7 / 13
第2章
私はクラゲになりたい②
しおりを挟む
ブルーライトに照らされた水槽の中をクリオネがひらひら揺蕩っている。奔放でいてどこか優雅な趣きのある舞いに日頃の心労が癒やされる。
私はほっとため息をついた。そこには陶然とした響きとうんざりした響きの両方が含まれていた。
来た道を振り返ると、やや離れた位置に先輩の姿がある。その目は水槽ではなく、へりにあるプレートに注がれている。水槽の中にいる生き物の生態について事細かに解説した文章が載っているプレートだ。
新たな水槽を訪れるたび、ずっとこの調子でいる。おかげで進行ペースの遅いこと遅いこと……。
さっきから後から来た親子や若いカップルたちに次々追い抜かされている。きっと彼らから、私は「休日にひとりきりで水族館を訪れる寂しい女」と思われているに違いない。
みんな愉しそうに談笑しながら水槽巡りを満喫している。そんな彼らに順番を追い越されるたび、恥辱に塗れた感情が胸の内で暴れ回るのを抑えられずにはいられない。
そんな私の気も知らず、先輩はまだマイペースにプレートの文章を熟読している。
本当は遅刻したことを根に持っているのではないかと疑りたくなるくらい、入場してから何度も待ちぼうけを食らわされている。
勉強熱心なのは結構なことだが、その入れ込みようはちょっと異常である。
言っちゃあなんだが、そこまで集中して読み込むようなものじゃない。日常生活を営む上で何ら益体のない水棲動物のうんちくなど、どうせ明日の朝には大部分が記憶から消え去っている。
穿った見方をすれば、死に物狂いで入場料のもとを取ろうとしている風に見えなくもない。それくらい先輩は謎の好奇心をふんだんに発揮して館内の隅々にまで目を光らせているのだった。
はじめの頃は気を遣って適度に話しかけたりもしていたが、早々にそんなお節介もうざったく思われたらしく、蛇蝎のごとく「しっ!」と一喝されてしまい、とたんに老婆心が失せた。
どこまで独断行動が許されるのか定かでなかったが、まあ先輩の目の届く範囲にいれば問題ないだろうと自己判断し、先輩と足並みを揃えることはすっかり諦めて、先々の水槽をひとりで見て回ることにしたのだった。
クリオネの魅せる優雅な舞いを満喫したところで、次の水槽に移る。そこには大小様々なサイズのクラゲがぷかぷか漂っていた。透き通ったボディー、そこに青白い照明の光が差して、淡い煌めきが湛えられている。思わずうっとりするほどに幻想的な光景だ。
こんな風にただ揺蕩っているだけで存在を肯定されるクラゲたちが心底から羨ましい。来世は私もクラゲになりたい、なんて。虚しい現実逃避だ。
しばらくクラゲたちのワルツを観賞した後、また来た道を振り返ると、
「あれ?」
さっきまでその辺にいたはずの先輩の姿がない。進路を少し逆走してみるが、雑踏の中にもその影は認められなかった。
先輩が幻のように消えてしまった。本当に幻であるなら好都合なのだが、その線は望み薄だろうから普通に困ったものだ。
それほど長い時間クラゲにお熱だった自覚もないが、いつの間にか追い抜かされたのかもしれない。だったらひと声くらい掛けてくれてもいいような気がするが、並大抵の常識が通用する相手じゃない。
どうしたものかと数瞬思い悩んだ末に、私は決断を下した。
いなくなってしまったものはしょうがない。先輩のことは徹頭徹尾忘れて、ここから先は一人で満喫、もとい勉強することにしよう。
そう気持ちを切り替えて、クラゲのコーナーに舞い戻る。
さっきまで孤独な状況を憂いていたのに、先輩のことを意識から排除した途端、足取りが軽くなったことに人間心理の不可思議さを感じずにはいられなかった。
私はほっとため息をついた。そこには陶然とした響きとうんざりした響きの両方が含まれていた。
来た道を振り返ると、やや離れた位置に先輩の姿がある。その目は水槽ではなく、へりにあるプレートに注がれている。水槽の中にいる生き物の生態について事細かに解説した文章が載っているプレートだ。
新たな水槽を訪れるたび、ずっとこの調子でいる。おかげで進行ペースの遅いこと遅いこと……。
