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第一巻:春
大人×コーラ
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数年ぶりの階段を地下に降り、ドアを開ける。
何も変わらない、大量の酒瓶が壁に並ぶ店内。
「よお、久しぶりだな」
まるで、数週間ぶりくらいの口調で、変わらないマスターに招き入れられる。
「ご無沙汰してます。三人ですけど、カウンターでいいですか?」
「御覧の通り、まだ誰もお客いないからいいよ」
カウンターに座ると、両脇に、二人がかしこまって座る。
「タンカレーをトニックで。あと、ダイエット・コーラとオレンジ・ジュースを」
「かしこまりました」
なぜだか、いつもこれだけは敬語で答え、氷を入れたグラスを三つ並べる。
まず、ひとつにタンカレーをワンショット。
次に、オレンジを絞って果汁を別のグラスへ。
タンカレーのグラスにトニック、最後のグラスにコーラを注ぐ。
オレンジジュースには赤いチェリー、コーラにはレモンのスライスを添え、バースプーンをグラスを変えるたび洗いながら、ステア。
三つならんだコースターの上に、グラスが並ぶ。
そして、儀式。
レシートが載ったトレーが置かれ、
「当店、キャッシュオンデリバリーですので、ご注文のたびに、お支払いいただいております」
俺は、映画を観に出かけるにあたって、久しぶりに持ってきた財布から、お札を出して置く。
映画館といい、久しぶりに現金を使った気がする。
そういえば、財布を持ち歩いていたら、あみが炭酸水を渡してきたとき、小銭で払って解決して、今ここにいなかったかもしれない。
いや結局、あまり結果は変わらなさそうな気もする。
会計しに、マスターがレジへ向かう。
俺は、自分のグラスを持ち、圧倒されている二人に、「乾杯」と声をかけた。
慌てて、グラスを持ち応じる二人。
「ここなら、人目もないし、今なら少しくらい騒いでも、怒られないぞ」
「そんなこと言っても、大声出せる雰囲気じゃないよ」
声を潜めて言うあみに、志桜里も大きく頷く。
「そうか?大通りの方が、二人の立場を考えれば、大声出す雰囲気じゃなかったと思うけどな?」
肩を落とす二人。
マスターが、お釣りをトレーに置いて、去っていく。
このお札を押さえるように、載せていた懐中時計も、今はもう壊れてしまった。
「・・・ごめん」
「・・・ごめんなさい先生」
「わかったならいい」
グラスを傾けると、氷が鳴り響く。
「・・・先輩、ここの常連?」
「学生時代からな。ここ数年は、ご無沙汰だったが」
少しだけ、二人が表情を変える。
「先生、ここですか?」
「ああ、元の妻と通ってた店だよ」
なぜ、この店に来よう、と思ったのか、わからない。
なんとなくだが、この店を見せて驚かせたい。
彼女らがTWITTERでしか知らない俺の過去の実物を見せてみたい、と思ったのかもしれない。
それとも、大人の凄さを見せつけたかっただけなのだろうか。
二人とも、いいリアクションで、きょろきょろしている。
ただ、緊張して喉が渇くのか、ドリンクの進みが早い。
まあ、いいか。
俺もポップコーンの食べすぎと、ビールの飲み損ねで、喉が渇いている。
渇いているのは、喉なのか?
