セックスしないと出られない部屋に閉じ込められたのに、彼女が性交渉に応じてくれません。

西木景

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第7章

そして、私は大人になる(3/5)

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 駅を出てから間もなくして目的のマンションが見えてきた。前回訪れたときは夜間だったから気にならなかったが、白い外壁のところどころに煤汚れやひび割れなどが散見され、意外に年季が入っている様が窺える。
 ただでさえ重たかった足取りがまた一段と重みを増す。緊張しているせいか、なんだか異様に喉が渇く。
 階段の手前で一旦足を止める。軽く目眩がしたため何度か深呼吸して気持ちを落ち着かせたところで、意を決して段差に足を乗せた。
 2階の廊下の突き当たり。その扉の前に到り、胸に手を置いて、また深呼吸をひとつ。
 唾を呑み込んでからインターフォンに指を重ねる。
 ややあって中からバタバタと物音が聞こえてきた。不在であってくれと願う気持ちが微塵もなかったと言えば嘘になる。だからだろう、少し気落ちしている自分もいた。だけど不在だったなら改めて訪問する腹づもりだったから、結局は時間の問題だ。
 家主が出てくるのを、私は固唾を呑んで待った。
 やがてドアが開き、家主が姿を現した。私の姿を認めた瞬間、その顔が驚きの色に染まった。

「カナちゃん。なんでここに」

 白木院タクミはまるまると見開いた目を瞬かせながら茫然と疑問の言葉を口にした。
 瞳の奥には驚き以外にも恐怖や戸惑いといった感情が潜んでいる気配があった。その気持ちは推して測れる。

「お久しぶりです。タクミさん」

 まずは会釈と共に挨拶する。
 家の中から漂ってくるハーブの匂いにあの日の記憶が呼び起こされ、さらに緊張が増幅する。
 茫然自失と立ち尽くしているタクミさんの佇まいをしげしげと眺める。頭髪の色が前に会った時より明るくなった気がする。前は黒と茶の割合が半々だったと記憶しているが、それが今は綺麗に金一色だ。

「突然押しかけてごめんなさい。今日はタクミさんにお願いがあって来ました」

 タクミさんが何も言ってこないので、こちらから用件を切り出す。
 それでもタクミさんは無言を貫き、ただ瞬きを繰り返すばかりだった。混乱の境地から立ち直るにはもう少し時間を置く必要があるようだ。

「たくみ~?」

 部屋の奥から女の人の声が聞こえた。どこか間延びした、甘えるような感じの声だった。
 その直後、タクミさんはびくりと肩を弾ませて、慌てて振り返った。

「あ、ああ! ヒトミ、なんでもない、ちょっと待っててくれ!」

「え~? なに、どちらさま~?」

 部屋の奥からその声の主が顔を覗かせる。銀色の長い髪の毛と切れ長の目が特徴的な女性だった。
 タクミさん越しに自分と目が合った瞬間、女性のおもてに怪訝な色が広がった。

「だれよ。その女」

 さっきまでのんびりしていた声が険を纏う。
 タクミさんが視線を遮るように間に身体を割り込ませた。

「お、教え子だよ。家庭教師の。勉強でわからないところがあるらしくて、そ、それでわざわざ訪ねてきたんだと」

「…………ふうん」

 女の人の冷めたような声。ありありと不信感が滲んでいた。
 タクミさんがこちらに目配せして、話を合わせろ、とアイコンタクトを送ってくる。
 私は咄嗟に台詞を練った。

「あっ、お休みのところごめんなさい。模試が近いからどうしても今日中に解決しておきたくて。失礼を承知で押しかけちゃいました」

「べ、勉強熱心だな。時間外労働はしない主義なんだが、まあ来てしまったものは仕方がない。……ここじゃなんだから、場所を移すか」

 あからさまな猿芝居だが、タクミさんは無謀にもこのまま押し切るつもりらしい。

「そういうわけだから、ヒトミ」

 女の人が何か言い出す前に、顔だけ振り返って一方的に告げた。

「すまんが少し外す。近所の喫茶店にいるから」

 タクミさんは玄関に転がっていたサンダルに足をひっかけて、そそくさと外に出た。
 扉が閉まる瞬間、また女の人と目が合った。切れ長の目尻がいっそう鋭利に尖っていて、眉間には縦皺が刻まれていた。先のやりとりがでっちあげであることはお見通しで、突然やってきた女が何者なのか、そしてタクミさんとの関係性はいかなるものなのかを邪推しているに違いなかった。射抜くような視線には敵愾心とまではいかないが、不快感に近いものが混じっているように感じられた。
 タクミさんは扉に背を預けながらため息をついた。そして眉をひそめて責めるような視線を私に送ってきた。
 しかし、どういうわけか申し訳ないという気持ちは少しも湧き上がってこなかった。むしろタクミさんのドタバタと慌てふためく姿は見ていて痛快ですらあった。

