬鹿ね、もっと自分を大切になさいって言ってるのよ」
「やっぱりお姉様は私の事お考えになってくださっているのですねっ!!」
「あーもーぅ!!いちいち引っ付かないでよ!!」
嫌がりながらも紅音は智瑛莉に引っ付かれたまま挨拶も忘れて部室から出て行った。
「それじゃあ、私達も帰りまーす。ご機嫌麗しゅう」
蒼が陽菜乃と真美子に笑顔で挨拶をすると、まだ眠そうに目を擦り包み隠さずに欠伸をする翠璃と先程の事で借りてきた猫のように大人しくなった橙子の手を引いて出て行った。
先程の行為でぐったりとして食欲も戦意も失ってしまった橙子の分のチーズケーキをもらった智瑛莉が入部当初からずっと気になっていた部屋の奥に置いてある黒いグランドピアノに目を向けて真美子に問いかける。
「あれは、紫之宮さんが学校に寄付してくださったものですわ。基本弾きたい人が弾きたい時に弾くのですが…紫之宮さんが弾くことが多いですわね」
はめ殺しの窓の手前に置いてあるグランドピアノは最後に使ったのは誰でいつだったかとぼんやりとした記憶をなぞる真美子は智瑛莉に答える。
屋根のしまった光沢のある黒いグランドピアノは最近ではインテリアのように佇んでいる。
「へぇ、陽菜乃さんピアノお弾きになるんですのね」
「まぁね。意外がられる」
「意外だけど、この人の腕は確かよ」
「あっ、そう言えば去年のコンクール最優秀賞貰ってましたわよね?」
「そうだけど…偶然よ、たまたま」
智瑛莉の発言から紅音と蒼も陽菜乃のピアノについて語る。
褒められて少し照れたように笑う陽菜乃はうれしそうにする。
ティーセットをトレーに乗せてあと片付けを始めだした真美子もその様子を見て微笑ましく思う。
「智瑛莉さんも、弾きたくなったら使ってもいいのよ?」
「ええっ!?陽菜乃さんの大切なピアノなんて恐れ多いですわ」
「いやいや、そこまですごくないわよ私」
真美子の提案に両手を振って拒否する智瑛莉をクスクス笑う陽菜乃は褒められて上機嫌になったようで鼻歌交じりに立ち上がると、話題になっているグランドピアノの元に歩み寄ると重そうな屋根を両手で上げて棒で支えて開く。
使っていなかったのに埃のひとつもない鍵盤蓋を開き黒革の高低自在の椅子に腰掛ける。
「あら、何弾いてくださるの?」
「んー、どしよっかなぁ…。しかも調律してないから、どうだろなぁ…」
陽菜乃の細くて長い指が試しに鍵盤を軽く押すと重く厚い音が響く。
指の準備運動と言うように軽く鍵盤を叩く陽菜乃にカチャカチャとティーセットを片していた真美子も動きを止めて静かにピアノの方に目をやる。
「ちょ、ちょっと、そんなにみんな気にしなくていいのよ?いつも通りにしててよ」
「そういう訳にはいきませんわ!!コンクールで最優秀に選ばれるほどのお方の演奏なんて滅多に聞けるものじゃありませんわ」
「やめてよそんな…最近は全然触ってないのよ」
部員みんなの視線を集めて少し照れる陽菜乃のピアノに興味津々な智瑛莉に照れたように微笑みかける陽菜乃はふうっと目をつぶり息を吐くとゆっくりと体を揺らして演奏を始めた。
テンポの遅い楽曲で、甘さの中にほんのり切なさの混じった一つ一つの和音と音色が優しく響く。
普段ガサツな陽菜乃と同一人物とは思えないほど丁寧で細やかな演奏が繊細なこの楽曲をよりよく表現している。
短調で暗い印象のこの曲も外から聞こえてくる雨音と見事に相俟ってさらに魅力的に演出されていく。
終わりに近づくにつれて小さくなっていく音の余韻を残すために踏んでいたペダルの足を退けると、数分間に及ぶ陽菜乃の演奏が終わった。
普段とは違う涼しい顔で演奏していた陽菜乃も演奏が終わると部員にどう?目をやって形式程度の挨拶をすると拍手を贈られる。
「ショパンの雨だれなんて…素敵な選曲ですわ」
