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エピローグ
エピローグ(4/4)
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先輩と別れてあてどもなく街中をさまよい歩く。胸を張って、真っ直ぐ前だけを見るよう努める。下を向くと涙がこぼれてしまいそうだった。もう別に泣いたって構わないのだけれど、意地のようなもので絶対に泣くものかと決意していた。
今泣いてしまえば、きっとそれは悲しみの涙になる。悲しいことなんて何もありはしないと自分自身に言い張っていたかったのだ。だって自分はようやく目指していた人間になれたのだから。ヨシノのような強い人間に。先輩のような優しい人間に。もう幼き日の、愛に飢えてばかりいた自分はいない。他人の愛なんてものに頼らずとも自立して生きていける。
ショーウィンドウの前に立ち、そこに映り込んだ自分に向かって無理やり微笑みかけてみせる。その笑みを維持したまま、街中の目抜き通りを闊歩する。対向からやってくる人たちが奇異なものを見るような目を向けながら後方に流れていく。ちょっと笑みの形が歪になっていて、気味悪がられているのかもしれない。いや、普通に笑顔でいるだけで異常か。でも気にしない。生来、他人の目は気にならないたちなのだ。
大型交差点に差し掛かったところで、赤信号に足止めを食らう。薄雲でぼんやりした空を見上げて目を細める。いつの日だったか先輩と高校の屋上から望んだ青空を思い出す。あの時代の私たちは確かに信頼という名の目に見えない絆で繋がっていた。
様々な仮定が脳裏を掠める。
もしもヨシノを先輩に会わせていなかったら。
もっと早く先輩に交際を申し込んでいたら。
高校生だった時、先輩に過去の苦悩を臆せず語り明かせていたら。
また違った未来を歩めていたかもしれない。先輩と共に歩む未来。たとえ上手くいかなかったとしても、それはそれで幸せな過去の思い出として懐かしむことができたかもしれない。
先輩の肌の温もりをまだ覚えている。雄々しい匂いも、ひとつになった時の感動も、叩き込まれた性の喜びも。他人の業すらもその身に背負ってしまう、海原のような慈悲深さも。
きっと未来永劫、忘れることはない。それは呪いのように私の中に居座り続けるだろう。
この先、先輩より好きになる人なんて現れないと思う。決め付けはよくないけれど、でも3年以上の片想いにまた身を投じられるほどの熱量を持てる気がしない。
あのー、とすぐそばで誰かの声が聞こえた。隣を見ると、自分より少し年上っぽいお姉さんがこちらを見ていた。足元には娘さんだろうか、5歳くらいの女の子がいる。
「大丈夫ですか?」
心配そうな声が続いて、ようやく自分が話しかけられていることに気がつく。
しかし、大丈夫、とは? いったい何のことだろう?
……ああ、曇り空を見上げて微笑んでいた姿が奇天烈に映ったのだな、と合点した。そのような不審者にわざわざ声をかけてくるなんて殊勝な人だ。大抵の人なら気でも触れたんじゃないかと思って遠巻きにするだろうに。
ーーありがとうございます。気にしないでください。
そう言葉にしようとしたが、声にならなかった。あれ、おかしいなと思って顔に手を遣ると、頬に湿り気を感じた。そうして私は、自分が涙を流していることに初めて気がついたのだった。
「なにか嫌なことでもあったの?」
優しい声が耳朶に触れたことで、さらに涙腺が崩壊する。ぐしゃぐしゃに滲む視界を手で拭いながら、意地でも頬角を持ち上げる。
悲しくなんてない。長かった暗黒時代を乗り越えて、やっと前を向けるんだから。
「無理に笑わなくたっていいのよ。悲しい時はしっかり泣かないと。枯れるまで泣き尽くして、やっと前を向くことができるんだから」
まるでこちらの心を見透かしたような言葉に、激しく心が揺さぶられた。それでもまだ意地を張って笑顔を維持していると、ふと別の声が聞こえた。泣き声だった。お姉さんの連れている女の子が突如として泣き出してしまったのだ。あらあら貴女まで、どうしたの、とお姉さんが優しい声であやす。
「だってだって、おねえちゃんが、かなしそうだったから。それなのにぜんぜんなかないから。わたしがかなしくなったの」
舌足らずな口調で、けれども明朗に言葉を選んで、女の子が言う。
剥き出しの同情が、自分の凝り固まった意地を解していく。
もう我慢できなかった。
私は人目も憚らず、道端のど真ん中で声を上げて泣いた。重力に従って落下する涙をもう拭うことはしなかった。ただ上を向いて、生まれたばかりの幼子のようにひたすら号泣した。
いつからか自分に嘘をつくことが癖になっていた。それがこの上なく悲しくなったのだ。
本当は先輩とお別れなんてしたくなかった。ずっと一緒に老いさらばえるまで、彼と同じ時を過ごしていたかった。夜が来るたび身体を重ねて愛を確かめ合い、そしていつの日か彼の元気な子を産んで育てたかった。彼の隣で、彼の薦める映画を眺めていたかった。その願いはもう叶わない。なりたい自分になりたいという自分のエゴが私たちの関係に終止符を打ったのだ。
今ならまだ引き返せるか?
