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過去、未来。
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異様に目が大きく、同じくらい異様に顎の小さい、古くから宇宙人として知られる姿。一説によれば、それは目を酷使することにより大きく目が発達するとともに、咀嚼が減ったことによって顎が衰退していった未来人の姿ということだ。
なるほど、確かに一理あるだろう。柔らかいものを食し、パソコンやスマートフォンの画面を見続ける生活。私達はだんだんとその宇宙人の姿に近づいているのかもしれない。
ところが、目を酷使することで、頬骨が外側に出ていくという話もあるらしい。ということは、あの逆三角形のような頭部の宇宙人の姿は即ち私たちの未来の姿ということではなさそうだ。
話は変わって、オーパーツという超常なるものが存在している。当時の技術は当然ながら、現代の技術でも再現不能と言われる品々である。では、そのオーパーツはどのようにして持ち込まれたのか?宇宙人が持ち込んだのだろうか?
さもありなん。
だが、同じくらいの可能性として、未来から持ち込まれたというのも否定できないのではないだろうか。
未来の技術。
はるか未来ならば、現代では出来ないことが沢山できるようになっているのだろう。かの有名なネコ型ロボットの実現、ひいてはかのロボットがポケットから取り出す便利な道具の数々。空飛ぶ道具もあれば、タイムマシンもあり、自分の姿を認識させない、自分の姿をかえる道具もあるかもしれない。
自分の姿をかえる技術。
自分の姿を理想のものにかえる技術。
これは限定された条件にあっては既にある程度確立されていると言っても過言ではない。いや、整形手術のことではない。もちろん、それも技術として立派すぎるものではあるし、人間の進歩の集大成であることは言うまでもない。医学の発展は素晴らしい。ただ、万人がその恩恵に必ず預かれるかといえば残念ながらそうではないし、何より寸分違わず自分の理想になるかと言えば決してそうではない。依頼をして手術を受けるのは自分でも、手術をするのは医者であるので、相手に自分の理想の顔をそのまま脳に流し込むので無ければ厳密に同じビジョンはみえないし、どころか、その描いた理想は素人には到底想像もつかない壁の向こう側にあるものかもしれない。
では何か。万人が自分の理想の通りに自分の姿をかえる技術。それも、限定条件下とはいえ、ローコストで、誰でも自分でできる技術。
写真加工である。つまり、撮影した画像をもとにそれを操作修正加工することにより、誰でも自分で自分の理想をそこに作り上げることができる。
ならばこの技術がこのまま発展していけばどうか。動画の加工が更に容易に一般的になるのは明白だろう。いずれはVRが現実に投影され、見る人が装置を装着するのではなく、見せたい人が装置を装着する日も来るだろう。加工技術がVRと組み合わさり、常に理想の自分を自身に投影し続けることが流行するかもしれない。医学の発展は素晴らしいが、デジタルコンテンツの発展も同様に目を見張るものがある。この破竹の勢いがこの先も続いて続いて、それからもっと続いた未来。
そういう未来も、あるかもしれない。自分は引き出しの中に収納されているタイムマシンは持ち合わせていないし、ネコ型ロボットの友人もいない。未来人との繋がりもなければ自分が未来人ということもない。ただの一般現代人である。ここまでもここから先も一般的な現代人の妄想、空想、想像の話である。
だからこそ、その未来は完全に否定することはできない。
人間が想像出来ることはいずれ現実のものとなるそうだ。かの有名な言葉によれば。
常に自分を自分に投影し続ける未来。電車ーー未来にも、そういった乗り物があれば、だがーー隣に座る人の姿が本物かどうか分からない未来。
道行く人にアニメキャラクターの姿があり、1000年に1人の美少女が群れを為してハンバーガーを食べる日常的非日常。
そういった未来にもやはり、様々な弊害があるのだろう。
素顔を見せずに結婚することが良いのか悪いのか。
性別を偽るものもいるだろう。
指名手配犯の顔写真など意味をなさない。
受動的能動的はともかく、いじめ被害者がその傷跡を隠すために使用することも多々あるだろう。
被害者の被害の跡を隠す為の使用。その点に関して最も被害が懸念されるのが児童虐待であろう。
現実や創作物から暴力を取り除いた昨今であっても、児童虐待は様々な形をもって存在するし、どこまでが虐待でどこからが躾なのか、という議論は議論する者の倫理観によるものであり、家庭一つ一つの環境や状況に合わせた普遍的な結論が出せない以上、その問題はこの先果てない未来であっても変わらないだろう。
それこそ、子どもと親が離れて過ごす事が普通にならない限り。
いや、この未来では、人体に虚像を投影する技術もあれば、タイムマシンが存在し、ネコ型ロボットが存在する未来であった。
ならば、タイムマシンが単純な時間旅行の道具として使われないことも同様に想像がつく。
飼い主がペットをダンボール箱にいれ誰かに拾われそうなところに置き去りにして捨てるように、親が子どもを捨てるためにタイムマシンを使い、子どもの需要が比較的高い時代に捨てるのかもしれない。ペットを捨てることも子どもを捨てることも、如何なる理由があっても許されるものではないが、それでも当の本人達にとってみればそれが最善の選択にみえてしまっていたこともある。
捨てるものの最後の良心として、捨てた物の未来を案ずる。なんとも身勝手な話ではあるが、むしろそういう所が人間らしい矛盾した感情ともいえる。殺さずに捨てるのであるから、捨てた物のこの先の幸くらいは願って捨てるだろう。
捨てた先は、例えば第二次世界大戦後。世界を揺るがす大戦が終わり、日本はもちろん、有利な状況で戦争を終えた国々であっても将来の生産者たる子どもたちに対する重要性は高まっている頃であろう。特に、捨てられた例の子どもは未来の機械で恐ろしく愛らしい姿をしているに違いない。
そんな子どもを不要とするのか?
