午後の紅茶にくちづけを

TomonorI

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第1章 ディンブラ・ティー

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白樺真美子しらかばまみこは放課後、空き教室に向かっていた。
ヨーロッパの貴族の御屋敷をも連想させるような豪勢な石造建築の校舎の中、汚れやゴミのひとつない、真っ赤なカーペットの廊下を歩いていた。
清楚感と高貴さを表すような真っ白なセーラーワンピース裾は、真美子が静かに歩く度に音もなく小さく揺れていた。右手に海外から取り寄せた紅茶の茶葉の入った紙袋を持って、みんながどんな顔をするのかを楽しみにしていた。
 放課後に家からの送迎を待つ女子生徒たちが、廊下を歩く真美子の姿を見つけると、すぐに私語を辞めた後に一斉に顔を真美子に向けた。そして、美しく輝く物珍しい宝石を見るような恍惚の表情で、真美子の美しさに見とれていた。真美子は数人の女子生徒達が自分に見つめているのに気づくと、口角を少しあげて微笑み応えた。その行為にまた女子生徒たちは息を飲み、中には小さな悲鳴をあげる者もいた。

「真美子様っ、今日もお美しいですわっ…」
「真美子さまっ!私達もお紅茶ご一緒したいですわ!!」

 真美子は女子生徒をそんなことにまでしてしまう自分の美貌に、逆に恐怖を覚えた。

「ごきげんよう、皆様。でも、残念。私もう行かなくてはなりませんの…」

 自分を慕っている後輩の女子生徒にかけられた言葉に、真美子は、お気をつけてお帰りください、と挨拶を交わして、本来の目的地である空き教室にむかった。通り過ぎていく女子生徒たちに、微笑みとともに同じ挨拶を繰り返すと、廊下の突き当たりの空き教室にたどり着いた。そしてベルギーチョコのような重厚感のある木製のドアを開けた。

「あら、真美子さん。ごきげんよう」
「真美子さん、少し遅刻ですわよ」

 空き教室──真美子の所属する午後の紅茶部の活動する部屋では、既に集まっていた少女が各々好きなことをしていた。1人は部屋の真ん中に位置する、真っ白なクロスをかけられているテーブルの上で、白や紫色のテーブルフラワーを整えている子。その正面、ロココ調の赤いベルベット生地の3人掛けカウチソファで、読書をしている子。外のバルコニーに出て何かをしていて、真美子が来たことにすら気づいていない子もいた。

「あら、それは申し訳ございません。お紅茶持ってきたから許してくれませんでしょうか?」

 部屋の中の蓄音機からのクラシック音楽と、少女達の言葉を聞き流しながら真美子は手に持っていた紅茶入りの紙袋を見せる。そして壁に付属している食器棚の近くで一人で準備を始める。

「お湯、先に沸かしといたよ」
「ありがとうございます。相変わらず気がききますのね、紫之宮さん」

 食器棚のすぐ近くにある子供が1人2人座れるくらいのキッチンワゴンに、既にお湯の入ったポットが言葉通り紫之宮陽菜乃しのみやひなのによって準備されていた。真美子はその陽菜乃の愛らしい大きなタレ目を見つめて微笑み礼を言った。そしてワゴンの引き出しからティースプーンを一つ手に取り、紙袋を開いて黒みのある茶褐色の茶葉を掬って人数分をティーポットに落とした。落ちていった小さな茶葉から、ほのかな香りが狭いティーポットから逃げるようにふわりと広がった。

「まぁ、いい香り」
「そうでしょう?」

 匂いを嗅いだ陽菜乃がそう微笑むと、ウェーブのかかった茶色のミディアムヘアが揺れる。ポットに陽菜乃がゆっくりとお湯を注ぎ込み蓋を閉めた。ティーコジーを上からかぶせ茶葉を蒸す時間に入った。

「あと2分くらいかな」
「まぁ、陽菜乃さんのその時計可愛らしいですわね」

 陽菜乃が時間を計ろうと左手を目の前に出すと、手首にしていた腕時計が姿を見せた。すると、先程までテーブルフラワーの手入れをしていた久我山橙子くがやまとうこがオレンジ色のリボンを右側に付けた自分の長い巻き髪を手で払うと陽菜乃の左側にくっついて、腕時計に目をやった。不揃いな大きさの数字が記されてる白い文字盤の周りには小さなダイヤがあしらわれヴィンテージワインのような深みのある色の細いベルトの腕時計は、今までの陽菜乃の趣味とは異なっているなと、真美子も興味が湧いた。