バカな疑問だ。そんなわけない。会おうと思えばいつだって会えるかもしれないけれど、もう根本的に、修正のきかないレベルでボタンを掛け違えてしまっている。
私はやっぱり優しい人間でありたい。その願いを捨てきれない。その思いに嘘はつけない。この親子を見ていて切に思う。他人の誰に裏切られたって構わないけれど、他でもない自分自身に裏切られるのだけは絶対にご免だ。
赤信号が青信号に変わり、また時間をおいて赤信号に戻る。それを何回繰り返しただろう、お姉さんたちはいつまでも泣き続ける私のそばにいてくれた。ただそれだけの優しさが今の自分にとって何よりも救いだった。
*
「もう大丈夫なの?」
涙が止まり、今度は強がりではなく本心からの笑みを浮かべてみせたが、お姉さんはそれでもなお心配げにそう声をかけてくれた。
「はい、もう大丈夫です」
力強く答えると、お姉さんは微かに笑みをつくっただけで、それ以上踏み込んでくることはなかった。その心遣いも有り難かった。失恋が理由で泣いていたとはとても恥ずかしくて言えなかったから。
女の子の涙もすでに引っ込んでおり、改めてお礼を告げてから親子と別れた。
また時間を置くと悲しみの波に襲われそうな予感がしたが、とりあえず涙が収まったので、また笑みを浮かべて街を歩くことにした。
大股に手を振って歩いていると、スマホが着信を報せた。
「首尾は上々かしら」
電話に出るなり、挨拶もなく、そんな不躾な質問が飛んできた。何のことかととぼけるのも白々しいので、私はこれ聞こえよがしにため息を吐き捨てて、内心の不満を露わにした。
「最悪。あんたの叔父さん、趣味悪すぎでしょ」
毒づくと、ヨシノの含み笑いが聞こえた。
「否定はしない。一族の中でも、あの人ほどの変わり者は他にいないから」
てか、そんなことはどうでもよくて――とヨシノは続ける。いつになく逸り立っている様子だ。
「桐生先輩と一緒だったんでしょ? 全然連絡が来ないから、やきもきしてたわよ。でも、これだけ時間をかけて料理したってからには、しっぽりいってると思ってよいのかしら?」
――カナに耳寄りな話があるんだけど。
数日前、ヨシノからそのようにして話を持ちかけられたのが事の始まりだった。
高校卒業を機に家を出て、極力親の頼りにならないよう貯金を切り崩しながら細々と暮らしていたが、近頃は何かと物入りで懐事情が苦しくなってきていた。そこで資産家の娘として多彩な人脈を保有するヨシノに金策の相談をしていたのだが、そんな折に実入りのよい単発バイトとして紹介されたのが例の治験だった。
なんでも彼女の叔父が取締役を務める会社が極秘のプロジェクトを進めており、その一環でとある実験のモニターを募集しているとのこと。実験の性質上、拘束時間は長いが、その分割高な報酬が貰えるのだという。
短期間でまとまったお金を稼げる点については全く興味を惹かれないでもなかったが、しかし額が額なだけあって眉唾な話だなというのが率直な感想だった。だが、ヨシノがその話を持ちかけてきたのには、お金のこと以外にも訳があるというのだった。
聞けば、応募者の中に、なんとあの桐生先輩がいるというではないか!
