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第2章
私はクラゲになりたい③
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それから30分ほどで館内を一周してしまった私は、出入り口付近に設置されたベンチに腰掛けて、少しばかり疲労感を帯びた足を休めるのに時間を費やしていた。
自販機で購入したミルクティーのペットボトルをちびちび傾けながら、これからどうしようか、と思案する。
もう4、50分ほどしたら、屋外でアシカとイルカのショーが始まるらしい。それまで時間潰しもかねて二周目に突入するか、それとも売店に行ってウインドウショッピングとしゃれ込むか……。
「おい」
不意に正面から低い声が飛んできた。
おもてを上げると、先輩が立っていた。
「うおっ」
目が合った瞬間、私はベンチの背もたれにしなだれかかるように仰け反った。
今の今まですっかりその存在を忘れていた。
「勝手にはぐれるんじゃない」
抑えられてはいるが、しかと怒気の孕んだ口調だ。
一瞬怯みかけたが、内心どうにも納得しかねるものがあって私は言い返した。
「それはこっちの台詞です。先にいなくなったのは先輩の方でしょ」
「いなくなったりなどするものか。お前、携帯を見ていないのか?」
「携帯?」
私はカバンの中からスマホを取り出して電源を入れた。待ち受け画面を見ると、メールの着信通知が一通来ている。送り主は先輩だ。メッセージは短い一文で『用を足してくる』とある。なんだこれは?
「こんなの、わざわざメールしないで直接言ってくださいよ」
「言おうとしたさ。だがお前がやけにクラゲにシンパシーを感じている様子だったから、邪魔しちゃ悪いと思ってメールにしたんだよ」
私は口を半開きにして呆れの意を示した。
理屈は聞けばわからなくもないが、ちょっと常人離れした発想である。クラゲに夢中になっていたことは確かだが、観賞中に一言声をかけられる程度のことで煩わしく思ったりはしない。
……まあでもこの人、私が気を遣ってあれこれ喋りかけた時、鬱陶しそうな顔してたしな。「自分がされて嫌なことは他人も嫌だと思うに違いない」という杓子定規な思考に基づいて気遣いとやらを働かせたのだろう。
「まあ、今回は携帯を確認しなかった私にも非はあります。不幸なすれ違いだったということで、ご容赦ください」
「なんだその奥歯にものが引っかかったような言い方は」
「心からのお詫びですよハイ」
心にもないことを言っていることを隠そうともしない私の口ぶりに、先輩は苦虫を噛み締めたような顔をしたが、これ以上口論を続けても埒が開かないと判断したのか、気を取り直すようにごほんと咳払いして言った。
「とにかく、隙あらば単独で行動しようとするんじゃない。何のためにお前を連れてきたと心得ている?」
「私にここのお魚さんたちを見せたかったからでしょ?」
つんとそっぽを向いて、すっとぼけてみせる。散々蔑ろな扱いをされたことに対する意趣返しのつもりだ。
「全然違うし、何が『お魚さん』だ。お前のようなサブカル女が最も忌み嫌う言い回しで可愛い子ぶってんじゃねえ」
「誰がサブカル女ですかっ。それになんだその偏見は」
いつもの理不尽な毒舌が炸裂したところで、私は声を荒げた。方々を敵に回すような言説をこのような公共の場で垂れ流すのはやめてもらいたい。私もその一味だと思われたら、たまったものではない。
周囲の注目を買っていないことを確認してから、私は昂ぶった気持ちを落ち着かせるべく深呼吸した。
しらばっくれたが、もちろん先輩が私を連れ回す理由は承知している。
自分の感覚と他人の感覚にどれほど乖離があるかを確認するため。要は、先輩自身が見聞きして感じたものを、他人の私がどんな風に受け止めるかを知るためだ。
だから個人行動に走って意思疎通が図れない状況になるのは、先輩の望むところではないと理解している。でも、今日ばかりは納得がいかなかった。
「私、要らないと思うんですけど」
「要るかどうかは俺が判断する。お前は常に俺のそばにいて、ただ俺の後についてくればいい」
不覚にもドキッとする。よくもまあそんな小っ恥ずかしい台詞を臆面なく言い放てるものだ。本人は自覚がないのだろうけど。そこがむかつく。
「じゃあせめて放置するのだけ止めてもらえますか? 紛いなりにも女の子を付き合わせてるんだから、退屈させないようにするのは男の義務だと思います」
小っ恥ずかしい台詞を口にするのはお互い様だ。まあ私は照れ隠しに自分の足下を見ながらの発言になったが。
「そういうのは、逆差別と言ってだな……」
先輩の反論の歯切れが悪い。
ちらと先輩の方を窺うと視線が交錯し、さっと目を逸らされてしまった。
なるほど、こういうしおらしい態度に弱いのか。無頼漢といえど、この人も男というわけだ。
「まあいい。今回は引き下がってやることにしよう。一応、お前も女だ。退屈させないよう善処してやる」
「一応ではなく紛うことなき女ですが」
「ただし、入館料は全額俺が負担していることは努々忘れてくれるなよ。その分の働きはしてもらうからな」
「わーそういうこと言っちゃうの、小者っぽくて先輩らしいですねー」
私は空笑を浮かべて言った。
これだから先輩とのラブコメはありえない。
誰も払ってくださいだなんて言ってないですけどね、と口にしかけたが、売り言葉に買い言葉になりそうなのでやめておいた。
まあ今回は痛み分けということにしておこう。
自販機で購入したミルクティーのペットボトルをちびちび傾けながら、これからどうしようか、と思案する。
もう4、50分ほどしたら、屋外でアシカとイルカのショーが始まるらしい。それまで時間潰しもかねて二周目に突入するか、それとも売店に行ってウインドウショッピングとしゃれ込むか……。
「おい」
不意に正面から低い声が飛んできた。
おもてを上げると、先輩が立っていた。
「うおっ」
目が合った瞬間、私はベンチの背もたれにしなだれかかるように仰け反った。
今の今まですっかりその存在を忘れていた。
「勝手にはぐれるんじゃない」
抑えられてはいるが、しかと怒気の孕んだ口調だ。
一瞬怯みかけたが、内心どうにも納得しかねるものがあって私は言い返した。
「それはこっちの台詞です。先にいなくなったのは先輩の方でしょ」
「いなくなったりなどするものか。お前、携帯を見ていないのか?」
「携帯?」
私はカバンの中からスマホを取り出して電源を入れた。待ち受け画面を見ると、メールの着信通知が一通来ている。送り主は先輩だ。メッセージは短い一文で『用を足してくる』とある。なんだこれは?
