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第2章
私はクラゲになりたい⑤
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程なくしてスピーカーから軽快な音楽が流れ始めた。
次いで女性スタッフの明朗な声が会場中に響き渡る。
『ご来場のみなさま! 長らくお待たせしました! これより、アシカとイルカのワクワクショーを開催いたしまーす!』
お姉さんの挨拶に続いて、早速プールの脇からアシカが2頭登場した。
客席から拍手がパラパラ、それから控えめな歓声が上がる。
『向かって右側がララちゃん、左側がルルくんでーす』
紹介を受けた2頭は、ひれを高く持ち上げてパチパチと叩いてみせた。
愛嬌のある仕草に、客席のそこかしこから黄色い声が聞こえてくる。
私もつい頬が緩むのを抑えられなかった。丸々として黒光りする流線型のボディが愛くるしくてたまらない。広く知られていない事実だが、栗棟乃愛は意外と動物好きなのである。
『まずは手始めに、ララちゃんとルルくんの特技をお見せしまーす!』
そう言ってお姉さんは傍らに準備していたビーチボールを手に取り、まずはララちゃんに向かって放り投げた。緩やかな弧を描いて飛んでくるボールを、ララちゃんは頭突きして跳ね返す。ボールは再びお姉さんの手元にすっぽりと収まった。それを見て、客席からまた歓声と拍手が沸いた。
続いて、ルルくんにボールを投げる。ルルくんはララちゃんとは打って変わって、それを頭でキャッチしてみせた。それを鼻先に乗せて、しばし体勢をキープ。客席から拍手が飛び交う中、鼻先で器用にトスし、お姉さんにボールを戻してみせた。
客席を見渡せば、子供も大人もみな笑顔になって喝采を叫んでいる。私もすっかり童心に返ってやんややんやと手を叩いていた。
(先輩はどうしてるだろう?)
ふと気になって最前列の様子を窺う。
ピンと背筋を張ったその後ろ姿は微動だにしない。真っ直ぐ伸びた視線は一瞬の隙も逃すまいとばかりにアシカたちに注がれている。大方ショーの客として相応しからぬ気難しい表情を浮かべているに違いない。
『実はララちゃんとルルくん、どこの位置からでもボールを返すことができます。そこで、今度はご来場のみなさまにお願いがあります! 今のお席からで結構です。ララちゃんかルルくんのどちらかに向かってボールを投げていただきたいのですが、みなさまの中からお三方、ご協力いただけるという方はいませんかー?』
お姉さんが客席に向かってそう投げかけると、周りから続々と挙手する人が現れた。大半が子どもだ。みな無邪気に目を輝かせて、お姉さんからの指名を今か今かと待ち構えている。
微笑ましい光景だなと思いつつ、何の気なしに前方を見遣ったところで、ぎょっとした。先輩の手がびしっと垂直に伸びていた。
「うそでしょ……?」
心の中で呟いたつもりが、思わず口外に漏れていた。
「前の方に大きい子どもがいるぞ」
「アシカ好きなのかな」
「うへぇ、メンタルつえー」
恐らくは先輩に対するものと推察される囁きが周りから聞こえてくる。
最前列の席に座っているのは先輩ただ一人。それだけですでに目立っているというのに、いわんや幼子たちに混じって挙手する男子高校生をや、だ。ともすれば、演者であるアシカより強烈な存在感を発揮している。
私は俄に体温が上昇するのを感じた。自分のことじゃないのに、なぜだかものすごく恥ずかしい。そして先輩の隣に座らなくて良かったと心の底から思った。
お姉さんが困惑しているのが遠目から見てもわかる。最前列のど真ん中という絶妙な位置にいる謎の男から「自分を指名しろ」と圧力をかけられれば、それを無視するという選択はなかなか憚れようものだ。
先輩が最前列の席に固執していたのも実はこれが狙いだったのかもしれない。だとすると、その策はお見事、効果覿面だ。