さっきから後から来た親子や若いカップルたちに次々追い抜かされている。きっと彼らから、私は「休日にひとりきりで水族館を訪れる寂しい女」と思われているに違いない。
みんな愉しそうに談笑しながら水槽巡りを満喫している。そんな彼らに順番を追い越されるたび、恥辱に塗れた感情が胸の内で暴れ回るのを抑えられずにはいられない。
そんな私の気も知らず、先輩はまだマイペースにプレートの文章を熟読している。
本当は遅刻したことを根に持っているのではないかと疑りたくなるくらい、入場してから何度も待ちぼうけを食らわされている。
勉強熱心なのは結構なことだが、その入れ込みようはちょっと異常である。
言っちゃあなんだが、そこまで集中して読み込むようなものじゃない。日常生活を営む上で何ら益体のない水棲動物のうんちくなど、どうせ明日の朝には大部分が記憶から消え去っている。
穿った見方をすれば、死に物狂いで入場料のもとを取ろうとしている風に見えなくもない。それくらい先輩は謎の好奇心をふんだんに発揮して館内の隅々にまで目を光らせているのだった。
はじめの頃は気を遣って適度に話しかけたりもしていたが、早々にそんなお節介もうざったく思われたらしく、蛇蝎のごとく「しっ!」と一喝されてしまい、とたんに老婆心が失せた。
どこまで独断行動が許されるのか定かでなかったが、まあ先輩の目の届く範囲にいれば問題ないだろうと自己判断し、先輩と足並みを揃えることはすっかり諦めて、先々の水槽をひとりで見て回ることにしたのだった。
クリオネの魅せる優雅な舞いを満喫したところで、次の水槽に移る。そこには大小様々なサイズのクラゲがぷかぷか漂っていた。透き通ったボディー、そこに青白い照明の光が差して、淡い煌めきが湛えられている。思わずうっとりするほどに幻想的な光景だ。
こんな風にただ揺蕩っているだけで存在を肯定されるクラゲたちが心底から羨ましい。来世は私もクラゲになりたい、なんて。虚しい現実逃避だ。
しばらくクラゲたちのワルツを観賞した後、また来た道を振り返ると、
「あれ?」
さっきまでその辺にいたはずの先輩の姿がない。進路を少し逆走してみるが、雑踏の中にもその影は認められなかった。
先輩が幻のように消えてしまった。本当に幻であるなら好都合なのだが、その線は望み薄だろうから普通に困ったものだ。
それほど長い時間クラゲにお熱だった自覚もないが、いつの間にか追い抜かされたのかもしれない。だったらひと声くらい掛けてくれてもいいような気がするが、並大抵の常識が通用する相手じゃない。
どうしたものかと数瞬思い悩んだ末に、私は決断を下した。
いなくなってしまったものはしょうがない。先輩のことは徹頭徹尾忘れて、ここから先は一人で満喫、もとい勉強することにしよう。
そう気持ちを切り替えて、クラゲのコーナーに舞い戻る。
さっきまで孤独な状況を憂いていたのに、先輩のことを意識から排除した途端、足取りが軽くなったことに人間心理の不可思議さを感じずにはいられなかった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
いえろ〜の極短編集
いえろ~
ライト文芸
私、いえろ~が書いた極短編集です。
☆極短編・・・造語です。一話完結かつ字数がかなり少なめ(現在目安1000字前後)の物語。ショートショートって言うのかもしれないけどそんなの知らないです(開き直り)
ー ストーブ ー
ストーブを消した五分後、いつもつけ直してしまう女の子のお話。
ー 大空 ー
色々思い悩んでいる学生は、大空を見てこう思ったのだそうだ。
ー ルーズリーフ ー
私が弟を泣かせてしまった次の日、弟はこれを差し出してきた。
ー Ideal - Idea ー
僕は、理想の自分になるために、とにかく走った。
ー 限られた時間の中で ー
私は、声を大にして言いたい。
ー 僕を見て ー
とにかく、目の前にいる、僕だけを見てよ。
ー この世も悲観したものじゃない ー
ただ殻に閉じこもってた、僕に訪れた幸運のお話。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる