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第3章
協力者
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1
「どうぞ、入ってください」
先に入室したランドローに続いて、結城が一歩足を踏み入れると、そこには金属製の検死台と、遺体保存用の冷蔵庫が整然と並ぶ、独特の光景が広がっていた。冷蔵庫は、さながら無機質なカプセルホテルといった外観で、室内の冷たく重苦しい空気の元凶と言えるような存在感を放っている。
警察庁時代、結城も何度か遺体安置所に入ったことはあったが、やはりいつまでも慣れない。最低限の装飾などが施してある病院の霊安室などと違って、安置所の殺風景な内装は、遺体をモノ扱いしている証左のように感じる。実に居心地の悪い空間だ。
ランドローは中で待機していた監察医に一言話すと、ちょうど真ん中の列にある冷蔵庫の前まで結城を案内した。
「マドモアゼル・ユウキ…でよろしかったですか? あなたは探偵になる前は警察官だったと先ほど伺いました。なら、遺体の確認にも慣れているでしょう?」
「ええ、問題ありません。続けてください」
監察医が上から二番目の冷蔵庫の扉を開き、中から透明の袋に入れられた遺体を台ごと引っ張り出した。防腐処理された遺体は、想像よりも清潔に保たれていて、人相も容易に判別できる状態にあった。
――人違いであってほしい。結城は直前までそう願っていた。だが遺体の顔が目に飛び込んだ瞬間、その希望が脆くも崩れ去るのを感じた。
「これが、依頼人から預かってきた金村氏の写真です」
そう言うと、結城はジャケットから一枚の写真を取り出し、ランドロー警部補に手渡した。村中が面談時に差し出した、自衛官時代の写真を引き伸ばしたものだった。
ランドローは写真の中の人物と、目の前に横たわる遺体の顔とを見比べるように交互に視線を移した。
「なるほど、遺体の顔がやや膨らんでいるのを差し引いても、確かによく似ていますね。ただ、正直これだけでは、まだ本人だと断定するのは難しいと思いますが…」
「ごもっともです。ですから金村さんの身体的特徴も依頼人から聞いてきました。右の前上腕部を見てみてください。細長い傷痕がありませんか?」
ランドローの指示を受けて、監察医が透明の袋の上から右腕を動かした。
「…ありますね。傷痕というよりも、茶色い染みのようだが…これはどこで?」
「自衛官時代、遠泳訓練でクラゲに刺されたそうです。その痕が今も残っているんですよ」
「なるほど、かなり特殊な傷ですね。身元確認の証拠としては、信頼性は高いと言えそうです」
写真をコピーしてもよいかと聞くランドローに承諾の首肯をした後、結城は改めて金村の死顔に目をやった。
今でこそ安らかな表情を浮かべているが、溺死という状況から考えて、遺体発見時は苦悶に満ちた様相を呈していたのではないだろうか。写真の中では優しげな笑顔を見せていた好人物が、どれほどの苦しみの中で命を落としたかを想像すると、やりきれなさを感じずにはいられない。
結城は日本式に手を合わせ、目を閉じて冥福を祈った。
「新聞記事で、死亡時のおおよその状況は把握しているのですが、捜査本部は自殺か他殺かの断定はまだされていないのですね?」
合掌を終えると、ランドローに尋ねた。
「その通りです。ただ、捜査から二週間経過した現時点でも、他殺を匂わせる目ぼしい手がかりが見つかっていないため、本部内ではどちらかと言えば自殺の可能性に傾いていますがね」
「警部補ご自身は、どちらだと思いますか?」
その問いに、ランドローは肩をすくめてみせた。
「正直に言いますと、自殺と結論付けられても仕方ないと思っていました。恐怖感を和らげるために睡眠薬を服用し、水中で無意識にもがくことのないよう両手両足を縛った上で入水する。こうした方法は珍しくありません。ただ、気になる点もゼロではない」
ランドローは監察医に、遺体を裏返すよう頼んだ。指示を受けてうつ伏せにした遺体の後頭部の傷痕を結城に見せる。
「この傷痕が何でどのように付いたものなのか、今のところ不明なのですが、仮に被害者の死に関係しているとすれば、わずかでも第三者の関与が疑われます。そしてここに来て、もう一つ疑問点が浮かびました」
ランドローは結城に手渡された写真に目を移した。
「あなたのお話を聞いた限り、この被害者…ムッシュ・カネムラは半年前、パリに移住したばかりで、ナントとは特に縁もゆかりもないことになります。仮に動機が自殺だとして、なぜわざわざ自宅から遠く離れたこの街で決行したのか。その理由を探る必要はあるかもしれません」
「私も同じ意見です。加えて申し上げるならば、私は自殺だとは思えません」
「ほう。なぜですか?」
「一つは、私の依頼人である村中さんに対し、彼が何のメッセージも残していないことです。被害者にとって、村中さんは自衛官時代から苦楽を共にした同僚で、フランスに渡ってからも親しく連絡を取り合っていました。奥様と死別し、息子さんと疎遠になってからは、最も近しい存在だったと思います。ただでさえ、独りで外国暮らしそんな相手に何ら別れも告げないまま、命を絶つのは不自然だと思います。そしてもう一つは…」