「こんなの、わざわざメールしないで直接言ってくださいよ」
「言おうとしたさ。だがお前がやけにクラゲにシンパシーを感じている様子だったから、邪魔しちゃ悪いと思ってメールにしたんだよ」
私は口を半開きにして呆れの意を示した。
理屈は聞けばわからなくもないが、ちょっと常人離れした発想である。クラゲに夢中になっていたことは確かだが、観賞中に一言声をかけられる程度のことで煩わしく思ったりはしない。
……まあでもこの人、私が気を遣ってあれこれ喋りかけた時、鬱陶しそうな顔してたしな。「自分がされて嫌なことは他人も嫌だと思うに違いない」という杓子定規な思考に基づいて気遣いとやらを働かせたのだろう。
「まあ、今回は携帯を確認しなかった私にも非はあります。不幸なすれ違いだったということで、ご容赦ください」
「なんだその奥歯にものが引っかかったような言い方は」
「心からのお詫びですよハイ」
心にもないことを言っていることを隠そうともしない私の口ぶりに、先輩は苦虫を噛み締めたような顔をしたが、これ以上口論を続けても埒が開かないと判断したのか、気を取り直すようにごほんと咳払いして言った。
「とにかく、隙あらば単独で行動しようとするんじゃない。何のためにお前を連れてきたと心得ている?」
「私にここのお魚さんたちを見せたかったからでしょ?」
つんとそっぽを向いて、すっとぼけてみせる。散々蔑ろな扱いをされたことに対する意趣返しのつもりだ。
「全然違うし、何が『お魚さん』だ。お前のようなサブカル女が最も忌み嫌う言い回しで可愛い子ぶってんじゃねえ」
「誰がサブカル女ですかっ。それになんだその偏見は」
いつもの理不尽な毒舌が炸裂したところで、私は声を荒げた。方々を敵に回すような言説をこのような公共の場で垂れ流すのはやめてもらいたい。私もその一味だと思われたら、たまったものではない。
周囲の注目を買っていないことを確認してから、私は昂ぶった気持ちを落ち着かせるべく深呼吸した。
しらばっくれたが、もちろん先輩が私を連れ回す理由は承知している。
自分の感覚と他人の感覚にどれほど乖離があるかを確認するため。要は、先輩自身が見聞きして感じたものを、他人の私がどんな風に受け止めるかを知るためだ。
だから個人行動に走って意思疎通が図れない状況になるのは、先輩の望むところではないと理解している。でも、今日ばかりは納得がいかなかった。
「私、要らないと思うんですけど」
「要るかどうかは俺が判断する。お前は常に俺のそばにいて、ただ俺の後についてくればいい」
不覚にもドキッとする。よくもまあそんな小っ恥ずかしい台詞を臆面なく言い放てるものだ。本人は自覚がないのだろうけど。そこがむかつく。
「じゃあせめて放置するのだけ止めてもらえますか? 紛いなりにも女の子を付き合わせてるんだから、退屈させないようにするのは男の義務だと思います」
小っ恥ずかしい台詞を口にするのはお互い様だ。まあ私は照れ隠しに自分の足下を見ながらの発言になったが。
「そういうのは、逆差別と言ってだな……」
先輩の反論の歯切れが悪い。
ちらと先輩の方を窺うと視線が交錯し、さっと目を逸らされてしまった。
なるほど、こういうしおらしい態度に弱いのか。無頼漢といえど、この人も男というわけだ。
「まあいい。今回は引き下がってやることにしよう。一応、お前も女だ。退屈させないよう善処してやる」
「一応ではなく紛うことなき女ですが」
「ただし、入館料は全額俺が負担していることは努々忘れてくれるなよ。その分の働きはしてもらうからな」
「わーそういうこと言っちゃうの、小者っぽくて先輩らしいですねー」
私は空笑を浮かべて言った。
これだから先輩とのラブコメはありえない。
誰も払ってくださいだなんて言ってないですけどね、と口にしかけたが、売り言葉に買い言葉になりそうなのでやめておいた。
まあ今回は痛み分けということにしておこう。
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