「そう?私はあんまり好きじゃないんだけど、父さんが持っとけってうるさくて…」

 橙子と真美子に見つめられた陽菜乃は、少し照れた様子で恥ずかしそうに時計について話し出した。すると、その話に興味を持ったもう1人の少女がこちらに来て会話に加わった。

「あら、これってD.innocentの限定ものでしょ?私も欲しかったのだけれど、最近パーティドレスを新調したばっかりで買えませんでしたのよ」

 艶やかな黒髪を二つに分けて結っている高身長の早乙女翠璃さおとめみどりが、少し羨ましそうに陽菜乃の時計を見つめていた。

「またパーティードレス?あなたの飽き性には、日本経済も大喜びね」
「うるさいわねブス。あなたと違って美しい私はパーティーにお呼ばれするのよ?綺麗に着飾るのは当然じゃないこのブス」
「ブスって、何よ!私ブスじゃないわよ!」
「ほら、その顔ほんとにブスよ?鏡を見たことがあって?ブス子さぁん?」
「あら、翠璃さんもしかして私のこの美貌を僻んでいらっしゃるのかしらぁ?女の嫉妬なんて醜いものよ?」
「僻んでなんかないわよブス!」
「はいはい、もう終わり終わり」

 橙子の発言が火種となり、お互い笑顔でバチバチと火花を散らし言い合うので、陽菜乃は間に割って止める。翠璃は腕を組んでふんっと鼻を鳴らして、先程座っていたソファに戻っていった。橙子も同じく翠璃からふいっと顔を背けて、食器棚から人数分のティーセットを取り出し、銀色のトレーにのせ蒸し終わった紅茶が注がれるのを待っていた。

「もういい時間よ」

 陽菜乃が話題の腕時計の針が時を刻むのを見ると、真美子に紅茶を注ぐよう促した。程よく温まっている白いティーポットを傾けると、綺麗なオレンジがかった深い赤茶色の液体が注がれる。内側の真っ白なティーカップは紅茶が注がれ、ふっと湯気がたち揺れる水面には天井の装飾がうつっていた。部員の好きな色のソーサーの上のカップ全てに注いだ。橙子は先程のことがなかったかのように、ルンルン気分でテーブルに運んで行った。

「今日のお菓子は…」
「はいっ!真美子さん、私が用意しましたの!」

 真美子がティーポットをワゴンに戻すと、陽菜乃と一緒にお菓子のお皿を用意していた小柄なショートボブの姫宮蒼ひめみやあおいが、幼い笑顔を浮かべて真美子の目の前でビシッと手を挙げた。反対の手には黄色リボンで結ばれたベージュ色のお菓子用ギフトボックスを抱えていた。ペンギンのイラストが散りばめられたような柄は、動物好きの蒼らしいものだった。蒼はケーキでも入ってそうな大きさのギフトボックスのリボンを解いた。そしてボックスをパカッと開くとキラキラした目で真美子を見つめた。真美子と陽菜乃がギフトボックスの中を覗くと、味が違うのか色とりどりのクマの形をしている焼き菓子が十数個入っていた。

「私マドレーヌを作りましたの。どうしても皆様に食べてもらいたくて…」

 生まれたばかりの子犬のように、庇護欲を掻き立てる様な瞳で2人を見つめる蒼は真美子に頭を撫でられる。

「まぁ、とても可愛らしいマドレーヌですね。食べるのがもったいないくらいですわ」
「ホントねー。蒼と一緒で可愛い」
「嫌ですわ、真美子さんも陽菜乃さんも…からかわないでくださいまし…。蒼のマドレーヌ食べて下さらないのですか?」
「…いいえ、いただくわ。みんなで一緒に食べましょうね」

 真美子はギフトボックスを受け取り、微笑みながら人数分の大きい花の描かれたパンプレートに、蒼のくま型マドレーヌを取り分ける。隣でその一連を見ていた陽菜乃は他の部員が待つテーブルに運んだ。