「何ですか?」
「探偵としての勘です」
ランドローは苦笑いを浮かべた。
「なるほど。確かに刑事も勘で動くこともありますから軽視はできませんね」
監察医に遺体を冷蔵庫に戻すよう指示を出すと、ランドローは「確認もできたので出ましょうか」と結城を出口へ促した。
2
「ところでマドモアゼル・ユウキ。被害者のパリの住所はご存知ですか?」
待合室へ戻るなり、ランドローに尋ねられた結城は、ジャケットから手帳を取り出すと、空白のページに住所を書き込み、それを破いて差し出した。
「依頼人の村中さんは、番地までは知らないようでしたので、日本を出発する前にパリの知人に頼んで調べてもらいました。十一区の、バスティーユ広場に近い通りにあるアパルトマンです」
「ありがたい。身元が割れた以上、我々でも調べることはできるのですが、これで時間の節約になりますよ」
ランドローは住所が書かれたメモを受け取り中身を確認すると、ポケットにしまった。
「いや、今回はあなたが訪ねてきてくれて本当に助かりました。これで捜査は大きく進展するでしょう。ご協力に感謝します」
必要な情報を得られたので、もう用はないと言わんばかりに握手を求めてきた警部補の事務的な態度に、結城は苦笑した。
「ランドロー警部補。お願いがあります」
「何でしょう?」
「私も、捜査に協力させてもらえないでしょうか?」
思わぬ嘆願に、「え?」と驚くランドローの反応は、結城の予想通りの展開であった。
「もちろん警察の捜査チームに参加したいという意味ではありません。ただ、今回の事件、私は独自に調査を行いたいと思っています。その際、私と警察でお互いに得た情報や手がかりを共有すれば、真相解明に早くたどり着けると思うのです」
ランドローの表情に、明らかな困惑の色が浮かんだ。
「マドモアゼル・ユウキ。あなたが請け負った依頼は、失踪人としての被害者の行方探しだったのでしょう? しかし、ムッシュ・カネムラは残念ながら亡くなっていました。こうなった以上、あなたの調査は打ち切りということになるのではないですか?」
「確かに職務上はそうなります。ですから、これはあくまで私の個人的な意思による行動です。このあと、依頼人の村中さんにも事の顛末を報告しなければなりませんが、きっと彼はショックを受け、悲しみに暮れるでしょう。しかも金村さんの死の原因が殺人となれば、その無念はより大きいものになります。そのことが分かっていながら、このまま何もせずに日本に帰るのは、私自身が納得できないのです」
「いや、そのお気持ちは理解できますがね。やはり認められないでしょう」
ランドローは少しばかり語気を強めて返答した。相手が元同業者ということもあって、今までは結城への態度に敬意がこもっていたが、ぶしつけとも取れる彼女の申し出は少々不快に感じたのだろう。厄介な荷物を抱え込んでしまったと思っているかもしれない。
「そもそもあなたは外国人です。日本では探偵であっても、ここフランスでは何の権限も持たない。言ってみれば観光客同然です。元警察官という経歴も意味を成しません。申し訳ないが、我々としても、部外者に捜査にしゃしゃり出てこられては困るのですよ。それに調査をすると言っても、異国で一人では何もできないでしょう?」
「いいえ、私一人ではありません」
「…と言いますと?」
その時、待合室のドアがノックされた。
「失礼するよ」
そう言って入ってきたのは二人の中年白人男性だった。一人は恰幅のいい体格で白いワイシャツと赤いネクタイだけのラフな格好。もう一人は背が高く、サングラスをかけ、ネイビースーツをスマートに着こなしている。
「ガルニエ警部! 何か御用ですか?」
ランドローは驚きながら、ラフな格好の男に声をかけた。
「その前に、こちらのお嬢さんに自己紹介させてくれるかね。初めましてマドモアゼル・ユウキ。私は捜査課で警部をやっているガルニエだ。ムッシュ・カネムラの事件でも、包括的な指揮を執らせてもらってる」
「キョウコ・ユウキです。こちらこそ、お会いでできて光栄です」
差し出された手を杏子は握り返した。
続けてガルニエはランドローのほうを向いて、後ろに立っている男を紹介した。
「ドミニク、彼はパリの探偵社に所属しているジャン・ファビエだ。今回はマドモアゼル・ユウキのパートナーとしてナントに来ている」
「パートナー?」
いぶかしがるランドローに、ファビエはサングラスを外しながら握手を交わした。ダンディで有名なハリウッド俳優J・クルーニーに似た、ハンサムな顔立ちである。
「国際探偵協会(IAD)を通じて、彼女の探偵事務所から協力要請を受けてね。フランスでの依頼遂行に当たって、僕が通訳兼助手になる予定だったんだ」
そう言って結城にウィンクしてみせた。色男を気取ったような仕草に、「通訳は必要ないと思いますけどね」と呆れたような声で結城は返答した。