「彼女さんですか?」

 訊くと、タクミさんは、まあな、とあっさり認めた。

「逢瀬の最中でしたか。それはまた間が悪い時に来てしまったみたいですね」

「まったくだ。せっかく良い雰囲気だったっていうのに……」

「都合が悪いのでしたら日を改めますけど」

 遠慮がちにそう伝えると、タクミさんはゆらゆらと諦めたようにかぶりを振った。

「いいよ別に。とにかく、場所を移すぞ」

 タクミさんに連れてこられたのは、マンションから2、3分ほど歩いた場所にあるカフェだった。そこそこの広さの店内で、席も半分ほど埋まっていた。有線から流れる洋楽と客の声が入り混じった雑音が耳障りにならない程度に店内を占めていた。
 窓際のテーブル席に向かい合って腰を落ち着かせる。間もなくやってきたウエイトレスのお姉さんにそれぞれドリンクを注文して、お姉さんが席を離れたところでタクミさんは尋ねてきた。

「それで。お願いっていうのは?」

 警戒心のこもった眼差しを浴びせられて身が竦まる。
 伝えたいことははっきりしているのに、いざ切り出そうとすると頭の中で言葉が無秩序に散乱して何も言えなくなってしまう。
 数分沈黙が流れた。すると何かを察したようにタクミさんの口元が歪んだ。

「あんな端金じゃあ慰謝料にならないってか?」

 一瞬何のことを言っているのか分からなかった。が、程なくしてあの日帰り際に渡されたお金のことかと察する。

「違います。そんなものをせびりに来たんじゃありません」

 即座に否定すると、タクミさんはあからさまにほっとした顔を浮かべた。それが一番の懸念事項だったのだなと心中が透けて見えた。
 こうも露骨なリアクションをされると少しがっかりだが、お陰でいくらか強気な姿勢を取り戻すことができた。

「タクミさん言いましたよね? 助けてほしいことがあったら何でも言ってくれって」

 タクミさんの顔面が目に見えてひきつった。何を言われるのか不安がっている様が手に取るように分かる。夜遊びなんかしてるくせに意外と小心者だ。

「何でも、と言っても限度はあるぞ」

「今さら往生際の悪いこと言わないでください。あの日私にしたこと、忘れたとは言わせませんよ」

 タクミさんの顔から急速に色が失われていく。やがて私を直視していられなくなったのか、卓上に視線が落ちていった。
 そのタイミングで先ほどオーダーを取りに来たお姉さんがドリンクを運んできた。彼女がドリンクを配っている間も、失礼しますと言って席を離れてからも、タクミさんはずっと居たたまれなさそうに目を伏せるばかりだった。
 彼の困りきっている様は見ていて胸が空くが、性格の悪い追及はここまでにしておこう。

「安心してください。強請ろうだなんてことは更々考えてないですから」

 タクミさんは顔を上げた。その眼差しには未だに不信感がこびり付いていた。

「……脅迫じゃないんだな」

「違いますって。ただのお願い事ですから。嫌なら断ってくれても結構です」

 そこまで念押ししても、タクミさんの表情に浮かぶ憂いの影は薄まる気配がなかった。だけど、私と目を合わせて会話するだけの余裕はどうにか取り戻せたらしかった。

「とりあえず、話を聞こうか」

 グラスを両手で抱えて、中のアイスラテを啜る。
 タクミさんもミルクティーの入ったグラスに口を付ける。
 渇いた口内に潤いが復活したところで私はひと息に言いきった。

「単刀直入に言います。私にセックスを教えてください」

 咄嗟にタクミさんの目が見開かれた。同時に、口に含んでいたミルクティーを吹き出しかけ、げほげほとむせ出す始末だった。目尻に涙を滲ませながら、私に怪訝な眼差しを寄越してくる。