「MOONlight Nightを」
どんなに寂しい夜でも、この店までの道が、月に照らされたように来られるように、という祈りを込めた店名と同じ名のカクテル。
「かしこまりました」
ロックグラスに氷を入れ、使う酒瓶を並べていく。
なんだか、感動的にみている二人。
「それと、ノンアルコールのカクテルを二種類。ひとつは甘めで炭酸ナシ。もう一つは炭酸系で」
マスターが、俺のカクテルをつくりながら、俺を見て、にやりと笑った。
俺も笑う。
よく、もっと面倒なオーダーをして、何度も何度もカクテルの実験台になったものだ。
そして、彼は、「ちっ」と舌を鳴らして、
「めんどくさっ」
といいながら、俺のグラスを入れ替えた。
コースターの上の、一筋の月光のように、ブルーキュラソーが沈んだカクテル。
俺とマスターとのやりとりは、メニューにないカクテルを頼んだときの二人のお約束なのだが、女性陣二人には、俺のTWITTERに写真が載っているカクテルの実物、と感動していたのを台無しにされ、情けない顔をしていた。
そんな反応には頓着せず、彼は、タンブラーとロックグラスを用意した。
バーブレンダーに、牛乳、砂糖、バニラエッセンス、シナモン、卵黄を入れ、バースプーンで混ぜる。
アイスクラッシャーで細かくした氷を加え、ミキシング。
氷の入っていないタンブラーにコーラを注いだ。
バーブレンダーの中身を、ロックグラス、残りをコーラの上に乗せた。
先がスプーン状になったストローを、ロックグラスの方は短く切って、両方に添える。
「こちら、ミルク・シェークとコーラ・フロートっぽいのになります」
「ぽいの?」
おとなしくしていたのに、ついつっこんでしまうあみ。
マスターは笑って、
「無茶なオーダーに、即興でつくったからな。名前なんてないさ」
「そうなんだ」
「甘い、おいしいです先生」
志桜里が喜ぶ。
「いや、お嬢さん、適当なオーダーに、つくったのは俺。褒めるならバーテンダーの俺」
マスターが言うと、
「オーダーしたのは、先生ですから」
意外とツンデレなのか、志桜里?
「これ、おいしいけど、次きたときに、どうお願いすればいいの?」
あみの無邪気な言葉に、俺の動きが止まる。
マスターは、俺を気遣わし気に見つつ、
「お嬢さんが、名前をつけてくれればいいさ」
「え?私が?」
「注文したときに、誰もが振り返る、かっこいい名前にしてくれよ。ウチの月替わりのお勧めオリジナル・カクテルになるくらいにな」
「えー?うーん?」
悩み始めたあみ。
そして、俺の小さな反応にも、志桜里は目敏く気がついていた。
「・・・先生、あの」
「どうした?」
なんとなく不安そうな声音に、トイレの場所か?などと考えて、彼女の向く。
「あーん」
『どうした?』の「た」で聞いた口に、スプーン状のストローが押し込まれた。
口の中に、甘くて冷たいものが広がる。
二人の隙をついた、見事な攻撃だった。
「志桜里ちゃん、何してくれてるのよ!」
「先生に、『あーん』です」
「そういう意味の質問じゃないでしょ?ほら、先輩、あーん!」
「いや、コーラに載ってるのも志桜里のと同じ『ミルク・シェークっぽい』だから味は、もうわかった」
「そういう意味の問題じゃないでしょ?」
マスターは、笑っていたが、目は心配げに、俺を見ていた。
「よし決めた。あみスペシャルで!」
どうやら、「コーラ・フロートっぽい」オリジナル・ノンアルコール・カクテルの命名が決まったらしい。
誰もが思っただろう、「センスないなとか」「これだけ考えてそれかよ」とかを大人たちは飲み込んだ。
「わかりやすくていいな、あみ」
「覚えやすくていいぞ、お嬢さん」