「なるほど。しかし目的の相手が死んでしまった以上、その協力も取りやめということになるのでは?」
そのランドローの問いに答えたのはファビエではなくガルニエだった。
「そこなんだがね、ドミニク。マドモアゼル・ユウキは、この後も一週間ほどフランスに残って、本事件の調査を続けたいらしい。ファビエも同行するそうだ。ついては、もし彼らから情報提供を求められたら、可能な範囲で構わんから応じてやってくれないか」
「は? いや、しかし民間人に教えるわけには…」
ランドローの抗議に対して、ガルニエは頭をかきながら溜息をついた。
「このファビエは元刑事でね。私とはパリ警視庁の研修時代から同期で、その頃から何度か事件捜査で借りを作ってるんだ。ウチの署長とも面識がある。そんな彼の頼みとなると、そう無下にもできん」
そう言うとガルニエは結城に向き直った。
「それに、こちらのお嬢さんも元は日本の警察官だったんだろう? なら我々の捜査の邪魔をしないくらいの節度はわきまえているだろうし、ファビエが一緒に行動するなら暴走する心配もなかろう。責任は私が持つから、ひとつ頼まれてほしい」
「…分かりました。警部がそうおっしゃるなら」
なおも不満顔のランドローだったが、上司からの命令同然の頼みとあれば断れない。
「感謝します、ガルニエ警部、ランドロー警部補」
結城は、日本人らしく丁寧にお辞儀をして礼を述べた。
「さて、話もまとまったところで早速だが、被害者の死因の詳細や、これまで分かっている捜査情報を可能な範囲で教えてくれるかね?」
ファビエが「可能な範囲で」という部分をあえて強調するように聞くと、ランドローはあきらめた表情で「捜査課で話しますので付いてきてください」と一同を連れ立って行った。
3
「僕に断りもなしに、そんなことを言ってしまったの?」
スマートフォンの受話口から、佐伯の困惑した声が響いた。
「先に断ろうとしても、許可しないと思いまして」
「当たり前だろう。君がやろうとしていることは、依頼内容に含まれていない。完全な逸脱行為じゃないか。そりゃね、金村さんが亡くなっていたのは残念だったよ。僕だって悲しい。けど、だからと言ってフランスの捜査当局と張り合って、事件に首を突っ込んだところで、どうにかなるものでもないだろう?」
「やってみなければ分からないじゃないですか。それに、被害者と同じ日本人だからこそ、気づくこともあると思うんです。何より、ファビエさんという心強いパートナーもいますから」
「そうは言うけどねえ…」
捜査課でランドローから捜査情報を手に入れた後、結城は警察署の入り口に移動し、上司の佐伯に連絡を取っていた。今朝パリに到着し、落ち合ったファビエから金村の不審死の記事を見せられ、ナント警察署へ向かうことを伝えて以来の業務報告である。
外を見るとすっかり日は暮れ、行き交う自動車のライトや街灯が、古都の夜をまばゆい光で彩っていた。
結城が日本を発ったのは、村中と面談した日から二日後のことであった。依頼の正式な受注後、大急ぎで書類仕事の引継ぎを済ませ、現地での調査方法や日程、滞在費、報酬について村中と電話で最終確認をし、航空券を手配して成田に直行するという怒涛の作業を済ませた上での出発である。
海外調査部の依頼は大抵日程に余裕がないことが多く、文字通り一分一秒の時間もムダにできない。結城はこの仕事に就いて以来、いつでも海外に旅立てるよう、荷物を詰め込んだスーツケースを常に自宅に待機させている。
今回の依頼の場合、与えられた調査日数は十日間であった。異国での人探しという目的を考えると、必ずしも十分な期間とは言えない。少なくとも外国人探偵の単独による調査では、失踪者の足跡をたどれるかすら怪しい。
そこで不可欠なのが現地探偵社との連携だ。国際探偵協会(IAD)の会員であれば、各国の探偵社が保有する情報ネットワークを活用したり、今回のように現地の探偵から一時的な協力を取り付けることができる。
加えて、海外での調査活動を劇的に変化させたのがインターネットの発達とスマートフォンの普及である。GPSを使用した地図サイトやSNSを駆使することにより、初めて訪れる国であっても、効率的に情報収集を行うことができるようになった。
ただ、それらはあくまで探偵社が請け負える種類の調査で有用なのであって、不審死、特に殺人事件ともなれば明らかに警察の分野であり、公的な権力を持たない探偵では、対等な捜査など望めるはずもない。佐伯が「どうにもできない」と匙を投げるのも無理からぬことであった。
しかし結城にとって幸いだったのは、パートナーのファビエの前職が刑事であったことだ。フランスの探偵の約半数は警察や軍からの退職組であると言われており、特に元刑事の探偵は、調査内容によっては現役時代の人脈を活かし、非公式な形で警察のデータにアクセスできるという。
ファビエがナント警察署の上層部にコネがあることを知った結城は、ランドローに面会する前に、事件捜査で便宜を図ってもらえるよう彼に依頼しておいたのだ。
「それで所長に至急、お願いしたいことがありまして」