「まあ、可愛らしいマドレーヌ。これは…パンダかしら?」
「ブス子ったら考え方までブスね。これはタヌキでしょ」
「どっちもハズレ。クマさんよ」

 テーブルに運ばれだマドレーヌを見るやいなや、形についての意見を交わし再び喧嘩が勃発しそうな雰囲気の橙子と翠璃のやり取りを、陽菜乃がバッサリとぶった切った。

「翠璃ちゃんも橙子ちゃんも酷いわ……。私一生懸命作ったのに……」

 残りの人数分をお盆に乗せて運んできた蒼は、自分のお菓子について言い合う2人を今にも泣きそうな目で見つめた。

「ち、違うのよ蒼!!私は本当はクマとも思ったのよ!?ただあのブスに乗ってあげただけなのよ!!」
「ちょ、ちょっと翠璃!?私だってクマかパンダか迷った末の選択なの!!ていうか、ブスってなによ!!」

 敵対してきた2人は泣きそうな蒼を目にすると、一緒に焦りながら必死に蒼の機嫌を取るために色んな言葉をなげかける。最終的には翠璃は蒼を抱きしめて、橙子がさらにその上から蒼に抱きつく。

「ちょっともー、暴れないでよ!埃まうでしょ!!」

 紅茶とマドレーヌの近くでバタバタと蒼に抱きつく2人を、陽菜乃は子どもに言うように叱り小突いた。

「もう、わかったよ……2人とも」

 抱きつかれて苦しいはずの蒼が、ニコリと笑顔を作ると翠璃と橙子は目を見合わせ安心したようにほっと息をつくとゆっくり離れる。

「だから、もう…変なこと言わないでね?2人とも」

 蒼は確かに笑顔で翠璃と橙子にそう言うが、その目の奥は笑っておらず、いつもよりも声色が根深いところに怒りを隠しているようだった。そんな2人は蛇に睨まれた蛙のように大人しくなり、スっとソファに腰をかけた。

「あら、紅音さんは?」

 マドレーヌの乗った皿をテーブルに並べ蒼が翠璃の隣、ソファの定位置に座ると1人足りないことに気づき当たりを見回した。銀色のデザートフォークを人数分配置しているとソファが1人分空いていた。

「また、バルコニーね。呼んでくるわ」

 一人がけのソファに座っていた陽菜乃がそう言って立ち上がり、颯爽とバルコニーに出ていきもう1人の少女を呼びに行った。紅茶、お菓子とを並べ終えた真美子も、いつも通り一人がけのソファに腰掛ける。テーブルを挟んだ真美子の向かい側の3人がけのソファには、翠璃と蒼が2人だけ座りその隣に橙子が同じデザインの一人がけ布地ソファに座っていた。3人は先程のことがなかったかのように、笑顔で会話をしていた。それもいつもの光景で、真美子の口角は上がったままだった。

「紅音ったら、ほんとにバルコニーが好きなのね」
「そうね」

 陽菜乃に連れられてバルコニーからは九条紅音くじょうあかねが、お気に入りの真っ赤なヘッドホンを首にかけ、指定制服の丈を太ももまで短くアレンジしたスカートの裾を揺らしていた。その短いスカートから伸びる子鹿のように細い足もまた、学校指定でない真っ赤なリボン通しのオーバーニーソックスにほとんど隠されている。

「にしても紅音さん、そのスカートは短すぎではなくて?」
「今どきの女子高生では普通なのよ」

 身長の低さを誤魔化すための、真っ赤なリボンが編み上げられそのまま踵で結ばれている厚底のチャンキーヒールのパンプスを踏み鳴らし、既に座っていた真美子の隣にため息とともに腰掛けた。小さな紅音の体は、簡単に柔らかいソファの背もたれに沈んで行った。ついで陽菜乃がその隣に座ると午後の紅茶部全員が揃った。

「では皆さん揃った事ですし、いただきましょうか」
「そうね、いただきましょうか」
「いただきます」

 真美子の掛け声で少女達はそれぞれにいただきますと、言うと湯気がうっすらと立つティーカップを手に取り口をつけた。甘さの奥に渋みのある紅茶が口の中を流れ、薔薇のような香りが鼻腔をくすぐり、真美子は自分の持ってきた紅茶で満ち足りた気持ちになった。

「まぁ、いい香りですわ」

 一口飲んだ蒼は満足そうに微笑みながら手にしたティーカップを傾け紅茶の香りを嗅いだ。

「そう言っていただけると嬉しいですわ」

 真美子は正面に座る蒼に微笑み答えると、マドレーヌの乗ったプレートを手に取り、食べ方を迷いながらもフォークで1口サイズに切ったマドレーヌを口に運んだ。うっすらとピンク色を帯びているマドレーヌは、焼き菓子固有の甘みとは別に果物のような甘さがして酸っぱさも遅れて口の中に拡がった。アプリコット味なのだろうかと、真美子は推定する。