果たして、お姉さんは挑戦心に駆られてか、はたまた無言の圧力に屈してか、三名のうちの一人に先輩を抜擢するという暴挙に出た。ちなみに他の二人はいずれも小学校低学年くらいの男の子と女の子だ。先輩が枠を一つ奪ったことで抽選に漏れてしまった子供が気の毒でならなかった。
先輩を含む三名は立ち上がり、スタッフから各々ビーチボールを手渡された。
まずは男の子がルルくんに向かって遠投する。しかし距離が足りず、ボールはルルくんの手前にあるプールに着水した。でもアシカとはいえ、さすがはプロ。ルルくんは透かさずプールにダイブして、水中からボールをトスして男の子にパスしてみせた。男の子の手元にボールが戻った瞬間、男の子とルルくんに向けて会場中から万雷の拍手が送られた。
続いて女の子がララちゃんに向けてボールを投げた。綺麗な放物線を描いて到達したボールをララちゃんは華麗な身のこなしでキャッチし、トス。ボールはこれまた綺麗な放物線を描いて女の子の胸の中に収まった。一同は拍手と歓声で女の子とララちゃんのパフォーマンスを讃えた。
そしてついに、先輩の番が回ってきた。
『お待たせしました! ララちゃんかルルくん、どちらかお好きな方にボールを投げてください!』
お姉さんから合図があり、先輩はボールを構えた。どうやらルルくんに投球するらしい。
「頑張れよ~、にいちゃん」
どこかのおじさんの囃し立てる声が聞こえる。いやいや、いったい何を頑張るというのか。
一同の視線が先輩に釘付けとなる。
会場の空気がぴりりと緊張感を纏ったように感じられるのは気のせいだろうか?
『……? お願いしまぁす!』
なかなかボールを投げようとしない先輩。
痺れを切らしたように、お姉さんの催促の掛け声が入る。
はよ投げんかい、と私も心の中で念じる。
それから先輩はやっとこさ振りかぶり、ボールを放った。下から上へ打ち上げるように。予想外の軌道を描いた投球だった。
天高く上ったボールは宙の一点で止まったのち、重力に従って自由落下する。
ルルくんはプールにダイブして、予測した落下地点に先回りする。その読みは見事的中、華麗にボールをキャッチしてみせ、さらにはリフティングまで披露してくれた。
忽ち会場は拍手喝采の嵐に包まれた。
その音が収まらないうちに、ルルくんは先輩にボールをトスして返した。
先輩がそれを受け取って終了――誰しもがそんな未来を予期していただろうが、現実は違った。
あろうことか先輩は、飛んでくるそのボールを、ビーチバールよろしく、レシーブして打ち返したのだ。
その瞬間、客席の方々から「え?」と驚きの声が重なった。
ボールは再びルルくんのもとに飛んでいく。投げ込まれたボールはとにかく受け止めて返すよう指導されているのだろう、ルルくんはそのボールをもしっかりキャッチしてみせ、頭突きで先輩に返却した。
先輩はそれをまたしてもレシーブし、ルルくんにパスする。ルルくんもまたキャッチして、先輩にパスし返す。いつの間にかラリーが始まっていた。
『い、いや……その……』
不測の事態に、お姉さんが言葉を失ってあたふたしている。
子どもたちはすごいすごいと大喜びだが、大人たちはみな揃ってぽかんだ。
私は一人青ざめていた。
(なにをやってるのだあの人は……)
四、五往復ほどラリーが続き、最終的にルルくんのもとにボールが渡ったところで、キャッチボールは終了した。妙な空気が漂っていることを動物的勘で察知したのか、ルルくんの方から幕を引いた形だった。
動物の方が空気を読めているというのは、いかがなものだろうか。
少しばかり気絶していたお姉さんもそこでようやく我に返って声を張る。
『で、では、ご協力いただいたお三方にもう一度、盛大な拍手を!』
混乱の空気が尾を引いている客席を疎らな拍手の音が包み込む。