結城は声のトーンを少し落とした。
「僕がすっかり承諾したような前提で話を進めるのは、やめてくれないかね。一応聞いておくが、何だい」
「村中さんへの説明です。当初、フランスでの調査期間は十日間の予定でしたから、まだ九日ほどあります。残り期間の調査費を、金村さんの死因究明へ充てられるよう、説得してもらえませんか」
「…もし、ダメと言われたら?」
「十中八九、それはないと思います」
「なぜだい?」
「村中さんは情に厚く、義理堅い方です。恩人が原因不明の死を遂げたと聞いて、その事実を黙って受け入れるとは思えません。もし他殺なら尚更です。真相を知りたいと考えるのが自然でしょう」
「だから君の調査も続けさせてくれるだろうと?」
「はい」
「それでも、やっぱりダメとなったら?」
「その場合は仕方ありません」
「あきらめるかね?」
「有給休暇を申請して、自腹で調査を続けます」
「…それは、ほとんど脅しじゃないか」
受話口の向こうで、佐伯の盛大な溜息が聞こえた。
「分かったよ、村中さんには丁寧に説明しておく。まあ、彼が真相を知りたがるだろうという推測には僕も同意見だからね。おそらく承諾してくれるだろう。ただし当初の予定通り、期限は十日間だ。それを過ぎたら、たとえ調査の途中でもあきらめて帰国したまえ」
「ありがとうございます。ところで、日本を出発する前に頼んでおいた件ですが」
「金村さんの息子さんの所在調査かい? それも進めてるよ。まあ、彼の場合は失踪したわけじゃないし、一両日中には、居場所が分かるんじゃないかな」
「え、そんなに早くですか?」
佐伯が「ふん」と得意がる声を響かせる。
「僕の情報網をナメてもらっちゃ困る。記者時代に貸しを作った元同僚や役人、刑事が日本全国にいるのだよ。僕が一声かければ、捜索協力を惜しまない連中だ。息子さんが見つかったら、彼から話を聞きたいんだろう?」
「ええ。息子さんの反応も気になりますし、もし今回の事件に金村さんの過去が関係しているとすれば、彼が何か知っているかもしれませんから」
「その役目には神崎君が適任だろう。彼は聞き上手だからね。この件で進展があったら連絡する」
「お願いします」
「くれぐれも、気を付けてくれたまえよ。君に何らかの危険が及ぶ可能性もゼロじゃない。ファビエ氏と常に行動を共にして、慎重に調査を進めてくれ」
「分かりました」
結城が礼を言って携帯を切ると、ちょうど書類を抱えたファビエが現れた。
「上司への連絡は済んだかね?」
「ええ。今回は無理を言ってすみません。改めてお礼を言わせてください」
お辞儀をした結城に、ファビエは茶目っ気のある微笑みを浮かべた。
「別に構わないよ。女性が困っていたら、助けるのがフランスの男の義務だ。それが東洋の美女とくれば尚更さ」
「お上手ですね」
結城が微笑み返す。するとファビエは少し真面目な顔で続けた。
「それに、ギャラは前払いで貰っている。僕の事務所も経営が厳しくてね。キャンセルで返金を求められるような事態は避けたいんだ」
「ファビエさん、所長なんですか? 所長自ら、こういう仕事を?」
結城が驚いたように聞くと、ファビエは肩をすくめた。
「日本の業界事情は知らないが、フランスの探偵事務所は、ほとんどが零細業者だよ。従業員を雇うとしても、せいぜい二、三人だ。食いつないでいくためには仕事を選り好みできないのさ。まあ、僕の話はいいとしてだ」
ファビエは持っていた書類を結城に見せた。
「こいつはランドロー警部補に頼んで譲ってもらった、捜査資料のコピーだ。機密保持の責任上、僕が保管しておくが、事件の概要を確認したくなったら、いつでも見せてあげるよ」
「ありがとうございます。ところで、ランドロー警部補は?」
「君に教えてもらった被害者の住所を訪ねに、部下のブスケ刑事と明日の朝一番でパリに向かうそうだ。自宅ならDNA鑑定に必要なサンプルを採取できるだろうし、何か事件解決につながる手がかりが掴めるかもしれないからね。どうする? 君も同行できるよう頼んでみるかい?」
結城は首を振った。
「あまり大人数で行っても邪魔になるでしょうし、あとで結果を教えて頂ければ十分です。その間、私はこの街を調査したいと思います」
「この街を調査?」
「日本には現場百回という言葉があります。まずは金村さんの遺体が発見された現場を見に行きましょう。この街も少し回ってみたいので、それにも同行してもらえますか?」
結城が尋ねると、ファビエは伊達男を気取るように右手を胸に当て、微笑みながら、軽くお辞儀をしてみせた。
「もちろん喜んでエスコートさせてもらうよ。運転手役は任せてくれ。どこへでも連れて行ってあげよう」
「ありがとうございます。ただ…」
結城は笑みを返しながら、ファビエの左手を指差した。
「外していた指輪は、はめ直して頂いて結構ですよ。そういう雰囲気には、ならないと思いますから」
最後に「今日はもうホテルに戻ります。また明日連絡を」と言い残し、結城は警察署の外へと歩いていく。背後では、「オーララ」とファビエが残念そうな声を上げるのが聞こえた。