えへへ、と笑うあみの腹が鳴った。
おいおい、アイドルが腹を鳴らすな。
「あれだけ、ポップコーン食べておいてか?」
「もう、消化しちゃったよ」
志桜里が、おずおずと小さく挙手をして、
「先生、志桜里も、少しお腹がすきました」
「そうか、気づかなくて悪かったな志桜里」
「ちょ、先輩。扱いが差別差別」
「ポップコーンの甘いのとしょっぱいのを、交互に無限に食べてた胃袋との区別だ」
俺は、こっそり、長居するつもりはなかったのにな、とため息をついた。
「バッター焼き、注文可能ですか?」
マスターは眉をひそめ、
「・・・特別だからな。本当に、特別だから特別料金だぞ」
「ありがとうございます」
「先生、バッターって野球のですか?」
「まさか、バッタ?」
「出てくれば、わかるさ」
バッターとは、唐揚げを揚げる水で溶いた衣のことで、バッター液ともいう。
この店の唐揚げは秘伝の、すり鉢で生米をすった粉や、様々なスパイスでできたバッター液を大きなタッパーに入れ、鶏肉を漬けておいて、揚げるのだ。
唐揚げ用の肉を使い切り、タッパーに残ったバッター液を焼いたのが、バッター焼きだ。
本来は、唐揚げが売り切れた時だけ限定の裏メニューだ。
その昔、これを注文するのが流行って、深夜に唐揚げ耐久レースなどと言って、常連たちと何度も唐揚げが売り切れるまで頼んだりしたものだ。
「こんなもの、覚えてるのは、もうお前くらいだよ」
マスターが、奥の厨房へ向かいながら、呟いた。
俺は、思わず立ち上がり、
「今、彼女たちが覚えました。『次』に来たら、また食べたがりますよ!」
なんで、俺は、そんなことに拘ったのだろう。
俺が、『次』という言葉を使ったからか、志桜里が、
「次は、志桜里だけのカクテルに名前をつけたいです」
「私は、あみスペシャルよ、もちろん」
二人の言葉に、マスターは、肩をすくめ、
「お嬢様方。お酒がお飲みになれるお年になってから改めて、ご来店くださいませ」
厨房に向かうその背は、笑いのためか、揺れていた。
「バッター焼き、意外と美味しかった」
「志桜里も、美味しいと思いました」
店を出て、階段を上がったところで、二人は感想を漏らした。
結局マスターは、俺が初めて連れてきた彼女ら未成年の正体と関係、俺のテレビ出演、店にこなくなった理由の離婚などのこと、暴露記事など、知っているのか最後まで明かさなかったし、尋ねなかった。
あみは、思いっきり「あみスペシャル」とか、名前をバラしていたが。
俺は、あの店では、『俺』でいられた。
次、次か。
考えてみれば、俺が学生時代から通っている店だ。
当然、マスターは年上だ。
いつかは、この店もなくなってしまうのだろう。
彼が、二人に言った「お嬢様方。お酒がお飲みになれるお年になってから改めて、ご来店くださいませ」を信じて、それまでは店を続けてくれるのだろうか。
俺は、果たせなかった、誰かとの「次」という約束を、いくつ抱えているのだろうか。
俺の手に、「今」は「次」は、どれだけ残っているのだろう。
「でも、量が足りなかった」
「志桜里も、もう少し食べたかったです」
思い出の味も、少女たちの健康な胃袋には勝てないか。
「何食べたい?」
「志桜里は、あそこで、お寿司を食べたいです」
志桜里が小さく挙手をし、指をさした先には、回転寿司のネオン。
彼女は小食なので、空腹だけどバッター焼きを食べたので、一人前を食べきれるか不安でのチョイスだろう。
「あ、いいかも、近いし」
店を出た後、あの寿司屋。
このコースは何回、繰り返したのか、覚えていない。
そういえば、マスターの誕生日に買って行ったこともあったな。
今日は、そういう日なのだろう。