「パッと思いついたのがそれしかなくて…うろ覚えだったんだけどどうだった?」
「とても素敵な演奏でしたわ」
「えぇ、翠璃ちゃんなんてあまりの心地良さに眠ってしまいましたわ」
部員がそれぞれ陽菜乃に感想を送ると蒼も笑顔で隣で肘置きに手と頭を置いて枕のようにして安らかな寝顔を見せる翠璃を手で指した。
部員みんなの視線を集めているのに気づきもせずに安心しきった子供のように眠っている翠璃は静かに寝息を立てている。
「よほど陽菜乃さんの演奏が素敵だったんですのね」
「いやいや、蒼のやつが効いてきたんじゃない?」
んー?と陽菜乃の発言に笑顔で首を傾げる蒼はジュンを抱きしめて左隣で大人しくしていた橙子に目を向ける。
橙子は目を向けられるとビクッと反応して目を泳がせた。
「智瑛莉さんもお弾きになられたら?」
陽菜乃の演奏に感動したようでずっとピアノの方を見ていた智瑛莉に気づいた真美子は声をかける。
えっ、と突然の提案に驚く智瑛莉にピアノの椅子に座っていた陽菜乃はもうひとり座れるように椅子に空きを作りおいでと手招きをする。
戸惑った智瑛莉は困ったように紅音に目をやると、行ってきなさいよと紅音に目で言われ少し嬉しそうにテトテト歩き陽菜乃の隣に座った。
「智瑛莉ちゃんはどのくらいピアノしてるの?」
「陽菜乃さんほどではありませんが、小学生の頃に少しだけ」
陽菜乃の隣で嬉しそうにニコニコと笑いながら同じように指慣らしで軽く鍵盤を叩く。
智瑛莉の指が鍵盤を叩く度に少し伸びたジェルネイルがカツカツと音を立てる。
「智瑛莉ちゃんは何の曲が好き?」
「んー、…そうですね…」
何を弾こうか首を傾げながら考えて鍵盤の指の位置を確認するとゆっくりと演奏を始めた。
指慣らしのために軽く弾いた明るいものとは違い、重く響く低音から始まるローテンポの曲の切なさが雨の部室にひしひしと伝わった。
ジェルネイルを施した綺麗な指が鍵盤を軽やかに叩く度に奏でられる低音のメロディーを聴きながら智瑛莉は自分の下唇を噛み締める。
隣の陽菜乃はその様子に驚きながらも智瑛莉の演奏に小さく体を揺らしながら耳を傾ける。
6分程の曲なのだが智瑛莉は途中で手を止めて、無理やりに演奏を終わらせた。
不自然に終わった演奏に部員一同が不思議に思い首を傾げた。
「どうかしたの…?」
「この曲…若くして才能に恵まれたベートーヴェンが日に日に酷くなる難聴に怯え、いつか完全に聞こえなくなる日が来るのではないかと悲しみに嘆き苦しんでいた時に作ったものです…」
止めた手を膝の上に乗せて顔を伏せる智瑛莉がボソボソと今弾いていたベートーヴェン『悲愴』についてを語り出す。
陽菜乃と並んでピアノを弾いていた先程までの微笑ましい雰囲気とは一変して重苦しい雰囲気に困惑する。
「何気なく弾いていたこの曲にこんな話があったと知ったのはイギリスに渡った後でした」
「わぁ…悲しい話…」
眉を下げて切ない表情を浮かべる蒼はそう漏らしてキュッとジュンを抱きしめる。
「その話を聞いた時、聴覚を失うのに怯えていたベートーヴェンが紅音お姉様を失いそうになっていく私の事に思えて…それからは、どうしても紅音お姉様のことを思い出して寂しい時この曲を弾いていたんですが…。その時の辛さを思い出してしまって…すみません…」
熱くなった目頭を指の関節で抑える智瑛莉の背中を慰めるように陽菜乃は撫でる。
突然話の中に放り込まれた紅音は何事だとため息とともに顔を両手で覆う。
「運命的に出会って…でも少し離れただけなのに、もうこのまま一生逢えないんじゃないかとか…つい考えてしまって…。でも、今こうしてまた巡り会えて…改めて喜びを噛み締めていますの…」
自分の手を胸の前で強く握りしめながら嬉しそうに破顔させる智瑛莉は陽菜乃の隣から紅音の元にすぐさま飛んで行って抱きしめる。