その残響に紛れて、私はひっそり会場を後にした。共感性羞恥が極限にまで達し、これ以上この場に居座ることは精神的に厳しかった。
次いで女性スタッフの明朗な声が会場中に響き渡る。
『ご来場のみなさま! 長らくお待たせしました! これより、アシカとイルカのワクワクショーを開催いたしまーす!』
お姉さんの挨拶に続いて、早速プールの脇からアシカが2頭登場した。
客席から拍手がパラパラ、それから控えめな歓声が上がる。
『向かって右側がララちゃん、左側がルルくんでーす』
紹介を受けた2頭は、ひれを高く持ち上げてパチパチと叩いてみせた。
愛嬌のある仕草に、客席のそこかしこから黄色い声が聞こえてくる。
私もつい頬が緩むのを抑えられなかった。丸々として黒光りする流線型のボディが愛くるしくてたまらない。広く知られていない事実だが、栗棟乃愛は意外と動物好きなのである。
『まずは手始めに、ララちゃんとルルくんの特技をお見せしまーす!』
そう言ってお姉さんは傍らに準備していたビーチボールを手に取り、まずはララちゃんに向かって放り投げた。緩やかな弧を描いて飛んでくるボールを、ララちゃんは頭突きして跳ね返す。ボールは再びお姉さんの手元にすっぽりと収まった。それを見て、客席からまた歓声と拍手が沸いた。
続いて、ルルくんにボールを投げる。ルルくんはララちゃんとは打って変わって、それを頭でキャッチしてみせた。それを鼻先に乗せて、しばし体勢をキープ。客席から拍手が飛び交う中、鼻先で器用にトスし、お姉さんにボールを戻してみせた。
客席を見渡せば、子供も大人もみな笑顔になって喝采を叫んでいる。私もすっかり童心に返ってやんややんやと手を叩いていた。
(先輩はどうしてるだろう?)
ふと気になって最前列の様子を窺う。
ピンと背筋を張ったその後ろ姿は微動だにしない。真っ直ぐ伸びた視線は一瞬の隙も逃すまいとばかりにアシカたちに注がれている。大方ショーの客として相応しからぬ気難しい表情を浮かべているに違いない。
『実はララちゃんとルルくん、どこの位置からでもボールを返すことができます。そこで、今度はご来場のみなさまにお願いがあります! 今のお席からで結構です。ララちゃんかルルくんのどちらかに向かってボールを投げていただきたいのですが、みなさまの中からお三方、ご協力いただけるという方はいませんかー?』
お姉さんが客席に向かってそう投げかけると、周りから続々と挙手する人が現れた。大半が子どもだ。みな無邪気に目を輝かせて、お姉さんからの指名を今か今かと待ち構えている。
微笑ましい光景だなと思いつつ、何の気なしに前方を見遣ったところで、ぎょっとした。先輩の手がびしっと垂直に伸びていた。
「うそでしょ……?」
心の中で呟いたつもりが、思わず口外に漏れていた。
「前の方に大きい子どもがいるぞ」
「アシカ好きなのかな」
「うへぇ、メンタルつえー」
恐らくは先輩に対するものと推察される囁きが周りから聞こえてくる。
最前列の席に座っているのは先輩ただ一人。それだけですでに目立っているというのに、いわんや幼子たちに混じって挙手する男子高校生をや、だ。ともすれば、演者であるアシカより強烈な存在感を発揮している。
私は俄に体温が上昇するのを感じた。自分のことじゃないのに、なぜだかものすごく恥ずかしい。そして先輩の隣に座らなくて良かったと心の底から思った。
お姉さんが困惑しているのが遠目から見てもわかる。最前列のど真ん中という絶妙な位置にいる謎の男から「自分を指名しろ」と圧力をかけられれば、それを無視するという選択はなかなか憚れようものだ。
先輩が最前列の席に固執していたのも実はこれが狙いだったのかもしれない。だとすると、その策はお見事、効果覿面だ。
果たして、お姉さんは挑戦心に駆られてか、はたまた無言の圧力に屈してか、三名のうちの一人に先輩を抜擢するという暴挙に出た。ちなみに他の二人はいずれも小学校低学年くらいの男の子と女の子だ。先輩が枠を一つ奪ったことで抽選に漏れてしまった子供が気の毒でならなかった。