まあ、店員が多くいる店より回転寿司は、二人がバレにくくていいかもしれない。
それに、もう今夜は、酒は十分だ、余計なことを考えすぎる。
「よし、誰が一番、食べたか皿数、調べるからな」
「・・・どうして、そんなことするのよ?」
「調べるまでもないと思います」
最後に積み上げた皿数を店員が集計せず、席のスリットに皿を入れて自動集計する方式になっていたことに驚きつつ、少しだけ、二人に昔の話をした。
それは、どうしても、細部がごまかしがちになってしまったが、二人はごまされてくれた。
個人の皿の数はごまかし放題だったので、誰が一番食べたのかも、ごまかされておいた。
何も変わらない、大量の酒瓶が壁に並ぶ店内。
「よお、久しぶりだな」
まるで、数週間ぶりくらいの口調で、変わらないマスターに招き入れられる。
「ご無沙汰してます。三人ですけど、カウンターでいいですか?」
「御覧の通り、まだ誰もお客いないからいいよ」
カウンターに座ると、両脇に、二人がかしこまって座る。
「タンカレーをトニックで。あと、ダイエット・コーラとオレンジ・ジュースを」
「かしこまりました」
なぜだか、いつもこれだけは敬語で答え、氷を入れたグラスを三つ並べる。
まず、ひとつにタンカレーをワンショット。
次に、オレンジを絞って果汁を別のグラスへ。
タンカレーのグラスにトニック、最後のグラスにコーラを注ぐ。
オレンジジュースには赤いチェリー、コーラにはレモンのスライスを添え、バースプーンをグラスを変えるたび洗いながら、ステア。
三つならんだコースターの上に、グラスが並ぶ。
そして、儀式。
レシートが載ったトレーが置かれ、
「当店、キャッシュオンデリバリーですので、ご注文のたびに、お支払いいただいております」
俺は、映画を観に出かけるにあたって、久しぶりに持ってきた財布から、お札を出して置く。
映画館といい、久しぶりに現金を使った気がする。
そういえば、財布を持ち歩いていたら、あみが炭酸水を渡してきたとき、小銭で払って解決して、今ここにいなかったかもしれない。
いや結局、あまり結果は変わらなさそうな気もする。
会計しに、マスターがレジへ向かう。
俺は、自分のグラスを持ち、圧倒されている二人に、「乾杯」と声をかけた。
慌てて、グラスを持ち応じる二人。
「ここなら、人目もないし、今なら少しくらい騒いでも、怒られないぞ」
「そんなこと言っても、大声出せる雰囲気じゃないよ」
声を潜めて言うあみに、志桜里も大きく頷く。
「そうか?大通りの方が、二人の立場を考えれば、大声出す雰囲気じゃなかったと思うけどな?」
肩を落とす二人。
マスターが、お釣りをトレーに置いて、去っていく。
このお札を押さえるように、載せていた懐中時計も、今はもう壊れてしまった。
「・・・ごめん」
「・・・ごめんなさい先生」
「わかったならいい」
グラスを傾けると、氷が鳴り響く。
「・・・先輩、ここの常連?」
「学生時代からな。ここ数年は、ご無沙汰だったが」
少しだけ、二人が表情を変える。
「先生、ここですか?」
「ああ、元の妻と通ってた店だよ」
なぜ、この店に来よう、と思ったのか、わからない。
なんとなくだが、この店を見せて驚かせたい。
彼女らがTWITTERでしか知らない俺の過去の実物を見せてみたい、と思ったのかもしれない。
それとも、大人の凄さを見せつけたかっただけなのだろうか。
二人とも、いいリアクションで、きょろきょろしている。
ただ、緊張して喉が渇くのか、ドリンクの進みが早い。
まあ、いいか。
俺もポップコーンの食べすぎと、ビールの飲み損ねで、喉が渇いている。
渇いているのは、喉なのか?