その話は立ちどころに私の関心を奪い、胸の中に久しく芽生えていないときめきをもたらした。
先輩に会いに行く勇気が持てず、ずっときっかけを探していたところだったのだ。極秘というだけあってどのような内容の実験なのかは血縁者のヨシノでさえ把握していないようだったが、そんなことはもはやどうでもよく、ヨシノから持ちかけられた〝耳寄りな話〟を辞退する理由はなかった。もちろんお金よりも先輩と再会することが目的だった。
せっかくお膳立てしてくれたヨシノに申し訳が立たないなと思いつつ、私は淡々と真実を口にした。
「いいえ。先輩とは上手くいかなかった。たぶんもう二度と、会うこともないと思う」
ヨシノの軽口が止まった。電話口を通して息を呑む気配が察せられる。嘘でしょ、と呟くその口調には多分にショッキングな響きが含まれていた。
私は歩を進めながら事の詳細を語った。さっき泣き晴らしたお陰か涙声にならなかったのは幸いだった。先輩に恋人がいたことや、それが理由で別れを切り出さなくてはならなかったことを打ち明けても、ヨシノの口から慰めの類いの言葉が出てくることはなかった。だから惨めにならなくて済んだし、報酬を辞退したと伝えた時には腹を抱えんばかりに笑い飛ばしてくれたお陰で深刻な雰囲気にもならなくて済んだ。気づけば私もつられて笑っていた。先輩と別れてから初めて自然に笑えた瞬間だった。
「私はカナの意思を尊重する。3年以上も同じ人を想い続けてきたことも、その人を諦めたことも、決して間違いではなかったと思う。それにね、誤解を恐れずに言うけど、私、今、最高に誇らしくて嬉しい気分なの。昔の私が憧れた、自己犠牲をものともせずに他人の幸せを願える立花カナが帰ってきてくれたんだから」
親友から激励の言葉を受け取って心に温かいものが広がる。彼女とまた友達になってよかったと改めて痛感する。先輩のことは諦めても、ヨシノとの縁はこのまま続くといいな……そんなこと、小っ恥ずかしくて口にはできないけれど。
「でも、カナさん。先輩のこと、諦めるのは早いんじゃなくて?」
「えっ?」
「カナと先輩が結ばれる可能性はまだゼロじゃないでしょ。もしかすると先輩はカナのことが諦め切れず、今の恋人との関係を清算した後で、また会いに来るかもしれない。そしたらもう、彼からの交際の申し出を断る理由はないはずよ」
なるほどな、と目から鱗が落ちた思いだった。その可能性は全く頭になかった。
もちろんヨシノが仄めかしているような展開はないわけでもないけれどーーまあ夢物語だろう。そんな万が一の可能性に賭けてこれからも先輩を想い続けるのは、なんとなく惨めだ。
ヨシノのような強さがあれば、あるいは意図的にそう仕向けて運命の糸をたぐり寄せることもできただろうが。
それは私のスタイルじゃない。
でも、そんなふうに希望の糸を見出してくれるヨシノの心遣いが嬉しくて、私はまた、ありがとう、と伝えた。
「素敵な話ね。だったらその時が来るまでに、他に好きな人、見つけておこうかしらね。そして今度は先輩の方が私を振り向かせるのに苦労するの」
そう返すと、一瞬の間を挟んでヨシノの豪快な笑い声が聞こえた。
「随分逞しくなったものね。うん、その意気よ。もっともっと女を磨いて、手の届かない存在になって見返してやりなさい」
うん、ありがと。そう受け答えすると、じゃあね、と別れの言葉が続いて通話が切れた。
スマホをカバンに仕舞い、また足を前に動かす。
無理に笑わずとも自然と頬角が持ち上がる。
街中の一角で、お母さんの後ろで泣きじゃくっている子供の姿を見かけた。不意に過去の自分と重なって見えた。お母さんが再婚し、広い子供部屋のベッドの中で夜な夜な声を殺して泣いていた頃の自分だ。
私は心の中で彼女に声援を送る。
ーーその涙が枯れるまで泣いてなさい。泣いて泣いて泣き晴らした先に、明るい未来が待ってるんだから。
空を見上げると雲の隙間から一条の銀色の光が降り注いでいた。それは私が長らく追い求めていた優しさと強さの象徴のようで、幼き日に見た押し入れの中に射し込む照明の光と酷似していた。
先輩と別れてあてどもなく街中をさまよい歩く。胸を張って、真っ直ぐ前だけを見るよう努める。下を向くと涙がこぼれてしまいそうだった。もう別に泣いたって構わないのだけれど、意地のようなもので絶対に泣くものかと決意していた。