「この前お父様が買ってきたディンブラがあまりにもいい香りでしたので……、シーズンは少しすぎてしまったのだけれスリランカから取り寄せましたの。蒼さんのマドレーヌとも合いますし、香りも薄くなくてよかったですわ」

 真美子はみんなに見えるように微笑むと、もう一口マドレーヌを口にする。手作りとは思えないほどの出来栄えに、真美子はもう半分もマドレーヌを食べきっていた。

「単調な味ね。飽きたわ」

 紅音は無表情で少ししか口をつけていないティーカップを赤色のソーサーに戻すと、舌を変えるようにマドレーヌをフォークを使わず手で掴み食いついた。

「でしたら紅音さん、ミルクを少し入れるだけでも変わりますのよ」

 テーブルに置いていたクリーマーを手に取ると、許可もえずに真美子は紅音の使うティーカップに流し込む。白いミルクが流し込まれ茶褐色の液体は濁り、マーブリングの絵のように水面の色素は乱れていた。ティースプーンで紅音の紅茶を数周掻き回すと、ミルクと混ざり合い薄い小麦色1色の液体が完成した。真美子はそれを、マドレーヌを咥える紅音にやや強引に手渡す。

「きっと、紅音さんも気に入りますわよ?」

 もぐもぐと咀嚼する紅音は強引な真美子に困った表情を見せると、口紅で真っ赤に染まっている唇をティーカップにつける。口の中に残っていたマドレーヌと一緒に飲み干すと、目を大きく開いて美味しいらしくうっとりとした表情をうかべた。

「こう見ますと、真美子さんと紅音さんご姉妹のようですわね」

 既に1杯分の紅茶を飲み干した橙子は、自分でティーポットを手に取りおかわりを注ぎ、2人の様子を見て可愛いものを愛でるかのような声色で微笑み言う。

「私も思いましたわ。下級生の間でもお2人はとても人気ですのよ」
「そうですわ。お2人はとても絵になりますもの」

 橙子についで蒼も2人を羨望の眼差しで見つめる。そう言われた紅音は無表情で、真美子はどう反応していいのか分からず目線をそらして微笑む。

「こんな妹だと姉は大変ね」
「あら、私が妹ですか?」

 無表情のままの紅音は、隣に座る少し座高の高い真美子を見上げる。真美子も紅音を見つめ苦笑する。

「でも私、真美子さんと陽菜乃さんが、一緒に生徒会のお仕事してらっしゃるの好きですのよ」

 マドレーヌを1つ平らげた翠璃が、自分のプレートに色に違うマドレーヌをよそってくれた陽菜乃に目をやる。陽菜乃はいきなり会話の話題に放り投げられ、驚いた表情を見せると、何よそれと照れたように笑う。

「確かに、生徒会長の真美子さんと副会長の陽菜乃さんが仕事されてるのとても素敵ですわ」
「お2人なら、ご姉妹…と言うよりもお互いを信頼している夫婦のようですわ」
「夫婦ねぇ、付き合いは長いけど…… 」

 キラキラと目を輝かせ自分の胸の前で両手を握り2人を見つめる蒼は恋する乙女のようだ。苦笑いを浮かべ戸惑う陽菜乃はと言うと、この話題が早く終わるのを紅茶をおかわりして待っていた。

「確かに紫之宮さんとは中等部からの仲ですもの…。とても信頼していますわ。…私達が夫婦というのなら、私は紫之宮さんの知音女房でしょうか?」
「あら、私は旦那なのね」

 真美子の優しい微笑みに、陽菜乃はおかしく笑う。その時、血色のいいコーラルピンクの唇から形のいい八重歯がのぞいた。間に挟まれた紅音は相変わらず無表情のまま無心で紅茶を啜っていた。

「それに陽菜乃さん、生徒からとても人気ですわよね。私の同じクラスの方達も恋慕してましたわ」  

 両手でティーカップを持っている翠璃はそんな陽菜乃を見て微笑むと、飲み干したカップを緑色のソーサーに戻した。

「そう言われてもなぁ、女の子同士だし…」
「でも、今年に入って告白されたのこの前の人で…8人目でしたわよね」

 蒼がなにかを思い出しながら、両手の指を折って人数を数える。その指を見ると陽菜乃は照れたながらも、苦笑いをうかべた。

「慕ってくれるのはありがたいけどね……」
「こんな女のどこに惹かれるのかしら」
「何よその言い方」

 隣にいた紅音が腕を組んで陽菜乃を見つめ不思議そうに首を傾げ、純粋に疑問として投げかける。見つめられた陽菜乃も噛み付いたものの、どう答えるのが正しいのか分からないまま紅音を見つめ返していた。