「MOONlight Nightを」
どんなに寂しい夜でも、この店までの道が、月に照らされたように来られるように、という祈りを込めた店名と同じ名のカクテル。
「かしこまりました」
ロックグラスに氷を入れ、使う酒瓶を並べていく。
なんだか、感動的にみている二人。
「それと、ノンアルコールのカクテルを二種類。ひとつは甘めで炭酸ナシ。もう一つは炭酸系で」
マスターが、俺のカクテルをつくりながら、俺を見て、にやりと笑った。
俺も笑う。
よく、もっと面倒なオーダーをして、何度も何度もカクテルの実験台になったものだ。
そして、彼は、「ちっ」と舌を鳴らして、
「めんどくさっ」
といいながら、俺のグラスを入れ替えた。
コースターの上の、一筋の月光のように、ブルーキュラソーが沈んだカクテル。
俺とマスターとのやりとりは、メニューにないカクテルを頼んだときの二人のお約束なのだが、女性陣二人には、俺のTWITTERに写真が載っているカクテルの実物、と感動していたのを台無しにされ、情けない顔をしていた。
そんな反応には頓着せず、彼は、タンブラーとロックグラスを用意した。
バーブレンダーに、牛乳、砂糖、バニラエッセンス、シナモン、卵黄を入れ、バースプーンで混ぜる。
アイスクラッシャーで細かくした氷を加え、ミキシング。
氷の入っていないタンブラーにコーラを注いだ。
バーブレンダーの中身を、ロックグラス、残りをコーラの上に乗せた。
先がスプーン状になったストローを、ロックグラスの方は短く切って、両方に添える。
「こちら、ミルク・シェークとコーラ・フロートっぽいのになります」
「ぽいの?」
おとなしくしていたのに、ついつっこんでしまうあみ。
マスターは笑って、
「無茶なオーダーに、即興でつくったからな。名前なんてないさ」
「そうなんだ」
「甘い、おいしいです先生」
志桜里が喜ぶ。
「いや、お嬢さん、適当なオーダーに、つくったのは俺。褒めるならバーテンダーの俺」
マスターが言うと、
「オーダーしたのは、先生ですから」
意外とツンデレなのか、志桜里?
「これ、おいしいけど、次きたときに、どうお願いすればいいの?」
あみの無邪気な言葉に、俺の動きが止まる。
マスターは、俺を気遣わし気に見つつ、
「お嬢さんが、名前をつけてくれればいいさ」
「え?私が?」
「注文したときに、誰もが振り返る、かっこいい名前にしてくれよ。ウチの月替わりのお勧めオリジナル・カクテルになるくらいにな」
「えー?うーん?」
悩み始めたあみ。
そして、俺の小さな反応にも、志桜里は目敏く気がついていた。
「・・・先生、あの」
「どうした?」
なんとなく不安そうな声音に、トイレの場所か?などと考えて、彼女の向く。
「あーん」
『どうした?』の「た」で聞いた口に、スプーン状のストローが押し込まれた。
口の中に、甘くて冷たいものが広がる。
二人の隙をついた、見事な攻撃だった。
「志桜里ちゃん、何してくれてるのよ!」
「先生に、『あーん』です」
「そういう意味の質問じゃないでしょ?ほら、先輩、あーん!」
「いや、コーラに載ってるのも志桜里のと同じ『ミルク・シェークっぽい』だから味は、もうわかった」
「そういう意味の問題じゃないでしょ?」
マスターは、笑っていたが、目は心配げに、俺を見ていた。
「よし決めた。あみスペシャルで!」
どうやら、「コーラ・フロートっぽい」オリジナル・ノンアルコール・カクテルの命名が決まったらしい。
誰もが思っただろう、「センスないなとか」「これだけ考えてそれかよ」とかを大人たちは飲み込んだ。
「わかりやすくていいな、あみ」
「覚えやすくていいぞ、お嬢さん」
えへへ、と笑うあみの腹が鳴った。
おいおい、アイドルが腹を鳴らすな。
「あれだけ、ポップコーン食べておいてか?」
「もう、消化しちゃったよ」
志桜里が、おずおずと小さく挙手をして、
「先生、志桜里も、少しお腹がすきました」
「そうか、気づかなくて悪かったな志桜里」
「ちょ、先輩。扱いが差別差別」