「聞き間違いか? セックスを教えてくれと言われた気がしたが」

「聞き間違いじゃないです。セックスを教えてくれと言いました」

 恥ずかしげもなく言葉を重ねると、タクミさんは唖然とした表情でこちらを見返してきた。しばらくの間、混乱の境地から抜け出せないのか、ぽかんと口が半開きになっていた。

「セックスというのは、あれか? 男女がする営みのことか?」

「他に何があるんです。まあ今時、男女のペアだけがするものとは限らないですけど。たぶんタクミさんが想像しているもので間違いありませんよ」

 タクミさんは腕を組んで中空を見上げた。狐につままれたような難しい顔で何事か想像している模様だった。
 おもむろに懐から煙草の箱を取り出してきた。吸ってもいいかと律儀に尋ねてくるので、どうぞと返して許可した。
 テーブルの端に置いてあった灰皿を手前に引き寄せてから、箱から1本取り出してくわえる。使い捨てのライターで火を点けて、長嘆息とともに煙を吐いてくゆらす。

「だめだ。まるで意味が分からん。もう少し詳しく説明してくれないか」

 前にヨシノにも同じことを言われたなと思い出す。あまり自覚はないが、私は他人に話を伝えることが不得意なのかもしれない。

「その、なんと説明すればいいのか難しいんですけど……。たとえば正しいセックスのやり方とか。体位の種類とか。本当に快楽的なセックスとはどんなものなのかとか。とにかくセックスにまつわることであれば何でもいいので教えてほしいんです」

 タクミさんは眉間に皺を寄せたまま無言を貫いていた。未だに混乱の嵐の中を彷徨い歩いている様子だった。箱からまた1本煙草を引き抜き、点火して煙を天井に立ち昇らせる。

「なんでそんなことが知りたいんだ」

「……訳あって私はセックスというものに強烈な苦手意識を持っています。そのコンプレックスを克服しなければならない事情が発生したんです」

 訳ありだらけじゃないか、とタクミさんが茶化すように言った。
 咄嗟に目を怒らせて見咎めると、タクミさんはおっかなびっくりと首を竦めた。

「だ、だけど、どうして俺なんかに教えを請うんだ? カナちゃんくらい見た目がよければ相手なんていくらでも見つかるだろ」

「私の知り合いの中で貴方が一番信用の置ける人物だと判断したからです」

 いやいや、とタクミさんは灰皿で煙草の火を揉み消しながら唇の片端をつり上げた。

「センサーバグってるだろ。無理やり押し倒してきた相手だぜ?」

 なんだか業腹な勘違いをされている気がした。そのせいで少しばかり語調が攻撃的になってしまう。

「誰も貴方の人間性を信用しているだなんて言ってませんよ。私がタクミさんを協力相手に選んだ理由はみっつ。性行為の経験が豊富そうだったこと。私に弱みを握られていること。そして、どれだけ時間を重ねても絶対に好きにならないという確信があったこと。このみっつの条件が揃っていれば、一定の安全性を確保しながら目的を果たせると思ったわけです」

「……なるほど。選ばれたのがあまり光栄じゃないことは理解したよ」

「悪い話じゃないでしょ? 教えついでに女子高生の身体を堪能できるわけだし」

 悪戯っぽく微笑んでみせると、タクミさんはふっと鼻から息をついて腕を組み直した。

「話が上手すぎて逆に疑わしいレベルだ。これ、絶対に何かの罠だろ?」

「……さすがに慎重ですね。でも、本当に罠でも何でもありません。後でお金を請求したり、警察に売ったりもしませんから。何なら誓約書をつくってサインしてもいいですよ」

 タクミさんはひらひらと虫を払うように手を振って言った。

「あいにく女には困ってないんだよね。女子高生が相手というのはなかなか魅力的に聞こえるけど、相応のリスクもつきまとう。一歩間違えれば未来すら失いかねない危険な橋をあえて渡ることのメリットが見出せないな」

 リスクなどとどの口が言うかと一笑に付したくなるが、言っていること自体はまっとうで反論の余地は無い。

「ええ。だから『お願い』と言ったんです。タクミさんに断る権利はあります。断られてしまったときは……致し方ありませんので、別の男の人にお願いしに行きます」

「やめとけよ。易々と自分の身体を売るもんじゃない。絶対に後で後悔することになるぞ」

「何もしなくたってきっと後悔はします」

 そう言った瞬間、胸に鈍痛が走った。
 またいつものように自己嫌悪の波に襲われて息が苦しくなる。

「今だってすでに後悔してます。どうして今まで何もしてこなかったんだろうって。その怠慢のせいで貴重な青春時代を棒に振ってしまった……。だから、もう何もしないで後悔するのは嫌なんです。どうせ後悔するなら、できることを全てやりきってから後悔したい」