1000年に1人の逸材を?
本来の姿がどんなにやせ細って、窪んだ眼科をしていてもだ。少年たちが憧れるような美少女でなくても、美少女でいられる未来の道具なのだから。その充電ーー電気以外のエネルギーで動くものだったとしてもーーが切れるまでは。
1950年頃のアメリカといえば、消費社会であり、古き良きアメリカとして描かれる輝かしい時代ではあるが、それが全てであるわけではない。輝かしい面が取り上げられることが多いが、今よりも人種差別は過激であったし、同性愛に対する排他的な思想も強くあり、女性はまだ社会の一線で活躍するのは普通ではなかった。
光の当たるところで日常を送る者もいれば、影で生きることを強いられる者も当然存在したのだ。
影に追いやられない為にも己を偽り、他人を偽る人間ならその善悪はともかくとして、どの時代にも存在する。自分の姿を偽る未来のように。
男性を装ってビジネスをする女性もいれば、出自を隠して隣人に笑いかける男性、年齢を偽って自身を売る少女。そして、同性愛者であることをひた隠しにする人々。
現代において、性別に関係なく人を愛することは素晴らしいことだが、それが恋愛関係となれば異様にみえることもあるのであろう。その人が社会的地位のある人間であれば、その恋愛対象が欠点となるほどに。
ましてや1950年、同性愛に対して排他的思想が蔓延する世界ではどんな一般人であっても軽々しくそのことを告白することはできなかったであろう。
現代でも同性同士では実子を為すことはできないが、養子縁組などのやりようによっては、2人の子どもとして、子どもの両親としての関係を築くことは可能ではあるがまだ難しい面も多い。愛する人との子どもが欲しいという願望はどの時代であっても、異性愛者同性愛者に関わらずありえる話だ。
例えばそういう時代の、傍目からは仲のいい同僚である男性同士カップルの前に、見たことも無いほど愛らしい子どもが現れたとしたら。その子どもは親に捨てられたと言い、行く宛がないと涙ながらに語ったとしたら。
余程の非人道的な人間でない限り家に迎え入れ、彼らの出来うる限りのことをするだろう。
捨てられた子どもなのだから名乗り出る親もない。そもそも子どもは未来人である。親戚も知り合いもいるはずがない。そうして日々が過ぎる中、遂に子どもに愛らしい偶像を映し出していた機械のエネルギーが切れ、子どもの本当の姿が露わになる。窪んだ眼科に、やせ細った手足、栄養失調で膨らんだ下腹部。その子どもが、いくら男性カップルの間で客人として不自由ない生活をしたとしても虐待の跡はそうそう簡単に消えるものでは無い。
己の姿を隠すのが日常と化した世界の人間でなくとも隠したいその身体。
親に愛されなかった証。
その現実を以てして、自分が自分に良くしてくれた男性カップルを騙していた事実をつきつける。幼いながらに子どもは罪悪感から泣き崩れる。だが、男性達はそれを責めるでもなく、より良く生きるために自らを偽る姿に共感を覚えるのだろう。
姿を偽る子どもと、ゲイを隠すカップル。
世間的な善悪に関してはその時代がものをいうので、現代人である私たちがとやかく言っても意味は無い。
一方で、当の本人達にとっての善悪、是非に関しても部外者である私たちが野次を飛ばす権利もない。
かくして、ゲイカップルと、未来人の子どもは、ここへ来てようやく家族としての心理的繋がりを得たのである。
対外的には同居する同僚と、捨て子の子ども。
何かを偽らなければ生きていけない世界で、彼らは、偽りではない家庭を持ったのである。
ゲイカップルの間に挟まれ、2人と手を繋ぐ子どもの姿はいかにも家族らしい。
その姿を咎めるものなど、居はしないのだ。
ということで、1950年頃のあの有名な「宇宙人捕獲」の写真がBLにみえる呪いを貴方にかけました。
なるほど、確かに一理あるだろう。柔らかいものを食し、パソコンやスマートフォンの画面を見続ける生活。私達はだんだんとその宇宙人の姿に近づいているのかもしれない。
ところが、目を酷使することで、頬骨が外側に出ていくという話もあるらしい。ということは、あの逆三角形のような頭部の宇宙人の姿は即ち私たちの未来の姿ということではなさそうだ。
話は変わって、オーパーツという超常なるものが存在している。当時の技術は当然ながら、現代の技術でも再現不能と言われる品々である。では、そのオーパーツはどのようにして持ち込まれたのか?宇宙人が持ち込んだのだろうか?