「どうぞ、入ってください」
先に入室したランドローに続いて、結城が一歩足を踏み入れると、そこには金属製の検死台と、遺体保存用の冷蔵庫が整然と並ぶ、独特の光景が広がっていた。冷蔵庫は、さながら無機質なカプセルホテルといった外観で、室内の冷たく重苦しい空気の元凶と言えるような存在感を放っている。
警察庁時代、結城も何度か遺体安置所に入ったことはあったが、やはりいつまでも慣れない。最低限の装飾などが施してある病院の霊安室などと違って、安置所の殺風景な内装は、遺体をモノ扱いしている証左のように感じる。実に居心地の悪い空間だ。
ランドローは中で待機していた監察医に一言話すと、ちょうど真ん中の列にある冷蔵庫の前まで結城を案内した。
「マドモアゼル・ユウキ…でよろしかったですか? あなたは探偵になる前は警察官だったと先ほど伺いました。なら、遺体の確認にも慣れているでしょう?」
「ええ、問題ありません。続けてください」
監察医が上から二番目の冷蔵庫の扉を開き、中から透明の袋に入れられた遺体を台ごと引っ張り出した。防腐処理された遺体は、想像よりも清潔に保たれていて、人相も容易に判別できる状態にあった。
――人違いであってほしい。結城は直前までそう願っていた。だが遺体の顔が目に飛び込んだ瞬間、その希望が脆くも崩れ去るのを感じた。
「これが、依頼人から預かってきた金村氏の写真です」
そう言うと、結城はジャケットから一枚の写真を取り出し、ランドロー警部補に手渡した。村中が面談時に差し出した、自衛官時代の写真を引き伸ばしたものだった。
ランドローは写真の中の人物と、目の前に横たわる遺体の顔とを見比べるように交互に視線を移した。
「なるほど、遺体の顔がやや膨らんでいるのを差し引いても、確かによく似ていますね。ただ、正直これだけでは、まだ本人だと断定するのは難しいと思いますが…」
「ごもっともです。ですから金村さんの身体的特徴も依頼人から聞いてきました。右の前上腕部を見てみてください。細長い傷痕がありませんか?」
ランドローの指示を受けて、監察医が透明の袋の上から右腕を動かした。
「…ありますね。傷痕というよりも、茶色い染みのようだが…これはどこで?」
「自衛官時代、遠泳訓練でクラゲに刺されたそうです。その痕が今も残っているんですよ」
「なるほど、かなり特殊な傷ですね。身元確認の証拠としては、信頼性は高いと言えそうです」
写真をコピーしてもよいかと聞くランドローに承諾の首肯をした後、結城は改めて金村の死顔に目をやった。
今でこそ安らかな表情を浮かべているが、溺死という状況から考えて、遺体発見時は苦悶に満ちた様相を呈していたのではないだろうか。写真の中では優しげな笑顔を見せていた好人物が、どれほどの苦しみの中で命を落としたかを想像すると、やりきれなさを感じずにはいられない。
結城は日本式に手を合わせ、目を閉じて冥福を祈った。
「新聞記事で、死亡時のおおよその状況は把握しているのですが、捜査本部は自殺か他殺かの断定はまだされていないのですね?」
合掌を終えると、ランドローに尋ねた。
「その通りです。ただ、捜査から二週間経過した現時点でも、他殺を匂わせる目ぼしい手がかりが見つかっていないため、本部内ではどちらかと言えば自殺の可能性に傾いていますがね」
「警部補ご自身は、どちらだと思いますか?」
その問いに、ランドローは肩をすくめてみせた。
「正直に言いますと、自殺と結論付けられても仕方ないと思っていました。恐怖感を和らげるために睡眠薬を服用し、水中で無意識にもがくことのないよう両手両足を縛った上で入水する。こうした方法は珍しくありません。ただ、気になる点もゼロではない」
ランドローは監察医に、遺体を裏返すよう頼んだ。指示を受けてうつ伏せにした遺体の後頭部の傷痕を結城に見せる。
「この傷痕が何でどのように付いたものなのか、今のところ不明なのですが、仮に被害者の死に関係しているとすれば、わずかでも第三者の関与が疑われます。そしてここに来て、もう一つ疑問点が浮かびました」
ランドローは結城に手渡された写真に目を移した。
「あなたのお話を聞いた限り、この被害者…ムッシュ・カネムラは半年前、パリに移住したばかりで、ナントとは特に縁もゆかりもないことになります。仮に動機が自殺だとして、なぜわざわざ自宅から遠く離れたこの街で決行したのか。その理由を探る必要はあるかもしれません」
「私も同じ意見です。加えて申し上げるならば、私は自殺だとは思えません」
「ほう。なぜですか?」
「一つは、私の依頼人である村中さんに対し、彼が何のメッセージも残していないことです。被害者にとって、村中さんは自衛官時代から苦楽を共にした同僚で、フランスに渡ってからも親しく連絡を取り合っていました。奥様と死別し、息子さんと疎遠になってからは、最も近しい存在だったと思います。ただでさえ、独りで外国暮らしそんな相手に何ら別れも告げないまま、命を絶つのは不自然だと思います。そしてもう一つは…」
「何ですか?」
「探偵としての勘です」