「ポップコーンの甘いのとしょっぱいのを、交互に無限に食べてた胃袋との区別だ」
俺は、こっそり、長居するつもりはなかったのにな、とため息をついた。
「バッター焼き、注文可能ですか?」
マスターは眉をひそめ、
「・・・特別だからな。本当に、特別だから特別料金だぞ」
「ありがとうございます」
「先生、バッターって野球のですか?」
「まさか、バッタ?」
「出てくれば、わかるさ」
バッターとは、唐揚げを揚げる水で溶いた衣のことで、バッター液ともいう。
この店の唐揚げは秘伝の、すり鉢で生米をすった粉や、様々なスパイスでできたバッター液を大きなタッパーに入れ、鶏肉を漬けておいて、揚げるのだ。
唐揚げ用の肉を使い切り、タッパーに残ったバッター液を焼いたのが、バッター焼きだ。
本来は、唐揚げが売り切れた時だけ限定の裏メニューだ。
その昔、これを注文するのが流行って、深夜に唐揚げ耐久レースなどと言って、常連たちと何度も唐揚げが売り切れるまで頼んだりしたものだ。
「こんなもの、覚えてるのは、もうお前くらいだよ」
マスターが、奥の厨房へ向かいながら、呟いた。
俺は、思わず立ち上がり、
「今、彼女たちが覚えました。『次』に来たら、また食べたがりますよ!」
なんで、俺は、そんなことに拘ったのだろう。
俺が、『次』という言葉を使ったからか、志桜里が、
「次は、志桜里だけのカクテルに名前をつけたいです」
「私は、あみスペシャルよ、もちろん」
二人の言葉に、マスターは、肩をすくめ、
「お嬢様方。お酒がお飲みになれるお年になってから改めて、ご来店くださいませ」
厨房に向かうその背は、笑いのためか、揺れていた。
「バッター焼き、意外と美味しかった」
「志桜里も、美味しいと思いました」
店を出て、階段を上がったところで、二人は感想を漏らした。
結局マスターは、俺が初めて連れてきた彼女ら未成年の正体と関係、俺のテレビ出演、店にこなくなった理由の離婚などのこと、暴露記事など、知っているのか最後まで明かさなかったし、尋ねなかった。
あみは、思いっきり「あみスペシャル」とか、名前をバラしていたが。
俺は、あの店では、『俺』でいられた。
次、次か。
考えてみれば、俺が学生時代から通っている店だ。
当然、マスターは年上だ。
いつかは、この店もなくなってしまうのだろう。
彼が、二人に言った「お嬢様方。お酒がお飲みになれるお年になってから改めて、ご来店くださいませ」を信じて、それまでは店を続けてくれるのだろうか。
俺は、果たせなかった、誰かとの「次」という約束を、いくつ抱えているのだろうか。
俺の手に、「今」は「次」は、どれだけ残っているのだろう。
「でも、量が足りなかった」
「志桜里も、もう少し食べたかったです」
思い出の味も、少女たちの健康な胃袋には勝てないか。
「何食べたい?」
「志桜里は、あそこで、お寿司を食べたいです」
志桜里が小さく挙手をし、指をさした先には、回転寿司のネオン。
彼女は小食なので、空腹だけどバッター焼きを食べたので、一人前を食べきれるか不安でのチョイスだろう。
「あ、いいかも、近いし」
店を出た後、あの寿司屋。
このコースは何回、繰り返したのか、覚えていない。
そういえば、マスターの誕生日に買って行ったこともあったな。
今日は、そういう日なのだろう。
まあ、店員が多くいる店より回転寿司は、二人がバレにくくていいかもしれない。
それに、もう今夜は、酒は十分だ、余計なことを考えすぎる。
「よし、誰が一番、食べたか皿数、調べるからな」
「・・・どうして、そんなことするのよ?」
「調べるまでもないと思います」
最後に積み上げた皿数を店員が集計せず、席のスリットに皿を入れて自動集計する方式になっていたことに驚きつつ、少しだけ、二人に昔の話をした。
それは、どうしても、細部がごまかしがちになってしまったが、二人はごまされてくれた。
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