さもありなん。
だが、同じくらいの可能性として、未来から持ち込まれたというのも否定できないのではないだろうか。
未来の技術。
はるか未来ならば、現代では出来ないことが沢山できるようになっているのだろう。かの有名なネコ型ロボットの実現、ひいてはかのロボットがポケットから取り出す便利な道具の数々。空飛ぶ道具もあれば、タイムマシンもあり、自分の姿を認識させない、自分の姿をかえる道具もあるかもしれない。
自分の姿をかえる技術。
自分の姿を理想のものにかえる技術。
これは限定された条件にあっては既にある程度確立されていると言っても過言ではない。いや、整形手術のことではない。もちろん、それも技術として立派すぎるものではあるし、人間の進歩の集大成であることは言うまでもない。医学の発展は素晴らしい。ただ、万人がその恩恵に必ず預かれるかといえば残念ながらそうではないし、何より寸分違わず自分の理想になるかと言えば決してそうではない。依頼をして手術を受けるのは自分でも、手術をするのは医者であるので、相手に自分の理想の顔をそのまま脳に流し込むので無ければ厳密に同じビジョンはみえないし、どころか、その描いた理想は素人には到底想像もつかない壁の向こう側にあるものかもしれない。
では何か。万人が自分の理想の通りに自分の姿をかえる技術。それも、限定条件下とはいえ、ローコストで、誰でも自分でできる技術。
写真加工である。つまり、撮影した画像をもとにそれを操作修正加工することにより、誰でも自分で自分の理想をそこに作り上げることができる。
ならばこの技術がこのまま発展していけばどうか。動画の加工が更に容易に一般的になるのは明白だろう。いずれはVRが現実に投影され、見る人が装置を装着するのではなく、見せたい人が装置を装着する日も来るだろう。加工技術がVRと組み合わさり、常に理想の自分を自身に投影し続けることが流行するかもしれない。医学の発展は素晴らしいが、デジタルコンテンツの発展も同様に目を見張るものがある。この破竹の勢いがこの先も続いて続いて、それからもっと続いた未来。
そういう未来も、あるかもしれない。自分は引き出しの中に収納されているタイムマシンは持ち合わせていないし、ネコ型ロボットの友人もいない。未来人との繋がりもなければ自分が未来人ということもない。ただの一般現代人である。ここまでもここから先も一般的な現代人の妄想、空想、想像の話である。
だからこそ、その未来は完全に否定することはできない。
人間が想像出来ることはいずれ現実のものとなるそうだ。かの有名な言葉によれば。
常に自分を自分に投影し続ける未来。電車ーー未来にも、そういった乗り物があれば、だがーー隣に座る人の姿が本物かどうか分からない未来。
道行く人にアニメキャラクターの姿があり、1000年に1人の美少女が群れを為してハンバーガーを食べる日常的非日常。
そういった未来にもやはり、様々な弊害があるのだろう。
素顔を見せずに結婚することが良いのか悪いのか。
性別を偽るものもいるだろう。
指名手配犯の顔写真など意味をなさない。
受動的能動的はともかく、いじめ被害者がその傷跡を隠すために使用することも多々あるだろう。
被害者の被害の跡を隠す為の使用。その点に関して最も被害が懸念されるのが児童虐待であろう。
現実や創作物から暴力を取り除いた昨今であっても、児童虐待は様々な形をもって存在するし、どこまでが虐待でどこからが躾なのか、という議論は議論する者の倫理観によるものであり、家庭一つ一つの環境や状況に合わせた普遍的な結論が出せない以上、その問題はこの先果てない未来であっても変わらないだろう。
それこそ、子どもと親が離れて過ごす事が普通にならない限り。
いや、この未来では、人体に虚像を投影する技術もあれば、タイムマシンが存在し、ネコ型ロボットが存在する未来であった。
ならば、タイムマシンが単純な時間旅行の道具として使われないことも同様に想像がつく。
飼い主がペットをダンボール箱にいれ誰かに拾われそうなところに置き去りにして捨てるように、親が子どもを捨てるためにタイムマシンを使い、子どもの需要が比較的高い時代に捨てるのかもしれない。ペットを捨てることも子どもを捨てることも、如何なる理由があっても許されるものではないが、それでも当の本人達にとってみればそれが最善の選択にみえてしまっていたこともある。
捨てるものの最後の良心として、捨てた物の未来を案ずる。なんとも身勝手な話ではあるが、むしろそういう所が人間らしい矛盾した感情ともいえる。殺さずに捨てるのであるから、捨てた物のこの先の幸くらいは願って捨てるだろう。
捨てた先は、例えば第二次世界大戦後。世界を揺るがす大戦が終わり、日本はもちろん、有利な状況で戦争を終えた国々であっても将来の生産者たる子どもたちに対する重要性は高まっている頃であろう。特に、捨てられた例の子どもは未来の機械で恐ろしく愛らしい姿をしているに違いない。
そんな子どもを不要とするのか?