ランドローは苦笑いを浮かべた。
「なるほど。確かに刑事も勘で動くこともありますから軽視はできませんね」
監察医に遺体を冷蔵庫に戻すよう指示を出すと、ランドローは「確認もできたので出ましょうか」と結城を出口へ促した。
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「ところでマドモアゼル・ユウキ。被害者のパリの住所はご存知ですか?」
待合室へ戻るなり、ランドローに尋ねられた結城は、ジャケットから手帳を取り出すと、空白のページに住所を書き込み、それを破いて差し出した。
「依頼人の村中さんは、番地までは知らないようでしたので、日本を出発する前にパリの知人に頼んで調べてもらいました。十一区の、バスティーユ広場に近い通りにあるアパルトマンです」
「ありがたい。身元が割れた以上、我々でも調べることはできるのですが、これで時間の節約になりますよ」
ランドローは住所が書かれたメモを受け取り中身を確認すると、ポケットにしまった。
「いや、今回はあなたが訪ねてきてくれて本当に助かりました。これで捜査は大きく進展するでしょう。ご協力に感謝します」
必要な情報を得られたので、もう用はないと言わんばかりに握手を求めてきた警部補の事務的な態度に、結城は苦笑した。
「ランドロー警部補。お願いがあります」
「何でしょう?」
「私も、捜査に協力させてもらえないでしょうか?」
思わぬ嘆願に、「え?」と驚くランドローの反応は、結城の予想通りの展開であった。
「もちろん警察の捜査チームに参加したいという意味ではありません。ただ、今回の事件、私は独自に調査を行いたいと思っています。その際、私と警察でお互いに得た情報や手がかりを共有すれば、真相解明に早くたどり着けると思うのです」
ランドローの表情に、明らかな困惑の色が浮かんだ。
「マドモアゼル・ユウキ。あなたが請け負った依頼は、失踪人としての被害者の行方探しだったのでしょう? しかし、ムッシュ・カネムラは残念ながら亡くなっていました。こうなった以上、あなたの調査は打ち切りということになるのではないですか?」
「確かに職務上はそうなります。ですから、これはあくまで私の個人的な意思による行動です。このあと、依頼人の村中さんにも事の顛末を報告しなければなりませんが、きっと彼はショックを受け、悲しみに暮れるでしょう。しかも金村さんの死の原因が殺人となれば、その無念はより大きいものになります。そのことが分かっていながら、このまま何もせずに日本に帰るのは、私自身が納得できないのです」
「いや、そのお気持ちは理解できますがね。やはり認められないでしょう」
ランドローは少しばかり語気を強めて返答した。相手が元同業者ということもあって、今までは結城への態度に敬意がこもっていたが、ぶしつけとも取れる彼女の申し出は少々不快に感じたのだろう。厄介な荷物を抱え込んでしまったと思っているかもしれない。
「そもそもあなたは外国人です。日本では探偵であっても、ここフランスでは何の権限も持たない。言ってみれば観光客同然です。元警察官という経歴も意味を成しません。申し訳ないが、我々としても、部外者に捜査にしゃしゃり出てこられては困るのですよ。それに調査をすると言っても、異国で一人では何もできないでしょう?」
「いいえ、私一人ではありません」
「…と言いますと?」
その時、待合室のドアがノックされた。
「失礼するよ」
そう言って入ってきたのは二人の中年白人男性だった。一人は恰幅のいい体格で白いワイシャツと赤いネクタイだけのラフな格好。もう一人は背が高く、サングラスをかけ、ネイビースーツをスマートに着こなしている。
「ガルニエ警部! 何か御用ですか?」
ランドローは驚きながら、ラフな格好の男に声をかけた。
「その前に、こちらのお嬢さんに自己紹介させてくれるかね。初めましてマドモアゼル・ユウキ。私は捜査課で警部をやっているガルニエだ。ムッシュ・カネムラの事件でも、包括的な指揮を執らせてもらってる」
「キョウコ・ユウキです。こちらこそ、お会いでできて光栄です」
差し出された手を杏子は握り返した。
続けてガルニエはランドローのほうを向いて、後ろに立っている男を紹介した。
「ドミニク、彼はパリの探偵社に所属しているジャン・ファビエだ。今回はマドモアゼル・ユウキのパートナーとしてナントに来ている」
「パートナー?」
いぶかしがるランドローに、ファビエはサングラスを外しながら握手を交わした。ダンディで有名なハリウッド俳優J・クルーニーに似た、ハンサムな顔立ちである。
「国際探偵協会(IAD)を通じて、彼女の探偵事務所から協力要請を受けてね。フランスでの依頼遂行に当たって、僕が通訳兼助手になる予定だったんだ」
そう言って結城にウィンクしてみせた。色男を気取ったような仕草に、「通訳は必要ないと思いますけどね」と呆れたような声で結城は返答した。
「なるほど。しかし目的の相手が死んでしまった以上、その協力も取りやめということになるのでは?」