強い力で抱きしめられる紅音はぐぇっ、と苦しそうに顔を歪めるが抵抗することもせず大人しくされるがままになる。
「もう逢えないんだと思っていた方が…今ではこんな近くにいて…こうして肌と肌を重ねることも出来るんですのよ…」
「もうっ、わかったわよ…。はいはい、私が好きなのよね」
「えぇ、とても大好きです。…いや、大好きなんて言葉ではこの気持ちを表現するのに足りませんわ…」
幸せオーラ全開の智瑛莉がむぎゅうと抱きしめる紅音のかおに頬を擦り寄せる。
苦しそうにする紅音だがなんだかんだ言っても智瑛莉のことが可愛いらしく無理に引き剥がそうとせずに気の済むまで好きにさせている。
「…なら、もう貴方があの曲は弾くことはないわね」
紅音の唐突の発言に智瑛莉は疑問符を浮かべて首を傾げた。
背後では陽菜乃がゆっくりと音を立てずにグランドピアノの後始末をしている。
「お姉様…?それってどういう?」
「しばらくは私がいるんだから、寂しい思いなんてしないでしょう?」
真っ直ぐに自分を見つめる智瑛莉から顔を背けて恥ずかしそうにぶっきらぼうな口調でそう言うと智瑛莉の反応を気にした。
初めは意味がわからずぽかんとしていた智瑛莉だが意味が分かれば徐々に嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「お姉様、それは愛の告白と受け取ってもいいのでしょうか?それならば答えはYESです!!」
「ちょっと、待ちなさい。早まらないでっ!!」
「蒼さん、私達結ばれましたわ!!これであのゲームはクリアですわよね!?」
「馬鹿言わないでよ、私はまだ受け入れてないわよ!!」
さらにわちゃわちゃしだす紅音と智瑛莉を笑顔で見つめる蒼は悪ノリしたようで、結ばれたなら永遠を誓うキスをしないとー、と困り果てる紅音に意地悪く言う。
「ですってお姉様ぁ」
「なら、この話はなしね」
紅音の両頬を掴んでキスをせがむ智瑛莉から全力で顔を背けて唇を死守している紅音は智瑛莉の顔面を手で抑えて避ける。
「ひ、ひどい…お姉様ったら…照れてらっしゃるのよね?」
「はいはい、もうこの話は終わり。私もう帰る」
「お姉様ぁ!?」
紅音は智瑛莉の腕を振り払うと逃げるように立ち上がって、帰り支度をする。
その様子を見ていた真美子達も時計を確認するとそろそろいい時間であることに気づく。
「でもそうね、いい時間だからそろそろお開きね」
「蒼さん、翠璃さんを起こして差しあげて」
銀トレーを給湯室に運ぶ真美子が未だにすやすやと寝息を立てる翠璃に目をやり蒼に頼む。
蒼は翠璃の肩を優しく揺らすと、翠璃の閉じられていた目はゆっくりと開いて焦点がっあってなくてぽんやりしていた。
橙子も大人しく帰り支度をしはじめて自分の鞄だけでなく他の2年生の鞄を2人に渡す。
自分の気持ちとキスを拒まれて落ち込んでいる智瑛莉はグスグスしながらも帰り支度をした後に紅音に何度も猛アタックを繰り返している。
「どうしても私とじゃして下さりませんの?」
「…馬鹿ね、もっと自分を大切になさいって言ってるのよ」
「やっぱりお姉様は私の事お考えになってくださっているのですねっ!!」
「あーもーぅ!!いちいち引っ付かないでよ!!」
嫌がりながらも紅音は智瑛莉に引っ付かれたまま挨拶も忘れて部室から出て行った。
「それじゃあ、私達も帰りまーす。ご機嫌麗しゅう」
蒼が陽菜乃と真美子に笑顔で挨拶をすると、まだ眠そうに目を擦り包み隠さずに欠伸をする翠璃と先程の事で借りてきた猫のように大人しくなった橙子の手を引いて出て行った。
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