1000年に1人の逸材を?
本来の姿がどんなにやせ細って、窪んだ眼科をしていてもだ。少年たちが憧れるような美少女でなくても、美少女でいられる未来の道具なのだから。その充電ーー電気以外のエネルギーで動くものだったとしてもーーが切れるまでは。
1950年頃のアメリカといえば、消費社会であり、古き良きアメリカとして描かれる輝かしい時代ではあるが、それが全てであるわけではない。輝かしい面が取り上げられることが多いが、今よりも人種差別は過激であったし、同性愛に対する排他的な思想も強くあり、女性はまだ社会の一線で活躍するのは普通ではなかった。
光の当たるところで日常を送る者もいれば、影で生きることを強いられる者も当然存在したのだ。
影に追いやられない為にも己を偽り、他人を偽る人間ならその善悪はともかくとして、どの時代にも存在する。自分の姿を偽る未来のように。
男性を装ってビジネスをする女性もいれば、出自を隠して隣人に笑いかける男性、年齢を偽って自身を売る少女。そして、同性愛者であることをひた隠しにする人々。
現代において、性別に関係なく人を愛することは素晴らしいことだが、それが恋愛関係となれば異様にみえることもあるのであろう。その人が社会的地位のある人間であれば、その恋愛対象が欠点となるほどに。
ましてや1950年、同性愛に対して排他的思想が蔓延する世界ではどんな一般人であっても軽々しくそのことを告白することはできなかったであろう。
現代でも同性同士では実子を為すことはできないが、養子縁組などのやりようによっては、2人の子どもとして、子どもの両親としての関係を築くことは可能ではあるがまだ難しい面も多い。愛する人との子どもが欲しいという願望はどの時代であっても、異性愛者同性愛者に関わらずありえる話だ。
例えばそういう時代の、傍目からは仲のいい同僚である男性同士カップルの前に、見たことも無いほど愛らしい子どもが現れたとしたら。その子どもは親に捨てられたと言い、行く宛がないと涙ながらに語ったとしたら。
余程の非人道的な人間でない限り家に迎え入れ、彼らの出来うる限りのことをするだろう。
捨てられた子どもなのだから名乗り出る親もない。そもそも子どもは未来人である。親戚も知り合いもいるはずがない。そうして日々が過ぎる中、遂に子どもに愛らしい偶像を映し出していた機械のエネルギーが切れ、子どもの本当の姿が露わになる。窪んだ眼科に、やせ細った手足、栄養失調で膨らんだ下腹部。その子どもが、いくら男性カップルの間で客人として不自由ない生活をしたとしても虐待の跡はそうそう簡単に消えるものでは無い。
己の姿を隠すのが日常と化した世界の人間でなくとも隠したいその身体。
親に愛されなかった証。
その現実を以てして、自分が自分に良くしてくれた男性カップルを騙していた事実をつきつける。幼いながらに子どもは罪悪感から泣き崩れる。だが、男性達はそれを責めるでもなく、より良く生きるために自らを偽る姿に共感を覚えるのだろう。
姿を偽る子どもと、ゲイを隠すカップル。
世間的な善悪に関してはその時代がものをいうので、現代人である私たちがとやかく言っても意味は無い。
一方で、当の本人達にとっての善悪、是非に関しても部外者である私たちが野次を飛ばす権利もない。
かくして、ゲイカップルと、未来人の子どもは、ここへ来てようやく家族としての心理的繋がりを得たのである。
対外的には同居する同僚と、捨て子の子ども。
何かを偽らなければ生きていけない世界で、彼らは、偽りではない家庭を持ったのである。
ゲイカップルの間に挟まれ、2人と手を繋ぐ子どもの姿はいかにも家族らしい。
その姿を咎めるものなど、居はしないのだ。
ということで、1950年頃のあの有名な「宇宙人捕獲」の写真がBLにみえる呪いを貴方にかけました。
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