今泣いてしまえば、きっとそれは悲しみの涙になる。悲しいことなんて何もありはしないと自分自身に言い張っていたかったのだ。だって自分はようやく目指していた人間になれたのだから。ヨシノのような強い人間に。先輩のような優しい人間に。もう幼き日の、愛に飢えてばかりいた自分はいない。他人の愛なんてものに頼らずとも自立して生きていける。
ショーウィンドウの前に立ち、そこに映り込んだ自分に向かって無理やり微笑みかけてみせる。その笑みを維持したまま、街中の目抜き通りを闊歩する。対向からやってくる人たちが奇異なものを見るような目を向けながら後方に流れていく。ちょっと笑みの形が歪になっていて、気味悪がられているのかもしれない。いや、普通に笑顔でいるだけで異常か。でも気にしない。生来、他人の目は気にならないたちなのだ。
大型交差点に差し掛かったところで、赤信号に足止めを食らう。薄雲でぼんやりした空を見上げて目を細める。いつの日だったか先輩と高校の屋上から望んだ青空を思い出す。あの時代の私たちは確かに信頼という名の目に見えない絆で繋がっていた。
様々な仮定が脳裏を掠める。
もしもヨシノを先輩に会わせていなかったら。
もっと早く先輩に交際を申し込んでいたら。
高校生だった時、先輩に過去の苦悩を臆せず語り明かせていたら。
また違った未来を歩めていたかもしれない。先輩と共に歩む未来。たとえ上手くいかなかったとしても、それはそれで幸せな過去の思い出として懐かしむことができたかもしれない。
先輩の肌の温もりをまだ覚えている。雄々しい匂いも、ひとつになった時の感動も、叩き込まれた性の喜びも。他人の業すらもその身に背負ってしまう、海原のような慈悲深さも。
きっと未来永劫、忘れることはない。それは呪いのように私の中に居座り続けるだろう。
この先、先輩より好きになる人なんて現れないと思う。決め付けはよくないけれど、でも3年以上の片想いにまた身を投じられるほどの熱量を持てる気がしない。
あのー、とすぐそばで誰かの声が聞こえた。隣を見ると、自分より少し年上っぽいお姉さんがこちらを見ていた。足元には娘さんだろうか、5歳くらいの女の子がいる。
「大丈夫ですか?」
心配そうな声が続いて、ようやく自分が話しかけられていることに気がつく。
しかし、大丈夫、とは? いったい何のことだろう?
……ああ、曇り空を見上げて微笑んでいた姿が奇天烈に映ったのだな、と合点した。そのような不審者にわざわざ声をかけてくるなんて殊勝な人だ。大抵の人なら気でも触れたんじゃないかと思って遠巻きにするだろうに。
ーーありがとうございます。気にしないでください。
そう言葉にしようとしたが、声にならなかった。あれ、おかしいなと思って顔に手を遣ると、頬に湿り気を感じた。そうして私は、自分が涙を流していることに初めて気がついたのだった。
「なにか嫌なことでもあったの?」
優しい声が耳朶に触れたことで、さらに涙腺が崩壊する。ぐしゃぐしゃに滲む視界を手で拭いながら、意地でも頬角を持ち上げる。
悲しくなんてない。長かった暗黒時代を乗り越えて、やっと前を向けるんだから。
「無理に笑わなくたっていいのよ。悲しい時はしっかり泣かないと。枯れるまで泣き尽くして、やっと前を向くことができるんだから」
まるでこちらの心を見透かしたような言葉に、激しく心が揺さぶられた。それでもまだ意地を張って笑顔を維持していると、ふと別の声が聞こえた。泣き声だった。お姉さんの連れている女の子が突如として泣き出してしまったのだ。あらあら貴女まで、どうしたの、とお姉さんが優しい声であやす。
「だってだって、おねえちゃんが、かなしそうだったから。それなのにぜんぜんなかないから。わたしがかなしくなったの」
舌足らずな口調で、けれども明朗に言葉を選んで、女の子が言う。
剥き出しの同情が、自分の凝り固まった意地を解していく。
もう我慢できなかった。
私は人目も憚らず、道端のど真ん中で声を上げて泣いた。重力に従って落下する涙をもう拭うことはしなかった。ただ上を向いて、生まれたばかりの幼子のようにひたすら号泣した。
いつからか自分に嘘をつくことが癖になっていた。それがこの上なく悲しくなったのだ。
本当は先輩とお別れなんてしたくなかった。ずっと一緒に老いさらばえるまで、彼と同じ時を過ごしていたかった。夜が来るたび身体を重ねて愛を確かめ合い、そしていつの日か彼の元気な子を産んで育てたかった。彼の隣で、彼の薦める映画を眺めていたかった。その願いはもう叶わない。なりたい自分になりたいという自分のエゴが私たちの関係に終止符を打ったのだ。
今ならまだ引き返せるか?