先輩を含む三名は立ち上がり、スタッフから各々ビーチボールを手渡された。
まずは男の子がルルくんに向かって遠投する。しかし距離が足りず、ボールはルルくんの手前にあるプールに着水した。でもアシカとはいえ、さすがはプロ。ルルくんは透かさずプールにダイブして、水中からボールをトスして男の子にパスしてみせた。男の子の手元にボールが戻った瞬間、男の子とルルくんに向けて会場中から万雷の拍手が送られた。
続いて女の子がララちゃんに向けてボールを投げた。綺麗な放物線を描いて到達したボールをララちゃんは華麗な身のこなしでキャッチし、トス。ボールはこれまた綺麗な放物線を描いて女の子の胸の中に収まった。一同は拍手と歓声で女の子とララちゃんのパフォーマンスを讃えた。
そしてついに、先輩の番が回ってきた。
『お待たせしました! ララちゃんかルルくん、どちらかお好きな方にボールを投げてください!』
お姉さんから合図があり、先輩はボールを構えた。どうやらルルくんに投球するらしい。
「頑張れよ~、にいちゃん」
どこかのおじさんの囃し立てる声が聞こえる。いやいや、いったい何を頑張るというのか。
一同の視線が先輩に釘付けとなる。
会場の空気がぴりりと緊張感を纏ったように感じられるのは気のせいだろうか?
『……? お願いしまぁす!』
なかなかボールを投げようとしない先輩。
痺れを切らしたように、お姉さんの催促の掛け声が入る。
はよ投げんかい、と私も心の中で念じる。
それから先輩はやっとこさ振りかぶり、ボールを放った。下から上へ打ち上げるように。予想外の軌道を描いた投球だった。
天高く上ったボールは宙の一点で止まったのち、重力に従って自由落下する。
ルルくんはプールにダイブして、予測した落下地点に先回りする。その読みは見事的中、華麗にボールをキャッチしてみせ、さらにはリフティングまで披露してくれた。
忽ち会場は拍手喝采の嵐に包まれた。
その音が収まらないうちに、ルルくんは先輩にボールをトスして返した。
先輩がそれを受け取って終了――誰しもがそんな未来を予期していただろうが、現実は違った。
あろうことか先輩は、飛んでくるそのボールを、ビーチバールよろしく、レシーブして打ち返したのだ。
その瞬間、客席の方々から「え?」と驚きの声が重なった。
ボールは再びルルくんのもとに飛んでいく。投げ込まれたボールはとにかく受け止めて返すよう指導されているのだろう、ルルくんはそのボールをもしっかりキャッチしてみせ、頭突きで先輩に返却した。
先輩はそれをまたしてもレシーブし、ルルくんにパスする。ルルくんもまたキャッチして、先輩にパスし返す。いつの間にかラリーが始まっていた。
『い、いや……その……』
不測の事態に、お姉さんが言葉を失ってあたふたしている。
子どもたちはすごいすごいと大喜びだが、大人たちはみな揃ってぽかんだ。
私は一人青ざめていた。
(なにをやってるのだあの人は……)
四、五往復ほどラリーが続き、最終的にルルくんのもとにボールが渡ったところで、キャッチボールは終了した。妙な空気が漂っていることを動物的勘で察知したのか、ルルくんの方から幕を引いた形だった。
動物の方が空気を読めているというのは、いかがなものだろうか。
少しばかり気絶していたお姉さんもそこでようやく我に返って声を張る。
『で、では、ご協力いただいたお三方にもう一度、盛大な拍手を!』
混乱の空気が尾を引いている客席を疎らな拍手の音が包み込む。
その残響に紛れて、私はひっそり会場を後にした。共感性羞恥が極限にまで達し、これ以上この場に居座ることは精神的に厳しかった。
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