 ヨシノのような強い人間になりたい。そして胸を張って先輩に会いに行きたい。そのためならいくらだって後悔しようとも、何を失うことになろうとも構わない。
 中空でタクミさんと視線がぶつかる。その瞳の奥に軽薄な色はなく、今までにない真剣な光が宿っていた。

「相手によっちゃあ命の危険が伴う行為だってことを理解しているのか?」

「……そんなに心配なら、タクミさんが抱いてよ」

 意表を突かれたようにタクミさんの表情が固まった。
 思わず泣きそうになって口元に力をこめる。どうしてこんな心にもないことを言わなければならないのか、と冷静な自分が訴えている。その声を黙殺して無理を働いていることが精神的に辛かった。

「私だってバカじゃありません。恋愛感情の欠落した身体の関係が、特に女側にとってリスクの塊であることは承知のうえです。私、タクミさんの人間性はこれっぽちも信用していませんが、最低限のラインは守れる人だと信じてます。女の子の純潔を奪ったことに悦びより罪悪感を覚えてくれた貴方になら、安心して身体を預けられます。だから、どうかお願いします」

 私は首を折った。いつかヨシノに対してもそうしたように。
 惨めな姿だな、とまた冷静な自分が毒づいてくる。自分に手酷い仕打ちを与えた相手にこうして頭を下げるなんて。私はその声に心の中で反論する。プライドなんてくそ食らえだ。欲しいものを手に入れるためなら手段なんて選んでいられない。弱肉強食のこの世界で、自分が幸せという名の栄冠を掴み取るには強者に成り上がる他にないのだ。
 顔を上げると、白煙の向こう側にタクミさんの険しい顔があった。ひたすらに煙草を貪っては灰皿で揉み消してを繰り返している。なんとなく苛立っている雰囲気が漂っていて、声がかけづらかった。

「いくつか条件がある」

 煙たいため息と共にタクミさんは放った。絶望を垣間見た瞬間に浮かべるような沈痛な面持ちだった。

「こういうことは他の男に頼むなよ。それがひとつ目の条件だ」

 渋々ながらも色よい返事を聞いて、私はまた頭を下げた。安堵しつつ、心の中ではしめしめと舌を出していた。
 他の男に依頼する素振りを見せれば、きっとタクミさんは承諾してくれるだろうと読んでいた。この人はそういうことが見過ごせない中途半端な善人だと知っていたから。
 言わなかったが、タクミさんを協力相手に選んだのにはもうひとつ理由があった。それは私自身、タクミさんのことがそこまで嫌いでないという事実があったからだった。もちろん恋愛感情は皆無だ。しかし、時たま先輩と重なって見える瞬間があって、だからだろう、女癖が悪くても目の前でいくら煙草を吸われようとも心底から憎みきれないのだ。
 絶対に後悔するぞと忠告されたが、もうすでに後悔の底なし沼に半身を浸けていた。
 これは悪魔の取引だ。強さと引き換えに純潔を失う。図太さと引き換えに感受性を失う。狡猾さと引き換えに素直な心を失う。誰もが眉を顰めたくなるような汚いやり方で子供から大人になろうとしている。悪魔に魂を売る代償は大きい。
 不意に先輩の顔が浮かび上がった。なんとなくもの悲しそうな瞳で私のことを見ている。ごめんなさい先輩、と私は心の中で唱える。私は貴方が愛してくれた私を殺します。でもそれは貴方と一緒に生きるためだから。どうか許してください……。
 先輩の虚像を頭の外に追いやるため、私はあえて偽悪的な笑みを浮かべてみせた。ふとした思いつきで、タクミさんの手に持っているものを指差して言う。

「それ、私にも1本もらえますか?」

 タクミさんは虚を衝かれたような表情を浮かべた。それから、はっ、と臭い息を吐き捨てて箱を懐に仕舞った。

「未成年に吸わせられるかよ」

 お酒は飲ませるくせに。そうチクリと言ってやろうかと思ったが、やめた。タクミさんの受け答えに内心ほっとしている自分がいたからだ。
 タクミさんに惚れることはありえないと考えている。でもいずれその自信も揺らぐ時が来るかもしれないーーそんな予感がよぎった。それは永久に先輩と会えないことよりもずっと恐ろしい未来だった。
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