バカな疑問だ。そんなわけない。会おうと思えばいつだって会えるかもしれないけれど、もう根本的に、修正のきかないレベルでボタンを掛け違えてしまっている。
私はやっぱり優しい人間でありたい。その願いを捨てきれない。その思いに嘘はつけない。この親子を見ていて切に思う。他人の誰に裏切られたって構わないけれど、他でもない自分自身に裏切られるのだけは絶対にご免だ。
赤信号が青信号に変わり、また時間をおいて赤信号に戻る。それを何回繰り返しただろう、お姉さんたちはいつまでも泣き続ける私のそばにいてくれた。ただそれだけの優しさが今の自分にとって何よりも救いだった。
*
「もう大丈夫なの?」
涙が止まり、今度は強がりではなく本心からの笑みを浮かべてみせたが、お姉さんはそれでもなお心配げにそう声をかけてくれた。
「はい、もう大丈夫です」
力強く答えると、お姉さんは微かに笑みをつくっただけで、それ以上踏み込んでくることはなかった。その心遣いも有り難かった。失恋が理由で泣いていたとはとても恥ずかしくて言えなかったから。
女の子の涙もすでに引っ込んでおり、改めてお礼を告げてから親子と別れた。
また時間を置くと悲しみの波に襲われそうな予感がしたが、とりあえず涙が収まったので、また笑みを浮かべて街を歩くことにした。
大股に手を振って歩いていると、スマホが着信を報せた。
「首尾は上々かしら」
電話に出るなり、挨拶もなく、そんな不躾な質問が飛んできた。何のことかととぼけるのも白々しいので、私はこれ聞こえよがしにため息を吐き捨てて、内心の不満を露わにした。
「最悪。あんたの叔父さん、趣味悪すぎでしょ」
毒づくと、ヨシノの含み笑いが聞こえた。
「否定はしない。一族の中でも、あの人ほどの変わり者は他にいないから」
てか、そんなことはどうでもよくて――とヨシノは続ける。いつになく逸り立っている様子だ。
「桐生先輩と一緒だったんでしょ? 全然連絡が来ないから、やきもきしてたわよ。でも、これだけ時間をかけて料理したってからには、しっぽりいってると思ってよいのかしら?」
――カナに耳寄りな話があるんだけど。
数日前、ヨシノからそのようにして話を持ちかけられたのが事の始まりだった。
高校卒業を機に家を出て、極力親の頼りにならないよう貯金を切り崩しながら細々と暮らしていたが、近頃は何かと物入りで懐事情が苦しくなってきていた。そこで資産家の娘として多彩な人脈を保有するヨシノに金策の相談をしていたのだが、そんな折に実入りのよい単発バイトとして紹介されたのが例の治験だった。
なんでも彼女の叔父が取締役を務める会社が極秘のプロジェクトを進めており、その一環でとある実験のモニターを募集しているとのこと。実験の性質上、拘束時間は長いが、その分割高な報酬が貰えるのだという。
短期間でまとまったお金を稼げる点については全く興味を惹かれないでもなかったが、しかし額が額なだけあって眉唾な話だなというのが率直な感想だった。だが、ヨシノがその話を持ちかけてきたのには、お金のこと以外にも訳があるというのだった。
聞けば、応募者の中に、なんとあの桐生先輩がいるというではないか!