「あら、紫之宮さんはとても魅力的な女性ですよ?……ずっと隣で見ていた私が言うのだから間違いないですわ」

 真っ白のソーサーにカップを戻した真美子は、陽菜乃に向き直るように体勢を変えて微笑み応える。そう言われた陽菜乃は照れ笑いをしながら、恥ずかしそうに顔を隠した。しかし紅音は納得いってないようで、陽菜乃のその様子を腑に落ちない顔で見ていた。

「んっ、……やだっ、零しちゃった」

 飲んでいた紅茶が口の端から零れた雫が、橙子の白い制服に落ちてシミを作った。カップを急いでオレンジ色のソーサーに戻すと、制服の胸元に出来てしまった染みを、髪を払い当惑している。

「ブス子ったら、ほんとグズね」
「まぁ、シミになったら大変!」

 翠璃はどうしていいのか分からない橙子を嘲笑い、蒼は制服のポケットから白いレースのハンカチを取り出すと、見かけによらず男らしく橙子を抱き寄せてハンカチを胸元に押し当てる。ハンカチを押し付けられる度に、橙子は恥ずかしそうに手で口を隠して息を漏らす。ある程度シミが目立たなくなると、蒼は満面の笑みを浮かべた。その顔が思ったよりも近く橙子は一驚する。蒼が良かったね、と純朴な笑顔で離れると、橙子よ頬は徐々に桜色に染まりだす。

「ちょっとブス!!何いっちょまえに頬なんか染めてるのよ!!」
「う、うるさいわね!!あっ、蒼が大胆すぎるのよ!!……って、ブスじゃないわよ!!」

 色付いた顔を隠すように両頬に手を当てて恥ずかしがる橙子に、翠璃は焦燥に駆り立てられたように声を荒らげ、思わずソファから立ちあがり勢い任せに指を指す。

「はんっ。蒼も罪な人ね。こんなブスに勘違いさせるようなことしては可哀想ですわ」
「もー、翠璃ちゃん!!」

 立ち上がって橙子を見下し、冷笑を浮かべる翠璃の言動に耐えかねた蒼も、橙子を庇うように立ち上がる。自分よりも頭一個分ほど背の高い翠璃に対して、頬を膨らませ見上げる蒼はなんとも言い難い威圧感があった。翠璃は蒼の圧に押され動揺するも、なによ、と引かずに腕を組んで対抗する。

「そんなにブスブスって……汚い言葉は使うものじゃないよ」

 ふわりと笑う蒼は、翠璃のくびれた腰に手を回す。体を密着するほど寄せると、華奢な細い右手を翠璃の頬に添える。

「綺麗な翠璃ちゃんのこの美しいお口には……汚い言葉は似合わないんだから」

 頬に添えた手で翠璃のグロスで艶のある唇を撫でる蒼は、更に顔をよせ唇が重なり合うほどの距離で妖艶に微笑む。翠璃は距離の近さに対して、驚きのあまり目を見開くも、現状把握が追いつかないのか何も出来ず固まる。

「だから、もう蒼の前で汚い言葉使うの禁止なんだからねっ」

 先程の大人びた表情とは打って変わって、いつも通りの幼い笑顔を浮かべる蒼はめっ!と子供を叱るような動きをするとソファに座った。

「……っ」

 翠璃も橙子と同様に頬を染めると、何も言えずに頷いてそのまま元の席に座った。

「……まったく……蒼、あんまり橙子と翠璃を弄んじゃダメでしょ」
「えぇ?そんなことしていませんよおぅ」

一通りの流れを見ていた陽菜乃は呆れたように蒼を叱るが、蒼は不思議そうに首を傾げるだけだ。

「純粋に天然なのね」

 紅音は持ち前のポーカーフェイスで蒼を見つめそう言うと、自分の使っていた食器類を銀色のトレーに戻し、ワイヤレスヘッドホンを首にかけた。真美子はお取り込み中の部員をよそに、部員の食器類をゆっくりと片し始めた。
    
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