そのランドローの問いに答えたのはファビエではなくガルニエだった。
「そこなんだがね、ドミニク。マドモアゼル・ユウキは、この後も一週間ほどフランスに残って、本事件の調査を続けたいらしい。ファビエも同行するそうだ。ついては、もし彼らから情報提供を求められたら、可能な範囲で構わんから応じてやってくれないか」
「は? いや、しかし民間人に教えるわけには…」
ランドローの抗議に対して、ガルニエは頭をかきながら溜息をついた。
「このファビエは元刑事でね。私とはパリ警視庁の研修時代から同期で、その頃から何度か事件捜査で借りを作ってるんだ。ウチの署長とも面識がある。そんな彼の頼みとなると、そう無下にもできん」
そう言うとガルニエは結城に向き直った。
「それに、こちらのお嬢さんも元は日本の警察官だったんだろう? なら我々の捜査の邪魔をしないくらいの節度はわきまえているだろうし、ファビエが一緒に行動するなら暴走する心配もなかろう。責任は私が持つから、ひとつ頼まれてほしい」
「…分かりました。警部がそうおっしゃるなら」
なおも不満顔のランドローだったが、上司からの命令同然の頼みとあれば断れない。
「感謝します、ガルニエ警部、ランドロー警部補」
結城は、日本人らしく丁寧にお辞儀をして礼を述べた。
「さて、話もまとまったところで早速だが、被害者の死因の詳細や、これまで分かっている捜査情報を可能な範囲で教えてくれるかね?」
ファビエが「可能な範囲で」という部分をあえて強調するように聞くと、ランドローはあきらめた表情で「捜査課で話しますので付いてきてください」と一同を連れ立って行った。
3
「僕に断りもなしに、そんなことを言ってしまったの?」
スマートフォンの受話口から、佐伯の困惑した声が響いた。
「先に断ろうとしても、許可しないと思いまして」
「当たり前だろう。君がやろうとしていることは、依頼内容に含まれていない。完全な逸脱行為じゃないか。そりゃね、金村さんが亡くなっていたのは残念だったよ。僕だって悲しい。けど、だからと言ってフランスの捜査当局と張り合って、事件に首を突っ込んだところで、どうにかなるものでもないだろう?」
「やってみなければ分からないじゃないですか。それに、被害者と同じ日本人だからこそ、気づくこともあると思うんです。何より、ファビエさんという心強いパートナーもいますから」
「そうは言うけどねえ…」
捜査課でランドローから捜査情報を手に入れた後、結城は警察署の入り口に移動し、上司の佐伯に連絡を取っていた。今朝パリに到着し、落ち合ったファビエから金村の不審死の記事を見せられ、ナント警察署へ向かうことを伝えて以来の業務報告である。
外を見るとすっかり日は暮れ、行き交う自動車のライトや街灯が、古都の夜をまばゆい光で彩っていた。
結城が日本を発ったのは、村中と面談した日から二日後のことであった。依頼の正式な受注後、大急ぎで書類仕事の引継ぎを済ませ、現地での調査方法や日程、滞在費、報酬について村中と電話で最終確認をし、航空券を手配して成田に直行するという怒涛の作業を済ませた上での出発である。
海外調査部の依頼は大抵日程に余裕がないことが多く、文字通り一分一秒の時間もムダにできない。結城はこの仕事に就いて以来、いつでも海外に旅立てるよう、荷物を詰め込んだスーツケースを常に自宅に待機させている。
今回の依頼の場合、与えられた調査日数は十日間であった。異国での人探しという目的を考えると、必ずしも十分な期間とは言えない。少なくとも外国人探偵の単独による調査では、失踪者の足跡をたどれるかすら怪しい。
そこで不可欠なのが現地探偵社との連携だ。国際探偵協会(IAD)の会員であれば、各国の探偵社が保有する情報ネットワークを活用したり、今回のように現地の探偵から一時的な協力を取り付けることができる。
加えて、海外での調査活動を劇的に変化させたのがインターネットの発達とスマートフォンの普及である。GPSを使用した地図サイトやSNSを駆使することにより、初めて訪れる国であっても、効率的に情報収集を行うことができるようになった。
ただ、それらはあくまで探偵社が請け負える種類の調査で有用なのであって、不審死、特に殺人事件ともなれば明らかに警察の分野であり、公的な権力を持たない探偵では、対等な捜査など望めるはずもない。佐伯が「どうにもできない」と匙を投げるのも無理からぬことであった。
しかし結城にとって幸いだったのは、パートナーのファビエの前職が刑事であったことだ。フランスの探偵の約半数は警察や軍からの退職組であると言われており、特に元刑事の探偵は、調査内容によっては現役時代の人脈を活かし、非公式な形で警察のデータにアクセスできるという。
ファビエがナント警察署の上層部にコネがあることを知った結城は、ランドローに面会する前に、事件捜査で便宜を図ってもらえるよう彼に依頼しておいたのだ。
「それで所長に至急、お願いしたいことがありまして」
結城は声のトーンを少し落とした。
「僕がすっかり承諾したような前提で話を進めるのは、やめてくれないかね。一応聞いておくが、何だい」