その話は立ちどころに私の関心を奪い、胸の中に久しく芽生えていないときめきをもたらした。
先輩に会いに行く勇気が持てず、ずっときっかけを探していたところだったのだ。極秘というだけあってどのような内容の実験なのかは血縁者のヨシノでさえ把握していないようだったが、そんなことはもはやどうでもよく、ヨシノから持ちかけられた〝耳寄りな話〟を辞退する理由はなかった。もちろんお金よりも先輩と再会することが目的だった。
せっかくお膳立てしてくれたヨシノに申し訳が立たないなと思いつつ、私は淡々と真実を口にした。
「いいえ。先輩とは上手くいかなかった。たぶんもう二度と、会うこともないと思う」
ヨシノの軽口が止まった。電話口を通して息を呑む気配が察せられる。嘘でしょ、と呟くその口調には多分にショッキングな響きが含まれていた。
私は歩を進めながら事の詳細を語った。さっき泣き晴らしたお陰か涙声にならなかったのは幸いだった。先輩に恋人がいたことや、それが理由で別れを切り出さなくてはならなかったことを打ち明けても、ヨシノの口から慰めの類いの言葉が出てくることはなかった。だから惨めにならなくて済んだし、報酬を辞退したと伝えた時には腹を抱えんばかりに笑い飛ばしてくれたお陰で深刻な雰囲気にもならなくて済んだ。気づけば私もつられて笑っていた。先輩と別れてから初めて自然に笑えた瞬間だった。
「私はカナの意思を尊重する。3年以上も同じ人を想い続けてきたことも、その人を諦めたことも、決して間違いではなかったと思う。それにね、誤解を恐れずに言うけど、私、今、最高に誇らしくて嬉しい気分なの。昔の私が憧れた、自己犠牲をものともせずに他人の幸せを願える立花カナが帰ってきてくれたんだから」
親友から激励の言葉を受け取って心に温かいものが広がる。彼女とまた友達になってよかったと改めて痛感する。先輩のことは諦めても、ヨシノとの縁はこのまま続くといいな……そんなこと、小っ恥ずかしくて口にはできないけれど。
「でも、カナさん。先輩のこと、諦めるのは早いんじゃなくて?」
「えっ?」
「カナと先輩が結ばれる可能性はまだゼロじゃないでしょ。もしかすると先輩はカナのことが諦め切れず、今の恋人との関係を清算した後で、また会いに来るかもしれない。そしたらもう、彼からの交際の申し出を断る理由はないはずよ」
なるほどな、と目から鱗が落ちた思いだった。その可能性は全く頭になかった。
もちろんヨシノが仄めかしているような展開はないわけでもないけれどーーまあ夢物語だろう。そんな万が一の可能性に賭けてこれからも先輩を想い続けるのは、なんとなく惨めだ。
ヨシノのような強さがあれば、あるいは意図的にそう仕向けて運命の糸をたぐり寄せることもできただろうが。
それは私のスタイルじゃない。
でも、そんなふうに希望の糸を見出してくれるヨシノの心遣いが嬉しくて、私はまた、ありがとう、と伝えた。
「素敵な話ね。だったらその時が来るまでに、他に好きな人、見つけておこうかしらね。そして今度は先輩の方が私を振り向かせるのに苦労するの」
そう返すと、一瞬の間を挟んでヨシノの豪快な笑い声が聞こえた。
「随分逞しくなったものね。うん、その意気よ。もっともっと女を磨いて、手の届かない存在になって見返してやりなさい」
うん、ありがと。そう受け答えすると、じゃあね、と別れの言葉が続いて通話が切れた。
スマホをカバンに仕舞い、また足を前に動かす。
無理に笑わずとも自然と頬角が持ち上がる。
街中の一角で、お母さんの後ろで泣きじゃくっている子供の姿を見かけた。不意に過去の自分と重なって見えた。お母さんが再婚し、広い子供部屋のベッドの中で夜な夜な声を殺して泣いていた頃の自分だ。
私は心の中で彼女に声援を送る。
ーーその涙が枯れるまで泣いてなさい。泣いて泣いて泣き晴らした先に、明るい未来が待ってるんだから。
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