「村中さんへの説明です。当初、フランスでの調査期間は十日間の予定でしたから、まだ九日ほどあります。残り期間の調査費を、金村さんの死因究明へ充てられるよう、説得してもらえませんか」
「…もし、ダメと言われたら?」
「十中八九、それはないと思います」
「なぜだい?」
「村中さんは情に厚く、義理堅い方です。恩人が原因不明の死を遂げたと聞いて、その事実を黙って受け入れるとは思えません。もし他殺なら尚更です。真相を知りたいと考えるのが自然でしょう」
「だから君の調査も続けさせてくれるだろうと?」
「はい」
「それでも、やっぱりダメとなったら?」
「その場合は仕方ありません」
「あきらめるかね?」
「有給休暇を申請して、自腹で調査を続けます」
「…それは、ほとんど脅しじゃないか」
受話口の向こうで、佐伯の盛大な溜息が聞こえた。
「分かったよ、村中さんには丁寧に説明しておく。まあ、彼が真相を知りたがるだろうという推測には僕も同意見だからね。おそらく承諾してくれるだろう。ただし当初の予定通り、期限は十日間だ。それを過ぎたら、たとえ調査の途中でもあきらめて帰国したまえ」
「ありがとうございます。ところで、日本を出発する前に頼んでおいた件ですが」
「金村さんの息子さんの所在調査かい? それも進めてるよ。まあ、彼の場合は失踪したわけじゃないし、一両日中には、居場所が分かるんじゃないかな」
「え、そんなに早くですか?」
佐伯が「ふん」と得意がる声を響かせる。
「僕の情報網をナメてもらっちゃ困る。記者時代に貸しを作った元同僚や役人、刑事が日本全国にいるのだよ。僕が一声かければ、捜索協力を惜しまない連中だ。息子さんが見つかったら、彼から話を聞きたいんだろう?」
「ええ。息子さんの反応も気になりますし、もし今回の事件に金村さんの過去が関係しているとすれば、彼が何か知っているかもしれませんから」
「その役目には神崎君が適任だろう。彼は聞き上手だからね。この件で進展があったら連絡する」
「お願いします」
「くれぐれも、気を付けてくれたまえよ。君に何らかの危険が及ぶ可能性もゼロじゃない。ファビエ氏と常に行動を共にして、慎重に調査を進めてくれ」
「分かりました」
結城が礼を言って携帯を切ると、ちょうど書類を抱えたファビエが現れた。
「上司への連絡は済んだかね?」
「ええ。今回は無理を言ってすみません。改めてお礼を言わせてください」
お辞儀をした結城に、ファビエは茶目っ気のある微笑みを浮かべた。
「別に構わないよ。女性が困っていたら、助けるのがフランスの男の義務だ。それが東洋の美女とくれば尚更さ」
「お上手ですね」
結城が微笑み返す。するとファビエは少し真面目な顔で続けた。
「それに、ギャラは前払いで貰っている。僕の事務所も経営が厳しくてね。キャンセルで返金を求められるような事態は避けたいんだ」
「ファビエさん、所長なんですか? 所長自ら、こういう仕事を?」
結城が驚いたように聞くと、ファビエは肩をすくめた。
「日本の業界事情は知らないが、フランスの探偵事務所は、ほとんどが零細業者だよ。従業員を雇うとしても、せいぜい二、三人だ。食いつないでいくためには仕事を選り好みできないのさ。まあ、僕の話はいいとしてだ」
ファビエは持っていた書類を結城に見せた。
「こいつはランドロー警部補に頼んで譲ってもらった、捜査資料のコピーだ。機密保持の責任上、僕が保管しておくが、事件の概要を確認したくなったら、いつでも見せてあげるよ」
「ありがとうございます。ところで、ランドロー警部補は?」
「君に教えてもらった被害者の住所を訪ねに、部下のブスケ刑事と明日の朝一番でパリに向かうそうだ。自宅ならDNA鑑定に必要なサンプルを採取できるだろうし、何か事件解決につながる手がかりが掴めるかもしれないからね。どうする? 君も同行できるよう頼んでみるかい?」
結城は首を振った。
「あまり大人数で行っても邪魔になるでしょうし、あとで結果を教えて頂ければ十分です。その間、私はこの街を調査したいと思います」
「この街を調査?」
「日本には現場百回という言葉があります。まずは金村さんの遺体が発見された現場を見に行きましょう。この街も少し回ってみたいので、それにも同行してもらえますか?」
結城が尋ねると、ファビエは伊達男を気取るように右手を胸に当て、微笑みながら、軽くお辞儀をしてみせた。
「もちろん喜んでエスコートさせてもらうよ。運転手役は任せてくれ。どこへでも連れて行ってあげよう」
「ありがとうございます。ただ…」
結城は笑みを返しながら、ファビエの左手を指差した。
「外していた指輪は、はめ直して頂いて結構ですよ。そういう雰囲気には、ならないと思いますから」
最後に「今日はもうホテルに戻ります。また明日連絡を」と言い残し、結城は警察署の外へと歩いていく。背後では、「オーララ」とファビエが残念そうな声を上げるのが聞こえた。
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